目覚め(3)

 先生は暖房室のベンチの上にノートパソコンを置いた。

 陽向さんはPCが立ち上がるのが待ちきれないように、先生のまわりをうろうろした。時にPCの前にしゃがみこんで、画面を覗き込んだりもした。

 そのはつらつとした姿が、たまらなく苦しかった。一緒に頑張ってきた相手でなければ、逃げて帰ってしまいたかった。

 入り口から入ってすぐの所で、僕はしばらく立っていた。


 先生に頼まれていた延長ケーブルを、吉田さんがどこからか運んできた。暖房のすぐそばには陽向さんのお母さんが座っていて、小さな本に目を落としていた。

 いつの間にかリンクにいるのは暖房室の中のこの五人だけになっていた。


 立ち上がったPCにディスクを入れると先生が言った。

「ではまず、一位のフリーから」

 いきなり一位からと言われ、たじろいだ。普通、三位などから徐々に順位を上げていくものではないだろうか。


 陽向さんが僕の腕を引っ張って画面の前まで連れていった。僕たちは二人でそこにしゃがみこんだ。僕は陽向さんと目を合わせないよう、すぐに画面の方を見た。これから先の表情を見られたくなかった。


 画面には少し引いた所からリンクが映し出されていた。

 しばらくすると二人の選手が大きな螺旋らせんを描きながら登場した。リンクの中央で立ち止まる。映える立ち姿だった。流斗が転入して来た日、教室で初めてその姿を見た時のことを思い出した。あいつのあの異世界感はこの時のためにあったのだと愕然がくぜんとした。そしてその隣に立つパートナーは、それにも増して目を引いた。

 ――何、この子? アイドルか?

 腰まである流れるような漆黒の髪。透けるような白い肌。遠い所から撮っているビデオですら表情が分かるくらいのはっきりした顔立ち。何頭身だろうかと思うほどの手足の長さと顔の小ささ。

 曲が始まるのに備えて、片方の膝と腕を曲げて構えたその姿は芸術的で、只者ではない美しさだった。

「日本人離れしたビジュアルね。ある意味有利だわ」


 僕が知っている中で一番美しい女の子は陽向さんだった。しかし陽向さんがモデルになれるかといったら、ちょっと難しいかもしれない。

 だけど陽向さんの美しさは、そんな体の作りではなくニュアンスのある動きにあった。ただ立っているよりも動いている時の方がずっと素晴らしかった。表情も顔だけではなく、全身から伝わってきた。志や人間味すら所作の美しさに加わっていた。そして、そんな動きを作り出せるほど機能的に磨き抜かれているからこそ、彼女の体つきは輝きを放っていた。

 画面を見ながら僕はこういう絵に描いたような美形には、何の興味もないと思った。いや、本当に……。


 音楽がゆっくりと聞こえ始めた。どこかで聞いたことのあるような曲だった。

 二人の踏み出した最初の一歩は大きく、しっかりしたエッジワークで、徐々に盛り上がる音楽と申し分なく合っていた。


 上手い……。


 最初の数歩を見た瞬間、そう思った。

 が、何かがおかしい。

 僕の最初の感想はすぐにくつがえされた。


 これは……

 僕は画面の前で首をかしげた。


 超絶下手だ――!!


 二人の動作の不ぞろいさが目に付いた。フリーレッグの高さも合っていなければ、ステップやツイズルでの体の向きもバラバラだった。スピードが充分だったのは組んでなかった最初だけ。組んだ途端にそのスピード感は一気に損なわれた。その不十分なスピードも、リフトの前後にはさらに落ちた。まるで持ち上げたり下したりする度に、どっこいしょとでも言っているかのようだった。スピンの前後も違和感だらけだった。


 ええー?? なにこれ? 遊んでるの?

 これが全日本ジュニアのトップ???


 僕の頭の中には???が飛びまくった。

「さすが即席カップルね。練習不足が否めないわ」

 練習不足、まさにその通り。そうだ、本人もそう言っていた。最悪の出来だったと。

 よく見ると一人一人はやっぱり上手い。エッジの乗りも良ければ、難しそうなこともかなりやっている。二人の調和も見慣れてくるとそれほど悪いというほどでもない。それでもこんなに下手に見えてしまう……。


「この先生のセンスも考えられないわ。有名な方らしいけれど、何を考えてこんなプログラムを作るのかしら。こなせもしないような小難しい技ばかりを入れてないで、もっと滑らせてあげれば良いのに。魅せることの出来ないプログラムなんて時代遅れもいいとこよ」

 二人の演技が終わった途端、先生は辛口の批評を炸裂さくれつさせていた。陽向さんは先生の批評をもっともらしい顔つきで聞いていた。僕は複雑な思いで二人を見ていた。

 結局、人がやったことを見て批判だけするのは簡単なんだ。実際にはかなり上手いと思われるこの二人が、なぜ上手く見えるように滑れないのかって、それは二人で合わせることがそれだけ難しいってことなんじゃないのか……?


 僕は二人の演技のあまりの出来に衝撃を受けていた。それがトップという事実をどう捕えて良いのか分からず、陽向さんと一緒に先生のコメントにうなずいて良いのかも分からなかった。

 しかし次に映し出されたショートの途中で、僕はこの二人の実力を見た。


「これ……」

「ヴィニーズワルツよ」

 先生が言った。さっき目の前で陽向さんが滑っていたものだった。

「フリーは滅茶苦茶だったけれど、これでこの子たちのポテンシャルはうかがえたわね」

 それまでがまるで嘘のように、突然滑りが変わった。何の違和感もない、流れるようなそろい具合。エッジもしっかりしていて、曲にも合っている。


「この二人、組んでからは日が浅いけれど、それぞれのダンス歴は長いらしいのよ。それだけあってパターンダンスはさすがにしっかりしてるわね。このパターンダンスをやられちゃ、点をつけないわけにはいかないわ。フリーなんて関係なく優勝決定って感じね」

 その言葉に、陽向さんは自信を崩さずに言った。

「でも、負ける気はしません」

 確かに、陽向さんは負けていない。と、僕は思った。

 そう。陽向さんは負けていない。負けていないどころか、僕にはむしろ……。

 でも、陽向さんだけじゃ……と思うと、僕はちっとも陽向さんのように堂々とした態度ではいられなかった。


「参考までに二位もどうぞ」

 そう言って先生は続けて二位の組を再生した。エッジが甘いどころか、どのエッジに乗りたいのかすら分からないような滑りだった。先生は「箸にも棒にもかからないわね」とつまらなそうに漏らした。全日本二位でこれかと思うとますますショックが増した。

 先生はPCからDVDを取り出した。参考と言って再生されたのは、二位までだった。しゃべり方からして、三位以下には興味もないのだろう。


 先生は、陽向さんとその横で黙り続けている僕に言った。

「でも、ダンスの勝負はシニアよ。ジュニアなんて見ていても仕方がないわ。シニアはもう三週間もすれば結果が出るから。それからね」

 ジュニアなんて眼中にないということなのだろうか。僕は二人の態度に違和感を感じずにはいられなかった。どうしてこの人たちはそんなに自信を持っていられるのだろう。まだ試合に出たこともなく、自分の立ち位置すら分からないはずなのに。


 吉田さんの声がした。

「先生、今年のジュニアはさっきの二組だけだったんですか?」

 それに対して先生が答えた。

「そう。二組だったのよ。今年は一段と少なかったみたいね。この子たちが途中で入ってこなかったら一組よ、一組。恐ろしいわ~」

 二組? 全国でたったの二組?

「二組しか出ないってことは、出るだけで最低でも三位入賞ってことですよね……?」

 僕は唖然としてつぶやいた。

「まあ、今年で言えばそうね。でもたまには三組より多いことだってあるのよ」

 たまにはって……。いくらなんでも、競技人口少なすぎでしょ……。


「だからなんですか? だからそんなに余裕の態度なんですか? 数組しかいないような試合なら、出るだけで入賞、上手くすれば簡単に優勝できるかも知れない。陽向さんくらいの実力があれば、そう思っても不思議はないですよね? パートナーが僕程度でも、出場さえすれば日本のトップになれるかもしれない――もしかしてあなたたちは、そういう風に考えて、アイスダンスに参戦しようとしてるんですか……?」

 僕は混乱していた。それまでの色々な思い、色々な情報が整理できないまま、頭の中を巡っていた。

「僕はジュニアで優勝した奴を知ってるんです。すごく上手い奴です。でもさっきの映像……。あれ、何ですか? ひどくないですか? でも、あれだけ上手い奴があの程度にしか滑れないってことは、それだけアイスダンスが難しいってことなのかなとも思うんです。だけど、そいつが言ってたんです。運動神経の良い奴がもっとやっていれば、自分なんか埋もれてたはずだって。競技人口が少なすぎるんだって。それがここまで少ないなんて。驚きですよ」


 ここまでマイナーな競技なら、僕でも勝てるかもしれない。あんなので良いのなら僕でもトップになれるかも知れない。

 競技人口を知ったことで僕はダンスをあなどろうとしていた。

 しかし僕の中の混乱は続いていた。心がざわついて、何度も何度も、考えが行ったり来たりした。そんなに簡単に勝てるわけがない。あの流斗ですらあそこまでしかできないのだ、アイスダンスはとても難しい競技なのだと。

 そう思うことは僕の自信を喪失させるはずなのに、どうしてだかその考えから離れたくなかった。


「競技人口なんて、つまらないことを言うものね」

 先生はいらついたようにそう言うと、情熱のこもった調子で僕に訴えかけた。

「あのねえ制覇君。私は本気で陽向ちゃんは世界に行ける実力を持ってると思って、真剣にやっているの。ライバルの数なんて、そんなものいくつだろうと関係ないのよ。一組だろうと、千組だろうと目指すはトップ。同じことよ。競技人口だなんてくだらないことに惑わされていないで、あなたもしっかりやることだけを考えてちょうだい!」


 先生の答えは、僕の知りたいと思っていることからずれているように思えた。

 結局、この人は陽向さんしか見えていない。だから、一組でも千組でも同じだなんて発想になるのだ。

 僕がこの人に問いたがっていることは、何なのだろう。


「陽向ちゃん、陽向ちゃんって、あなた一体何なんですか? 本気でダンスをなめてますよね? 二人でやることなんですよ? 僕は陽向さんがすごいことは否定しません。だけどそれだけじゃ……」

 本来絶対ダメなはずなのだ。相手が僕なんかじゃ……。


 だけどこの人たちは、それでいいと思っているのかも知れない。

 僕なんかには何も期待していないのかもしれない。

 期待する必要などないのかもしれない。

 残念ながら僕が思っているほど、アイスダンスは大した競技ではないのかもしれない。

 だからこの人たちは、余裕の態度なのかもしれない。

 だから陽向さんのような素晴らしい人が、僕なんかをパートナーにしていられるのかもしれない――。


「何を言っているの。二人でやることだからこそ、あなたが必要なんでしょ。一人じゃエントリーもできないんだから」

「エントリー……! その程度ですよね。僕の価値なんてその程度ですよね!?」

 僕は先生に対して声を荒らげた。ここで出てくるのがエントリーの話だなんて。

 パートナーなんて男なら誰でも良いというのだろうか。エントリーさえできれば……?

 そんなはず絶対にない。ダンスはそんなに簡単じゃない。特に男は。女の子よりも高い技量が必要な部分だってある。

 違うのか――!?


「制覇君の前にね」

 突然、陽向さんが口を開いた。

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