六日目。

「咲希ちゃん、ちょっといいかい」

 朝ごはんを食べ終えて、今日やる課題の予習を進めていた咲希は、由来に呼ばれてリビングにいた。

 リビングには今、咲希と榎本がいる。軽い世間話をしていると、二人をここに呼んだ張本人である由来が、お盆を持って現れた。そして三人分の湯呑みをそれぞれの席に置くと、自分も席に着く。

 湯呑みの中では、緑茶に浮いた桜の花びらが、ゆらりゆらりと泳いでいる。

「ごめんね、榎本さんも、咲希ちゃんも。突然呼び出しちゃって」

「いやいや。ちょうど暇してたから助かったよ」

 申し訳なさそうに詫びる由来に、榎本はホッホッホと笑う。

「私も全然大丈夫です。あの、それで用事って……?」

 咲希には、榎本とセットで呼び出されるような内容を想像できなかった。一方榎本は由来からすでに話を聞いているのか、それとも心当たりがあるのか、落ち着いている。

「あのねえ、咲希ちゃん。祭りの話は、誰かから聞いたかい?」

「いえ……。あ、でも、佐々木さんからお別れの祭りがあるって言うのは聞きました。もしかしてそれ、ですか……?」

「おそらくそれだね。どこまで聞いたんだい?」

 由来の問いかけに、咲希は数日前にした朔矢との会話を思い出す。

「えっと……。祭りが開かれるのには手順があって、まず初めに由来さんと櫻井さんにお別れをするってことを伝える必要があるんですよね。それで、お祭りが始まるまでの大体一週間くらいある準備期間中にこの町の住人に挨拶をする。そしてそのお祭りの翌日に、そのヒトは旅立つ、というところまで聞きました」

「そう。その、旅立つってことについては前、私が説明したよね」

「はい」

 《旅立つ》というのはあの世へ逝くこと。そしてそのことを《昇る》という。

 そこまで思い出して初めて、咲希はここに来た初日の朔矢と榎本の会話を思い出した。瞬間、どうしてあのとき、去っていく榎本の背中が悲しげに見えたのか、咲希は理解した。

「もしかして、今行われている祭りの準備って、榎本さんの……?」

 まじめな顔をした由来と、どことなく寂しげな、でも朗らかな笑みを浮かべた榎本とが、頷く。

「まず初めに謝るよ。もっと早くに説明していれば、祭り前日にそれを言う、なんてことにはならなかった。ごめんよ」

 その場で頭を下げる由来。だがそれよりも、その言葉の方に咲希は驚いた。

「明日……なんですか。お祭り」

「ああ」

 由来はさらに申し訳なさそうにした。

「どうしてそんな……急に言われても……」

 はっきり言って、榎本と咲希はそんなに親しくしていたわけではない。だが彼は、外で咲希をすれ違う度、優しく微笑んで会釈してくれた。些細なことだが、それでもあまり他人と触れ合ったことのない咲希にとって、かけがえのない大切な思い出だった。そんな榎本が明後日、いなくなってしまう。咲希が驚かないはずがなかった。

「咲希ちゃん」

 いつもと変わらない榎本の声に名前を呼ばれ、咲希は由来から榎本へと視線を移した。

「私にはね、一人の孫娘がいたんだよ。歳は咲希ちゃんより少し上で、だいたい泉ちゃんと同じくらいになるのかなあ」

 ポツリポツリと、榎本は記憶を辿るように微笑みながら話し始めた。

「その孫娘は両親共働きでね。近所に住んでいた私が、彼女の小さい頃から面倒を見ていたんだ。そのせいか、孫娘はいわゆるおじいちゃんっ子でね。だからなんだろうなあ……。私が死んだあと、孫娘は笑わなくなったんだ。それが私の、旅立てない理由だった」

 榎本の表情が曇る。その表情に不安になった咲希が声をかけようとしたとき、榎本がふわりと微笑んだ。

「私は心配で心配でたまらなくて、さくら様のところへ毎日のように通って孫娘の《今》を見せてもらっていた。私たち住人は、さくら様に頼むことで、数分間分だけだが、この世を見ることができるからね。そして私は見たんだ。私が死んでから数年間、ちっとも笑わなかった孫娘が、ある男と出会ってから変わり始めたのを。最初こそ笑いはしなかったが、男が諦めずに話しかけ続けたことによって、孫娘は徐々に徐々に笑顔を取り戻していった。そして先週。孫娘はその男と結婚したんだ。とても幸せそうな笑顔でね」

 そう語る榎本も幸せそうな笑みを浮かべている。その笑顔に、咲希は安心した。

「もう、榎本さんが旅立てない理由はなくなったんですね」

「ああ。もうなにも考えずに安心して旅立てるよ」

 伝えるのが遅くなってすまないね、と榎本さんは言うと、静かに帰っていった。

――お別れは、嬉しいこと。喜ばしいこと。

 その言葉の意味が、咲希にはなんとなく分かった気がした。



🌸



 のどかな光が町を照らす昼下がり。咲希と朔矢は二人で町を歩いていた。上に視線をやると陽に透かされた花びらが光っているようで、咲希は目を細めてそれを見ていた。そうして歩いていると、祭り前日だからなのか、汗を輝かせて走り回る法被姿の男性たちと、何度もすれ違った。みんな大変そうだが、とても生き生きとしていた。

「お祭り、明日なんですね」

 咲希の呟きに、隣を歩く朔矢はチラリと咲希を見てから頷いた。

「そうだね。誰のかは、聞いてるよね?」

「はい。榎本さん、ですよね」

 あの笑顔を、あと数日で見ることができなくなる。それがとても寂しかった。咲希が目を伏せるとそれに気付いた朔矢が、右腕を抑えながら優しく微笑んだ。

「明日のお祭り、楽しみにしてるよ」

 咲希はハッと顔を上げると、申し訳なさそうに再び目を伏せる。

「すみません、由来さんが勝手に……」

 ちょうど榎本と入れ違うようにして、咲希の課題を見にやってきた朔矢に由来が、明日の祭りに咲希を連れて行ってくれないか、と頼んだのだ。朔矢はその頼みに、少し考えてから、咲希が嫌じゃなければ、と承諾した。申し訳なさを感じつつも、それからそのことを思う度に心臓が早くなるので、咲希はどうやら自分は朔矢と一緒に祭りに行くことが楽しみらしい、と感じてもいた。

「大丈夫だよ。由来さんが勝手なのはいつものことだし、それに付き添いを稔に頼まれるよりは……」

 しまった、と言う表情を浮かべると、朔矢は自分の手で口を塞いだ。そんな朔矢の行動の意味が分からず、咲希は眉間にしわを寄せて訝しげに朔矢を見上げる。

「櫻井さんが、どうかしたんですか?」

「ううん、なんでもない」

 朔矢が首を横に振る。咲希は気になったが、相手が話す気がないのなら無理に聞くべきではないのかもしれない、と思い、黙った。沈黙が二人を包む。だけどその沈黙は、咲希にとって不快なものではなかった。それは朔矢も同じ様で、二人は無理に話すこともなく、のんびりと道を歩いていた。祭りに使用する道から外れたのか、法被姿の男性たちとはすれ違わなくなっていた。ずっと桜を見上げていると、咲希はふと昨日の由来の言葉を思い出す。

「そういえば佐々木さん」

「ん?」

 朔矢が首を軽く傾げて咲希を見る。

「昨日、由来さんから聞いたんですけど、一人一人の桜の樹の花びらが、それぞれ色も形も少しずつ違うって本当なんですか?」

 朔矢は頷く。

「本当だよ。なんなら見てみる?」

「見れるのなら、見てみたいです」

 すると朔矢は目尻を下げて笑った。

「よし、わかった。じゃあとりあえず僕の樹まで行こうか」


 朔矢についていくと、やがて一本の桜の木の前に着いた。

「この桜が、佐々木さんの樹、ですか?」

 咲希の問いかけに朔矢は頷いてから、すっと人差し指で右隣の木を指さした。

「で、あの木が泉の樹」

 咲希は目を丸くした。

「え、お隣だったんですか?」

「そう、隣」

 咲希の驚いた反応に苦笑すると、朔矢は泉の樹の前に立った。

「泉、いる?」

 すると風もないのに桜の花がザワリと揺れた。そして花びらが一本の線になって空中をクルリと回ると、地面に降りてきて人の形を作り出す。そこに立っていたのは興味津々といった様子で二人を見る泉だった。

「朔矢、なにかしら? 二人っきりでデート中のようだけど」

「デ……!?」

 泉の言葉に、咲希は顔を真っ赤にして口をパクパクと開閉する。泉はそんな咲希を見て、楽しそうに猫目を細めて笑う。異性との話でからかわれたことなどなかったため、咲希はどうしたらいいのか分からずに戸惑い、助けを求めるように朔矢を見上げる。朔矢は呆れたようにため息を吐いた。

「咲希さん、そういうのは相手しなくていいよ。泉も、面白がらないの」

「えー、まんざらでもないくせに」

「いーずーみー?」

 じっと朔矢が泉を見ると、分かりました、と泉は肩をすくめてみせる。

「で、いきなり呼び出してどうしたの?」

 泉が首を傾げる。朔矢は咲希がこの町の桜の花びらに興味を持ったことを伝えた。

「で、どうせだったら見比べてもらったらいいんじゃないかな、と思ったんだけど、泉、いいかな」

 朔矢の話が終わると、泉は大きく頷いた。

「もちろん。減る物でもないしね。咲希ちゃん、おいで」

 泉に手招きされ、咲希はおとなしく泉の前に行く。泉がすっと手を伸ばすと、泉の樹から桜の花が一輪、泉の手の中へとはらりと舞い降りた。泉は咲希に手を出すように促して、その手の中にそっと自分の花を置く。

「咲希さん」

 咲希が振り向くと、朔矢も同じように自分の花をそっと泉の花の隣に置いた。咲希は二人に礼を言うと、じっと花を見比べる。

「どう? なにか分かる?」

 泉は屈み、左手で長い髪を抑えながら咲希の手の中を覗き込む。咲希はコクリと頷いた。右側にある桜は白く、陽に透かして初めてほんのりと上品に色づいているのが分かる。形は、左側と比べてやや細い。この上品でどことなく凛とした印象を受ける桜は、泉のものだった。左側にある桜は陽に透かさなくても分かるほど、温かみのある薄ピンク色に染まっており、形も丸い。いつも穏やかな笑みを浮かべている朔矢そのものだった。咲希はそれに気づくと、思わずフフッと笑ってしまう。

「花を見ると、二人がどんなヒトなのか、すごく分かります」

「……それはいいことなのかしら?」

 咲希は大きく頷いた。

「上手く言えないんですけど、なんか、なんでしょう……えっと……」

 ああでもない、こうでもない、と必死に言葉を探す咲希を、朔矢はじっと見つめていた。その表情は温かい春風のように柔らかくて、でもどこか儚さを感じるものだった。泉はその表情を見て、咲希に気づかれないようにそっと朔矢にささやいた。

「なに心配になる表情してるのよ」

 朔矢は泉の方を向き、目をぱちくりさせる。

「そんな表情してた?」

 どうやら本人は無自覚だったらしい。泉は呆れたように頷く。

「ええ。安心してそのまま消えちゃいそうだったわ」

「……まあ、いつかは子離れしないとだしね」

 泉がギロリと睨む。元が整った顔立ちをしているだけに、とても迫力がある。朔矢は冗談だよ、と肩をすくめてみせた。そしてまだ考えている咲希の方へと視線を戻す。

「どう? 言葉は見つかりそう?」

 咲希は少し考えてから二人をじっと見た。

「たぶん、安心したんだと思います」

 朔矢が首を傾げる。

「安心?」

 咲希は頷く。

「はい。たぶんなんですけど、この花たちは、そのヒトのすべてであると同時にそのヒト自身を表しているんだと思います。それぞれに少しずつ違いが出るのはそうだからじゃないかなと。だからこの花から受ける印象と、あなたたちから受ける印象。どちらも同じだってことは、ほぼありのままで接してくれてるんだなって。それが嬉しくて、安心したんだと思います」

 咲希は照れ臭そうに笑った。

「ありがとうございます」

 咲希が礼を言う。朔矢と泉は顔を見合わせるとフッと笑い、咲希の方を向いた。泉は咲希の頭を軽く撫でると、手を振ってから自分の樹に戻った。咲希は朔矢を見上げて首を傾げる。

「佐々木さんは戻らないんですか?」

 朔矢は苦笑を浮かべた。

「あのねえ。女の子を自分の樹まで連れてきといて、はいさようなら、するほど僕は酷いヒトじゃないよ。家まで送ってくから」

 ほら行くよ、と朔矢は歩き出す。咲希は慌ててそのあとを追いかけた。朔矢の優しさに、咲希は胸の鼓動が早くなったような気がした。

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