八. 朝を迎えて。

 朝を迎えて(1)

 僕はみんなの寝静まった部屋へそっと帰った。

 子ども部屋に入ると大義の寝息が聞こえた。明かりをつけないままノートパソコンのところまで行き、電源を入れる。起動する時、思ったよりもずっと大きな音が鳴った。でも構うもんかと思った。どうせ大義はそんなことなんかで起きるはずがない。靴からエッジカバーを外し床に置くと、パターンダンスのDVDを手に取った。バッジテストの課題、とりあえずなんとかして覚えよう。今度のバッジテストに、まずは合格してみせよう。

 僕は未知の世界に進んでいくのに、拠り所となるような何かを求めていた。

 画面の前に座り、ステップを口に出してみる。全然覚えられていない。吉田さんに言われたように、体を動かしながらやってみようか。なんだか恥ずかしい気がするけれど、誰かに見られるわけじゃない。それで覚えられるならやってみるべきか。


 立ち上がり、ステップに合わせて足踏みをしてみた。一分後。子ども部屋のドアが静かに開いた。母親と目が合う。

 寝てたんじゃなかったのかっ。

 驚いた僕は動きを止めた。母はわずかに開けたドアの隙間から、手招きで僕を呼んだ。足踏みする音がアパートに響いてしまったか。怒られることを覚悟し、ドアに向かおうとすると、なぜかPCも持って来いと合図された。


「こっちで電気つけてやりなさい。光癲癇ひかりてんかんなんかになっても困るから」

 部屋を出るなり、思ったことと違うことで怒られた。そんなもの、そう簡単になるわけがない。そんなことを言うために、わざわざ起きてきたのか?

 僕がコタツにPCを置くと、母はエアコンのスイッチを入れた。

「寒くない? コタツもつける?」

 寝ている部屋からまぶしい所に出てきたせいか、眉間みけんに皺を寄せている。なんとなく怖いんだけど、でも、怒りに来たわけではなさそうだ。

「いや……いらない」

 PCには映像が流れ続けていた。僕は落ち着かない気持ちで、母が寝室へと引き取るのを待った。立ちつくしている僕を見て、母は

「あ、踊りながらやらなきゃならないとか?」

 と張り切って聞いてきた。

 踊るって言うな!

 僕は動揺を抑えながら

「そんなこともないけど……」

 と答えた。すると母は

「ないけど、何よ? さっきバタバタやりながら見てたじゃない? それをまだやるのかって聞いてるのよ」

 と今度はとても不機嫌に言った。


 変なところを見られたのだ。不機嫌になりたいのはこっちの方だ。

「何、怒ってんだよ? 別にやんないでいいよ」

「別にやんないでいいって……あのねえ。やる必要があるんだったらやりなさいよ。どうしてやらないでいいなんて、平気で言うのよ?」

 母は、ますます怒り出した。


「恥ずかしいから?」

 腹立たしそうに言われる。

「この数ヶ月のあなたを見ててもね、同じような感じのときが何度もあったんだけど?」

 それは、パターンダンスのDVDを家族の前で見ることができなくて、悩んでいた頃のことを言っているのだと思った。

 それの一体何が気に入らなかったのか。母は僕を座らせると向かい合うように正座した。


 あなたは子どもの頃、あ、今も子どもだけどね――そういって母は昔話を始めた。


「ずっと前よ。保育園の頃。あなたはやれもしないことをやれるって啖呵たんか切ってみたり、人のやったことを見下みくだしてみたり。ほんとにひどい負けず嫌いだった」

 母が言うには、僕はそんな子どもだったらしい。


「あまりにもそれがひどいもんだから、私たちは親としてあなたに、世の中勝つか負けるかだけじゃないんだってことを、教えなきゃって思ってやってきたのよ」

「分かってるよ。勝ち負けよりも、人に尽くすこと、だろ」


 一番になんてならなくてもいいんだと、僕はずっと言われて育ってきた。だから、勝ちたいだの負けたくないだのを口に出したことなんて、ここのところずっとない。

 それなのになんでまたこんな話を、と思っている僕の前で、母は続けた。


「どうしてそういう風に言ってきたかっていうと、人間っていうのはね、人と協力し合って生きているものだからなのよ」

 だから人に勝てばいいというのではなく、人の役に立つことの大切さを知っておいて欲しかったのだと母の話は長々と続いた。

 僕はバッジテストまでの日数を心の中で数えながら、母の話を上の空で聞いていた。


 しかしそんな母が、聞き飽きた話の後に「でもこんな話は、あなたももう充分に分かる歳になっただろうし……」とつなげ、そして言った。

「だから、これからはもう少し好きにしてみたらどう?」


 それから母は、初めて大阪のリンクに行った時のことを語りだした。スケートといっても見慣れたモミの木とは違う、張り詰めた雰囲気をの当たりにして、母は自分が滑るわけでもないのにものすごく緊張したらしい。

 話を聞いて僕も思い出した。あの、緊張感。あそこには娯楽としてではなく、真剣にスケートに打ち込んでいる人が何人もいる。とんでもないところに来てしまったというのが、僕の最初の印象だった。

「あなたは今、そんな場所で過ごしてきた人に声をかけられて、アイスダンスをやっているんでしょう? そこで求められているのは、あなたにしかできないことを精一杯極めることなんじゃないの? だったら、思いっきり頑張ってみたら?」


 母にそんな風に言われるなんて、思ってもみないことだった。


「あなたもこんな遅くまで練習してきたのにまだ練習したいほど、アイスダンスに惹かれているんでしょう? この状況で自分を抑えてちゃ、もったいないよ」

 母は、そう言って居間から消えた。



 翌朝。僕はまだ暗い中、自転車でモミの木に向かって飛び出した。

 これまでは立て続けに貸し切りに出ようものなら、スケートばかりにのぼせるなと注意をされたところだ。だけど、この日の母はそれを許してくれた。陽向さんと別の練習になることで、費用がかかることも了承してくれた。それどころか、僕と話し込んで一時過ぎまで起きていたのに、五時半に起きて朝食まで作ってくれた。

 わりと気分屋な人だからいつまで付き合ってくれる気かは分からないし、そーゆーのって余計なお世話という気もしたけど、だけど僕は嬉しかった。

 なぜなら僕は、「別にどーでもいいけどね」と心の中で言いながら、本当はどうでもよくなんてなかったのだから。自分の名前を否定され、自分の中の感情を抑えて過ごす日常に、納得なんてしてはいなかったのだから。


 僕は自分の中から湧き出るような感覚に、久しぶりに素直になれた気がした。

 前の夜、セッションという短い間にも、何度も訪れた感覚。

 色んな人と組んで上手く滑れた時にも、陽向さんのワルツを見た時にも、そして世界ジュニアのトップ選手を見た時にも湧きあがった、体が勝手に何かを追い求めていくような感覚。


 そんな大切な感覚を覆い隠すほどに、僕には雑多なものが降り積もっていた。敗北への恐れだとか、恥ずかしさだとか、プライドだとか、見栄だとか、自信のなさだとか。

 何という名前なのかも分からないような感情だとか。

 そんな雑多な思いが全部消えたわけじゃない。

 でも今はそれよりも、この本能がざわめくような心の奥底からの感覚を、大事にしたいと思った。



 遠くの山の端がわずかに白み始めた。夜明けが近づいていた。

 ほとんど眠っていないのに、僕は眠気を感じなかった。

 十二月の朝は痛いほど寒い。冷たい空気が顔に当たった。僕は目を細めた。風を切って走るのが、心地よかった。

 この感じ――何かに似ている。

 そうだ。

 どうして僕が、中学で部活に入らなかったって。自分では気がついていなかったけれど、そこには理由がなかったわけじゃない。僕は、すでに選んでいたんだ。この爽快感を。


 そして手を繋げば、この快感が何倍にも膨らんでいくことを僕は知っている。

 それを知っている人が日本にはほとんどいないなんて。

 そう思うと、なんだか愉快に思えてきた。


 二組しかいない試合だからって、なんだっていうんだ。

 陽向さんにふさわしいかどうかなんて、今僕が悩んでどうするんだ。


 ほとんど人の踏み入れていない場所に、僕たちは挑もうとしている。

 そんな興奮が、僕の心を激しく揺さぶっていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人