パートナー(3)

 母親がリンクについてくるというのには戸惑った。ついてこないでいいと言っても、相手が費用を負担してくれるなら挨拶しないわけにもいかないし、自分で負担しなくてはならないのならそれはそれでお金のかかることなんだから保護者抜きで決められても困ると言う。


「スケートって結構お金かかるんだってよ? 知ってた? いくらくらいかかるんだろう……」

 夕方の混雑した電車の中、母は一人言ひとりごととも何とも言えない声でそんなことを言い続けた。母は母でなんだかよく分からない方向に緊張しているようだった。僕は家を出てからずっと母の話には何も答えずにいた。

 手すりにもたれて立つ僕の横で、座席から母がため息混じりにつぶやいた。

「……普通の部活に入ってくれてれば良かったのに……」

 僕がなぜ中学の部活に入らなかったのかは、それは自分でも不思議だった。


「相手の子なんだけど……」

 僕は母のつぶやきに答える代りに違う話をした。

「『相手の子』っつっても年上だけどさ、足を怪我したらしいんだよ。それで、もうシングルには戻れないんだって。だからダンスの相手を探してるらしいよ。これは人助けだよ、人助け」

 母を黙らせるための適当な話だった。相手の子が足を怪我したのは事実だったけれど、それがシングルに復帰できないほどのものかどうかまでは実は知らなかった。それでもしばらくの間、母を黙らせるには十分だった。


 理子さんから紹介されたリンクまでは、徒歩も合わせると一時間以上はかかった。聞いていたよりもずっと遠かった。


 選択肢は本当はやっぱり一つだったのだと思う。僕が即座に自分の決断を伝えた時、理子さんは本当にそれで良いのかとしつこいくらいに念を押した。良いも何もなかった。僕には理子さんの提案を選ぶことはできなかった。理子さんには聞かれなかったけれども、その理由は単純だった。僕は自分がアイスダンスの練習しているところを誰かに見られたくなかったのだ。誰かというのは、自分でも誰なのかは分からなかった。流斗なのか、果歩なのか、それともクラスの連中なのか……。

 しかしたったそれだけの理由で決断を下してしまったことを、僕はすぐに後悔することになった。


 九月の初旬、生暖かい屋外とは対照的に、建物の中はひんやりしていた。僕の隣で母は自分の半袖の腕を抱えた。

 スケート専用の建物に入るのは初めてかもしれなかった。モミの木の暖かな雰囲気とは随分様子が違っていた。狭い通路に設置された改札にも貸靴コーナーにも、客は一人もいなかった。そこを通り過ぎてリンクに入る。白っぽい電燈がまぶしかった。そして真っ白な霧が立ち込めていた。


 ホッケーを練習している人たちの大きな声が響いた。僕たちはリンクに近寄った。

 すると突然視界が開けた。氷上は、霧が晴れていた。

 勢いよく滑っている人たちによって、霧はきれいになぎ払われていたのだった。


「すごい……」


 そこにいる人たちは、全員が全員、驚くほど上手かった。

 右へ左へ小刻みにフットワークを効かせながら動くホッケー選手、腰を落として凄いスピードで進むスピードの選手、その合間を縫うように進んではジャンプをするフィギュアの選手、その中にはかなり難しそうなものに挑戦してはこけてそのままスライディングのように勢いよく流れていく人もいた。リンクの中央では、小さな子ども達も交じえてスピンの練習が行われていた。

 どこにも、素人の入り込むすきはなかった。人数的にはモミの木の密度の三分の一もいない。だけど不用意に入れば、すぐにでも交通事故に遭って死ねそうだった。


 そんな中に冬物のコートを羽織った女性が一人いた。その人が先生だと僕はすぐに分かった。目が合った瞬間、僕と母は会釈えしゃくをした。その人はゆっくりこちらに近づいてきた。いや、ゆっくりに思えたけれど、実はすごいスピードだったかもしれない。すごいスピードを出したとは思えないほど、力みがなく、しなやかな動作だった。


「よく来て下さったわね。お待ちしていたわ」

 別世界なほど上品なおばさんだった。


 この先生の前で滑らなくてはならないのか。この前流斗と滑った時のように上手いことやらなくてはと思った。気が重い反面、楽しみな気もした。あれからどうやったら上手く滑れるかを氷に乗れない間もずっと頭の中でシミュレーションしてきた。

 多分、今日は上手く滑れる……。


 僕は姫島と名乗るその先生の用意してくれた靴を履いた。僕が自靴を持っていないのを知って、自分の家にあったものをいくつか持ってきてくれたのだ。

 どれでも合いそうな物をどうぞと言われたけれど、どれも合わなかった。サイズ的には問題なかったのだけれど、どれもこれも痛かった。前に理子さんがスケート靴は皮でできているから固いのは仕方がないと言っていたのを思い出した。皆こういうのを我慢してやっているのかもしれない。


「自分の靴じゃないから少し滑りにくいかもしれないけれど。少し慣らしたら、フォアとバックを数周ずつ滑ってくださる?」

 僕は適当な靴を履いて氷に乗った。乗った瞬間、靴がピタッと氷にはまったような感触がした。

 ――――――?

 慣れない感覚だった。滑り出してからも、なかなかうまく調子がつかめなかった。でも決して悪い感じではないような気がした。少し慣らして……と言われたけれど、どのくらいアップしていていいのだろう。気にしながらリンクを何周かまわる。すごく良い感じのする瞬間が何度かあった。まるで氷をつかんでいるような……。


 ただ何周か滑っているうちに足の痛みも強くなった。体が慣れるのと足が耐えられなくなるのとどちらが先だろうと考えると、適当なところで勝負をするしかなかった。

 先生は腕を組み、厳しい目つきで僕の滑りをじっと見ていた。


「スリーターンしてみていただけるかしら?」

「スリーターン?」

「ご存じない? サルコウ(ジャンプの名前)やフィリップ(こちらもジャンプの名前)の前に入れたりするんだけれど、片足でのターンで軌跡が3の字になるもののことよ」

「ああ。分かりました」

 これまで何気なくやっていたターンだけれど、そんな名前がついていたのか。

「レフトフォアアウトからのターンでお願い」

「は?」

「あなた、本当に日本語が通じない方ね」


 いや、あなたがさっきから口にしてるの、日本語じゃないですよね!?

「こういうのよ。できる?」

 最初からそうやって見本を見せてくれ、そう思いながら僕はターンをした。先生は難しい顔つきで僕を眺めていた。その他にも僕は色々と彼女の要望に応えたけれど、わりと早く決断は下された。


 リンクサイドに上がった僕に、先生は丁寧にほほえみながら言った。

「ごめんなさいね。せっかく来ていただいたのだけれど、いらないわ」

 先生の僕を見ている様子から、なんとなくそう言われるのではないかと予想はついていた。だけど僕は納得がいかなかった。靴が違えば絶対にこんなことにはならなかったのに。

「すみません、靴が痛くて上手く滑れませんでした。貸靴に変えてもう一度滑らせてもらえませんか」

 しかし、先生にはまったくとりあってもらえなかった。

「それこそごめんなさい。貸靴の方が良いなんて言う時点でお話にならないわ。エッジを使って滑っていない証拠ですもの」

 またここでも、僕はエッジという言葉を聞かされた。流斗と滑るきっかけにもなったエッジという言葉。それは、いったい何なのか。


 僕はベンチに戻って靴を脱いだ。靴ずれをしていたようで、靴下に血がにじんでいた。どこかに消えていた母が戻ってきて、絆創膏ばんそうこうを持っていただろうかと慌ててバッグの中を探し始めた。

「別にいいよ。もう履かないし」

 僕がそう言って脱いだスケート靴をそろえていると、頭の上からやわらかい声がした。


「もう帰るの?」

 声の主は膝を折って、僕の高さまで腰を落とした。

「残念ね」

 一人の少女が、ベンチに座っている僕を励ますような笑顔でのぞき込んだ。またもや別世界の人間が現れたと思った。


 輝きを放つ黒目がちの目。両端のきゅっと上がった口。髪の毛はアップできれいにまとめられ、そこから伸びた首は細くてすっと長い。小柄でかわいらしいのに、その仕草はとても垢抜けていて大人びても見えた。そしてなにより華やかで、なるほど、こういう人がフィギュアスケートというものをするのだろうなと、深く納得して見入ってしまった。


 彼女は僕の足に同情したのかどこからか救急箱を持ってくると、患部の周辺にスポンジを当てながらテーピングをして、靴を履かせ直してくれた。

「ほら、こういう風にしたら、痛くないでしょ?」

 気持ちのいい笑顔。まるで面倒見のいいお姉さんのようだった。それに対して僕は訳の分からない笑顔で、無言のままひたすらうなずいた。


「今度から滑る前にこうしておくといいわよ。私もよく苦労してたから、慣れたもんでしょ? ね、ちょっと立ってみて」

 彼女の声はその笑顔と本当によく似合う、親し気でやんわりとした声だった。


 僕が立ち上がった途端、彼女はつぶらな目を大きく見開いた。

 考え込むように、僕の足元から腰の辺りまで何度も目を往復させる。そのまま僕の周りを行ったり来たりして、膝を曲げろだの伸ばせだの言った。そして気がすんだのか突然後ろを振り返り、リンクに向かって大声を出した。


「先生! 私、この子と組みます!」

 彼女の叫び声が、あっという間に先生を呼び戻した。

「先生。この子、上手くなりますよ。見てください。靴、履き直してもらったんです。ほら、この子の脚! 理想的なスケーターの脚だと思いません?」


 少女の熱意のあるしゃべり方に、先生はたじろいだ。

「この子じゃだめよ。技術的にも年齢的にも体型的にも全然釣り合っていないもの。もう少し待ってみましょ。そしたら、もっといい人が見つかるかもしれないわ」

「待ってたってダンスの相手なんかそう簡単には見つかりませんよ。万一いい人が現れたら、その時乗り換えるかを考えましょうよ! それにこの子は絶対に上手くなる。ね、先生もそう思いますよね。さっき、先生はこの子を否定してませんでしたよね」

 その言葉に耳を疑った。そうなのか? この先生、僕を否定したんじゃなかったのか!?


「……いい? 陽向ちゃん。さっきのこの子の滑りはね……」

 先生は彼女をさとすように言った。

「エッジはあいまいだし、ターンは汚いし、足さばきも適当だし、とても荒削りでひどいものだったわ」

 やっぱ、全否定だよ。この人……。


「この子が相手じゃあなたに日の目を見せてあげられるのはいつになるか分からない、私はそう判断したのよ」

 その言葉に、少女は勢いづいた。

「やっぱり。先生が気に入らないのは表面的なことだけじゃないですか。本質的なことについては何も触れてない。それって、これからの先生の育て方次第ってことですよね? これはある意味、お得ですよ!」

「お得って……。そんな考え方はやめてちょうだい。冷静になってしっかり考えて。育つのなんか待ってたって、いつまで待たされるかも分からないし、そもそもちゃんと育ってくれるかどうかすら保証無いのよ。陽向ちゃんはそれでは困るでしょ?」

「先生。私はもうここで迷ってチャンスを逃すようなことはしたくないんです。むしろチャンスを作っていきたい! それに私は……先生を信じてます!」

 姫島先生はしばらく目を閉じて黙っていた。


「相手を選ぶのは私ではなくあなたの権利よ。好きにしたらいいわ。だけど私はあなたの先生だから、あらかじめ聞くべきことは聞いておいてあげる」

 そう言うと先生は突然、母に対してしゃべりかけた。

「天宮さん」

 母は慌ててベンチから立ち上がった。

「息子さん、大変可愛らしくていらっしゃいますけれども……」

「あ、はい。ありがとうございます」

 そう言って母は深々と頭を下げた。

 ちょっと待て、母。そこは色んな意味で否定してくれ。


「お父様は身長、いかほどでいらっしゃいますか?」

「百七十センチはあります」

 母は妙に堂々と答えた。

「そうですか。失礼なことをお聞きしました。外見的なことも考慮しなくては成り立たない競技ですので。こればかりは私の指導ではどうにもならないことですし」

「ちょっと待て。父さんは百六十九だろ? さば読むなよ」

「シッ! 制覇っ! いいのよ、大人の世界では一センチくらい!」

 僕の突っ込みに、母は声を抑えて慌てふためいた。その様子を見て少女は面白そうに吹き出した。

「大丈夫大丈夫。今でも私の方がほんのちょっと小さいから。来シーズンにはもっと差がつくんじゃないかしら」

 彼女は僕の隣に来て背を比べてみせた。百七十以上あるというのと百六十九しかないというのは、身長を気にするような競技なら大きな問題なんじゃないだろうか。


「観月さんから真面目で良い子だとは聞いていたけれど、本当にそのようね」

 理子さんはそういう風に言ってくれていたのか。でも、僕は真面目でもなければ良い子でもない。僕は流斗を出し抜いてここに来てしまった。せっかく理子さんが頭を悩ませてくれたことすら、どうでもいい理由で無駄にした。


「陽向ちゃんが長期戦を考えているとしても、私はだらだらと長引かせるつもりはないわ。取り合えず、一年。死ぬ気でやって、それに見合う結果を出すつもりはあるかしら?」

 この人に「はい」と言ったら、本当に死ぬことになるかも知れないなと思った。でも、ここで「はい」と言わないわけにはいかなかった。理子さんの言葉を嘘にしないためにも。

「途中その言葉が嘘であったり、一年待ってみてあなたよりいい人が現れたと思った時には、私たちは乗り換えることもいといません。そうならないように頑張ってくださることを期待しますが。それでもよろしいかしら?」


 彼女たちがどの程度のことを望んでいるのかは分からなかった。でも、彼女たちに気に入られることが僕の目標なわけではなかった。たまたま僕の目指すものと努力の方向が、彼女たちの利害と一致するのであれば一緒にやっていけばいい……。


「ここで頑張れば上手くなれるというのであれば、僕は精一杯やるつもりです。それだけです」

「だそうよ。陽向ちゃんは本当にこれで良いのかしら?」

「もちろんです。それに私、制覇という名前が実はとっても気に入ったんです」

 そう言うと彼女はその笑顔を先生から僕へ移した。

「よろしくね。制覇君」

 その目にはとても強い光が宿っていて、負傷による心の傷を抱えた少女にはどう見ても見えなかった。


 音川陽向おとがわ ひなた。十六歳。高一。

 彼女は僕の名前を肯定してくれた――――――。

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