目覚め(4)

「話があったの。さっきの彼の。」


 流斗のことだった。


「その時、私、少し迷ってることがあってね……。でも、東京の方でずっとパートナー探してる子がいるって聞いてたから、返事をいつまでも保留にするわけにはいかなかったの」


 つまり、僕の前に陽向さんは流斗のことを断っていた。

「断ってしまってから、取り返しのつかない失敗をしたと思ったわ。アイスダンスのパートナーなんてそう簡単には見つからない。大きなチャンスを逃したなって思った。きっとしばらくはもうチャンスなんてないと思って気を落としていたのに、すぐに制覇君に会えた。私、ついてるでしょ。でもね、ずっと逃した獲物の正体は気になってたの。その正体を見ての感想は、さっき言った通り。私は制覇君と組めて良かったと思ってる」


 自分と組めて良かったと言われて悪い気はしなかった。むしろ僕は密かに心を打たれていた。それでも、僕はそれを表には出さなかった。その時陽向さんが僕に向けた笑顔が、僕にテーピングをしてくれた時に見せた笑顔だったからだ。

 陽向さんは面倒見が良くて、リンクのみんなにもお姉さんのように慕われている人だ。そんな人にきれいな言葉をかけられても、僕はそれを素直に受け止めていいのか分からなかった。


 陽向さんが先生に言った。

「先生。制覇君に見せたいものがあるんです。五分もらってもいいですか?」

 先生のOKがもらえると、陽向さんは自分の鞄からDVDを出した。

 すぐに再生する。


「え……? 何、これ? ……神?」

 映像を見た途端、驚きの声が漏れた。


「これ? 昨年の世界ジュニア」

 陽向さんが言った。

「……の、あるカップル」


 本当に別々の人間だろうかと疑うほど、二人の動きは見事にそろっていた。だけど、その演技のすごさはそこではなかった。さっき陽向さんのワルツを見て、ワルツだと思ったのと似たものを感じた。動きの躍動感やくどうかんや切れ味が半端じゃなかった。


 この動きが、アイスダンスの目指す頂点か――!


 僕は初めて、アイスダンスの極める先を見た。

 普通ならスケートであることのせいで思ったようには動きにくいものなのに、彼らはそんな制約を受けることなく体全体での表現を実現させていた。それどころかはずむようにリズムを刻みながら、のびやかに大きく移動する姿は、氷上であるからこそ見れるものなのかもしれなかった。


 僕はそんな二人のステップをじっと見つめた。

 簡単には自由の利かない氷上という条件の中で、どうすればこんな動きを生みだすことができるのか。入っているターンの種類。二人はどう組み替え、どう入れ替わるのか。

 画面を見ながら、僕は次々と演技を分析した。何をやったのか一回では理解できない個所はすごく気になったし、カメラワークが悪く見えない所があるといらだった。

 それほどまでに僕は自分でも気がつかないうちに、すっかりアイスダンスという競技の世界に生きる人間になっていた。


 そして、技のすごさと難しさに感嘆させられると同時に、だからこそ心の底から突き上げるような思いが湧いていた。


 これまで、僕は一体何を目指してダンスをやっていたのだろう。

 僕は何も目指してなかった。ただ勝つとか負けるとか、面子がどうのとか、そんな思いばかりでやってきた。随分つまらないことに振り回されていたものだと思う。アイスダンスを嫌いなわけではなかったし、面白いと思う瞬間もあったのに。


 どうしてだか、この時は何かが吹っ切れたように、まっすぐにアイスダンスの本質に目を向けることができた。

 これがアイスダンスの頂点なら、極める価値がある。目指す価値がある。

 陽向さんがこの映像を僕に見せたいと思う気持ちが分かった。


 暖房室の片づけを終えると、陽向さんの母親が先に車に行って暖めておくからあとで二人で駐車場に来れるかと聞いてきた。

「場所は覚えてる?」

 僕は全く覚えていなかったけれど、陽向さんは二つ返事でうなずいていた。僕たちは更衣室の入口で落ち合う約束をして、それぞれ着替えるために別れた。と言っても僕はすぐに着替え終わったので、ずっと入り口で待っていた。


「お待たせしました。ごめんね」

 しばらくすると申し訳なさそうに笑いながら陽向さんが現れた。

 ウールのコートに、スポーツバックを提げて、スケート用の靴袋を肩にかけていた。

 その靴袋には小さなバッジだのマスコットだのが大量に飾られていた。試合に出る度にみんながくれるので、いつの間にかこうなってしまったのだといつか言っていた。


 僕たちは駐車場に向かって歩き出した。誰もいない通路は、足音も響きそうなくらいの静けさだった。その静けさを壊さないくらいの声で、陽向さんが僕に問いかけた。


「制覇君。理想的なスケーターの足は、どうして理想的なのか、分かる?」

 理想的なスケーターの足。それは陽向さんと初めて会った時、僕と組む理由として陽向さんが言ってくれた言葉だった。


「それはね、その人がそれまできちんと滑ってきたからよ。生まれた時からスケーターの足をしてる人なんて、いないんだから」


 そう言って陽向さんは、勝ち気な笑顔を僕に向けた。

 スケーターの足というのは、才能のように生まれ持ってのものを指すわけではないのだと僕は教えられた。


「それは、これから先も同じ。結果というものは、やるべきことを積み重ねた先にしか待っていない。そういう積み重ねを続けていける人かどうかは、これまでを見れば分かる。――だから私は、五年後、十年後を考えて、制覇君を選んだの」


 そう言うと陽向さんは僕の少し先を軽やかに歩いていった。

 彼女のまわりでたくさんのマスコットたちが、楽しそうに揺れていた。



 車は暗がりの道を進んだ。

 山と田んぼと畑と町が何度も交互に現れた。僕の住んでいる地域と違い、灯りがとても乏しかった。車の窓を通してでさえ、きれいな星が見えていた。


「さっきのあの子たちね、二位と三十点以上の差をつけて優勝したの。きっと次か、その次のオリンピックで絶対に表彰台に上がる、私はそう思ってる」

 帰りの車中で陽向さんはそう言った。

 三十点というのがどの程度の価値かは分からなかったけれど、二位と大きな差をつけたということだけは理解した。それほど素晴らしい演技であることは確かだった。


「私の夢はね、あの子たちと同じ表彰台に立つことなの」

 陽向さんはそう言うと、僕の座席に手をかけてすぐ耳元まで身体を乗り出してきた。

「知ってる? 制覇くん。日本はまだオリンピックでアイスダンスのメダルを取ったことがないってこと」

 かすかに熱のこもった言葉が僕の首筋をでる。

 一呼吸おくと、彼女はゆっくりと続けた。

「私はそれを、日本で一番最初に取りに行こうと思ってる」

 昂然こうぜんとしたものだった。陽向さんの母親も当たり前のように運転を続けた。


 僕は驚くと同時に、妙に納得した。

 普通だったらシングルを選択するのが当たり前。アイスダンスを選択するのは、ジャンプに行き詰まったり体を壊したり、シングルで上位に行けないことを悟った時だと、そんな風に周囲の人間の多くが考えていることを僕はひしひしと感じていた。

 でも――

 思った通り、この人は違うんだ! この人は、日本がすでにメダルを持っているシングルよりもダンスに挑むことの方が面白いと感じて、ダンスに移ったんだ。そういう感性の人なんだ……!


 僕はそれまで陽向さんがダンスをしている理由を聞いたことがなかった。ダンスなら簡単に日本で一番になれるからなんて、そんな程度のことを陽向さんが考えているわけがなかった。そんな陽向さん、いるわけがない。ましてや、ダンスは楽しいだとか、憧れるだとか、そんな見た目によく似合う理由でやっているなんて言われたら、それこそ驚くところだった。

 彼女はもう、そんな地点はとっくに通過しているだろう。


 僕は何も言わなかった。現実が少しずつ見えてきて、もう前のように軽はずみなことは言いたくなかった。

 僕はこれまで試合に出たこともなければ、それを目指して熱心にスケートに取り組んできたわけでもない。やれるようになりたいことが次々と現れるから、ただそれを身につけたくて夢中になって遊んできただけだ。

 だけど、そんな僕の取り組み方を陽向さんは認めてくれているような気がした。

 だとしたら、僕は――


 ……目を閉じるとまぶたの裏に、目指してみたい頂点の景色が浮かんでいた。



「制覇君、ここでいい?」

 陽向さんの母親の声が静かに聞こえた。僕は慌てて目を覚ました。やばい。送ってもらってたのに寝かけてた。こんな夜中にクラシックをかけるのはやめて欲しい。僕は不用意に目を閉じたことを後悔した。

「あ、はい。ここです。ここです」

 僕は辺りを見渡した。車はちょうど僕のアパートの前に止まっていた。

 僕が車から降りると、同じようにうとうとしかけていた陽向さんがこっちを見て手を振ってくれた。陽向さんのお母さんもにっこり笑ってくれた。

「ありがとうございました」

 僕はそう言うと、深々と頭を下げた。そのまま車が見えなくなるまで、頭を下げ続けた。


 時刻はすでに十二時に近かった。あの人たちはまた明日の朝も貸し切りに向かう。

 異常だ。

 こんな時間まで練習する奴も、新幹線で東京まで行く奴も、それを支えてくれる人たちも、みんな異常だ。


 今日のセッションは社会人向けだから特に遅い時間だったと聞いたけれど、社会人向けじゃないセッションなんてあるんだろうか。中高生向けセッション……? そんなものあるわけない。

 今のリンクには姫島先生以外に数人インストラクターがいるけれど、ダンスをしている中高生なんて見たことない。


 数少ないダンスをしている奴らの中から、身長だの年令だのを考えて相手を探して、お互いと更にはコーチの都合を考えて練習場所や時間帯を決めなくちゃならない。近場で良い時間帯に納得いくまで練習できるとは限らない。プレシルバーを取るだけですらハードルが高いのに、あまりに練習環境が悪すぎる。そんな練習スタイルを二人で何年維持できるだろう。

「そりゃ、競技人口も少ないよ」


 身近な所でもっと沢山の人がアイスダンスを楽しめれば……。


 つい数日前、わけも分からず聞いていた流斗の言葉が、やっと本当の意味で聞こえ始めた。


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