第3話:トーコ大地に立つ!!

 幽霊はうなだれたまま窓の外をしばらく浮遊すると、やがて自分の体よりも遥かに小さな窓枠を煙のようにすり抜け、音も立てずにスーッと室内へと侵入する。

 彼女の顔を隠す銀色の髪の毛も、彼女の纏う白いワンピースも、突風の中において微動だにしなかった。

 桜の花びらが一枚一枚彼女の体をすり抜ける。足はあったが地についてはいない。

 彼女の周囲の椅子や長机が不自然に宙へと持ち上がっていく。

 恐怖のあまり絶叫が喉元で窒息する。

 ヤバいものを見ている、と僕は直感する。

 僕は四つん這いの状態からこわばる体を端々からビキビキと動かし、その場からの退却を目論んだ。

 脚は完全に麻痺していたので、かろうじて言うことを聞く手先から順に動かしていった。腕を動かし、温まった上体を起こしながら太ももよりも後ろへと手を持って行く。

(このまま腕だけで体を引き摺って行けば……)

 僕はそこに浮遊する彼女を見据えながら、帰宅部生活でなまりになまったぷよぷよの筋肉だけで逃走を図る。

 じりじりと体が動く。少しずつ幽霊との距離が開いていく。

(ドアはちゃんと開くんだろうな)

 そう思った瞬間、幽霊はびたんと鈍い音を立てて床に落ちた。

「おわあああああああ!」

 普通にびっくりして僕は叫ぶ。

 なんだそれは! いったいどんなアクションなんだ!?

 浮遊していた机と椅子が元の場所へガタガタと落ちていく。

 彼女はうつ伏せになったまま動かない。

「それは、どういうつもりだよ!?」僕は真っ白になった頭で叫ぶ。

 彼女の細い腕が動きを見せる。青白い指先が部屋の床を力強く掴む。

 四つん這いの体勢。映画か何かで見たことがある。幽霊のそれは接近の予備動作。

「うわあああああああああああああ!」

 僕は振り返りながら立ち上がって、ドアの方へと一目散に走る。手足の痺れは感じなかった。もう幽霊の存在は諦めていた。今は逃げることだけが肝要だった。

 ドアに手を掛け、力を込める。しかし予想していた通りドアは開かない。

「誰か! カナ! 助けろ!」

 僕はドアを殴る。返事はない。

 振り返れば、まだ幽霊は同じ場所から移動してはおらず、ただ立ち上がっただけのようだった。

(井戸のタイプだったか……)

 悠長なことを考えている隙に、彼女はその場から一歩こちらへと踏み出す。

 一歩、また一歩。速度はないが躊躇もない。

「おい! 誰か! 誰かいるだろ!」

 彼女の接近を逐一横目で確認しながら、僕はドアを叩き、叫ぶ。

「誰もいないはずないだろう!」

「誰もいないわ」

 不自然なまでに透き通った女性の声がした。それは耳を介してではなく、脳内に直接テレパシーのようにして伝えられているようだった。そして目の前にはちょうど超常現象を起こせそうな超常的な存在がいる。そうだ。きっとこれは幽霊の声。

「あなたを助けてくれる人は、ここにはいないわ」

「何を……?」

「諦めることね。あなたは私に身を委ねるしかないの」

 テレパシーを伝えながら、彼女はひたひたとこちらに近づく。

「やめろ、それ以上寄るな!」

「私はトーコ。あなたが求めているものを、私は与えることができるわ」

「僕は何も求めてなんかない!」

「それならなぜ、あなたはここにいるのかしら」

「お前には何も求めてない! 頼むから消えてくれ!」

「求める必要はないわ。私はただ、あなたに与えに来ただけだから」

 幽霊はいつの間にか手の届きそうなほどの距離にいた。銀色の髪の毛で顔を隠したまま、彼女はハグでも求めるかのように両手をこちらへと伸ばす。

 温かい。なぜだかわからないけれど、心を許してしまいそうになる。

 いけないいけない。きっとこれは死の温もりなんだ。彼女はあの細い指先で、僕の首を絞め上げようとしているに違いない。なんて狡猾な悪霊だろう。

「僕はまだ、死ぬわけにはいかないんだよ!」

 そう叫んだ瞬間、ドアが勢いよく開き、幽霊の姿が空気の中に溶けて消えた。


「たのもー!」

 ドアを開けたのはカナだった。

「あれ、なんでカンカンが中にいるわけ? どうやって入ったの?」

 冗談を言っているようではなさそうだった。

 部屋にもう幽霊の姿はない。散らかっていたはずの無数の桜の花びらも、綺麗さっぱり取り除かれている。

 すべて白昼夢だったのだろうか。

 僕は呼吸を整え、額の汗を拭う。

「鍵、開いてなかったか? ドア」

「ううん、閉まってたよ。だから鍵持って来たんじゃん」カナは指先でジャラジャラと鍵を遊ばせる。

 本当だろうか。カナならドアを触らないで、いきなり鍵穴を弄り始めていそうなものだが……。

 カナの背後から、家庭科の花松先生が顔を出す。長い茶髪はポニーテイルに纏められており、茶色の縁の眼鏡をかけている。目尻から人の良さが滲み出ている。

「あらあら、汗だくじゃないの」花松先生は僕の様子を確認してから、被服室に何も異常がないことを認める。それから指先で口元を隠し、少し頬を赤らめた。「やだ、もしかしてタイミング悪かったかしら……」

 思春期の男子が密室で汗だく……。たしかに只事じゃないな。

「大丈夫です。ベストタイミングでしたから」

「そ、そう?」

 花松先生は胸を撫で下ろす。どうやら少しアホの人らしい。

「どしたのハルちゃん」

 カナが怪訝そうに先生を見つめる。

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