三. 疑い。

 疑い(1)

 一週間経って、僕は大阪のリンクへ通うようになった。


 鞄の中の靴が異常に重かった。

 夕暮れの混雑した電車の中で僕はそれが人々の邪魔にならないように脇に抱えた。あのあと買った自分の靴だった。僕の靴にかかった費用は、なんと十二万円。通販なら一万で買えるなんて言っていた奴がいたけれど、実際にはその十倍以上もの費用がかかった。代金は母が払ってくれた。こんなに高い物は買えないとはっきり言ってくれれば良かったのに、母はリンクに行く前とは完全に態度が変わっていた。あんなにお金のことを気にしていたのに、お金は無いわけではないと言いだした。もちろん無駄なことに使うお金は無いし、大義もいるので僕にかけられる限度はあるけれど、僕が進学など重要なものに出会った時のために、備えはあると言い出したのだ。


 そういう大事な時に向けての備えだったら、こんなことに使っちゃうなよ……。


 行きの電車と同じ調子でぐちぐち言ってくれれば良かったのに、という気がしてならなかった。そうしたら僕だって考え直した。靴さえ買わなければ、まだ引き返せたかも知れないのに……。


 ――――重い、重すぎる。


 聞いていたのと違う話が多すぎる。どうしてこんな大げさな方向に話が進んでいるのか。安易な気持ちでこの道を選んだことはもう誰にも言えない。

 目的地に着くまでの間、僕は電車の手すりに寄りかかったまま揺れに身を任せていた。


 夜の七時。

 リンクには一般営業の終わりを告げるアナウンスが響いていた。人々がリンクを離れていく中で、十数人の子ども達がその場に居残った。姫島先生の生徒たちだった。小学生から高校生くらいまで色々な年の子がいて、ほとんどが女の子だった。

 リンクの中を整氷車が走り始めると、そのうちの何人かはベンチを囲んでしゃべったりゲームをしたりし始めた。リンクの端の方で何かを食べ始める子や、ストレッチをしたり陸上で跳んだりとずっと練習しているような子もいた。僕のようにこの時間からやってくる子もわずかにいた。

 陽向さんは高校生と思われる女の子と談笑していた。短い髪をぴしっと結んだ、切れ長の目の、陽向さんとはまた違ったきれいな人だった。僕に気がつくとその人は笑うのをやめて僕の方を指さした。その指先を追って視線を僕に移した陽向さんは、花のような笑顔でこちらに小さく手を振ってくれた。


 この整氷が終わったら初めての練習だ。

 僕は陽向さんたちの方に向かって軽く頭を下げると、みんなから少し離れたベンチに座り一人靴を履いた。どこにもまだ傷のない、真新しい黒い靴。ひもを締めるととても自分の足に合っているような気がした。


 先生がやって来て、「コンパルソリーを見せて欲しいのだけれど、朝の練習にはどうしても出られないの?」と確認してきた。朝ここまで来ていたのでは学校に間に合わない。先生は仕方ないわねと言って特別に定例の練習メニューを変えた。整氷が終わる直前、先生はリンクの入り口付近にみんなを集めて言った。

「今日は走る前に、コンパルソリーを何分かしてもらいます。コンパスは使わなくていいから、朝やっている内容を各自やってちょうだい」

 そのメニュー変更が僕のためにされたことは明らかなようだった。みんないっせいに「あの人が陽向さんの?」という目で僕を見てそうささやいた。みんなの中に、自分と陽向さんの姿がどのように想像されているだろう。ものすごい気恥ずかしさとともに僕はどきどきしながら、みんなに続いてリンクに入った。



 初めての練習は、先生からの「何番まで描ける?」という意味の分からない言葉から始まった。

 いきなりパートナーと二人組になって練習を始めるわけではなかったようで、みんな一人一人等間隔になるように上手い具合にリンクに散って、各々おのおのの領域で僕の見たことのない地味な練習をやり始めた。その練習の番号を聞かれていたのだろうけれども、僕が答えられずにいるとすぐに先生は「そうだわ。あなた先生についていないから、こういうの分からないんだったわね」と僕の事情を思い出した。番号以前に、僕はコンパルソリーが何かすら知らなかった。


 先生は「まずは一番からやってみましょうか」とリンクの端に場所を確保してくれた。コンパルソリーというのは片足で滑りその軌跡で氷に図形を描くものらしく、番号により種類が分かれているらしかった。まわりを見渡すとみんなそれぞれ違う番号と思われるものを練習していた。滑りながら氷に図形を描くなんてそんな特殊な技術を身につけたいわけではないのだけれどと思いながらも、初めての練習だしいいところを見せようと僕は意気込んだ。

 先生が見本として、体の左側に身長の三倍程度の円を左足ですーっと描き、一周戻ってきたところで今度は右足に乗り換え右側にも同じように描いた。僕も同じようにやってみせた。自分の滑った跡が氷の上に線になって残る。初めてだというのに形もきれいで左右もそろっていた。先生は「ふーん」とでも言いたげな顔でそれを見た。僕は上手くやれたと満足だった。


 ところが先生は、速度が速すぎるとか姿勢がどうのとか蹴り出しが悪いとか、最初に説明してくれた図形を描くという目的とは関係のなさそうな不満を次々に言い始めた。

「ちょっと、ここにまっすぐ立ってごらんなさい」

「まっすぐっていうのは姿勢良くっていう意味よ。背筋伸ばして」

「だからってお腹出さない。って、逆にお尻出してどうするのよ」

 全てを同時にやるには無理があるとしか思えないような注文だった。僕は体のあちこちを無理やり押したり引いたりされた。


「いいわ。では足をTの字に構えて、乗り移るだけの気持ちでやってくれる? スピードは出さないで」


 どこからかひそひそとした声が聞こえてきた。

「なんであの人、一番もできないの?」

「一番っていうより、それ以前の問題みたいだけど?」


 僕が先生についていなかったとか靴も持っていなかったとかそんな噂をして、そんな人がなぜ陽向さんの相手なのかとあきれるような声を出していた。

 僕はなるべく周りを見ずに先生の注意に耳を傾け、言われた通りにやり直した。何度目かで先生はOKを出してくれた。

「ほら、見て。最初に描いたこのスタート、フラットになってたの、分かる?」

 OKを出された円と、最初に描いた円を比べてみる。

 正しい円形に見えていた最初の円が、実は滑り出し部分が軽く潰れて涙型になっていたことが分かる。加えて、円の所々で軌跡がわずかに乱れているのにも気がついた。

 それに比べて、最後に描いた円の形の良さ。

「すごい……」

 僕は図の形を良くしようなんて意識はまったくしていなかった。それとは関係のない先生の指示に従っただけなのに、不思議な結果が生まれていた。


「まだまだ先は長そうだけど、こういう面で手のかかることは分かっていたからまあいいわ。少しずつやっていきましょ」

 少々文句ありげな表現ではあったけれど、先生の声は明るかった。先生は僕の背中を軽く叩くと、リンクの中心を見遣みやって元気のいい声で呼びかけた。

「はい、次! スケーティング開始!」

 その声に反応して、みんながざっと動き出した。

「いつも最初の五分間は全員でスケーティングをすることにしているの」

 と先生はほがらかに説明をしてくれた。

「途中で声をかけますから、そしたら方向転換してちょうだい。分からなかったら周りに合わせて」

 優しげだけど、張りのある、貫禄かんろくのある声だった。

 最初に会った時には随分おばさんに見えたけれど、実は母よりも若いくらいかもしれないと思った。見たこともないほどの上品さに、化粧の濃さと貫禄があいまって惑わされてしまったけれど、落ち着きのあるベテランというよりはむしろやる気あふれるチャレンジャーな雰囲気だった。


 突然目の前に、陸上競技で例えるならトラックを大勢で全力疾走しているような光景が広がった。

 先頭を滑っていたのは陽向さんだった。小柄なのに一歩がものすごく大きい。必死になって走っているような様子は微塵もないのに、群を抜いて速かった。

「さあ、行って」

「はい」

 僕はその輪に加わった。

 ものすごいスピードを出す子たちに囲まれて僕は滑り始めた。びゅんびゅん抜かされているうちに、居ても立ってもいられない気分になった。

 前にいる子を何とか抜けないものだろうか。

 上手く滑れた時の感覚を思い出してみる。同じ感覚が生まれないかと色々な蹴り方を試してみる。するとたまに氷をつかんだような気持ちのいい瞬間が現れた。蹴る回数を増やしたり蹴る足に力を入れても、ただもがいているような気分しかしない。それなのにたまに現れる気持ちのいい瞬間には、自分が思ったよりもずっと楽にスピードを出せるのだ。何が違うのだろう、そんなことを考えながらそのいい瞬間をなるべく再現できるように僕は滑った。

 そうするうちに一人を抜いた。そしてまたその前にいる子を追いかける。

 僕より小さな子もたくさんいるのに、みんなとても上手い。

 モミの木では僕はかなり速く滑れる方だったけれど、そう簡単に追い抜くことはできなかった。

 途中でバックになったり、進む方向を変えたりしながら五分が過ぎた。三分の一程度の子は抜くことができなかった。当然陽向さんには追いつけるわけもなく、むしろ危うく一周差で抜かれるところだった。


「はい、集まってー!」

 その声で僕たちは先生の元に集まった。先生は練習メニューの説明をし始めた。

 後ろの方で数人が、声を殺しながらざわついていた。

「あの子?」

 また僕の話だった。

「靴持ってなかったんだって」

「先生にもついてなかったらしいよ」

「えー! ほんとに!?」


 僕の新天地は、居心地の悪い場所だった。

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