二日目。
「おはようございます」
咲希がリビングのドアを開くと、ちょうど向こう側でもドアを開こうとしていたらしい。由来がドアノブを掴もうとした姿勢のまま、こちらを見て驚いたように固まっていた。
「由来さん……?」
「……いや、今から起こしに行こうと思っていたら咲希ちゃんが出てきたからね。びっくりしたんだ」
あはは、と笑う由来。その後ろからこんがりとした香ばしい匂いがしてくる。
「もしかして、私を起こしに行こうとしたのは……」
「朝ごはんができたんだ。冷めないうちにって思ってね。とは言っても、トーストと目玉焼きだけだけど」
また咲希は手伝えなかった。だが、手伝わせてください、と言うのも、今まで散々人との関わりを拒否してきた咲希にとって、とてもハードルが高くて言いづらい。結局、由来に勧められるがまま、咲希は席に着くことにした。
「それじゃ、いただきます」
「……いただきます」
手を合わせて挨拶してから、フォークを手にとって食べ始める。目玉焼きは半熟で、目玉を割るとトロリと黄身が出てきた。
そういえば母も目玉焼きは半熟派だったな、と咲希は思い出した。
「目玉焼き、つい癖で半熟にしちゃったけど、大丈夫かな」
「……はい」
「よかった。亜記も私も半熟派だったからねぇ。小さい頃からいつも目玉焼きを作るときは半熟で作るんだよ」
亜記と言うのは咲希の母のことである。
私は固焼き派だけど、と心の中で呟きながら、咲希は出てきた黄身を千切ったトーストにつけて口の中に入れた。
二人が朝食を食べ終えたとき、ドアを叩く音がした。咲希が由来の方を見ると、少し待っていてね、と由来は言い、ドアの方へと歩いていく。
少しするとにぎやかな話し声が近づいてきて、俯いて待っていた咲希が顔を上げたときには、すぐ目の前に男性が立っていた。朔矢と同い年くらいに見えるその男性は、薄茶のくせっ毛が特徴的で、幼さは感じさせないもののとても人なつっこそうな笑みを浮かべている。一言で言えば、とてもチャラそうな雰囲気だ。
「こんにちは、初めまして。櫻井稔です。よろしくお願いします」
ニカッと笑った口元で光る、真っ白な歯が眩しい。そのままの笑顔で歯磨き粉のCMに出れそうだ。明らかに苦手なタイプの登場に、咲希は眉間にしわを寄せて露骨に嫌そうな顔をした。それに気付いているのか、いないのか。櫻井はそのまま話し続ける。
「君の名前は櫻木咲希ちゃん、だよね。いやあ、名前通り可愛らしい女の子だ。そのままニコリとでも笑ってくれれば、まさに希望が咲き誇るような――」
「稔君、ストップ。咲希ちゃんが困ってるだろう?」
「困ってる、というか、初対面だから相手をした方がいいのか、無視しようか悩んでるんじゃないですか?」
まさに考えていたことを言い当てられて咲希が驚いていると、櫻井の後ろから朔矢がひょっこりと顔を出す。櫻井がギョッとした表情で後ろを振り返った。
「朔矢! いるならいると――」
「あ、ごめん。気が付いてると思ってた」
しれっとした表情で言うと、朔矢は咲希の方へと顔を向ける。
「俺は女の子の気配にしか、むぐ」
「でさ、咲希さん。今から少し案内したいところがあるんだけど、どうだろう」
櫻井の口を左手で押さえながら、朔矢は櫻井に負けないぐらいの爽やかな笑顔で咲希を誘う。咲希はすっと目をそらした。
「私は別に――」
「って言うと思ったから、強制連行ね」
「え」
「ほら、行くよ!」
グイッと右手を引っ張られれば、身構えていなかった咲希の右足は身体を支えようとして前に出てしまう。咲希は立ち止まろうとしたが、後ろから櫻井に背中を押され、抵抗しても無駄だと諦めた。どうせここまで絡んでくるのも、初めて会った人に対する好奇心のようなもので、そのうち飽きてやめてしまうだろう。今までの経験から、咲希はそう考えて、されるがままに前へと進む。
「いってらっしゃい」
その声に咲希が振り向くと、由来が手を振っているのが櫻井越しに見えた。家族以外の人に初めて言われた言葉にどう返せばいいか分からず、咲希は軽く会釈をした。
二人に連れられて、咲希はあの大きな桜の木の下に立っていた。そこは昨夜、ちょうど謎の少女が舞っていた場所辺りであった。朔矢が咲希の方を向く。
「咲希さんって、どこまで由来さんから説明受けてる? というか、なにか聞いた?」
あえて理解しづらいようなはっきりしない問い方をする朔矢に、咲希は眉間にしわを寄せる。
「なにかってなんのことですか」
「説明は受けてないみたいだね」
意味が分からない。
そう思いつつも、なにやら納得したような朔矢を見て、咲希はなにも言わなかった。向こうも説明するつもりはないらしく、会話はとぎれる。
櫻井はそんな二人のやりとりを見てから、桜の木を見上げて口を開いた。
「さくら様。櫻木咲希ちゃんを連れてきました」
途端、風もないのにザワリとその木だけが音を立て、桜の花びらの一部が舞い上がった。そして花びらは咲希たちの目の前の地面にふわりと舞い降り、人の形を形成していく。
その花びらたちは、昨夜咲希が窓から見ていた少女になった。咲希は、どんな仕掛けがあるのだろう、と思いながらも、驚きのあまりその場に固まってしまう。
少女がそっと目を開いた。髪の毛と同じ薄墨色の瞳に咲希の姿が映る。少女はどこか値踏みをするように、目を細めて咲希を見つめた。
「おぬしが櫻木咲希か?」
まるでフルートのような、芯のある透き通った少女の声は、だけどどこか従わずにはいられない力を持っていた。その声に押されるようにして、咲希は頷く。
「そう、ですけど……」
すぅっと少女の小さな唇が弧を描く。見た目は咲希よりも年下に見えるのに、その表情がどこか艶やかで、同性なのに咲希の心臓がドクリ、と音を立てた。
「初めまして、ではないな。昨夜ぶり、と言ったところか」
やはり、気付かれていた。
咲希の心臓が、先ほどとは異なる理由で音を立てる。横にいる男二人は少女の言葉の意味が理解できず、首を傾げる。
「さくら様、それはどういう……?」
櫻井が問うと、さくら様、と呼ばれた少女はククッと、どこか楽しげに喉で笑った。
「それは二人だけの秘密じゃ。のう? 咲希」
「……」
咲希がなにも言えずに黙っていると、さくらは真顔に戻った。
「さて、この話はこのくらいにして。その様子だと、妾のことを知らぬようじゃな」
「……はい」
咲希は頷く。さくらは自分の胸元に右手を置いて口を開いた。
「妾の名はさくら。この桜ノ町の守り神じゃ」
「……は?」
突然少女の口から放たれた、非現実的な言葉に、咲希は間の抜けた返ししかできなかった。先ほどの現れ方といい、古風なしゃべり方といい、今の発言といい……。そういう少し痛い人なのか、と咲希は考える。それがそのまま表情に出ていたらしく、さくらは眉間にしわを寄せた。
「なんじゃ、その顔は。さてはおぬし、信じておらぬな?」
「信じるもなにも……。逆にどうしてそんなことを突然言い出して、他人が信じると思ったんですか」
「……おい、櫻井?」
「やだな、さくら様ったら。今この町に櫻井は俺一人なんだから稔っていでででででで」
例の爽やかスマイルで櫻井がさくらに近づきながら言った瞬間、さくらはピョンと跳ねて櫻井の耳を思いっきり掴んだ。櫻井よりも頭二つ分以上背の低いさくらがそんなことをしたら、痛いに決まっている。
「櫻井?」
「はい、なんでしょう……」
さくらが笑顔を浮かべながらドスの利いた声で名前を呼ぶと、櫻井は解放された耳をさすりながら、今度はまじめに返す。耳は真っ赤になっていた。
「まさか、と思うが由来はまだ説明をしておらぬのか」
「そのまさかの様ですね」
櫻井の返答に、さくらは呆れた表情をする。それを見て朔矢が苦笑した。
「まあ、由来さんは昨日だけでも純粋に伯母と姪の関係でいたかったんじゃないですか?」
「どういうことですか」
由来は咲希にとっての伯母で、咲希は由来にとっての姪だ。それは変わらないはずだ。すると朔矢は困ったように微笑んだ。そして一瞬持ち上がりかけた右腕をさりげなく左手で抑え、口を開く。
「それを説明するのは由来さんの仕事だから、僕からはなんとも言えないんだ。ごめんね」
申し訳なさそうに言われてしまえば、咲希はなにも言うことができず、考えてみたらこれも誰かと接点を作ってしまうことだと気が付いて、口を閉じた。
「朔矢の言うとおり、そのことについては妾にも説明できん。じゃが、妾が守り神だ、ということも、由来の説明を聞けば納得することになるじゃろう」
「まあ? 俺は由来さんと同じ役割を持ってますから? 俺が説明してもいいんだけどねー。由来さんにもなにか考えがあるんだろうから、黙っとくよ」
「そうじゃな。櫻井がまともに説明できるとも思えんし、それでいいじゃろう」
得意げに言う櫻井の方を見ず、さくらは言う。
「えー。そんなこと言って、さくら様ってば、俺が他の女の子と話すのが嫌あだだだだだ」
「次はその口を縫うてやろうか?」
「すみません」
掴まれた耳をさすりながら、櫻井は謝った。どうやらこのやりとりはいつものことのようで、朔矢は隣で止めることもせず、笑っているだけだった。
「では、今言えることだけ、おぬしに言うとしようか」
さくらがまっすぐに咲希を見つめて言うと、櫻井と朔矢は黙ってまじめな顔になる。つられて咲希も、表情を引き締めた。
「この町の木は、大事な木じゃ。誰かの命と同等だと思っていい。じゃから、絶対に傷つけるでないぞ」
「はい」
そんなことを好き好んでやるような性格ではもちろんないため、咲希は素直に頷いた。だが同時に、そんな大げさに言われるほど、ここの桜の木は特別なのか、と疑問にも思った。確かに、この桜の木はとても綺麗だ。そして数も多い。だけど、それだけなのだ。
先ほどのさくらの登場の仕方や、守り神という発言、そして今の注意……。本人も、周りも、それが普通であるかのように振る舞っているが、咲希には理解できないことだらけであった。それがまた顔に出ていたのか、それともいきなり黙ってしまったことを不思議に思ったのか、なにやら再び騒ぎ出したさくらと櫻井を置いて、朔矢が咲希の隣に立った。そして、腰を屈めて顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「あ……はい」
咲希が頷くと、朔矢は息を吐いて微笑んだ。
「疲れた?」
「そんなことは――」
「疲れたってことにして、家に戻ろっか」
朔矢はそう言うと、自分の口元に人差し指を持っていき、優しく笑った。そして咲希がなにかを言うより先に彼女の前に立って、騒いでいる二人の方を向いた。よく考えればこれ以上この二人と絡まなくて済む、ということなので、咲希もおとなしく黙る。
「さくら様、稔」
朔矢の呼びかけに、二人はクルリと振り返って首を傾げた。
「ちょっと咲希さん疲れたみたいなんで、もう戻りますね」
「まじか。ごめんね、疲れてるところに」
「あ……いえ、そんな」
申し訳なさそうに言う櫻井に、咲希も嘘を吐く罪悪感で申し訳なくなり、朔矢の背中に少しだけ隠れるように横へそれて首を左右に振った。視界の端で、朔矢が一瞬上がりかけた自分の右腕を、左手で抑えるのが見えた。その手を辿るようにして見上げると、朔矢が咲希を見て微笑んでいた。その微笑みがどこか辛そうで、咲希の胸が何故か痛んだ。
「行こっか」
「おい」
歩き始めた朔矢のあとを追おうと足を踏み出した瞬間、さくらに呼び止められて、咲希は振り返った。さくらはじっと咲希を見つめていた。
「妾の言ったこと、忘れるでないぞ」
有無を言わさぬ低くて力強い口調に、咲希は静かに頷いてから、朔矢のあとを追った。
🌸
二人が家に帰ってくると、玄関でにっこりと笑顔を浮かべた由来が待ち構えていた。
「お帰り、二人とも」
「ただ、いま……です?」
咲希はお邪魔します、と言う言葉を飲み込んむ。代わりに出てきた言葉は少し片言になってしまったが、由来はとても嬉しそうに元々上がっていた口角をさらに上げる。
朔矢がお邪魔します、と靴を脱いで上がる。それを見て咲希も慌てて靴を脱ごうと、靴の口に手を掛けた。
「なにかあったんですか」
朔矢の問いかけに、待ってましたとばかりに由来が口を開く。
「いいことを思いついたんだよ!」
「いいこと?」
怪訝そうな表情で朔矢が問うと、由来は大きく頷いて咲希の方を見た。
「咲希ちゃん、四月に入学する高校の課題、持ってきてたりするかい?」
「はい」
咲希が入学するのは、地元では有名な進学校で、入学前の春休みにも、もちろん課題が出ていた。それも、やまほど。暇ができたらやろうかな、ととりあえず全部持ってきているが、結局昨日は開くこともせずに一日を終えてしまった。そんなことを咲希が考えていると、目の前にピッと由来が人差し指を指してくる。そのまま移動する人差し指を咲希が目で追って顔を上げると、朔矢と目が合った。
「僕がどうかしたんですか」
「咲希ちゃん、朔矢君に教えてもらうっていうのはどうだい!?」
「……は?」
由来の言葉の意味が分からず、咲希はキョトン、としてしまう。すぐ隣からは、盛大なため息が聞こえた。
「いや、あの、結構です」
咲希の返答に、由来が、そうかい? と悲しそうに言う。
「そんなに朔矢君が嫌いかい?」
「そういうわけではなくて、単純に昨日会ったばかりの異性に勉強を教えてもらうって、普通嫌ですよね?」
実際は、別に異性でも同性でも、昨日会ったばかりでもそうじゃなくても、嫌なものは嫌だった。そういう風に今まで生きてきたし、これからも変えるつもりは咲希には毛頭なかった。
「大丈夫。なにかあればこの私に言ってくれれば、たいていのことはどうにかするからさ」
「そういう話ではなく――」
「それに、朔矢君は君と同じ高校に通っていたんだよ?」
「はぁ。私、どこの高校かって言いましたっけ」
「亜記から聞いたんだ! 他にもいろんなことを聞いたよ」
どうやら、咲希の母は咲希が思っているよりも口が軽いようだ。とは言っても、予想の範疇ではあったので、咲希は疲れたため息を吐いただけだった。由来も由来で、電話ではなにも聞いていないと言っていたではないか、と思いはしたが、咲希はそれを飲み込んだ。
「それに彼はこの間まで教師を目指していたから、教え方はとっても上手いよ!」
目指していた。
その言い方に、咲希はどこか違和感を覚える。パッと見、朔矢は二十歳前後に見える。ついこの間まで目指していた、ということは今は大学に通っているということだろうか。普通に考えれば、その大学に通っているときに他の将来を目指すことにしたのか、何らかの理由で教師を目指すことに挫折したのか。そこまで考えて、咲希は考えることをやめた。所詮他人のことだ。相手が死んでしまったら、すべて忘れてしまう。どれだけ覚えていたいと思っていても、覚えていようと努力しても忘れるものは忘れる。聞いたところで無駄になってしまう。
「別に僕は、誰かに教えるっていう行為は好きな方だから、変な遠慮とかで拒否してるんだったら、ぜんぜん大丈夫だよ。それに、だいぶ課題は難しいと思うし」
咲希が朔矢の方を向くと、朔矢はふわりと微笑んだ。
「まあ、今日にでもやってみて、無理だと思ったら迷わず言ってね」
「……わかりました」
咲希が頷くと、さて、と朔矢は由来の方を見た。その表情は真剣そのものだった。
「由来さん。さくら様が怒ってましたよ。いつまでも説明せずにいられるわけないんですから、とっととやってください」
すると由来は困ったように眉を下げて笑った。
「明日まで待ってくれないかい」
「もう二日目ですよ」
「分かってる。でも、心の準備をだね……」
言い訳がましく言う由来に、朔矢はため息を吐いた。
「分かりました。でも、絶対明日ですよ? 逃げられないようにさくら様にも言っておきますからね」
「……朔矢君、鬼だねぇ……」
「なにか言いましたか」
「いや、なにも」
苦笑混じりに由来が答えると、朔矢はクルリと咲希を振り返った。
「ごめんね、さくら様や、僕、稔が言っていた説明は、また明日でもいいかな」
「全然構いませんけど」
むしろ、これ以上言われても、頭の中に入る気は咲希にはしなかったし、そもそも、二日間も初対面の人に意識を向けられたことが久し振りすぎて、疲れてもいた。先ほど外では疲れていないと言ったが、本当はあの時点で咲希は疲れていたのかもしれない。こっそりと心の中で、咲希は家に連れ戻してくれた朔矢に礼を言う。そもそも家から強制的に連れ出したのも朔矢なわけだが、それは考えないことにした。
「すみませーん」
そのとき、外から家の中へ呼びかける声が聞こえた。由来は、はーいと返すと、二人を見て手を合わせた。
「ごめん、これからちょっと話し合うことがあるから、二人は二階に上がっていてもらえるかい」
「わかりました。咲希さん、行こっか」
咲希がなにか答える前に、朔矢は二階へと階段を上がっていく。それを見て咲希はため息を一つ吐いてから、階段に足を置いた。
🌸
話しかけてくる朔矢に、咲希が少ない単語で返す。そんな、会話とも雑談とも呼べないような言葉の交換をしていると、にわかに外が騒がしくなった。気になった咲希は立ち上がり、窓から外を見下ろす。外では、先ほどまでは見かけなかった、頭に捻り鉢巻きを巻き、法被を着た中年くらいのがっしりとした男性たちが、木材や鉄を持ってなにかをしていた。
「祭りの準備だね」
あれはなんだろう。咲希がそう思っていると、その後ろから外を見ていた朔矢が言った。咲希が見上げると、朔矢はどこか寂しげに微笑んだ。
「お祭り、ですか」
「うん」
咲希は幼い頃、母親に連れられて行ったお祭りを思い出す。
前後左右、どこを見ても人であふれかえっていて、屋台の灯りがとても眩しい。大きな音につられて上を見上げれば、色とりどりの花が、夜空に咲いては散っていく――。
あの頃のお祭りは、楽しかった記憶しかない。誰かに会うのが嫌で行かなくなってしまった今となってはそれは、遠い記憶でしかないが。だから、何故朔矢が悲しげな表情をするのか、咲希には分からなかった。どうしたのか、と訊きかけて、そんなことを訊いても意味がないことに気が付き、咲希はそっと口を閉じて俯く。
「このお祭りはね、お別れのお祭りなんだ」
パッと上を見上げると、朔矢が優しく微笑んでいた。
「僕がなんで楽しげじゃないのか、気になったんでしょ」
「……お別れのお祭りだからなんですね」
肯定する代わりに、そう咲希が返すと、朔矢はフフッと笑う。咲希にはそれがどことなく大人っぽく見えて、すべてを見透かされているような、そんな気がした。だけど、不思議と嫌じゃない。そんな風に感じている自分に、咲希は内心首を傾げていた。
「このお祭りはね、この町から旅立つヒトと、この町に住んでいる人ビトがお別れを祝うお祭りなんだ。この町で言う《お別れ》は、とても喜ばしいものだから」
「お別れが喜ばしい、なんて……」
自分にはそんな風には思えない。そう咲希は思った。一般的に別れは悲しいもの、寂しいものだ。そして咲希にとって一番大きな別れといえば、忘れてしまうものだった。欠片も残すことなくすべてを奪い去っていく。それが咲希にとっての別れなのだ。
「まあ、普通に考えたら変わってるな、とは思うよ? でもきっと明日由来さんから説明を受ければ、なんで喜ばしいのか理由は分かると思う。まあ、理由が分かってもやっぱり、寂しいな、と僕は思うんだけどさ。あ、もちろん祝いはするけどね」
「説明を受ければって、そればっかりなんですね」
「しょうがないさ。それだけこの町は、君の知っている町とは違うんだから」
僕も初めて来たときは戸惑ったよ、と朔矢は笑いながら言う。
「生まれたときからここに住んでたわけじゃないんですね」
咲希がそう言うと、一瞬朔矢はキョトンとしてから、ああ、と何かを納得したように頷くと笑った。
「そうだね。この町に生まれたときから住んでるのって、さくら様くらいじゃないかな」
「そうなんですか」
少し意外だと、咲希は思った。そして、珍しい町だ、とも。
「祭りが開かれるまでには手順があってね。由来さんと稔にお別れすることを伝えるんだ。そのあとお祭りが始まるまでの準備期間にこの町の住人に挨拶をしていく。準備期間は一週間。お祭りは全員参加だから、準備期間中に挨拶に行けなかった人に当日挨拶している人もいるかな。そしてその翌日に、旅立つんだ」
「旅立つって?」
咲希の問いに、朔矢はただ微笑んだだけだった。その微笑みがあまりにも寂しげで、咲希はそっと目をそらした。
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