第4話:彼方の音

 学生服を汗でぐしょぐしょに濡らした生徒が始業式に出席するのはいくらなんでも衛生的によろしくないだろう、と僕は思った。

 そしてそれは教師の立場である花松先生としても同じ気持ちだった。

 そういうわけで、僕が幽霊から逃げおおせた後、花松先生はカナに教室へ戻るように指示し、それから僕を連れて一階の保健室へと向かった(先生は途中で職員室に寄って、教頭先生と保健の先生に事情を説明してから、保健室の鍵をもらっていた)。

 鍵を開けて保健室に入るやいなや、先生はベッドの方を見て「さすがに初日から寝込んでる子はいないわね」と呟く。

 それを見て花松先生に対する僕の評価がまた一段階下がる。ボケるほど歳を取っているようにも見えないけれど……。

 保健室は消毒液の匂いがした。それは僕にとって、皮肉にもいくらか親しみを感じることのできる匂いだった。

 先生はすぐさまプラスチックのチェストを漁り始める。

「着替えはMサイズでいいのかしら」

「はい」

 僕はそこにあった椅子に腰を掛ける。

 保健室の外から大勢の人のざわめきが聞こえた。そろそろ始業式が始まるのだろう。それで彼らは体育館のある一階へと集まってきたのだ。

「よいっしょ」

 先生はチェストから取り出したジャージ上下とパンツとタオルを机に置く。

「それじゃあ、タオルでよく拭いてから着替えてね。そこに制汗スプレーもあるみたいだし、それなりになんとかなるでしょう」

 先生の視線の先には確かに制汗スプレーが置いてある。

「助かります」

「いえいえ。早く着替えて、始業式に参加しないとね」

「はい」 

 それから先生はしばらく微笑みを投げかけ続ける。

「あの、着替えたいんですけど……」

 僕の言葉に先生はハッとして顔を赤らめる。

「そっ、そうよね。見られてたら着替えられないものね」

 先生はあたふたと苦し紛れにベッドに腰を掛けると、カーテンを引き、それで視界を塞いだ。

「これで大丈夫かしら」

 これでよく先生になれたな、と僕は呆れる。

「まあ、先生がそれでいいなら構いませんけど」

 学生服を脱ぎ、ワイシャツを脱ぐ。

 安堵とともに思考が急速に逆流し、やがて幽霊の幻影が脳裏に映し出される。

「花松先生」考えるよりも先に声が出る。

「なぁに?」

 僕は言葉に詰まる。

 ためらうな。これは一度きりの話じゃない。あそこは箱の候補地なのだ。

「被服室で、誰か死んだりしました?」

 虚をつかれたのか、先生は思考をイチから組み上げていく。

「それは、実際的な意味で、あそこで命が失われたかどうかってこと?」

「ええ、自殺とか、いじめとか……」

 また少し間が開く。先生の返答を待ちながら、僕はタオルで汗を拭った。

「私はここに着任して今年で六年目なんだけど、そういった類の話は聞いたことがないわね」カーテンの向こうで、花松先生は足を組む。「どうしてそんなことを聞くの?」

 別に隠すことでもないか、と僕は思う。頭のおかしい生徒だと思われるかもしれないが、同年代の多数派に溶け込めていない時点で元々どこかおかしいのだ。

「さっきあの部屋で幽霊を見たんです。銀色の髪で顔を隠していて、服は白のワンピース。ポルターガイストが起きましたし、テレパシーも使いました。瘴気のようなもので頭痛と吐き気も……。それで今こうして汗だくなんです」

「ふぅん……」先生の思考は宙を漂う。「テレパシーでは、なんて言ってたのかな」

「『お前の望むものを与えてやろう』みたいなことを言ってました」

「幽霊が?」

「はい」

「それはまた随分と権限のある幽霊なのね。まるで神様みたい」

「まさか。あんな不吉な神様、大衆に好かれるはずがないですよ」僕は体に制汗スプレーを多めに吹きかけてから、ジャージを着る。体の匂いを嗅ぎ、消臭効果を確認する。「終わりましたよ、先生」

「そう? じゃあ開けるわね」先生はカーテンを開き、ジャージの具合を確認する。「うん、ピッタリね。それじゃあ私達も体育館に行きましょうか」

「はい」

 そうして僕たちは保健室を出る。

 先生が保健室に鍵を掛けるところを見計らい、僕は話し始める。

「先生、僕トイレに行きますから、先に行っててください」

「あら、そう? じゃあ幽霊に気を付けてね」

 体育館の方へと消えていく先生を見送ると、僕は踵を返す。トイレを通り過ぎ、無人の校内の散歩を始める。

 

 馬鹿デカい隙間に一人きり。あぁ、なんて少年の心をくすぐる空間なのだろう。

 体育館から漏れ出すマイクで誇張された声を振り切ろうとすれば、その足は自然と玄関の方へと向いた。

 僕はおもむろに下駄箱の前で靴を履き替え、まるでそれが当然のことであるかのように玄関を出る。

 外に出れば、春の柔らかい風がすぐさま僕の心を掴み、隅々まで癒していく。そして、きっとこちらがほんとうなのだと僕は理解する。

 ポロロン……ポロロン……。

 音が風に乗り、こちらへと伝わってくる。アコースティック・ギターの音。しかし弦は無気力なままに震え続けているよう。そこからは音楽が最低限持つべき力がまるで感じられない。その域に達さず、それはまるで粗雑な呟きのようだった。

 ポロロン……ポロロン……。

 弱々しい音は現れた途端に空気の中へと溶けてしまう。諦めるように死んでいく。それはどうしようもなく孤独を感じさせる音で、僕の心を打つ音だった。

 見つけた、と僕は思った。

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おはようカンカン @kashikomugi

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