一日目。

「いい? 桜ノ町行きの電車に乗るのよ? 分かったわね?」

「分かってる、分かってるから!」

 朝起きたときから今までで何回目になるか分からないくらいの母の言葉に咲希は、はいはいと頷きながら、着替えやら、入学前の課題やらでパンパンになっている鞄の取っ手を握って車から降りた。鞄の重さが取っ手越しに、ずしりと咲希の右手にかかる。鞄に引っ張られるようにして少しだけよろける咲希を、母は心配そうに見つめていた。

「おねいちゃん!」

 舌っ足らずな声が、車の中から咲希を呼んだ。咲希が顔を上げると、今年で六歳になる弟の恵がじっとこちらを見つめている。

「恵、どうしたの?」

「いってらっさい」

 ニパッと無邪気に笑う恵につられ、咲希も笑顔になる。

「行ってきます、恵」

「気をつけて。姉さんによろしくね」

「うん。それじゃ」

 咲希は二人に軽く手を振り、車のドアを閉めて駅へと歩き始める。

 母はその後ろ姿を見えなくなるまで見送ってから、車を発進させた。


 春休み中のお昼時なせいか、駅のホームにはそこまで人がいなかった。

 咲希がホームに着くと、まるで見計らったかのようにタイミングよく古ぼけた電車が滑り込んできた。

 桜ノ町行きと書かれたその電車はところどころへこんでいたり、黒ずんでいたり、となかなかに年期を感じさせる。静かにドアを開けた車両のどこにも人は乗っていない。

 咲希はふと周りを見回して、奇妙なことに気が付いた。すぐ目の前で電車が停車しているのに、誰一人としてそちらを見てはいないのだ。

 単純に誰も乗らないからではないか、と違和感を覚えつつもそう思い、咲希はもう一度電車を見る。桜ノ町行きと書かれたこの電車は、間違いなく咲希が乗るべき電車だ。

 咲希はこの電車に乗ろうか悩んだ。

 この空き具合の理由が誰も乗らないからだとしても、咲希が立っている場所から見える範囲のどの車両にも誰も座っていない、なんて不気味以外のなにものでもなかった。

「どうしよう……」

 咲希は小さく呟く。これに乗らなければならないことは分かっている。分かっているのだが、その不気味さに対する不安が咲希の足を止めていた。


「嬢ちゃん、出発するよ! 乗って乗って!」

 いつの間にか横にいた老人が咲希を急かす。咲希はその老人の勢いに押されるようにして、電車の中に駆け込んだ。鞄の重さに、咲希は思わずたたらを踏む。咲希が中に入ったと同時に、電車のドアは音もなく閉まる。そしてするりと駅を出発したのだった。


 中に入ってもやはり、どこの車両にも人一人いなかった。まだ乗る前まで感じていた不安は胸の中でざわざわと存在しているが、乗ってしまったものは仕方がない、と咲希は腹をくくった。そして適当な座席に腰を下ろすと、窓から見える景色をただなんとなく眺める。

 桜ノ町。これから春休みが終わるまで過ごす町。

 どんなところだろう。名前の通り桜がたくさん生い茂っているのだろうか。そうだったらいいな。

 もともと桜の花が好きな咲希は、そんなことを考えながら、静かに目を閉じた。


「もし、嬢ちゃん」


 柔らかな男性の声と共に、優しく身体を揺すられて、咲希は夢とうつつの間でぼうっとしながら目を開いた。目の前には電車に乗るときに彼女を急かした老人が立っていた。よく見ると駅員らしき服を着ている。ということは運転手か何かなのだろうか。綺麗にまとめられた白髪と笑顔がとてもよく似合う、上品な老人だった。

「桜ノ町に、着きましたよ」

 その言葉に、寝起きでぼうっとしていた咲希の頭も流石にはっきりと覚醒した。咲希は慌てて鞄を掴む。少しよろけたが、なんとか踏みとどまると、咲希は老人に礼を言い、電車から駆け下りた。電車は行きと同じように、音もなくドアを閉じ、するりと発車していった。

「そういえば私、桜ノ町で降りるって、あの老人に言ってたっけ?」

 いや、言ってない。じゃあ、何故桜ノ町で起こしてくれたのだろう。

 咲希は首を傾げたが、あの電車の終点が桜ノ町だったことを思い出した。これからあの電車が車庫へ行くのか、それとも逆向きに運転するのかは、咲希には分からない。だがどちらにしろ、乗客を乗せたままではまずいだろう。それに気付き、咲希は老人に、少し申し訳なく思ったのだった。



🌸



「……っ!」

 改札を抜けた途端、目の前に飛び込んできた景色に、咲希は思わず息を飲んだ。

 見渡す限りの桜、さくら、サクラ――。

 桜ノ町という名前に恥じぬほどに、駅のちょうど真ん前からまっすぐに伸びた茶色い道が浮いて見えるくらい、辺り一面が薄いピンク色で埋め尽くされている。思いっきりその場で深呼吸をすると、肺が桜の色に染まるような、そんな気がした。

「確か、駅から道なりに進んで初めに着いた家って言ってたはず」

 駅からその家までどのくらいの距離があるかは知らないが、初めに着いた家、ということはそこまで遠くないはずだ。少なくとも、駅からの道沿いにある家の中で一番近い。頑張って歩こう。そう咲希が決心し、鞄を持ち直したときだった。

「こんにちは」

「――!?」

 すぐ近くで声がして、咲希は声にならない悲鳴を上げてしまった。驚きのあまりバランスを崩した咲希の細い身体は、鞄の重さに引っ張られて、尻餅を付きそうになる。が、素早く咲希の腕を掴んだ声の主が、グイッと咲希の身体を自分の方へ引き寄せてくれたおかげで、なんとかそうならずに済んだ。

 代わりに、咲希の身体は声の主に抱きしめられるような形になってしまう。ふわりと桜の香りが咲希の鼻をかすめた。

「大丈夫?」

 声の主が心配そうに問うが、今の咲希にはそれに答える余裕がなかった。

 自分の長い髪の毛の隙間から見える、太くはないが引き締まった腕。顔に当たる平らな胸。そして頭上から降ってくる、女性とは違う低くて柔らかい声。

 間違いなく声の主は、男だった。

 ただでさえ他人との関係を拒んできた咲希だ。同姓でもそこまでの密着をしたことがなく、異性なんて、絶対に経験も耐性もあるはずがなかった。案の定相手が男だと気付いた途端、咲希の顔は林檎よりも赤くなっていく。心臓が狂ったように暴れて、今にも口から出ようとしている。

「だ……大丈夫、ですから! はは、離れてください……!」

 咲希の言葉に、男性は自分が咲希に思いの外密着していることに気付いたのか、慌てて腕を解いた。咲希は自分の身体が男性から離れると、相手の顔も確認せずに早口に礼だけ言い、回れ右をして勢いよく駆け出した。これ以上相手と会話をすることはもちろん、そばにいることも、咲希の中では無理だった。だから一刻も早く男性から離れて、どこかに逃げてしまいたかったのだ。

 だが咲希はこの数年間、外に出ることなんて学校へ行く以外に滅多になかったのだ。重い鞄を持って走り続けるなんてこと、咲希にはできるはずがなかった。

 程なくして咲希は立ち止まり、肩で息をしながら鞄を地面に置くことになる。

「大丈夫?」

 後ろから声と共に足音が近づいて、咲希のすぐ横で止まる。かけられた声は、先ほどの男性のものだった。咲希がなにも言わずに息を整えていると、男性はまた口を開く。

「よかったら荷物、持つよ」

 そう言って、男性は咲希の手から荷物を持とうとする。だが咲希は男性が取れないように鞄の取っ手を両手で強く握って、首を横に振った。

「大丈夫ですから、お構いなく」

 言い切って、咲希はそのまま鞄を引きずりながら歩き出す。男性はそんな咲希を見て苦笑いを浮かべると、あとを追う形で歩き始めた。

「君さ、櫻木咲希さんでしょ?」

「……だったらなんですか」

 男性のしつこさに、咲希はイライラを隠すこともせずに返す。

「由来さんから、君を家まで案内するように頼まれたんだ」

「由来さんの家は、ここから道なりにまっすぐ歩いたところなんですよね? 道が分かるので、一人で大丈夫です」

 咲希は早く一人になりたくて、わざと素っ気なく答えた。そんな自分に、良心がチクチク痛んだのは気付かないふりをする。

 だが、そんな素っ気なさに構わず、男性は話しかけてくる。

「そうだね。他の人に頼まれたのなら、君のことを放っておいたかもしれない。だけど由来さんに頼まれたのにそんなことをしたら、酷く怒られるからね」

「……」

 怒られればいいじゃないか、と思いつつも咲希はそれを口には出さず、歩みも緩めない。

「まあ、そんな話は置いておいて。咲希さん、駅から由来さんの家まで何キロあるか、知らないでしょ」

 もちろんそんなことを咲希が知っているはずがない。どこか楽しげに言う男性の言葉になんとなく嫌な予感がしながらも、咲希は無言を貫く。その無言を男性は肯定と受け取ったのか、また口を開いた。

「約六キロ。徒歩で大体九十分から百二十分くらいかな。咲希さんは大きな荷物を持ちながら、そんな長い時間歩けるの?」

 咲希は思わずその場に立ち止まってしまう。

 普通に考えて、この荷物を持って六キロも歩くのは、男性の言うとおり咲希には無理がある。だけどそれを認めて今更この男性に頼るのも、しゃくだった。どうしようかな、と悩みながらも黙々と歩き始める咲希に男性はため息を吐くと、すっとさりげなく咲希からその大きな鞄を取った。男性はその鞄をひょいっと自分の肩に掛ける。他のことに意識がいっていた咲希は、その動きのなめらかさに驚いた。そして咲希の視線は鞄から男性へと移り――咲希の動きが完全に止まった。

 男性は二十歳前後だろうか? 若くて穏やかそうな好青年だった。

 焦げ茶のサラサラの髪の毛。優しげに、ちょっとだけ目尻の垂れた茶色い瞳。身長は咲希よりも頭一つ分以上大きくて、すらりとした体型をしている。男女問わず好かれそうな、頼れる優しいお兄さん。そんな感じだ。すれ違うと数人は振り向きそうな外見だが、決して珍しい雰囲気を持っているわけでもなんでもない。なのに、咲希はなにかが胸に引っかかったような、そんな気がしたのだ。

「僕は佐々木朔矢。君の伯母さんの由来さんには、いつもお世話になってるんだ。これからよろしくね」

 青年は荷物を持っていない方の手を咲希に差し出す。だが、咲希はその手を見ていなかった。朔矢、と言う名前に、咲希は覚えがあったのだ。と言っても知り合いにいる、というわけではない。咲希にとって知り合いと言えるような仲の人は、家族以外にはいないからだ。

 例えるのならそれは、昔読んだ小説に出てきた登場人物と同じ名前の登場人物が、違う小説に出てきたような、そんな既視感。

 反応を返さない咲希になにかを感じたのか、青年、朔矢が心配そうに咲希の顔を覗き込んでくる。突然のことに咲希は驚き、後退った。それが面白かったのか、朔矢はクスクス笑う。笑われたことが気に食わず、咲希はぶっきらぼうにグイッと手を出した。

「荷物、返してください」

「嫌だ」

 咲希の言葉を笑顔で軽く拒むと、朔矢は先に歩き始める。咲希はそのあとを慌てて追った。

 追っている最中も、先ほど感じた既視感がどこから来たものなのか考えていたが、結局咲希には分からなかった。



🌸



 あのあとも何度か咲希は、朔矢から鞄を返してもらおうとしたがすべて失敗に終わり、今はもう諦めておとなしく朔矢の後ろを歩いている。

 駅からはだいぶ歩いた。だがまだ家らしき物は見えず、桜の木が延々と並んでいる。おとなしくなってからずっと桜の木を見上げている咲希を、朔矢は時々振り返っては、目を細めて見つめていた。

「桜、好き?」

 突然朔矢にそう問われて、咲希は目をパチクリとさせた。好きだ、と正直に答えようと口を開いたが、答えたところでなんになるのだ、と思い、咲希は口を閉じて視線を桜に戻した。

 咲希の態度に気を悪くした様子もなく、朔矢は苦笑を浮かべて肩をすくめると、再び前を向いて歩く。静寂が二人を包みこむ。

 少ししてふと、前からキコキコという、明らかに油の足りていない自転車の音が近づいていることに気付き、咲希は顔を前に向けた。音の主は、初老の男性がこいでいる自転車だった。男性は二人を見てニコリと微笑むと、さび付いた自転車を止めて横に降りた。それを見て、朔矢と咲希は足を止めた。

「こんにちは、朔矢君」

「榎本さん、こんにちは」

 どうやら朔矢はこの初老の男性と知り合いのようだ。初老の男性、榎本は咲希の方を向くと、ちょうど桜の花びらの隙間から差し込む木漏れ日のように温かく微笑んだ。それは、誰もがホッとするような笑顔だった。だが初対面の人からの笑みに、咲希は反射的に顔をそらしてしまう。自分以外の二人が苦笑するのが気配で分かった。

「なんか、すみません」

 謝ろうと咲希が口を開くよりも先に、朔矢が榎本に謝っていた。それを見た咲希の眉間にしわが寄る。悪いのは自分なのに、何故朔矢が謝るのか。それに苛立つ。そして他人に謝らせてしまった事実が、その苛立ちをさらに強いものにした。

「いや、大丈夫だよ。彼女が由来さんの言っていた親戚の方、だよね?」

「そうです」

 どうやら由来の姪が来る、ということを、迎えを頼まれた朔矢以外にも知っている人がいるようだ。朔矢が頷くと、榎本はどこか懐かしそうに再び咲希を見つめる。

「由来さんも最初は彼女みたいな感じだったからね」

「そうなんですか?」

 榎本の言葉に朔矢は意外だと言いたげな声で反応する。それが嬉しかったのか、榎本はホッホッと声を上げて頷いた。

「まあ、その話は置いておいて……。初めまして、だな。私は榎本。これから少しの間だが、よろしくお願いするよ」

「櫻木、咲希、です……」

 柔らかな微笑みに、気付けば咲希は名乗っていた。そんな咲希に朔矢は一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。そして朔矢は榎本に向き直ると口を開いた。

「今榎本さん、由来さんの家の方から来ましたが、なにか用事でもあったんですか?」

「ああ……」

 朔矢の問いかけに、榎本は困ったような笑みで咲希をチラリと見てから、静かに頷いた。

「実は《昇る》ことにしたんだ。詳しくはまた挨拶しに行くよ」

 それじゃ、と手を振って、榎本は自転車に跨がった。そのままこぎだした榎本の背中が、咲希にはどこか寂しげに見えた。《昇る》ということがなんなのか、咲希には分からなかった。

「……行こっか」

 だからと言って、去っていく榎本の背中と同じような寂しさを纏った笑みを浮かべている朔矢に訊くわけにもいかず、咲希は小さく首を傾げたのだった。



🌸



 榎本と別れてからまたしばらく歩いて、ようやく二人は一つの家の前に到着した。

 その家は木を組み合わせてできていて、ロッジや山小屋のような外観をしていた。ドアの前に三段ほどの階段があり、家の周りは木の柵で囲まれている。玩具屋さんで売られているような、可愛らしい家だ。柵には表札が紐で掛けられており、そこには櫻木、と墨で書いてあった。どうやらこの家が、咲希の伯母である櫻木由来の家のようだ。

 咲希はインターホンを探したが、それらしき物は見つからない。その間に朔矢は慣れた様子で柵の戸を開いて階段を上り、ドアをコンコンと軽く叩く。

「由来さん、朔矢です。咲希さんを連れてきました」

 すると勢いよくドアが開き、中から女性が出てきた。女性は朔矢をチラリとも見ずに両腕をめいっぱい広げて、目にも止まらぬ速さで咲希に駆け寄る。

「咲希ちゃんようこすぉぉおおおおっ!」

 朔矢が女性を止めようと手を伸ばすが間に合わない。なにが起こったのか分からずその場に突っ立っていた咲希は、気付いたときには女性に力強く抱きしめられていた。

「――っ!?」

 驚きのあまり固まってしまった咲希を見て、朔矢は額に手をやるとやれやれと言わんばかりにため息を吐いた。

「由来さん。初対面でいきなり抱きつくのはどうかと思いますよ」

 朔矢の言葉に、咲希に頬ずりをしていた女性、由来は一時停止し、そして抱きついたときと同じようにいきなり彼女を解放した。その勢いに負けた咲希は数歩よろめくも、構えていた朔矢の世話になることなく、なんとか自分の両足で踏ん張った。

「咲希ちゃん、ごめん!」

 咲希に向かって勢いよく由来が頭を下げる。

「いや、あの、大丈夫ですから! 頭を上げてください!」

 他人と最低限にしかコミュニケーションを取ってこなかった咲希には、もちろん誰かに頭を下げられるなんて経験はなく、思わず慌てて顔の前で両手を振っていた。

「本当かい!? それはよかった」

 由来はホッと安堵の表情で言うと、先導するように柵の戸から中に入り、階段を上る。咲希は柵の戸をそっと閉めると、由来のあとに続いた。

「ようこそ、桜ノ町へ。そして私の家へ」

 少しおどけたように由来は言うと、開いたままだったドアのドアノブを掴んで、咲希に中に入るよう、促した。咲希はお邪魔します、と言いながら、どこかそわそわした落ち着かない気持ちでその家の中へと入る。あとを追うように朔矢と由来も順番に入った。

 ドアが静かに閉まる。咲希が立ち止まっていると、由来が咲希の前まで歩いてきて手招きしてくる。そしてそのまますぐ目の前にあった階段を上り始めた。咲希も朔矢もそれについて行く。

「いやあ、さっきはごめんね。咲希ちゃんが来ると思うと今日一日浮き足立っちゃっててさ。自制できなかったんだ」

 嬉しそうに、でもどこか照れたように言う由来。咲希の後ろから、朔矢の呆れた声が聞こえてくる。

「自制してください。相手はここ最近あまり人と接触していない咲希さんですよ。倒れたらどうするんですか」

 今の朔矢の言葉が、咲希に引っかかった。自分はいつ、この青年に、他人と接触していないことを言っただろうか。気になると同時に不気味にも思い、咲希は訊いてみることにする。

「あの……」

「ん? なんだい?」

 咲希から声をかけたことがよほど嬉しかったのだろう。由来はキラキラとした笑顔で咲希を振り返った。その笑顔に咲希は驚いて顔をひきつらせる。今までそんな笑顔で見られたことなんて、彼女の記憶の中では一度もないからだ。本当はあるのかもしれないが、咲希はまったく覚えていない。呆然としている咲希を見て、由来は不思議そうに首を傾げる。

「えっと……咲希ちゃん?」

 由来に名を呼ばれ、ハッと咲希は我に返る。三人は階段を上り終え、二階の廊下に立っていた。

「あの、なんで佐々木さんは、私がここ最近人と接触していないと思ったんですか」

 咲希なりに、言葉を選んで問うたつもりだった。だがその問いは、朔矢の柔らかな笑顔を固まらせてしまった。どうして笑顔が固まったのかが咲希には分からない。少し考えて咲希は、自分の問いかけが失礼なことだったのではないか、と思い至ると、謝ろうと口を開いた。

「あの――」

「僕の知り合いに、君とそっくりな子がいるんだよ」

 咲希の言葉を遮るように朔矢が話し始める。咲希は口から出かけた謝罪の言葉を飲み込んで、静かに口を閉じた。

「その知り合いは、人との関わりをほとんど拒絶する子でね。鞄を持つよって言ったときのやりとりがあまりにもその子と似ていたから、もしかしてそうなんじゃないかなって」

 どこか取り繕うような説明を終えると、朔矢は目を細めてにっこりと笑う。

「あれ、もしかして当たってた?」

 どこか懐かしい雰囲気を持つ話し方に、咲希はなにも言えなかった。ただ、この青年はその知り合いのことを話すだけなのに、何故こんなにも切なげな表情をするのだろう、とそれが疑問で仕方がなかった。だが、それを訊けるような間柄でもないし、なによりも、この青年が死んでしまったら、そんな会話すらも咲希の記憶からは消えてしまう。それなのに興味本位でそんなことを訊いていいわけがない。咲希はそう思い、無愛想な表情で朔矢を見上げる。

「そんなこと、なんで今日会ったばっかりのあなたに言わないといけないんですか」

 我ながら嫌な答え方だな、と咲希は思った。そもそも朔矢がこんなことを言ったのは自分の質問が元だというのに。その質問の原因が朔矢の発言にあるとしても、失礼だろう。だが朔矢は、咲希の言葉に苦笑しつつ肩をすくめただけで、特になにも言わなかった。二人が静かになると会話が終了したのだと解釈したのか、由来はニコリと笑い、口を開く。

「さてさて。それでは、こちらが今日から咲希ちゃんのお部屋となる場所です!」

 そう言って由来は、廊下の突き当たりにある部屋のドアを勢いよく開いた。二人が中に入ると、由来は静かにドアを閉める。

 その部屋は、咲希の家にある彼女の部屋とだいたい同じくらいの広さだった。入ってすぐのところに咲希の腰ほどの高さのプラスチックの衣装棚が置いてある。ドアのある壁と反対側の壁には大きな窓が開かれており、清潔そうな白いカーテンがゆっくりと揺れている。その隣には、木でできた少し大きめのベージュ色の机と椅子があった。

「どうだい、この部屋は」

 由来が声をかける。だが咲希はすでにその言葉を聞いておらず、カーテンを掴んで横にずらし、窓の外をじっと見ていた。正しくは、地面にしっかりと腰を下ろし、誰にも邪魔されずに大きく腕を広げている一つの巨大な桜の木と、その周りを飛び交う桜の花びらを、見ていた。

「聞くまでもなかったようだね」

 由来の呟きに朔矢は頷いて、窓まで歩いていく。そしてそっと、咲希がいるのとは反対側の位置にもたれかかって腕を組み、桜を眺める咲希を静かに見つめる。由来はそんな二人を優しげな笑みを浮かべて見守っていた。


 綺麗だ、と、咲希はその光景を見た瞬間思った。

 部屋に入ると、咲希は引き寄せられるようにして窓の外を眺めていた。その瞬間目に飛び込んだのは、駅から出たときに見た景色と同じ、薄いピンク色だった。ただ一つ異なるのは、一本の大きな桜の木を中心にして円を描くようにその周りにだけ、他の桜の木が生えていなかったことだ。

 一見他の木々から仲間外れにされたように見えるが、その大きさから、まるでその桜の木がこの町の主で、他の木々を中心で支えているような、見守っているような、そんな風にも見える。それほどまでに咲希にはその木の存在が大きく、偉大に見えたのだ。

 風が咲希の頬を撫でる。その風は桜の木も撫でていき、枝が揺れるのと同時にざわざわと言う音が咲希の耳に届く。まるで桜の木と同化したような、ありもしないそんな錯覚を感じるくらい、咲希はその木に見惚れていた。


 咲希がその桜の木に見惚れて、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。


 冷たい風に頬を撫でられて初めて、咲希は自分がずっとその木を見つめていたことに気が付いた。青かった空はいつの間にか、オレンジ色から朱色、紫色、そして黒色へとグラデーションを描いている。咲希が視線を感じて横を向くと、自分を見ている温かな笑顔が目に入り、一瞬にして頬を林檎のように赤く染めた。

「み、見て、たん……です、か」

 真っ赤な顔で口をパクパクとさせながら言う咲希はまるで縁日の金魚のようだ。そんな風に思いながら、朔矢はより笑みを深める。それを肯定を受け取った咲希の頬は、さらに赤くなる。

「見てたなら言ってくださいよ! 時間無駄になっちゃうじゃないですか!」

 照れているのを隠すために咲希が大きな声で言うと、朔矢はカラカラと笑い出した。わけが分からず、咲希は戸惑ってしまう。

「な、なんで笑うんですか……」

「いや、ずっと見てて気持ち悪いとか、そういう拒絶系の言葉が来るかな、と思ってたら、時間の心配だからさ。可笑しくて」

 言われて初めて、自分が他人を拒絶しない言い方になっていたことに、咲希は気が付いた。

 不意をつかれたのだ、仕方ない。そう心の中で呟いて納得し、窓際から離れる。パサリと音を立て、支えを失ったカーテンが窓を隠す。

「……気持ち悪いって言われたいんですか」

 いつもの無愛想な表情に戻し、咲希が言うと、違う違う、と朔矢はさらに笑う。

「嬉しかったんだよ」

 なにが嬉しいのか。咲希にはよく分からなかったが、別にそれを訊く必要もないと思い、咲希は朔矢に背中を向ける。そのときになってようやく、由来がいないことに気が付いた。

「由来さんは夕飯を作りに言ったよ。そろそろできあがってるんじゃないかな」

 朔矢に言われて咲希は手伝おうと思い、部屋のドアを開けた。するとふわりとカレーの匂いが鼻をくすぐる。そして、階段を上ってくる足音がして、由来が姿を現した。部屋から出てきていた咲希を見て由来は一瞬驚いたが、すぐに目を細めて微笑んだ。

「ご飯ができたから呼びに来たんだけど、どうかな?」

「あ……はい」

 無理矢理にとは言え、これからお世話になるというのに、ご飯を作る手伝いもせず、咲希は申し訳なく思った。

「じゃあ、僕は帰ります。由来さん、くれぐれも変なことはやらないでくださいね」

「やだなあ、朔矢君たら。大丈夫だよ、信じなさいって」

「その大丈夫が一番信じられないんです」

 朔矢はそう言うと、咲希に軽く手を振り、階段を降りていく。少ししてドアが開いて閉じる音がした。由来は腰に手を当てて、やれやれと鼻から息を吐き出す。

「じゃあ、一緒に食べよっか。早くしないとせっかくのカレーが冷めちゃうよ」

 由来は咲希の手を掴むと階段を降り始める。その速度は早くも遅くもなく、恐らくは咲希を気遣っている速さなのだと気付き、咲希はそっと、繋がれた手から目をそらした。



🌸



 夕飯を食べ終え、入浴も済ませた咲希は、再び自分の部屋へと戻ってきていた。鞄から着替えを取り出し、明日着る予定の服を横に避けて衣装棚へと移す。その作業が終わると、咲希は入浴前に部屋に運んだ敷き布団を部屋の中央に敷いた。

 ひとしきりの作業を終えると、また桜の木を見るために窓に近づく。カーテンを横に寄せ、静かに窓を開けた。フワッと温かいような、でも少し冷たいような春の夜風が彼女の頬を撫でていった。その風が心地よくて目を細める。だが、大きなあの桜の木を見た途端、咲希は細めた目を大きく見開いた。


 桜の木の下では、一人の少女が桜の花びらたちと共に踊っていた。


 肌の白さと髪の毛の薄墨色は、そのか細い身体と相まって触れれば消えてしまいそうな少女の儚さを際立てている。前髪は線を描くようにまっすぐに切りそろえられており、丸い髪飾りによって後ろの髪は顎よりも低い位置で二つにまとめられている。彼女の動きに合わせてサラサラと動くそれは、きっと細くて柔らかいだろう。薄桃色の着物に身を包んだ少女は、錆浅葱色の帯を締めていた。

 少女はトンットンッと軽やかにステップを踏みながらクルクルと回っている。それを追いかけるようにして、桜の花びらたちも回る。時折少女がすっと透き通るように白くてほっそりとした腕をまっすぐに伸ばせば、桜の花びらたちはその腕に、手に、指に絡む。暗闇にぽうっと浮かぶ少女の舞はとても幻想的で、咲希は息をするのも忘れて見入っていた。


 ふと咲希は風が止んでいることに気が付いた。あれだけ桜の花びらが舞っているのに、だ。

 そしてさらに咲希は気が付いた。これだけの桜の木がある町。普通なら、その周りは風などに揺られて落ちてしまった桜の花びらで埋まっているのではないか、と。もしも毎日その花びらを掃いている親切な人がいたとしても、覆うまではいかなくとも数枚は落ちているはずだ。だが、この町には一枚も花びらは落ちていなかった。今もそうだ。相当な数の花びらが彼女の周りを泳いでいるというのに、ただの一枚も地面に落ちてはいない。

 突然、なんの前触れもなしに少女は止まった。同時に桜の花びらたちも空中で止まる。そしてゆっくりと少女が振り返り、こちらを見上げ――目が、合った。

「――っ!」

 咲希は悲鳴をなんとか飲み込んで、勢いよく窓を閉じた。早く大きく鳴る心臓の音がうるさい。肩で息をするこの呼吸の音も、今の咲希には不愉快でたまらなかった。

「なにか、あったのかい?」

「!」

 いきなり声をかけられて心臓が飛び出るような思いをしながら慌てて振り向くと、そこには由来の姿があった。壁にもたれかかって、心配そうに咲希を伺っている。

「なんでも、ないです」

「そうかい? ……顔色がだいぶ悪いように見えるけど」

 言いながら由来は咲希に近づく。だが咲希は、由来から身体ごと顔をそらしてそれを拒否した。

「そんなことないです」

 由来がため息を吐くのが、咲希に聞こえた。

「咲希ちゃん。私のことは拒否しなくても大丈夫だよ。電話で言っただろう? 私も同じなんだって」

「……」

 同じだ、と言われてしまうと、どう返していいのか分からずに咲希は黙ってしまう。電話で話していたときは、同じ者同士で話せることもあるのではないか、と咲希は思っていたが、それでもやはり一歩も踏み出せずにいた。そんな咲希を見て由来は再びため息を吐く。その表情が切なげな、でもどこか懐かしむようなものだということに、背を向けている咲希も、本人である由来自身も気付いてはいなかった。

「今すぐに、は無理かもしれない。だけど私は、もしも私のことを咲希ちゃんが忘れてしまっても、恨みはしないよ。……ちょっぴり悲しいかもだけどね」

「……まだそんなに一緒にいないじゃないですか」

「……そうだね」

「それに――」

 咲希は由来の方を向いた。強くて鋭い、だけど孤独が見え隠れする拒絶の眼差しで由来を貫く。

「それに、そんな気持ちになるって分かっているのなら、私のことを構わないでください」

 言ってすぐ、咲希は後悔した。

「すみません。気遣ってくれてるのは分かってるんです。泊めてもらってるのに言う言葉でもなかったです。本当に、すみません……」

「生きている人が亡くなったヒトを思って悲しむように、亡くなったヒトも生きている人を思って悲しむことだってあるんだよ。それどころか、申し訳ない、と思っているヒトもいる」

 その原因が、自分になかったとしてもね、と由来は呟くように付け足す。話の意図が見えず、咲希は首を傾げた。

「ま、近いうちにいろいろ分かるようになるさ。だから今日はもう寝なさいな」

 由来はそう言い残して、部屋から去っていった。咲希はその方向をしばらくじっと見ていたが、やがて一つ息を吐くと、ドアを閉めて布団の中に潜った。

 頭の中がゴチャゴチャしていて眠れるか不安だったが、初めての長旅のせいか、咲希はすぐに寝息を立てていた。

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