疑い(2)

 練習はリンクの普通の営業が終わったあと、リンクを借り切って行われた。

 週に何回、何時から貸し切りが取れるかはその時々で違うらしく、夜の七時始まりならラッキーな方で、八時や九時に始まってそこから一~二時間という日もあった。そうなると終了後は終電に間に合うように駅までダッシュ。姫島先生の生徒はほとんどが女の子だったので、その子たちは夜遅くなると母親が車で迎えに来ていた。

 朝練のある日もあるらしかったけれど、遠くから通っている僕には参加できるわけもなかった。

 平日の一般営業でもかなりの子がレッスンを受けていたのだけれど、僕は一般営業にもほとんど行かなかった。学校が終わってからでは十分な時間が取れそうになかったからだ。たった数十分のために滑走料を払うのは嫌だった。

 代わりに僕は土日に通った。今はいいけれど、じきに土日は混雑して練習するには厳しくなるとみんなが言っていた。

 恵まれた練習環境とは言えなかった。


 僕にはいつの間にか、シンデレラボーイだの逆源氏物語だの、妙なあだ名が付けられた。


 駅までの道で姫島門下の女子たちの後ろを歩くことになったことがあった。向こうは僕が後ろにいることに気がついていなかった。「ダンスって、コース読めなくない?」と一人が不満そうにらした。同じように貸し切りに入っている者同士でも、その瞬間先生の指導を受けている生徒がいたらそのコースを邪魔しないように動くのがレッスンのマナーだった。しかしシングルとダンスではコースの傾向が随分違うらしく、予測して避けるのが難しいらしかった。「私なんか、今日先生に三回もにらまれちゃった」と別の一人がなげくように同意した。姫島先生についている生徒の中で、アイスダンスに取り組んでいるのは僕たち一組だけだった。明らかに迷惑がられていることが分かった。


 女子の多さにひきかえ、男子生徒は僕が見た感じでは三人しかいなかった。同じリンクには他に二人先生がいたけれど、どこも同じように女の子だらけだった。モミの木には男性スケーターもかなりいたので最初はかなり驚いた。三人のうちの一人は数歳年上で、相当上手いように見えた。あまり練習に出て来ないので、その人には滅多に会うことがなかった。あとの二人は多分同い年くらいと、少し下くらい。ダブルがほとんど跳べていて、トリプルの練習に入っていた。

 ある日、貸し切りが始まる前にその二人の横のベンチが空いていた。女子の隣より、彼らの隣に座りたかった。僕はそこに荷物を置いた。彼らの方から先に話しかけてきた。

「シングルはやらないの?」

 彼は陸上で軸をとったり、開いたりしながらそう言った。

 僕はシングルをやめたつもりはなかった。といっても、習っていたわけではないので、やめるとかやめないとかそういうことを考えたことは特になかった。しばらくはアイスダンスで手一杯な感じはしていたけれども、彼らとそういう話ができるのは大歓迎だった。知識をつけて、いずれはモミの木に帰って難易度の高い技に挑戦したいと漠然ばくぜんと考えていた。

「こいつにシングルの話すんなって」

 僕が返事をする前に、もう一人の少年が僕たちの会話を制止した。

「まずいって。こいつは買われて来てるんだから」

「そんな。買われるなんて、奴隷みたいな」

「奴隷じゃないだろ……」

 そこまで言うと、二人は示し合わせたように笑いだした。と思うと、突然真面目な顔になってリンクに向かった。

「さ、入ろ」

 そう言って足早にその場を去った。振り返ると、準備を終えた陽向さんがリンクに入ろうとこちらに近づいているところだった。

 当分仲良くなれそうにないと思った。と同時に、ここでシングルの話を浮かれてしている立場ではないと僕自身もこの時初めて気がついた。僕は初めに聞いていた通り、ダンスに必要な貸し切り代と先生のレッスン料を全て彼女に負担してもらっていた。


 そして肝心のアイスダンスの練習自身、気持ちのいいものではなかった。

 以前から先生についている陽向さんはすでに練習したい何かがあるようで、僕とは別にいつも何かを練習していた。

 僕の練習は、かなり些細ささいなことを指摘されることから始まった。コンパルソリーの時と同じように滑っている時の様子を見られては、蹴ったあとの足をきれいに伸ばせだの、腕を肩の高さまで上げろだの、それでいて肩は上げるなだの、僕にとってはどうでもよいことばかりを指導された。

 そんな表面的なことよりも、もっと滑りが上達するようなことを早く教えて欲しかった。しかしそういった点が改善されないと、いざパートナーと滑るようになった時、すぐ横を並んで滑るパートナーを蹴ってしまう恐れがあるのだと言われた。

 陽向さんのような女の子を蹴ってこけさせたりしては絶対にまずい。真面目にやらないわけにはいかなかった。

 そうなると例えば足の伸ばし方だけにしても気を配ることが山盛りで、まだ組んでもいない段階の一人で滑るだけの練習から、僕は考え難いほど疲労困憊ひろうこんぱいさせられた。


 最も辟易へきえきしたのが、ダンスのパターンを覚えなくてはならないということだった。

 アイスダンスにはパターンダンスといって、なんとかワルツとかなんとかタンゴと言われたら、リンクのこの部分をこういうステップでこのテンポで滑れというのが決まっているものがある。僕は別に踊りたくて先生の所に来たわけではなかったけれど、選手としてやっていくことが条件である以上、これらを覚えないわけにはいかなかった。

 パターンダンスは試合の課題の一つでもあるようで、年によりどのダンスが課題になるかは変わるらしかった。陽向さんは今年の課題のヴィニーズワルツをやりたいと言ったのに、先生は僕にはまだ無理だと言ってあっさりそれを却下した。僕にはそのセンスが分からなかった。ダンスをやりたがっている張本人がやりたいというのなら、難度問わずその課題に取り組むべきなんじゃないかと思った。どれだけ難しくても頑張ってみるべきだし、頑張れば意外となんとかなったりするものだ。最初に会った時、僕に死ぬ気で頑張れとか言っていたわりに、案外この先生は甘いのかも知れないと内心思った。


 しかしそんな僕の思いには関係なく、結局僕は三十あるパターンダンスのうち、簡単なものから順にいくつか練習させられることになった。ダンスをやりたいと言っているわりに陽向さんはそんなレベルのダンスにはとっくに興味がないらしく、これも僕一人での単独練習だった。

 先生に見本で滑ってもらいながら、右、左、スイングロール、ラン、シャッセ……と、ステップを唱えつつ後を追う。かなり単純で簡単なものにしか見えなかった。それもそのはず、入門レベルのパターンダンスは試合にも使われないようなプログラムなんだそうだ。試合に必要もないようなパターンを覚えるなんて、無駄な作業をやらされているとしか思えなかった。


 僕はいっそ難しくてもいいからヴィニーズワルツをさせてくれと言いたかった。僕にはダンスのレパートリーを増やしたいなんて気持ちは更々はない。何曲も何曲も、無駄なものを覚えるなんて。

 しかも簡単に見えるくせに、覚えるとなるとこれが重労働だった。一周分のプログラムが決まっているのだけれども、一周回ってくるころには最初のステップが思い出せなくなっていた。次の曲に入ったら、前の曲を忘れていた……。

 文字通り頭の痛くなる作業だった。



 練習が始まってから数日経ったある日のリンクで、僕は誰にともなくつぶやいた。

「こんな練習をしていて、本当に上手くなれるんだろうか」

 図形が上手く描けるようになっても、姿勢が良くなっても、ダンスのパターンを覚えても、何の意味もない。くだらないことに神経と労力を使うばかりで、肝心のスケートが上手くなる要素を感じなかった。

 僕のつぶやきが聞こえたのか、先生は冷たく言った。

「やる気がないのであれば、いつやめていただいても結構よ」

 そう言われたからといって、ここまで来てやめるわけにはいかなかった。親にも理子さんにも面子めんつが立たない。この先生の元で上達できるかどうか、しばらく黙って様子を見るしかない。

 そう懐疑的かいぎてきだった僕を、先生の続けた言葉が捕らえた。

「でもね、アイスダンスってのは上手くなければ出来ないものよ。大して上手くない子でも、シングルでなら上位に行けることもある。ジャンプさえ跳べればね。でも、アイスダンスをやれるのは本当の意味でスケートの上手い子だけよ」


 その時、陽向さんがすぐそばを通過した。ちらっと鋭い視線を向けられ、笑いかけられた気がした。彼女に僕たちの会話が聞き取れるはずはなかった。だけど僕は何かを言われたような気がして、彼女を目で追った。その姿は流斗と同じで自信に満ちていた。


 彼女はそのまま自分の基礎練習を続けた。

 右に左に弧を描きながら、彼女は流れるようにリンクを進んでいった。その一歩は大きく、美しかった。時折その中にターンが織り交ぜられた。何のとどこおりもなく、ゆがみもなかった。ごく自然に、それでいて素晴らしいアクセントとして、ターンが活きていた。

 僕には決してそんな滑り方はできなかった。

 そして上手い人間がそろっているそのリンクにおいてすら、誰一人として彼女と同じことができると思われる者はいなかった……。



 陽向さんは、いつも黒いハイネックのシャツを着ていた。練習用のスカートもスパッツも黒だった。フィットした衣類の上から体の線がきれいに見えた。腕や足は形よく膨らみ、形よく締まっていた。手袋は着けず、いつも袖をまくっていた。遠くから滑っているのを見ると物凄い存在感と貫禄を感じた。近づいた時の小柄で可愛らしい様子が嘘のようだった。そばに立つとフルーツのような香りがした。


 僕たちの練習は、ハンドインハンドから始まった。僕が手の平を上に差し出すと、陽向さんはその上に手を置いた。まるでバイオリンの弓でも持っているかのような何とも捉えがたい不思議な動きだった。体育祭の時につないだクラスの女子の愛想のない手つきとは全然違っていた。最初のうちはこんな手を握っていいのだろうかと困惑した。息苦しかった。こんな人と向かい合って滑ったり、腰に手を回したりできるのだろうかと、想像しただけでどぎまぎした。深呼吸をして、息を整えて滑り出したら、何のことはない、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んだ。僕はただ、自分の目の前の課題に夢中になっていた。


 陽向さんとの練習が認められるようになったのは、僕がアイスダンスの練習を始めてから二週間ほど経った日のことだった。

 夜遅い貸し切りだった。僕は相変わらず一人で退屈な練習をさせられていた。その内容はクロススケーティングで大きな円を周回するというものだった。

 スケーティングと言っても、きれいなフォームを意識して滑るという見た目のためだけのつまらない練習だった。体を柔軟に動かせないために思うようなスピードが出せず、この練習で自分はむしろ下手になっているのではないかという思いさえ湧き、僕は鬱屈うっくつとしていた。ここのところ何度かいい感じで滑れそうになっていたのに、そのつかみかけた何かさえ失ってしまいそうな気がした。

 僕のまわりでは、みんなが自由に動き回っていた。何を練習しているのかは僕には分からなかったけれど、僕にはみんながとても楽しい練習をしているように思えてならなかった。


「あなたねえ」

 ふっと先生が近寄ってきて、滑っている僕の腕だの足だのを持ち上げては姿勢を矯正きょうせいし、厳しい調子で言った。

「あれだけ滑れるくせに、姿勢を正しただけでスピードが出せなくなるなんて、どうかしてるわよ」

 そして僕にもう少し頭を使って滑るようにと言った。


「いい? 氷は蹴るんじゃなくて、押すの。最後まできれいに足を伸ばしてね。あなたは無駄な動きが多すぎるから、自分がいつ氷を押しているのか自分でも理解できていない。だからフォームを変えられた程度でスピードが出せなくなるのよ」


 僕は先生の説明の真意がよく理解できなかった。なるべく言われた通りに良い姿勢を保ち、きれいに足を伸ばすようにしたけれども、言葉の表面しか理解できていなかったために、それは苦痛な「作業」にしかならなかった。


 先生は僕の回っている円の内側に入り、僕にそちらを向かせ両手を前後に開かせた。そしてその両方の手をつかんで言った。

「このまま滑って」

 両手を動かせなくなった僕は、滑る勢いをつけるため膝を伸ばす瞬間に腰を浮かせた。

「腰は浮かさないで。もう一度膝をしっかり曲げて」

 先生は僕の両手をしっかり押さえたままそう言った。僕は膝を曲げ空気椅子のような感じで腰を落とした。

「そう、この深さ。腰はこの高さのままで。このまま『ぐっ』て感じで滑って。前より上手く滑れるようになるまで、これだけを続けてらっしゃい」

 そう言い残すと先生は他の子の指導へと去って行った。


 僕は手も腰も動かせず、足だけしか動かせない状態で滑ることになった。足の長さには限界がある。そんなに遠くまでは蹴れるわけがない。反動もつけられないとなると、力いっぱい蹴っても出せる力は限られていた。実際僕のスピードは歩く程度にまで落ちていた。

 こんな滑り方で前よりも速く滑れるなんてことはありえない。僕は心の中でそう決めつけていた。

 それともこれはある種の筋トレだろうか、そういう疑問もよぎった。もしかすると力をつければこれでも速く滑れるようになるのかもしれない。


 そんなことを考えながらしばらく練習していると、陽向さんがやって来た。

「私も練習しよ」

 そう言って彼女は僕と同じ練習を始めた。彼女は腰の高さも変えず、上半身も身動きさせずに、すごいスピードで僕を追い抜いた。

 目の前に現れた陽向さんの後ろ姿。ひらひらとした短いスカートからきれいな足が伸びる。

 その姿が僕の目を奪った。きれいに伸びた足は、伸びきったところから今度はきれいに曲がっていく。2本の足がきれいにそろう。そして氷に着くと同時に彼女はその足の上にしっかりと乗り移り、ぐっと氷を踏み込んだ。それは衝撃的瞬間だった。小さな一歩からものすごい推進力が生まれるその光景は、まるで帆いっぱいに横風をとらえて力強く進んでいくヨットのようだった。

 これまでバラバラに分かりかけていたことが、僕の中で次々とつながり始めた。流斗と滑った時に感じたあの感覚。一人でそれを再現しようと試みてきた時の感覚。これまでどうでもよいことに思えていた先生からの指示の数々。

 僕は陽向さんの後ろについた。氷を押している足は、次の足が戻ってくるのを待っている間じっくりとしっかりと彼女を運んだ。彼女を運ぶ役目を終えると、鳥が羽を伸ばすかのようにきれいに遠くまで伸びていった。そこには美しいリズムがあった。


 いつの間にか戻ってきた先生が、僕たちを見て「あら、いいじゃない」とやわらかな声を出した。

「どうやら最低限のラインはクリアできたみたいね。ハンドインハンドでのスケーティングくらいからなら、始められるかしら」

 先生の言葉に、陽向さんが得意げにほほえんだ。

 すごく小さかった頃、自転車の補助輪が外れた時の気分を思い出した。


 この日のことをきっかけに、ずっと気になっていたエッジという言葉の意味も徐々に分かっていった。スケート靴の刃には、中央に溝がある。その溝から体の外側にある刃をアウトエッジ、内側の刃をインエッジという。僕が先生から借りた靴を履いた時、ピタッと氷をつかんだように感じたのは、貸靴よりしっかり研がれたこのエッジが氷に当たっていた感触だった。けれど、それだけでは単に物の名前を理解したにすぎなかった。本当に重要なのはそこから先だった。

 陽向さんが氷を押す直前、一本の足の上に彼女がしっかりと乗ったように見えたあの現象。あれがエッジに乗るということだったのだ。とても傾いていたのに彼女は倒れることなく、あるエッジにしっかりと乗っていた。そこから体重を移動させエッジの深さを上手く変えることで推進力を得ていた。このエッジの持つ働きをすっきりと理解できていて、これを意識して滑ることのできる人間は、無駄な動きをせずに、効率よく氷に力を伝えることができる。

 エッジの大切さは、スケートにおけるすべての動きに存在した。どのエッジにしろただ乗っただけの状態をキープしていれば、慣性によりぐるっと円を描いて戻ってくるほど安定して進める。その際きれいに乗れていないと、途中で軌跡がゆがんだりどんどん失速してしまう。意図的に乗り具合を変えると、ターンなどの動きを生み出すことができる。ターンの前後にももちろん何らかのエッジに乗っているわけだけれど、どのエッジからどのエッジへどう乗り換えるかでターンのバラエティーが生まれる。

 エッジを理想的に使えれば面白い動きをきれいに決められるし、そういったことができるかどうかで氷上で思ったように動けるかが決まってくる。日頃練習しているコンパルソリーも、その能力を高めるためのものだったのだ。


 僕は少しずつ、自分の変化を感じられるようになっていった。良い感じで滑れる時がずっと増え、出来ることも増えていった。だけど、それでどれだけ流斗との差が詰められただろうと考えると、きっとそれほど縮んでいないだろうという気がむなしくもした。

 流斗はどうしているだろうとたまに気になった。時間の取れる時には、モミの木を覗いてみたりもした。相変わらず果歩はいつでも滑っていた。流斗がいるようには見えなかった。アイスダンスのことをあきらめないと言っていたのに、一体どうしているのだろう。

 本当はこの話は流斗に譲ってやった方が良かったのかもしれないと考える時もあった。僕はあまりにも流斗に不親切だ。もし僕がいい奴だったら、何の苦労もなくあっという間に超上手いカップルが出来上がっていた。陽向さんにとっても、きっとその方が良かったに違いない。

 だけど、僕はもう後には引けなかった。もしこれから陽向さんたちが流斗のことを知ったとしても、僕は負けるわけにはいかなかった。

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