さくらのまち

奔埜しおり

数年前。

 陽のよく当たる部屋。開いた窓から入ってくる風は温かく、ふんわりとした桜の香りを運んでくる。


 部屋の中には少女と、青年がいた。


 少女は椅子に座り、必死の形相でノートになにかを書き込んでいる。近くには数学の教科書が開いた状態で置かれていた。少女のすぐ斜め後ろに立っている青年は、そんな少女を優しげな瞳で見つめている。しばらくして少女はノートに書き込む手を止めると、そのまま机に突っ伏した。

「で、できた……」

「お疲れ様」

 青年が少女の頭を右手でポンポンと撫でる。その撫でている右手からは、優しさが滲み出ていた。だが少女は不満げに頬を膨らめると、すっと青年を見上げた。

「私、子供じゃないんだけど」

「僕から見れば、中学生は充分子供だから」

 青年はさらりと流して、少女の腕の下敷きになっているノートを引きずり出す。そして右手に持った赤ペンで丸付けを始めた。少女は流されたことが気に入らず、唇をとがらせる。

「そんなこと言ったって私は十三歳で、朔兄は十八歳。たかが五歳差でしょ? 中学生と高校生だし、そんなに変わらないもん」

「あのねえ。来月には中学生と大学生なの、僕ら。だいぶ違うでしょ」

 こちらをチラリとも見ずに青年は採点を続ける。その態度に少女の頬は再び膨らむ。

「違わないもん!」

「違うよ。ついでに言えば、問い三の答えも違うから」

 ムキになる少女に呆れたようなため息を吐き、青年は丸めたノートで軽く少女の頭を叩いた。パコンッと良い音が鳴る。

「いたっ」

「ほら、やり直し」

「ええーっ!」

 青年は手に持っていたノートを少女の前に置いた。叩かれたところを抑えて、少女は抗議の眼差しで青年を見上げる。が、視線に気付いた青年が少女を見ると、少女は慌てて視線をそらした。

 焦げ茶色のサラサラの髪からのぞく、優しげに少しだけ垂れた茶色い瞳。少女にとってその瞳は、幼い頃から飽きるほどに見てきたはずだった。だけど最近、目が合ってしまっただけで心臓がうるさくなって、どことなく恥ずかしくなってしまい、少女は目をそらしてしまうのだ。

 青年は何故目をそらされたのか分からずキョトンとしていたが、少女の頬がほんのり色づいていることに気が付いて、ニヤリと笑った。

「なに」

「なんでもない」

「なんでもないことないでしょ」

「なんでもないったらないもん!」

 コンコン、とドアを叩く音に、二人は言い合いをやめて、ドアの方を見る。

「朔矢君。お茶持ってきたんだけど、どうかしら?」

 向こう側からドア越しに、少女の母親の声がした。少女は休憩ができる、と一瞬嬉しそうにしたが、またすぐに不機嫌になる。というのも、少女の母親は口から先に生まれたのかと思うくらい、おしゃべりが大好きなのだ。この間も青年が少女に勉強を教えているところに来たと思ったら、一時間近く青年とばかり話していた。少女としては、自分の母親に青年を独占されたようで面白くない。だが青年は、自分を独占する母に少女が嫉妬しているのがおかしくてクスリと笑う。

「ありがとうございます。いただきます」

 ドアがガチャリと開き、少女の母親が笑顔で入ってくる。右手に持ったお盆には、二つのグラスが載っている。

「おじゃましてます」

 お辞儀しながら言う青年に、母はグラスを机の上に置きながら、いいのよぉと返す。その声はとてもご機嫌だ。少女が顔をしかめたが、母は気にせずに続ける。

「毎日毎日ごめんなさいねぇ。大変でしょう」

「いえ、そんなことないですよ」

 愛想のいい笑顔を浮かべて言う青年に、あらそう? とどこか楽しげに返す母。そんな母を見て、少女はますます顔をしかめる。

「ねえお母さん。用が済んだなら早く部屋から出てってよ」

 苛立っている少女の声に、母は苦笑いを浮かべながら肩をすくめて立ち上がる。そしてそのまま出て行こうとするが、ふとなにかに気が付いたように少女を振り向いてニヤリと笑った。

「私はすっかりお邪魔になっちゃったかしら?」

「はあ?」

 唐突な母の言葉に、少女は意味が分からない、と眉間にしわを寄せる。だがそれは、母の笑みをよけいに深くさせるだけだった。

「そうよねえ。昔から朔矢君にべったりだったものねえ。私は朔兄のお嫁さんになる! とか言って――」

「それは昔の話でしょ! もう、あっち行ってったら!」

 少女は素早く立ち上がるとグイグイと母の背中を押して部屋から出そうとする。その顔は分かりやすいくらい真っ赤だった。

「はいはい。あんまり朔矢君を困らせるんじゃないわよ」

「分かってるから!」

 ケラケラと笑いながら母が部屋から出ていくと、少女は机に戻ってきてグラスを手に取り、勢いよく麦茶を飲んだ。

「おばさん、いつもどおりにぎやかだね」

「にぎやかすぎだよ、ほんとにもう……」

 大きくため息を吐く少女。なんとか冷静になろうとしているその仕草が可愛らしく思えたのか、青年は少女に気付かれないように小さく微笑んだ。

「そういえば朔兄。予備校は?」

 少女がチラリと時計を見上げる。青年もつられて時計に視線を向けた。時計は午後三時十分を指している。カチ、カチ、と長い針と短い針の間を他の針が規則正しく時を刻んでいく。少女は青年に視線を移す。優しげな茶色い瞳は、なにかを考えるようにじっと時計を見つめている。そんな青年の横顔を見、少女はこれからしようとしていることを思うと、気持ちが落ち着かなくなってそわそわし始める。少女の視線に気付いたのか、それともそんな少女の動きが気になったのか、青年は視線を少女に戻して首を傾げた。

「あるけど……。どうしたの?」

「ええと……時間は大丈夫?」

 少女は俯いてから、そっと上目遣いに青年を見上げる。肩まで伸びた綺麗な黒髪の隙間から見える少女の耳が、普段の白さからは想像できないほど紅く染まっている。

 そんな少女を見て、まさか、という期待が青年の胸の中に、早くなっていく鼓動の音と共に湧き始める。

「あと、五分くらいなら、大丈夫、だけど」

 青年の言葉に少女はパッと顔を上げて、すがるような瞳で青年を見つめた。その頬は、耳と同じか、それ以上に紅かった。青年の期待が、確信に変わる。

「あの、さ。私……」

 少女は必死で自分の思いにぴったりの言葉を探しながら、口にする。

「うん?」

 青年はその先に続く言葉を予想しながら、優しく促す。少女が自分を落ち着けるために、深呼吸をした。

「私、朔兄のことが――」

 少女が自分の思いを口にしようとしたときだった。青年のズボンのポケットから、軽快な音楽が流れたのは。二人の間にあった空気が、一瞬にして止まる。

「あ……」

 青年は気まずそうな顔で少女を見る。少女は一瞬固まってから、椅子ごとそっぽを向いてしまった。音楽は青年を呼ぶように流れ続ける。

「いや、その……」

「早く出た方がいいと思うよ。電話でしょ?」

 少女はそっぽを向いたまま、冷たく聞こえるように答えた。そうしないと、感情的になってしまいそうだったからだ。青年はそれを察し、ごめんと一言謝ってから、まだ鳴り続けている携帯を手に、部屋の外から出て行った。気を使ったのか、ドアは静かに閉められた。

 少女はそれを背中越しに感じてから、ドアの方へ身体を向けた。ドアの向こう側から、電話の相手と話している青年の声が、くぐもって聞こえてくる。少女はじっとドアの方を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、椅子の上で両足を抱き、その間に顔を載せた。


 今日、もしもタイミングがあったら想いを伝えよう。そう、少女は朝起きたときから決めていた。青年が言ったとおり、来月から青年は大学生になる。それと同時に今通っている予備校でバイトを始める予定らしい。つまり、来月から少女が青年に会える回数が、今までよりも極端に減ってしまう、ということだ。そしてそれは同時に、青年の世界が今までよりもずっと広がることを意味している。もちろん、その広がった世界の中には、少女の知らない女性もたくさんいるはずだ。

 少女が普通の女の子であるならば、きっと青年のバイト先になる予備校へ入校するだろう。そして、今までどおり彼に教えを乞うていたかもしれない。だが少女にとってそれは、とてもハードルの高い行為であった。人と触れ合うことは、恐怖以外のなにものでもないのだ。

 青年はそれを知っていて、あえて予備校のバイトをすることを決めていた。もちろん自分の将来の為でもあるのだが、自分がバイトをすることによって、少女がなんとか人と触れ合える空間を作ろうとしていたのだ。自分がいれば、少女は外の空間に入ることができるのではないか、と。結局その思いは少女に伝わっていなかったわけだが。


 ガチャッと音がしてドアが開く。少女が顔を上げると、青年が申し訳なさそうな顔をして部屋に入ってきた。

「ごめん。ちょっと友人に呼ばれて、すぐに出ることになった」

「そう……。じゃあ、また明日、言うね」

 少女が微笑む。それを見て、青年は安心したように笑った。

「それじゃ、また明日」

「うん」

 青年はバックを肩に掛けると、少女に手を振って、部屋から出ていった。少女は青年に手を振りながら、ドアが閉まるのをじっと待つ。ドアが閉まったのを確認すると、少女は静かに耳を澄ませた。

 階段を下りる足音。青年が母に挨拶する声。そして――玄関のドアを開けて、閉める音。

 少しの間を空けて少女は立ち上がり、開いている窓から外を見下ろす。そこには予備校へと急いで自転車をこぐ青年の姿があった。


 いつからだったのだろう。少女が青年のことを、兄のような幼馴染から、特別な異性として見るようになったのは。呼び方こそ昔から変わっていないが、いつの日からか本人のいないところで、ポツリと青年の名前を呟いてみては頬を赤らめるようになっていた。

 とある事情から、人との関わりを極端に避けるようになった少女にとって、それこそ赤ん坊の頃から一緒にいた青年は、家族を除いてただ一人、人としての関係を築ける相手だった。

「……朔矢」

 ポツリと呟いて、少女は顔に集まってくる熱を払うように、首を振る。


 明日もし想いを伝えたら、関係はどう変わるのだろうか。

 より近づくのか、何も変わらないのか、それとも……離れてしまうのか。

 徐々に小さくなっていく青年を見送りながら、そんなことを少女は考えていた。そして青年が曲がり角を曲がったのを見届けてから、そっと窓を閉じてそこから離れた。


 そのときだった。なにかの音が聞こえた気がした。悲鳴も。

 同時に重くて嫌な頭痛と耳鳴りが少女に襲いかかり、少女の視界がグニャリと歪む。とてもじゃないが立っていられず、少女はその場にしゃがみ込んだ。


 なにか大切なものが、スーッと消えていくような感覚に、少女は一つ、確信した。

 誰かが、亡くなったのだ、と。


 外でチャイムの音が鳴った。母がドアを開ける音がする。その数秒後、ドアを閉める激しい音が響く。階段を駆け上がる大きな音がして、すさまじい勢いで少女の部屋のドアが開かれた。

 少女が驚いて顔を上げると、母は肩で息をしながら口をぱくぱくと開閉した。なにか言いたいのに、なんと言えばいいのか分からない。そんな感じだった。少しして母はやっと言葉を声にした。とてもか細い声だった。

「朔矢君が、車に跳ねられたの……」

 母はすがるような瞳で少女を見つめる。その意味が、母の期待していることが、少女には分かっていた。だが、少女はその期待に添うことができなかった。

 申し訳なさそうに少女は母から目をそらし、静かに、けれどはっきりとした口調で告げた。


「ごめん、お母さん。私、その……朔矢って言う人、知らない」


 少女の言葉に、母はその場に泣き崩れた。

 まるでそれは、涙を流せない少女の分まで泣いているようだった。

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