疑い(3)

 平日一般営業でレッスンを受けている生徒もいることを思うと、気が急いた。しかし先生は、必ずしも毎日リンクに来なくても上達する方法はあるのだと言った。特にアイスダンスは氷上でのテクニックだけでなく、きちんと体作りができているかも滑りに関わってくるのだと言った。


 先生は自宅や陸上でできる練習方法を僕に指導してくれた。

 走り込みだの筋トレだのの練習メニューとセットで、クリアすべき小さな目標もその都度明確に示してくれた。息切れせずに持たせなくてはならない時間だとか、ホールドの姿勢を作って何分維持できるようにだとか。サッカーの練習なんかでやっている足をクロスしながら横に走る陸上トレーニングなんかも、バランスを崩さずにまっすぐに走れるようにといって色々なバリエーションの走り方を提案された。

 そういった目標を示されることで、僕はそれをクリアすべく、リンクに行かない日も陸トレに打ち込んだ。達成される度に目標は新しいものに入れ替えられた。


 しばらくして僕と陽向さんは、ただ手をつないだだけのハンドインハンドだけでなく、向かい合って組むワルツポジションや隣り合って組むキリアンポジションといった様々な組み方での練習もするようになっていった。内容もただのスケーティングから、ダンス独特の滑り方やターンなどへと発展していった。

 そういった基礎的なことがまともに出来るようになった頃から、パターンダンスも組んで練習させてもらえるようになった。

 しかしパターンダンスは種類が多すぎた。簡単とはいえ結局僕はほとんど覚えることができていなかった。僕は一緒に滑っている陽向さんをカンニングしながら滑るようなことをしばらく続けた。


 ある日、陽向さんが言った。

「私ね、五月生まれなの」

 一体何の話が始まったのか、僕には理解できなかった。

「だから高一なのにもう十六」

 それが、ジュニアの試合には今年を除くとあと二シーズンしか出られないという意味だと分かる知識すらなかった。僕はただ何も返事をせず、無言でうなずいた。

「次の夏には試合に向けての練習が本格的になるから、その前にどうしてもシルバーを取ってしまいたい、という気がするのよね」

 この一言をきっかけに、僕のパターンダンスに対する方向性が急速に決まっていった。


 シルバーというのは昇級試験の級の一つだった。その課題となるパターンダンスは次の五つ。

 ロッカーフォックストロット、スターライトワルツ、キリアン、パソドブレ、チャチャコンゲラード。


 だけどそれらはダンス初心者の僕が取り組むには難しすぎた。なので僕はその前段階として、より難易度の低い次の六課題にまず取り組むことになった。

 フォーティーンステップ、ヨーロピアンワルツ、フォックストロット、アメリカンワルツ、タンゴ、シルバーサンバ。


「その六課題なんだけど、年内にはこなせるようになって、年明けからシルバーの課題に入れないかしら?」

 こなせるかこなせないか、中身の難易度も分からない僕には見当もつかなかった。とりあえず年末までにはまだ三ヶ月以上もある。三ヶ月くらいあればさすがにパターンを覚えることもできるのではないだろうか。


「シルバーにはフリーもあるから、そっちの練習も始めないとならないし。制覇君がシルバーを受けるのに付き合ってくれるんだったら、そのつもりで先生にプログラム作ってもらうから」

 こうして僕の当面の目標が決まった。


 これによりその頃僕が取り組んでいた簡単なパターンダンスは、今後は一人で勝手に覚えておくようにということになった。

 ダッチワルツ、キャナスタタンゴ、スイングダンス、フェスタタンゴ、ウィローワルツ、テンフォックス。

 この六課題は入門レベルの昇級試験用の課題なのであまり手をかける予定はないからと、資料として先生からDVDとダイアグラムという謎な紙を渡された。


 覚えておいてねとは言われたものの、難易度の高い課題に取り組むのであればそれより簡単なものなんてやる必要があるとは思えない。しかもあまりに扱いが適当になってしまったことを考えると、本当に覚える必要があるのかも疑わしいと思った。DVDやなんかを手渡された時に何か説明をされはしたのだけれど、前に先生に言われた言葉を肯定するようで心外だけれども、僕には彼女の日本語がほとんど理解できなかった。


 そんなことより、僕には陽向さんの要望に応えることの方がずっと大切なように思えた。陽向さんはシルバーを受けたがっている。遠慮がちに申し込まれたけれど、パートナーの僕がちゃんと役目を果たさないと彼女はそのテストを受けることすら叶わないだろう。

 そう思った僕は、年内にこなして欲しいと言われたシルバーに向けての準備課題をきっちり片づけようと決意した。そして年が明けたらシルバーに取り組もう。宿題のようなどうでもよさそうな課題なんかよりも優先的に……。



「制覇。数学の授業、終わったよ」

 果歩の声で起こされた。机についた腕の下で、開いた教科書やノートが押しつぶされていた。

「うーん。終わったんなら起こすなよ。休み時間だろ?」

「でも次、音楽教室だよ」

「あー、そう」

 適当に返事はしていたけれども、僕の頭は回ってなかった。まわりの生徒たちは次々と荷物をまとめて席を立っていた。


「最近忙しいの? リンクにも全然来ないし。塾にでも行ってんの?」

「んー、まあそんなところ」

 体力的に疲れるほど滑り込んではいなかったのだけれど、慣れない夜更かしを度々させられた上、滑るのに神経を使い過ぎていた。

「塾行ったって、授業聞かないんじゃ、意味ないよ?」

 偉そうにそう言われても、全く腹は立たなかった。僕が行ってるのは塾じゃない。って、むしろやばい……!

「次の数学のテスト、マジやばいかも……」

「またまた~。まるで前回は、やばくなかったかのような言い方ですね」

 果歩はそうやって僕を小馬鹿にすると、嬉しそうに笑った。

「お前はいいよな。いつも満点で」

「ふっふっふ~。数学だけは得意なんですよ~。でもちゃんと授業聞いてないような人には、教えてあげない」

「ケチ」

「何? 教えて欲しいの?」

 嬉しそうに覗き込まれた。

「あ、いや。いーよ。いーよ。お前の教え方、いらねーや。『よく見て!』だけだもんな。あんなんで分かるかっての」

「分かんないの? どうして? よく見たら答えが見えてくるでしょ? いつもそう言ったら上手に滑れたじゃない」

「それスケートの話だろ? 数学とは違うから!」

「えー? どっちも『す』から始まる四文字なのに!」

「よし! もう行くか」


 すでに教室には誰の姿もなかった。僕たちは廊下を急いだ。途中で果歩が遠慮がちに口を開いた。

「あのね、大学生の貸し切りに混ぜてもらえることになったんだよ。ほら、理子先生の後輩の。それで最近私行ってるんだ。制覇も行かない? 貸し切りだと相当自由に色々やれるよ」

 その声には昔のような強引さはなかった。まるで僕の様子をうかがうような声だった。そう言えば一年前にも同じようなことがあった。僕はまた果歩の誘いに応えられずにいた。

「時間大丈夫なわけ? お前」

「その日だけは遅く帰らせてもらってる。危ないからってGPSで監視されてるけど」

 そう言って笑いながら音楽室の入口まで来ると、果歩は「あとで日程、教えるね」と言って僕に手を振った。


 もし日程が合ったとしても、果たして参加できるだろうか。

 僕の頭は山積みになった課題で一杯だった。できることが増える度に、考えることは減るどころかますます増えていった。

 果歩が貸し切りでジャンプやスピンの練習を進めていることは喜べなかった。多分差はどんどん開いていっている。だけど少々引き離されても急いで追いかければ追いつけないことはないような気がした。それよりもまず目の前に見えている山をなんとかしたかった。むしろ遠回りになったとしても、その方がかえっていいような気がした。僕は自分が望んだ力を確実につけ始めている手応えを感じていた。


 氷の上でバランスを保つ能力。

 思うように動く能力。

 圧倒的スピードを出す能力。

 他にもアイスダンスをすることで、スケートの基礎的な力が少しずつ高まっている感覚があった。


 以前の僕はジャンプやスピンといったいかにも技といったことしかしたことがなかった。だけどそんな技をこなすにしたってこういった力は高い方が有利なんじゃないだろうか。

 そう考えると自分に足りない所が目に見えている状態で、それを見過ごすわけにはいかなかった。

 得るものを得さえすれば果歩にだってすぐに追いつける。僕はそう思って果歩を追うことを後回しにした。



 その日のホームルームで、席替えが行われた。僕たちの席は離れてしまった。貸し切りの予定はかろうじて受け取ることができた。でもそれ以降、僕が果歩にリンクに誘ってもらえる回数は急速に減っていった。


 ちょうどその頃、僕たちのクラスは雰囲気が次第に変わりつつあった。男子と女子の仲が取り立てて悪くなったわけではないけれど、男子は男子、女子は女子という集まり方をするのがいつの間にか普通になっていた。そんな中で特別な関係のある奴らだけが、登下校や休みの日に交流を持つようになり始めた。おかげで深い意味などなくても異性と話をするだけで、冷やかされたりするようになった。

 そんな空気も相まって、僕は果歩の変化を気にも留めていなかった……。



 シルバーの前段階の練習が本格化していくにつれ、パターンダンスをこなすということの難しさを僕は日に日に知ることになった。それはただ覚えたステップの羅列を二人でなぞればいいというものではなかった。

 二人で組んだ状態で、定められたコースを正確に辿たどりながら、且つ、二人ともが正しいエッジに乗るということが、いかに難しいことか。

「ここまでよ、ここまで! そのままここまで流れてきて!」


 社交ダンスのように向かい合ってワルツホールドで進む僕たちの少し先に先生が立っている。その場所まで今乗っている足のまま来いという指示だ。

 ついほんの先なのに、僕たちはもうそこまでたどり着ける速度を持っていなかった。


 右腕を陽向さんの背中に回し左手を宙でつないだ状態で、二人とも片足で立ったまま、極力失速しないように身動きせずに堪える。ほぼ止まりかけで、やっと先生の元にたどり着く。曲からはとうに取り残されている。


「そう。そしてここで、足を変える。いつも早すぎるわよ」

「あの、かなり厳しいんですけど」

「ふらふらしてるからよ。最初からきっちりしたエッジにお乗りなさいよ。」


 もちろん僕だってそうしたかった。だけど、一人で滑るのとは事情が違うのだ。最初からいいエッジに乗ろうにも思わぬ所に相手がいて思った場所に足が着けなかったり、お互いの進行方向に微妙なズレがあって思わぬ方向に引っ張られたり。


「この個所はね、制覇君は膝をゆっくり伸ばしてそのまま立ち上がる、背中まっすぐね。で、陽向ちゃんは制覇君の膝と膝の間に入っていくようにターン。こんな感じできちっと乗れば、そんなに速度が落ちるわけないんだけれど?」


 そう言われても、簡単に二人の息が合わないから苦労してるんですよ……。


 ところが先生と陽向さんが組んでやって見せてくれると、同じステップでも問題が起こらない。先生が言った。

「結局はね、男性側のリードの問題なのよ。お互いが邪魔しない、良い場所に行くように、あなたがリードするの。分かった?」

「……。あんまり分かった気はしませんけど、もう一回やってもいいですか?」


 同じ場所で何度やり直しになっても、陽向さんは怒らなかった。僕を責めることなく何度でも「頑張ろうね」と笑った。


 パターンダンスは奥深かった。このカーブはこの種類のターン何回で回ること、などという指定があるということは、例えば思うようなターンが決まらなかった場合どういうことになってしまうか。コースを小回りしたり、ゆがませたり、足をついてしまったり、とにかく納得のいかない解決方法をとるしかなくなってしまう。一歩失敗すると、次の一歩にも影響が出かねない。リンク一周のコース取りも決まっているわけだから、ぐるっと回ってきた結果、とてつもなく乱れてしまうことにもなりかねない。

 好き勝手に助走をつけて跳んでいた、かつての気楽な調子とは深刻さがまるで違った。一歩一歩が油断できない。どの一歩も貴重だった。


 僕と陽向さんのパターンダンスはしばらくはコースもエッジもスピードもめちゃくちゃで、これでは点が出ないと散々けなされた。しかしどう評価されようと僕にとってはどうでも良かった。僕はひたすらどうすれば上手くいくのかだけを考えるようになっていた。


 そんな調子で僕は一日の多くを、アイスダンスのことばかり考えて過ごすようになっていった。

 それでもアイスダンスの魅力は正直まったく分からなかった。アイスダンスの持つ効用には魅力を感じていたけれど、アイスダンス自体については誰かに魅力を聞かれても僕には答えることはできなかった。むしろ前にも感じたように、アイスダンスというものは随分つまらないことにまで神経を使う物なんだなくらいにしか思えなかった。


 それなのに僕は、いつの間にか練習が面白くなっていた。これまでの遊びで滑るのとは、取り組みの密度が違っていた。どの瞬間も真剣に神経をとがらせて取り組まなくてはならなかった。そうしないと成り立たない競技だった。そこまでやって初めて、細かいことまでが成功した。毎回、新しい進歩と喜びがあった。流斗がこれにはまるのも、無理ないと思った。


 僕は魅力も分からないままに、すっかりアイスダンスにはまっていた。




 それは、衣替えから間もなくの朝だった。


 衣替えと言っても名ばかりで、正門から中に入ると相変わらず半袖で来ている奴もまだまだ目についた。天気も良く、しばらくはまだ暖かい日が続きそうだった。

 昇降口に近づいた時だった。後ろから突然女子の金切り声が上がった。


「きゃー! 果歩~! どうしたの?」

 振り返ると、果歩と流斗が並んで登校してくるのが目に入った。

「もしかして二人、付き合ってるとか?」

 女子が数人、二人を取り囲んでいた。流斗はにっこり笑って「さあ? どうでしょう?」と言った。


 さあって何だよ! 他人事みたいに答えやがって! お前当事者だろ! 付き合ってるなら付き合ってる、付き合ってないなら付き合ってない、自分で分かるだろ!


「そっかー。やっぱ姫は王子とひっついたか~」

 果歩の友だちの一人がそう冷やかした。

「姫って言うな!」

 そう言って繰り出した果歩の猫パンチを、その子は両手で受け止めながら笑った。

「小人と姫がひっつくような展開のお話はないもんね~」

 そう言うとその子は、果歩たちを置き去りに小走りで昇降口へ向かってきた。僕の前を横切る瞬間に、僕の存在に気がついたようで、ぱっと合った目に動揺が走った。


「あ……ご……ごめんっ」


 そう言って、その子はそのまま僕の前を走り抜けた――――――。

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