三日目。
「……」
カリカリ、とシャーペンが紙の上を走る音だけが、先ほどからこの部屋に響いていた。が、ふいにその音と共に咲希の手が止まる。すると、ずっと横からそれを見ていた朔矢の口から感嘆の声が漏れた。
「すごいね、全問正解だ」
一瞬動いた右手を左手で抑えて、朔矢は言う。
「難し目に作ったんだけど、頑張ったね」
優しい笑顔でほめられて、咲希はくすぐったい感覚を抑えようと、勝手に上がろうとする口角を必死に下げる。だけどそれでも朔矢には伝わったようで、嬉しそうだね、なんて言われてしまった。
「でも、本当に僕が課題を教えることでいいの?」
「はい。昨夜試しにやってみたら、予想以上に難しかったので」
咲希が先ほどまで格闘していたのは、朔矢から渡された二枚のルーズリーフだった。もっと詳しく言えば、咲希がどのくらいのレベルまでできるのか知りたいから、と朔矢お手製の五教科すべての問題が書かれたルーズリーフだ。一生懸命作ってくれたのだろうが、このルーズリーフに書かれた問題よりも、咲希にとっては昨夜取り組んだ高校から出された課題の方が何倍も難しかった。
いくら人との接触を避けたい咲希でも、課題をやり終えることができずに高校生活一日目から悪目立ちするよりは、誰かに課題を教えてもらってそれを回避する方がマシだと思った。だから朔矢を頼ることにしたのだ。
「迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
すると朔矢は困ったように笑った。
「よろしくね。それにしても、どうして木立高に?」
木立高とは、四月から咲希が通う予定の高校である。
「小学生からの、目標だからです」
実を言うと咲希には、本当に木立高に進むことが自分の目標だったのか、記憶がなかった。つまり、忘れてしまっていた。
咲希は小学生の頃から、気が向いたときに日記を付けていた。誰かを忘れてしまっても、その人のことを記録として、自分の言葉で残しておけるように。ただ、それはつまり、自分の知らない記憶が、自分の文字で書かれているというわけで、読み返すとどうしようもないくらい胸が痛くなってしまうことがあるのだ。そのため初めて誰かのことを忘れてしまってからずっと、咲希は読み返すようなことはしなかった。だが、その日記の背表紙の裏側に書かれている文字が、咲希の背中を押して木立高への進学を決めさせたのだ。
――五年後、木立高へ行くから。
そう幼い頃の自分の文字で書いてあるその下に、とても綺麗な字で、待ってる、と小さく書かれていた。日記を書こうと背表紙からめくったときに、たまたま見つけたのだ。
自分がそれを書いた記憶も、その綺麗な字を書いた人の記憶もないことから、おそらく咲希のことを待っていてくれるはずだったのだろう人は、この世にはもういない。だからこそ咲希は、どうしても木立高に進学したいと思ったのだ。もうそこにその人が待っていないとしても。せめて五年前の自分と、待っていてくれるはずだった人のために。その強い思いを支えに必死で勉強をして、咲希はなんとか合格したのだった。
「それは……本当に、よかったね。おめでとう」
なにかを言い掛けたように言葉を途切らせてから、朔矢はふわりと笑ってそう言った。どことなく切なげなその笑みに、咲希は何故だか胸が苦しくなる。
なにか言わねば。そう思い咲希が口を開いたとき、コンコンと控えめな音でドアが叩かれた。慌てて咲希が立ち上がると同時にドアは開き、真剣な表情をした由来が、そこに立っていた。
「咲希ちゃん、朔矢君。さくら様がいらっしゃった。降りてきてくれるかい」
「分かりました。行こうか、咲希さん」
そう言って咲希を振り返った朔矢の笑みは、今までと変わらない、穏やかなものだった。
🌸
咲希たちがリビングに着くと、さくらはすでに椅子に座って待っていた。机の上では、淹れ立てなのだろう、お茶の入った湯呑みからゆらゆらと湯気が立っている。
「お待たせしました」
由来の言葉にさくらはコクリと頷いた。由来はそのままさくらの隣に腰掛けてから、咲希と朔矢に微笑みかけて、向かいの席に座るように促す。緊張しているのか、その微笑みはどこか強ばっていた。
二人が席に着くと、由来は静かに口を開いた。
「さて、みんな集まったところで……。咲希ちゃん。この町について、君に説明するよ」
「お願いします」
由来は一つ深呼吸をすると、じっと咲希の目を見つめる。
「まず説明に入る前に。咲希ちゃん、今から言う話はすべて嘘偽りのない本当のことだから。絶対に、とは言わないけど可能な限り信じてほしい。……いいかい?」
咲希はしっかりと頷く。まだ数日しか一緒にいないが、由来が嘘を吐いて誰かをだますような人ではないことを、咲希は理解していた。
「じゃあ、早速始めよう。まず初めに単刀直入に言うけど……この町にいる人間は、私やさくら様、そして稔君と咲希ちゃんを除いて、みんな死んでいるんだ」
咲希の呼吸が止まる。そんな馬鹿な、と頭の中で呟いた。意味が分からない。
「……どういうこと、ですか」
意図せず声が揺れてしまう。動かした口からは、油の切れたロボットのような音が漏れた気がした。信じられないが、朔矢もさくらも、そして由来も、冗談を言っているようには見えない。咲希は静かに、生きている人間としてこの場で唯一名前を呼ばれなかった朔矢の方へと、ぎこちなく首を動かす。
「佐々木さんも、死んでるって、こと、ですか……?」
朔矢は困ったようにも寂しげにも見える笑みを浮かべて頷いた。動かしづらかった咲希の身体が、今度は小刻みに震えだす。
――もしも死者に心があったら。死んだあともどこかで見守っていたら。
ずっと怖がっていたことが今、この瞬間に起きている。そう思うと咲希は、この町から今すぐ立ち去りたくてしょうがなくなる。それを必死に抑えようと、自分の身体を力強く抱きしめた。横では、右腕を抑えている朔矢が、心配そうに咲希を見つめていた。
「大丈夫かい? お茶を飲んで落ち着くといい」
「は、はい」
由来に勧められるまま、咲希は湯呑みを手に取ろうとする。
「あつっ!」
だが震える手で上手く掴めるはずもなく、湯呑みは机の上でその中身をぶちまけた。
「ごめっ、なさ――」
「大丈夫だよ。朔矢君、そこから台拭き取ってくれないかい?」
「はい――どうぞ」
「ありがとう」
由来は朔矢からピンク色の台拭きを受け取ると、手際よく濡れた部分を拭き上げ、急須から湯呑みに新しくお茶を注ぐと、咲希の前に置いた。
「本当はこの辺りで一度説明を切り上げて、続きはまた明日にしたいくらいなんだけど――」
「ダメじゃぞ」
「ダメですよ」
朔矢とさくらのほぼ同時の否定に、由来は苦笑いを浮かべる。
「……とまあ、厳しい人がいるからね。すまないがこのまま話を続けさせてもらうよ」
「はい……」
声が震えないように気をつけて、咲希は返事をした。
「では、話を続けよう。私たち以外はみんな死んでいることは言ったね。この町は、端的に言うとこの世で死んだヒトが、あの世へ逝く前に心の整理をつけるための場所、いわばこの世とあの世の中間地点なんだ」
「心の、整理……?」
咲希が繰り返すと、由来は頷いた。
「自分が死ぬ前に、自分の人生を振り返ったり、色々な気持ち……特に未練になりうるものの整理をつける時間って、なかなかとれないだろう? だいたい、時分がいつ死ぬか、なんて分からないんだからさ。だからあの世に逝く前に、物理的に終わった生をちゃんと整理して、死を受け入れ、本当の意味で終わらせる。それがこの町なんだ」
由来はそこでいったん区切り、一口お茶を飲んだ。
「そういう町は、他にもたくさんある。薔薇ノ町、菊ノ町、彼岸花ノ町……。それぞれ、死因ごとに行く町は違うんだ。そして、この桜ノ町は交通事故によって亡くなってしまった方々が来る町の一つ」
咲希は、由来の言葉に小さく首を傾げた。
「町の一つ……? 死因ごとに行く町は違うのに、さらにその死因の中でも分かれるって言うことですか」
咲希が疑問に思ったことを問うと、由来は深く頷いた。
「いい質問だね。交通事故によって亡くなる方はとても多い。それこそ、こんな小さな町に全員が住めないくらいの人数になる。言い方はちょっとアレだけど、そういったメジャーな死因を担当する町はたいてい複数あるんだよ。そうすることで、一人一人の声を私たちが聞ける時間が増えるし、比較的静かな環境で自分を見つめ直すことができるわけだ」
なるほど、と咲希は頷いた。亡くなった人に関して意外にも色々と考えて、町は作られたようだ。そうすると、また別の疑問が咲希の頭に浮かぶ。
「なんでその町に、私たちみたいに生きている人が住んでいるんですか?」
「……咲希ちゃんは、さくら様が守り神だってこと、聞いたかい?」
昨日、さくらが言っていたことを咲希は思い出す。それが今の問いとどう関係あるのか分からず、咲希は目を瞬かせる。
「はい」
「こういう町ができたとき、最初はその町の守り神が、住人たちの話を聞いていたんだ。だけど、守り神と人間とでは価値観があまりにも違いすぎて、話が噛み合わないことがあった。それを見かねた閻魔様が、価値観が同じくらいだから、という理由で当時神にまつわる役職に就いていた家から各町へ、二人ずつ移り住むように言い渡したのが、私や咲希ちゃん、稔君みたいな人がここに住むようになった始まり。と言ってももう、櫻木も櫻井も神職に就いてないけどね。そこから脈々と受け継がれていって、今は義務教育を終えてから三年間、この世と町を往復しながらこの役職について学び、三年が経つと先代と代わって、次に代替わりをするまでこの町の役職に就くんだ。つまり、今の咲希ちゃんは研修中みたいな感じで、高校卒業と同時に私と代替わりをするわけだね」
「初めて聞きました」
非難の意味を込めて咲希が言うと、由来はまた苦笑いを浮かべた。
「言ってないからね」
「拒めないんですか」
「残念ながら拒否権はないんだ」
咲希は少し考えてから口を開く。
「死んだ方々じゃダメなんですか」
「もしもそれを死んだヒトがやると、代替わりが激しくなるだろう? だから生きている人なんだ」
「なるほど」
咲希はなんとなく理解した。そしてふと、聞いたことのある名前を思い出す。
「ところで閻魔様って――」
「もう咲希ちゃんは会っているはずだよ」
「え?」
いったいどこで会ったのか。この町にいるのだろうか。考え始めた咲希を見て由来はいたずらっぽく笑った。そしてすぐに真顔に戻り、話を戻す。
「今までの説明をざっくりとまとめると、ここ、桜ノ町はこの世で交通事故によって死んだヒトが、心の整理をつけるための場所だ。そしてその場所で、私や稔君、守り神であるさくら様が、死んだヒトが心の整理をつけるための手助けをする、ということなんだが、ここまででなにか気になったことはあるかい?」
「あの、本当にここにいる人たちが死んでしまった人たちなら、私、忘れてしまっているはずなんですけど。でも、佐々木さんや榎本さんみたいにここで出会った人たちのこと、忘れてないです」
咲希にとっては絶対に覆りようのない大前提。その前提は由来にとっても、櫻井にとっても変わらないはず。それなのにそれを無視したような話に、咲希は疑問を投げたのだ。そしてその疑問を、由来はふわりと微笑んで受け止めた。
「ここにいるヒトのことは、忘れないよ」
「死んでいるのに……?」
由来は強く頷く。
「この町の住人のことも、私たちのように生きてこの町に関わっている人のことも。この町で出会った人のことは忘れない」
「どういうこと、ですか……?」
由来は姿勢を正すと、咲希をじっと見つめる。
「私や咲希ちゃん、そして稔君。この三人が何故、死んでしまったヒトを忘れてしまうのか。それはね。私たちがこの町で死んでしまったヒトと関わるから、なんだ」
由来は再び、一口だけお茶をすする。
「もしも知り合いが死んでしまい、自分の担当している町にやってくるとする。その知り合いと自分が親しい間柄だったのならまだいいとしよう。だけどもしも、自分が相手のことを殺したいほどに憎んでいたら……?」
一段階下げた声で言った由来の言葉に、咲希はどこか暗いものを感じて思わず腕をさする。
「それは、もしかして……」
「実際にあったそうだ。その人はその住人を自分の気が済むまで痛めつけ、町の住人にとっての家であり、命であり、すべてである花を燃やしたんだ」
「絶対に、木を傷つけてはいけない……」
ふと、咲希は昨日さくらから言われた言葉を呟いていた。由来は、そう、と強く頷く。
「花、この町で言う桜の木は、一本一本の木の幹や枝の先、花びらの一枚一枚に至るまでが住人のすべてなんだ。その人自身であり、家であり、魂でもある。言うなれば、住人の本体ってところかな。朔矢君」
由来に呼びかけられた朔矢の方を咲希が向くと、朔矢は軽く頷いて立ち上がる。そして。
「え」
するするとリボンが解けていくように、朔矢は桜の花びらに変わっていった。その花びらはすっと一本の太い紐のように並ぶと咲希や由来の周りを一回りして見せてからもといた位置に戻る。そして今度は人の形に集まっていき、気付いたときにはそこに朔矢が立っていた。あまりに驚きすぎて呆けた表情をしている咲希に、朔矢は照れたような、それでいて寂しげな笑みを浮かべてから席に着いた。
「死んでしまった彼らには、肉体はない。この世に置いてきてしまったからね。代わりにその命がこの町では桜の木となるんだ。今の朔矢君がまるで人間のように見えているのは、実は自分の桜の木から桜の花びらを使ってそう見せているだけなんだよ」
「なんでわざわざ人の形になるんですか」
咲希が見た印象だと、花びらで移動した方が速そうだし、いちいち人の形になるのは面倒くさそうに思えた。
「そりゃ、木のままじゃ移動できないし、花びらだけで生活されたら、さくら様には見分けが付いても私や稔君には誰が誰やら分からなくなってしまうからね」
なるほど、確かに見分けるのは難しそうだろうと、咲希は納得した。
「……それで、花を燃やされた住人はどうなったんですか」
咲希の問いに、由来の表情が一気に暗くなる。
「……消えたそうだよ。灰も残さず、綺麗さっぱり」
なんとも言えない冷たいものが肌に触れた気がした。咲希は鳥肌の立った肌をさすることもできず、ぎゅっと強く掴む。
「あの世に逝くとまた、生まれ変わることができるんだ。だけどその住人は消えてしまったがためにあの世に逝けず、命は無になってしまった。怒った閻魔様は燃やした本人を存在ごと消し去り、もう二度とそんなことが起きないように私たちのような人たちから、その町で出会った住人を除くすべての死んだヒトの記憶を消し去ったんだ」
「死んだ人は? 逆に住人が生前の因縁で私たちみたいな人を憎んでる場合もあるんじゃないですか?」
「住人たちからは私たちのような人の記憶は消えない」
「どうして」
それでは不公平だと咲希は思った。自分たちは忘れてしまうのに、相手は忘れないなんて。――忘れてしまう苦しみを知らない、なんて。
「彼らは、心の整理をつけるためにこの町に来ているんだ。その記憶が整理をつけるために重要な記憶である可能性がある以上、消えることはない」
「……なにそれ」
心の中でグルグルと回っているものを必死で抑えつけようとして、咲希の声は震えた。
「咲希ちゃん?」
心配そうに見つめる由来の瞳も、咲希の視界には入っていなかった。
「つまり私は、死んだ人のためだけに思い出を忘れていったってことですか……?」
声の震えを抑えようとして咲希の声は、低く掠れる。
「私は死んでいった人のために気味悪がられたんですか? 私が忘れるのが死んだ人たちのためなら、いつか記憶が穴ぼこだらけになる私の人生は、死んだ人たちのための人生なんですか? 死んだ人たちのためなら……! 忘れた人を思って気に病むことも、罪悪感に苛まれることも、嫌がらせを罰として受け入れることもなかった!」
バン! と勢いよく机を叩いて咲希は立ち上がった。その振動で咲希の前に置いてあった湯呑みが倒れて中身がこぼれたが、気にしない。
視界が歪む。頬を液体が流れていく。息が苦しい。今まで抑えていた感情が塊になって、目からこぼれ落ち、喉を震わせて、口から吐き出されていく。
「おちつ――」
「落ち着け? 無理です。どれだけ親しくなっても忘れてしまう。そのことをどれだけ怖くて申し訳なく思っていたか、どれだけ気味悪がられて、傷つけられてきたか……! だから人と接することを最低限にしてたのに。死んだ人のために! 勝手に決められたことのために! 私の時間は! 私の! 記憶は――」
パシン。
乾いた音と共に、咲希の頬はヒリヒリとした痛みと熱を持っていた。
「由来、咲希」
さくらの落ち着いた声に導かれて咲希が由来の方を見ると、由来は右手を振り切った姿勢のままじっと咲希を見て立っていた。眉間に深いしわを寄せている。その表情は、とても苦しげに咲希には見えた。
「二人とも、席に着け」
お互いにじっと睨み合いながら、さくらの言うとおりに二人は席に着いた。それを見てから、さくらは口を開く。
「咲希。こちらの勝手な都合でそのようなことにしてしまい、申し訳ない」
「そんなこと言われても――」
もう今までの時間は戻ってこない。そう咲希が言おうとしたのを、由来が遮った。
「確かに、死んでしまったヒトを忘れてしまうのはさくら様や、こちらの都合だよ。だけどね、咲希ちゃん。その力のせいで誰とも関わらないようにしていたのは、君の都合だ。確かになにも知らない他人から見たら気味のいいものではないし、言ったところで不謹慎な人だと思われるのがオチだろう。でも、他にも方法があったはずだ。それを探さずに自分の殻に閉じこもってしまったのは、私は自己責任だと思うよ」
由来の言葉に、咲希は口を閉じる。なにか言い返したいのに言えないのは、咲希自身が由来の言った言葉が正論だと理解しているからだ。それが悔しくて、情けなくて、咲希は逃げるようにその部屋を出ていった。
🌸
「言葉がだいぶきついな」
去っていった咲希と、それを追っていった朔矢がいた席の辺りを見つめながら、からかうような口調でさくらは言った。それに対して、由来も同じ方向を見ながら、苦笑する。
「先代に言われた言葉ばかりで、言いながらとても耳が痛かったです」
「だろうな。で、説明してみてどうだった」
さくらの問いかけに、由来は俯いて、赤くなった右手の掌を見つめた。その手は、咲希の涙で濡れていた。
「……もっと早くに、言えばよかったなって、思ってます」
「ほう」
さくらが目を細めて由来を見る。
「なんか、結局こうなるのは変わらないんでしょうけど、この町の住人は生きてるんだって信じて接していたんだろうな、と思うと、だましたみたいな感じがして、罪悪感がすごいんです。これだったら、恐がらずに初日に言ってしまえばよかったな、と後悔してます」
「恐かったのか?」
ふふ、と笑いながら言うさくらに、当たり前ですよ! と由来はさくらを勢いよく見上げてはっきりと答える。
「今みたいにあの子を傷つけることは分かってましたから。せっかく会えた姪に嫌われたら、と思うと恐くてつい」
「で、もっと早く言えばよかった、と今度は後悔しておると」
「情けないですね」
呆れたように言うさくらに、由来はハハハ、と力なく笑った。
「私が言える立場じゃないですけど、咲希ちゃん、大丈夫でしょうか……?」
するとさくらはフーッと鼻から息を吐き、柔らかく微笑んだ。
「まあ、なるようにしかならんじゃろう。おぬしも、相変わらず臆病者じゃが、よく頑張った」
「ありがとうございます」
由来は頭を下げた。
「あとは榎本に、昇る前にもう一度こっちに来てもらうように言うておかなければな。それまでに咲希の整理がつけばよいが」
「そう、ですね」
はあ、と何度目かになるため息を吐いたさくらに由来は苦笑いを浮かべると、部屋のドアをじっと見つめる。昔の自分とついさっきの咲希の背中がそこに重なって見え、由来は一つため息を吐く。そして咲希のこぼしたお茶を拭くために立ち上がった。
🌸
「死んでたんですね」
後ろから朔矢が追ってきていることに、咲希は気づいていた。だから敢えてドアは閉めないで部屋の奥に入り、相手がなにかを言う前にそう言い放っていた。
「なんで黙ってたんですか」
完璧な八つ当たりだと、咲希には分かっていた。分かっていても、吐き出し口を求めていた心は、言葉を止めてはくれない。
「酷いですよね。死んだ人のことを私は忘れる。それを知ってて、なおかつそのせいで他人との距離をとろうとしてたのも気づいてましたよね? それでも黙ってたんですね。見てて楽しかったですか? 無様でしたかか?」
アハハ、と乾いた声で力なく、咲希は自分を笑う。
「咲希さん――」
「あーあ、みっともない。馬鹿みたいですよね? あんなに自分が自分がーって怒鳴っちゃって。どんだけ自分が大事なんだよって感じですよね。最低ですよね。でも、そう思われても間違いじゃないです。私って本当に最低な人間なんですよ。どんなに親しくても忘れてしまうのが申し訳ないから、とか、死後の世界があるならそこで私が忘れてしまっていることに対して傷ついてほしくないから、とか……。そんな綺麗事ばっかり言ってますけど、違うんです」
咲希が気づいたときには、出てくる言葉は朔矢に対してではなく、咲希に対して切っ先を向けていた。
「本当は、自分が傷つきたくないだけなんです。記憶がないことに戸惑いたくなくて、見知らぬ相手と仲がよかったことに驚きたくなくて、気味悪がられてる視線を受けたくなくて! ……自分を好いてくれていた人に、嫌われたくなくて。私は全部を力のせいにして、殻にこもることを選んだんです」
どんどんと声が掠れて、小さくなっていく。そんな自分が、咲希は大嫌いだった。
「咲希さん……」
視界の端で、朔矢の右腕が上がるのが見えた。だがすぐに、その腕は彼の左手によって元の位置に押し戻される。
「よく、腕を上げては逆の手で抑えてますね」
「え」
ずっと気になってはいた。が、ぽつりと呟いた言葉は届かなかったようだ。咲希本人もすごく聞きたいわけではなかったので、首を軽く横に振った。
「あなたは、私を恨んでますか」
代わりに出た言葉は、咲希自身、まったく予想していなかった言葉だった。自分で自分が分からず、咲希は両手で顔を覆う。
「すみません。生前のあなたと私には関わりなんてなかったのに。なに言ってるんだろう」
「咲希さん、僕は――」
「ごめんなさい、少し一人にしてください」
咲希の言葉に、朔矢が息を飲む音がした。少しの間を置いて、朔矢がドアを閉めて出ていった音だけが、静かに響く。結局、咲希は一度も朔矢の方を向くことはなかった。
🌸
咲希はその場で自分の足を折り畳んで抱え込むようにして座っていた。
いつの間にか真っ暗になっていた部屋の中を、一筋の月の光が照らしている。
傷つきたくない。
ただそれだけだったのだ、ということについさっき、咲希は気付かされた。いや、実際はずっと前から気付いていたのかもしれない。ただ、それに見て見ぬ振りをしていただけなのかもしれない。
「結局私は、死者を気にするふりをして、自分を守っていただけなんだ」
それは、死者を道具として扱っていたということだ。自分を守るための、盾として。そんなの、失礼以外のなにものでもない。
もしも、今までの自分の行いによって、誰かが傷ついていたら――?
あり得ない話ではない。実際、関わりを持たぬようにと、話しかけてきた人の言葉をすべて聞こえないふりをして無視していたこともある。それで、相手が傷つかないはずがない。過去にそれをされた自分が、どれだけ傷ついたことか。ただ自分が可愛いだけ。それだけだった。
朔矢を部屋から追い出してから、一人になって頭を冷やすはずが、ずっとそんなことばかりを咲希は考えていた。一人でいるせいか、このままでは深みにはまってしまうような気さえして、咲希は重たい息を吐き出した。
そのとき、コンコン、と躊躇いがちにドアをノックする音が聞こえた。
「咲希ちゃん、入っていいかい……?」
声の主は由来だった。咲希は一瞬どう答えようか悩んだが、はい、と答えた。静かにドアが開くと、不安げな表情をした由来が中に入ってきた。パタン、と音を立ててドアは閉まる。
「昼間はごめんね。あんなことを言って……」
由来の言葉に、咲希は立ち上がって首を横に振った。
「私こそ、ごめんなさい。勝手に部屋を出ていって……」
「いや、いいんだ。あれは私の言い方が……って、これじゃ平行線だね」
フフッと笑う由来につられて、咲希も笑う。そのおかげか、心が少し和らいだような気がしていた。
「安心していいよ。今までも、これからも消えていく記憶は、ちゃんと無事に次の代に引き継ぎを終えて、この町を去るときに、全部戻ってくるから」
「……へ?」
なにを言われたのか一瞬分からず、咲希は間の抜けた声で返事をしていた。徐々に意味を理解したとき、咲希は目を丸く見開く。
「戻ってくるんですか?!」
信じられない。そんな言葉が咲希の頭の中をグルグルと回っている。
「ああ、戻ってくるよ。次の代の子にちゃんと引き継いだあとにこの町を去るんなら、もうこの町に来る必要もない。そうなると、記憶をなくしている意味もなくなるからね」
「そうなんですね……」
永遠に戻ってこないと思っていたものが戻ってくる。それを知り、咲希の中にずっとあった色々な感情が、わずかだが軽くなった。
「咲希ちゃん、ほっぺた緩んでるよ」
由来は優しげに微笑みながら、咲希の頬をそっと両手で包み、少しだけ上向きにした。
「どうし――」
「私はね、咲希ちゃん。君には、幸せになってほしいんだ」
「……」
由来の真剣な眼差しに、咲希は言葉を静かにしまった。
「別に私が不幸だったとは思わないし、幸せの形は人それぞれだとも思っている。特に、こんな風にいろんな人と話していると、本当にそう思うよ」
両手が滑り、咲希の肩に置かれる。
「誰かと関わることが、必ずしも幸せに繋がるとは思わない。そんな綺麗な世の中ではないから。だけどね、誰とも関わらずに終わる生ほど空しいものはないと思うよ」
肩から手が動き、気付いたときには、咲希は由来に抱きしめられていた。
「こんな役職をもらってしまったがために、傷つかないようにそうなってしまったのかもしれない。実際私もそうだったから分かるよ」
――私は本当に無理になっちゃってねえ。小学校の頃からずっと不登校だったんだ。
この町に来る前に、咲希が初めて由来と話したときに、由来がこぼした言葉だった。よく考えれば、由来も自分と一緒なのだと、咲希は気が付いた。由来だけではない。あんなに脳天気に見える櫻井ですらも、自分と同じ忘れてしまう人間なのだ。なんて独りよがりだったのだろう。まるで悲劇のヒロイン気取りだった自分に、咲希は恥ずかしさで顔を赤くする。
「すぐには無理かもしれない。でも、みんな事情を理解してくれているこの町にいるうちに、リハビリだと思って少しずつ誰かと関わっていってほしいな」
頭を撫でる由来の手に温かさを感じて、咲希は頷きながら、無意識に由来の服の裾を掴んでいた。
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