零日目。

 咲希の頬を、温かな風に押し上げられたカーテンが撫でていく。太陽の光が、アルバムの真っ白なページに反射する。それを見て眩しそうに目を細めた咲希は、そっとアルバムを閉じた。裏表紙には桜が描かれており、花びらが風に舞うように散っていた。

 気持ちのいい昼下がり。咲希はなにをするでもなく、中学の制服を着たまま、壁にもたれてボーッとしていた。下の階から電話の音が聞こえる。数秒してその音が切れて、もしもし、という咲希の母の声に変わる。しばらくしてその声もしなくなると、階段を上がってくる足音がだんだんと大きくなってきた。

 足音は、彼女の部屋の前で止まる。

「入るわよ」

 ドア越しの母の声。

「ん」

 ドアが開き、母が部屋に入ってきた。そして電話の子機をグイッと咲希に押しつける。保留にしてあるのか、可愛らしくアレンジされたクラシックが、軽やかに子機から流れてきた。

「なに」

 面倒くさそうに、咲希は母を見上げる。

「姉さん……由来伯母さんから、あんたに電話」

 母の口からその名前が出たことに、咲希は目を丸くする。

 咲希の母の姉であり、咲希にとっては伯母に当たる由来は、高校卒業後、どこか遠くの地方へ行き、一人暮らしをしているのだという。妙なのは誰も由来の住所や電話番号などを知らず、親族全員が集まるようなときも由来が来ることはなく、そしてそれに対し、誰も怒ることも心配することもない、というところだ。

 もちろんそんなわけだから、咲希は由来に会ったことはない。そんな人から突然の電話だ。驚かないはずがない。

「でも私――」

「電話だけで良いから」

 拒否しようとした咲希に、母はさらに子機を押しつける。咲希はため息を吐き、渋々それを受け取った。そして深呼吸を数回繰り返してから、保留を解除し、子機を左耳に当てる。

「……もしもし。遅くなって済みません、咲希です」

 息を飲む音が、受話器越しにかすかに聞こえた。

「もしもし、初めまして。君の伯母の由来です。まずは電話に出てくれてありがとう。出てくれないんじゃないかって冷や冷やしてたよ」

 一度出たくないという意思表示を母にしてしまったため、咲希は否定できずに苦笑する。

「すみません」

「いや、いいんだよ。私もそうだったから」

「え?」

 私も、とはどういうことなのだろう。咲希はそう疑問に思った。

「ああ、そうそう。中学卒業、おめでとう」

 だが、無理矢理話をそらされる。しょうがないので咲希は、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 受話器から、コホン、と咳払いの音がする。

「で、ここからが本題なんだけど……。咲希ちゃん、春休みの間、私の家に泊まりに来ないかい?」

「……は?」

 予想外の言葉に咲希は思わず間の抜けた返事をしてしまう。数秒して頭がそれを理解すると、咲希は嫌だ、と大声で言いたいのをなんとか飲み込んで、深呼吸をした。

「お誘いありがとうございます。でもごめんなさい。私――」

「君がそうやって人との出会いを拒否する理由、私は知っているよ」

 急に低くなった声で告げられた言葉に、咲希の心臓はドクリと音を鳴らす。

「……どういう意味ですか」

「さっきも言っただろう? 私もそうだったって。私も君と同じ、忘れたくなくても忘れてしまう人間だから」

 ここまで言われれば、《なにを》忘れるのか、言われなくても分かってしまう。

 咲希は母を疑った。咲希に友人がいないことを憂いた母が、自分の姉に頼んで友人を作らせようとしているのではないか、と。

「母になにか言われたんですか?」

「いや、なにも」

 だが咲希の疑いは違ったらしく、由来に否定される。

「強いて言うなら、君が私と違って、不登校になることなく無事に中学を卒業したから、祝ってやってくれって言われたかな。いや凄いよ、君は。私は本当に無理になっちゃってねえ。小学校の頃からずっと不登校だったんだ。だから純粋に、君を尊敬するよ」

 由来の声は温かく、嘘を言っているようには聞こえない。

 咲希は由来に興味を持った。もしも由来の言っていることが本当なら、忘れてしまう者同士、いろんなことが話せるのではないか、と。そして、もしも相手が死んでしまったとしても、咲希が忘れてしまう、ということを知っていてくれるのなら、少し気が軽いのではないか、と。我ながら最低だ、とと心の中で自分を笑いながら咲希は口を開いた。

「分かりました。私、あなたの家に泊まりに行きます」

 由来は嬉しそうに、ありがとう、と言った。そしていきなりで悪いけど、と断りを入れてから、明日から来てほしいと言うことと、実はもう電車の切符を母に預けてあるのだ、と言うことを咲希に伝え、電話は切れた。



🌸



 刺すような寒い風が吹く夜。少しだけ欠けた月がこちらを見て輝いている。

 すすり泣く音。泣きわめく声。

 そんな中、幼い彼女は感情の読めない表情で、その場に立っていた。そして静かに、その光景をじっと見ている。見知った友人たちが、見知らぬ人の顔写真、遺影を見て泣いている姿を、ただじっと。

「咲希ちゃんは悲しくないの?」

 白兎のように真っ赤な目をした幼い少女が、彼女に訝しげに話しかけてくる。彼女は少女の方を見て、ゆっくりと首を傾げた。

「どうして悲しいの?」

 少女は、えっ、と声を漏らして固まってしまう。ただ純粋な疑問だった。だから彼女には、なんで少女が固まったのか分からなかった。

「どうしてみんな泣いてるの? ……あの写真の子は、誰?」

 彼女の問いかけに、少女の潤んだ目がまん丸に見開かれる。

「咲希ちゃん、なに言ってるの……? よく一緒に遊んでたよね?」

 そう言われて彼女は気が付いた。自分の記憶が、だいぶ抜け落ちていることに。

「咲希ちゃん、最低だよ……。こんなときにそんな嘘言うなんて」

「嘘じゃな――」

「嘘吐き! 最低! ずっと友達だと思ってたあの子が可哀想だよ!」

 どうして記憶がないのか分からない。彼女は混乱しながらも、少女にそのことを伝えようとする。だが、返ってきたのは冷たい言葉と鋭い眼差しだった。

「ねえ、聞いて――」

 彼女は去ろうとする少女を止めようと手を伸ばす。だがその手は、彼女を拒否するように勢いよくはねのけられた。

「近づかないで! 裏切り者!」

 少女の言葉に動けなくなった彼女を置いて、少女は走り去っていった。


 それからずっと、彼女は幼稚園でも、学校でも独りぼっちだった。一度、住んでいる家はそのまま、学校だけ転校したこともあったが、やはり彼女は独りのままだった。

 周囲が彼女を避けていたこともあるし、彼女自身が周囲を寄せ付けなかったからでもある。

 彼女は死んでしまった人を忘れてしまう。どれだけ仲がよくても、どれだけ一緒にいたとしても。

 彼女は怖かった。もしも死者に心があったら。死んだあともどこかで見守っていたりするのなら。怒っていないだろうか。恨んでいないだろうか。……悲しんでいないだろうか。

 そんな思いが彼女を縛り、他人と関わることができなくなっていき、気付いたときには彼女が話せる相手はもう、彼女のことをよく知る家族しかいなかった。

 彼女の持つ、まるで蔦のような思いは、彼女を縛り付けるだけでなく、他者を拒む巨大な壁となっていたのだ。よく泣き、よく笑った彼女はもういない。そんな彼女は巨大な壁に飲み込まれてしまった。今存在しているのは、暗い瞳を持つ彼女のみ。


 それが彼女、櫻木咲希という人間だった。

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