五日目。
サラサラとシャーペンが動く。その動きを追うようにして括弧の中の白が埋まっていく。
咲希は黙々と課題の問題集をやっていた。斜め後ろでは、左手に解説書を持った朔矢がその様子を温かな眼差しでじっと見守っている。一番右下の括弧を埋めると、咲希はふう、と息を吐き、シャーペンを置いた。
「終わりました」
「了解」
咲希が少し横に椅子を滑らせて移動すると、空いた透き間から赤ペンを持った朔矢の右手が丸付けを始める。ふわりと桜の香りが朔矢の焦げ茶色の髪から香った。その香りが、改めて朔矢がこの町の住人であることを咲希に思い知らせる。今、こうやって普通に話しているが、本当の姿は桜の花びらなのだ、と。
いつまでこのヒトは、こうやって自分のそばにいてくれるのだろう。
唐突に浮かんだそんな疑問を、咲希は頭を左右に振って頭の外へ出す。この町では、お別れは嬉しいことなのだから、そのときが来たら笑って見送るのだ、と咲希は自分に言い聞かせた。
「っと。丸付け、終わったよ」
朔矢の言葉に咲希は問題集を覗き込むと、確かにすべての括弧に赤い丸とレ点のどちらかが付いていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。それにしても、徐々に正答率上がってきてるね。得意分野とか?」
「いえ。先に予習してるから……」
「そうなんだ。えらいね、咲希さんは」
朔矢の言葉と一緒に向けられた笑顔に咲希はドキリと心臓が高鳴るのを感じた。赤くなった顔に気付かれたくなくて、咲希は思わず俯いてしまう。
「咲希さん?」
突然俯いた咲希に驚いたのか、朔矢が顔を覗き込もうとしてくる。咲希は慌てて、朔矢と逆の方を向いた。
「こ、子供扱いしないでください」
これ以上近づいて赤い顔を見られたくなくて、咲希は咄嗟に突き放すように言った。そして出てきた言葉の可愛げのなさに、咲希はもう少しいい返しがあったのではないか、と自分で自分が嫌になる。が、少ししても反応のない朔矢に疑問に想い、咲希は振り向いて朔矢を見上げる。すると、咲希を見て一時停止している朔矢と目が合った。
「……佐々木さん?」
訝しげに名前を呼ぶ咲希の声に我に戻ったのか、朔矢はハッとすると、コホンと咳払いをした。そして丸めた解説書でポコンと軽く咲希の頭を叩いた。
「いたっ」
「そんなことは全問正解してから言いなよ」
ほらやり直し、と言って朔矢はトントンと赤いレ点のついている括弧を人差し指で叩いた。
「はい」
咲希は、なにかを誤魔化すような朔矢の態度に、変なことを言っただろうかと首を捻りながら問題に取りかかり始める。
その様子を、朔矢は切なげな表情で見守っていた。
🌸
なにもかもを太陽が橙色に染め上げていく夕暮れ時。咲希は夕飯の支度を手伝うために下へ降りてきた。今日やった課題の復習に夢中になってしまい、少し遅くなってしまった。今頃はもう、夕飯の支度もだいぶ進んでいるだろう。そう思ってリビングの前まで来て、咲希は気が付いた。夕飯の支度の時にする、食欲をそそるあの香りがまったくしないのだ。どうしたのだろうと疑問に思い、咲希はそっとドアを開いた。部屋の中では、黄金色の光に照らされた由来が、なにかをじっと見つめていた。
「……由来さん?」
声をかけていいものかと躊躇いながらも咲希が声をかけると、由来はハッと弾かれたように顔を上げて咲希の方を向いた。
「咲希ちゃん! どうしたんだい?」
「えっと、夕飯の支度を……」
咲希に言われて初めて太陽が沈み始めていることに気が付いたのだろう。窓を見て、もうそんな時間か、とポツリと呟くと、由来は立ち上がった。
「今日はオムライスにしようと思うんだけど、いいかい?」
「はい。……あの」
「ん?」
「さっきまで、なにを見てたんですか?」
咲希の問いかけに由来は一瞬キョトンとしたが、すぐに理解をしたようだ。先ほどまで見ていた物を手に取って、咲希に見せた。それは桜の花が描かれている縦長の紙だった。
「桜の……栞、ですか?」
「そうだよ。綺麗だろう?」
言って、じっと由来は大切そうに栞を見つめている。
「これはね。山桜の絵なんだ。先代に描いてもらったんだよ。当時私はよく本を読んでいたんだけど、先代に、栞にでもしなさいって渡されてさ。あのときは本当に嬉しくてねえ」
目を細めて笑う由来の顔は、咲希にはキラキラと輝いて見えた。
「咲希ちゃん」
「はい」
「山桜の花言葉、知ってるかい?」
咲希は少し考えてから、首を横に振った。
「いえ、知らないです」
「あなたに微笑む、だよ」
由来は照れ臭そうに笑う。
「ここの桜はそのヒトによって、少しずつ形や色が違うのは気づいたかい?」
「気づかなかったです!」
咲希が驚いて目を丸くすると、由来は反応があったのが嬉しいのか、ハハハと笑った。
「そうなんだよ。今度観察してみな。きっと面白いから」
「そうしてみます」
ワクワクを隠しきれない咲希を、目尻にしわを作って見てから、由来は口を開いた。
「そんな風だから、ここの桜にはなに桜って言えるような名前も、花言葉もないんだけど、もしもあるなら山桜と同じだったらいいなって、私は思うんだ」
栞をそっと机の上に置いて、由来は夕飯の支度に取りかかり始める。その後ろ姿を咲希はじっと見つめた。
「きっと、そうですよ」
咲希の呟きに、由来が振り向く。咲希はそっと微笑んだ。
「だってこの町のヒト、みんな優しいですもん」
咲希の言葉に、由来は柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
この町のヒトは優しい。もう死んでいるから、とは言え、気味の悪い力を持つ由来や櫻井、そして咲希を受け入れて、微笑みを向けてくれるのだから。
咲希は胸の温かさを感じながら、タマネギの皮を剥き始めるのだった。
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