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 アメリカ出張から帰ってきたその週末、家から五キロほど離れたオーセンティック自動車を自転車に乗って訪ねた。この会社は外国車を専門に販売しており、道路に面したショールームには一昔前の欧州車が陳列してある。

 用があるのはショールームの裏手の整備工場なので自転車に乗ったまま会社敷地内に入っていった。整備工場ではメカニックたちが車の下に入って作業をしている。私は車のボンネットを開けて作業をしている初老で小柄な人物に話しかけた。

「こんにちは、小林さん」

 小林さんは外国車一筋三十五年のベテランメカニックだ。

「あ、倉田さん。いらっしゃい。あれ? 今日は自転車ですか?」

「会社の健康診断の結果が悪かったもので、気休め程度に運動でもしようかと決心した次第です」

「ははは。最近あちこちで良く聞く話ですね」

「ええ、無駄に長生きしようかと最近思い始めまして」

「そんなことが言えれば当分死にませんよ。まあとりあえず見てください」

 私は自転車を停め、小林さんと一緒に整備工場の一番奥に置いてある車まで歩いていった。

「資料を見ながらご希望通りにアリタリア航空カラーで塗装したのですが、気に入って頂けるかどうかわからないので先日お電話差し上げた次第です」

 目の前には綺麗に塗装されたストラトスが置いてあった。私はストラトスの塗装を注意深く観察した。

「ほお、細部まで良く再現できてますね。やはり、こういった塗装の資料ってイタリアから取り寄せたりするのですか?」

「いいえ。最終的には田宮のプラモデルを参考にしました」

「そりゃ面白い」

 このストラトスは五年前、知り合いの家のガレージで放置されているものを私が偶然見つけたものだ。見つけた当初は錆がひどくてエンジンも何もかもダメで、何をどう考えても走れるような代物では無かった。ストラトスの所有者はすでに何年も前に他界しており、所有者の奥方が扱いに困っていたので私が中型国産車一台分程度の金額で譲ってもらった。

 そして私はストラトスを小林さんに預け、少しずつ、本当に少しずつレストアを始めた。当初は見た目を戻して走行できれば良いと思っていたのだが、どうせならショーイチさんに乗せてもらった時のストラトスに仕上げたいと思い、譲ってもらった金額の倍ほど費やしてやっと完成が近づいてきたのだった。

「私が言うのも何ですが、このストラトスはかなり良く仕上がったと思います。さすがに競技には出られませんが、街乗りは普通にできるようにしてあります。ブレーキも効きますし、エンジンの吹け上がりも最高です。あとは……」

「四連発の夜間用ライトですか」

「そうです。それの調達が遅れているもので。あの強烈なライトが無いと印象が弱いのです。ご存じかと思いますが、残念ながら現在の法律ではあのライトは点灯させて公道を走行させることができません」

「最悪、実際に点灯しなくても構いません」

「いや、そうはいきません。必ず配線をして点灯できるようにしておきます。ダミーの部品など取り付けても意味はありませんから」

「わかりました。小林さんにすべておまかせします」

「それはそうと、今度仮ナンバーをとってきますから試乗してみますか?」

「いや、完全に完成するまで楽しみはとっておきますよ」

「楽しみは最後の最後までってところですか」

「まあそんなところです。それと先に残金を払っておきます。今日持ってきたので」

「別に夏のボーナスのあとでも構いませんよ」

「いや、ギャンブルであぶく銭が入ったので。一応百五十万円預けておきます。車を受け取る時に精算してください。もし足らなかったら教えてください」

「いや、十分です。百五十万円ですか、羨ましい……では事務所に行きますか」

 小林さんは腰のタオルで手を拭くと事務所に向かって歩き出した。


 ストラトスを見た数日後、総務から内線で電話があった。

「安田です。倉田さん、再検査の結果が出たので予約をして病院に行ってください」

「ここで聞けないの?」

「プライバシーに関わることなので病院で聞いてください。中身は私も知りません。連絡先などの書類は今から私がお持ちします」

 何を大げさなとは思ったが、胃痛の件もあるし病院に行くに越したことはない。仮に私が入院したところで、いや入院してみても悪く無い気はした。私一人が抜けたところで二ヶ月もすれば私抜きの体制ができあがるはずだ。退院後に職場復帰して新しい体制を見るのも悪くない。もし私が必要無くなっていればその時点で考えればいい。

 そんなことを考えていたら書類を持って安田がやってきた。

「倉田さん、こちらがその書類です。すぐに連絡していただかないとこちらの仕事が増えますので」

「わかっている。今から電話する」

 私が受話器を取って書類の電話番号を回すのを見届けて安田は立ち去った。

 予約をした当日、私は妻と一緒に病院の待合室で順番を待っていた。来院時に妻を連れて行く必要があると言うことを聞いて、初めて私は深刻な病に冒されているのではとの不安に駆られた。それは妻も同じで、昨日の晩は何度も寝返りを打って寝付かれない様子だった。

 小一時間ほど待った時、私の名前が呼ばれた。妻にはあとで呼ぶと言って私だけ先に診察室に入った。


「すみません先生、もう一度説明して頂けますか?」

 私は再び視線を医師に戻して尋ねた。

 医師の説明がわかりづらかったわけでは無く、話の途中から頭の中が白くなって何も考えられなくなったからだった。

「あなたの胃痛の原因は癌だったのです」

「どの程度悪いのですか?」

「はっきり申し上げてかなり悪く、他の臓器に転移が認められます」

 医師はそこで私の目を見て説明を区切った。それはその先に続く説明が私にとって厳しい結果となることを予想させた。

「奥様は?」

「外で待たせています。結果は私の口から直接伝えようと思っていたもので」

 医師は頷くとファイルから写真を取り出して私の目の前のボードに差した。

「認められた転移は現在のところ肝臓および肺です」

 医師は写真の一部をボールペンの先で指しながら説明を始めたが、私は癌の影と言われたところであまり良く理解できなかった。それよりその説明が今の私にとってどれほど意味があるものか疑問であった。

「先生、説明の途中で申し訳ありませんがこのまま治療をしなかった場合どうなりますか?」

 正直、恐怖で『余命』とは聞けなかった。

「治療をしなかった場合……恐らく持って一年です」

「残りの人生が……ということですか?」

「はい」

 もうダメだった。この時点ですべてを理解し、受け入れるしか無かった。私は口の前に両手を運んで合わせると天を仰いだ。天井の蛍光灯がにじみ出てきた涙で歪んで見えた。

「倉田さん、良く聞いてください。まだ命を落とすと決まったわけでは無いです」

「しかし……」

 医師の顔を再び見た。

「治療という選択肢があります」

「治療したら完治するのですか?」

「今の時点では何とも言えません。しかし一年以内に命を落とす可能性は低くなります」

「治療は苦痛を伴うものなのですか?」

「治療方法によってはそうなる場合もあります。現時点では確固とした治療方針を出すことができません。すべては入院後の精密検査を待ってということになります」

「わかりました」

 私は再び放心状態に陥った。

 何故こうなったとかどうしてとか意味が無い自問自答だった。同じように何が悪かったとか何をどうするべきだったかも意味が無かった。ただ、今どうするべきであるかは明らかであった。妻にこのことを伝える必要がある。

「先生……先生の口から妻に説明をお願いできるでしょうか?」

 今の状態で私の口から冷静に説明するのは不可能だった。

「倉田さんはご同席されないのですか?」

「トイレに行ってから戻ってきます」

「わかりました」

 私は椅子から立ち上がると診察室を出て不安そうな顔をしている妻を呼び、診察室に案内した。妻にはあとから戻ると伝えるとトイレを探しに廊下に出た。あいにく診察室がある階のトイレには先客がいて私一人になれるような状況では無かった。

 非常階段を駆け上がり、病室がある階のトイレがようやく空いていた。中に入ると鏡で自分の顔を見た。

――こんな簡単に終わるのか

 自然と涙があふれてきた。止めどなく出てくる鼻水をトイレットペーパーでぬぐった。そして突然こみ上げてきた胃液を便器に吐き出した。この吐き気が癌からくるものなのか、それとも精神的なものからきたものかはわからない。だが、どうせなら癌細胞も一緒に吐き出せればどんなに楽かと思った。

 吐いたら少し落ち着いてきたので顔を洗ってハンカチで拭いた。気分は診察室にいた時より大分良くなっている。トイレを出て廊下に出ると病室が見えた。そこには複数の管が装着され、呼吸器をつけて横たわっている患者と付き添いの家族らしき女性が見えた。

――同じだ……

 これと同じ景色は過去に見ている。祖父が入院した時だ。直感的にその患者は助からないような気がした。通り過ぎようとした時、付き添いの女性と目が合った。私は会釈をすると非常階段へ急いだ。


 診察室に戻ると、私が座っていた椅子に妻が座ってハンカチを口に当てていた。

「先生からの説明は?」

 妻は頷いた。

「私の方から倉田さんに話した説明と同じ説明をしました」

「ありがとうございます」

 私はかなり落ち着きを取り戻しつつあったが、妻はまだ時間がかかりそうだった。

「あの時、あなたが血便だと言った時に強引にでも病院に連れて行けばこんなことには……」

「いや、誰も悪くない。多分その時はすでに遅かった。こうなった以上は仕方が無いんだ」

「でも……」

 そう言う妻の表情を見ていたら、私が彼女に対してここ数年忘れていた感情が蘇ってきたような気がした。

「とにかく家に戻って入院の準備をしよう」

 私は妻の肩に両手を置いた。

「倉田さん、念のため数日分の痛み止めの薬を出しておきます。痛みがあったら我慢せずに使ってください」

「ありがとうございます。早急に入院の準備をします」

 私はよろめく妻を立ち上がらせて診察室をあとにした。

 妻は診療室を出てから一言も喋らず私の左腕を掴んでいた。私も何をどう言って良いかわからないので無言で病院の廊下を歩くしか無かった。

「家に帰ってまた話そう」

 そう言うと妻は再び無言で頷いた。


 薬をもらい、入院の手続き等を終わらせて病院から出る時にストラトスのことが頭に浮かんだ。

「ちょっと先に帰っていてくれ。会社に寄ってからすぐに家に戻る」

「でも先生から一緒に帰った方が良いと言われたわ」

「大丈夫、自殺はしないから」

 恐らく医師は私がショックを受けていると見て自殺の可能性が排除できないと思ったのであろう。交差点で妻をタクシーに乗せると、切ってあった携帯電話の電源を入れた。上司に詳細な病状は説明せずに、長期の入院を余儀なくされることを伝え、続いて小林さんに電話をかけた。ストラトスはすでにできあがっていると告げられた。

「小林さん、ストラトスに乗りたいのですが」

「ようやく乗る気になりましたか」

「急で申し訳無いのですが、明後日の午後にそちらに伺いますので仮ナンバーをお願いできますでしょうか?」

「構いませんが……ちなみにストラトスはご自宅の近くで登録される予定ですか?と言うのは仮ナンバーの使用は建前上、検査場や修理工場までの最短距離を走行する場合に限られているものですから。つまりあまりご自宅から離れた場所で乗るのは具合が悪いのです」

 完成したら近くの駐車場を借りる積もりだったが私が長期の入院をする以上、駐車場を借りるのは得策では無い。

「車両の登録は私の実家にしたいと思います。ちょっと事情が変わったものですから」

「わかりました」

「どうも、お手数をおかけします。後ほど必要な住所などをお知らせします」

「では明後日にお待ちしております」

 電話を切ると地下鉄に乗って会社に向かった。明日一日で引き継ぎができない場合に備え、念のため今日できる部分はやっておこうと思った。会社に到着するとすでに四時過ぎであった。部屋に入ると部下たちが驚いて私を見た。

「部長から入院されたと聞いていましたが」

「まだだ。二、三日先になる。長くなりそうなのでこれから引き継ぎをやりたいのだが、皆は大丈夫か?」

 部下たちは皆、神妙な顔で頷いた。私は自分の机の引き出しから必要な書類をすべて出し、それを持って会議室に向かった。部下は緊急事態であることを認識しているようで、私の指示に素直に従ってくれた。三時間ほどで大部分の引き継ぎは終わり、部下を帰らせると机の周囲を片付けてから警備室に向かった。

 警備室のドアをノックしたが、中から返事は無かった。どうやら今晩は源さんは留守のようだ。仕方がないので部下が帰ったあとに書いた手紙をドアの下の隙間から入れておいた。

――源さんへ。

何だかこの前の検査結果が悪くて入院しろと言われました。しばらくお会いできませんが、戻ってきたらまた寄らせていただきます。

 その足でいつもの定食屋に向かった。最後の晩餐の気分だった。食事を終えると妻に電話をかけてこれから帰ることを伝えて駅の改札を抜けた。


 駅の構内を歩く足取りは重かったが何故か体が軽くなったような気がした。何となく早足で階段を下りようとしてみたところ、階段の一歩目で右膝から崩れ落ち、反射的に手すりを強く掴んで体を支えた。

――軽くなんかなっていない……腰が抜けたのだ

 体勢が崩れた勢いでワイシャツの胸ポケットから携帯電話が飛び出して階段を転がり落ちていくのが見えた。

――それとも癌のせいで体の制御がうまくいかないのか

 携帯電話はホームまで転がり落ち、そのまま滑ってベンチの下に入っていった。私は右膝を押さえて立ち上がると階段をゆっくり下りていった。

 運悪く携帯電話の上のベンチには高校生くらいと思われる少女が座っている。これではベンチの下にいきなり手を入れて携帯電話を拾うわけにもいかない。

「すみませんが……」

 声をかけたが、少女は何も聞こえていないかのように正面を向いて座っている。さらに近づいてみたが、イヤフォンで音楽を聴いているわけでも無い。

「あの、ベンチの下の携帯電話を拾わせてください」

「あ、はい……」

 少女は立ち上がって私の顔を一瞥するとゆっくりと去っていった。私はしゃがんで携帯電話を取ると、操作ボタンを押して壊れていないことを確認してポケットに戻した。そしてゆっくりとベンチに腰を下ろした。

 このまま電車に乗ってまた膝から力が抜けても困る。現に右膝はまだ震えが残っている。原因はどうあれ、普通に歩ける状態に戻ってから家に帰ることにした。列車を三本ほど見送ったところで右膝に力が戻ってきたようだった。ゆっくりと立ち上がって右膝を曲げてみたが、痛みも無いし普通に歩けそうだった。

 この駅のホームは高い位置にあるので時折強い風が吹き抜ける。四月に入って暦の上では春になっていたが、風はまだ冷たい。私は自動販売機で暖かい缶コーヒーを二本買うと先細ったホームの先端に歩き出した。そこには先ほどの少女が線路を見つめて立っていた。

「電車でやるのは止めた方がいいよ。あまりあとが綺麗じゃないし」

「オジさん、誰?」

 少女は私の顔を睨んだ。

「私と会ってからすでに二十分近く経っているのに電車に乗る気配が無い。しかも携帯をいじるわけでも無くボーッと立っている」

 再び少女は線路を見つめた。

「私が思うに君は何らかの理由で死を考えている」

「だから何?」

「今そこにいる君が君である確率って計算したことある?」

「意味がわからない」

 少女は線路を見つめたままだ。

「卵子一個に対して突撃する精子が約六千万個、うち健康な精子が四千万個とすると受精した時点で君である確率は四千万分の一だ。もし受精の瞬間に一つ横の精子が割り込んで入っていたら今の君は男だったかも知れない」

 少女は無表情のまま動かない。

「そして君が生まれてきた。仮に無事に生まれてくる確率を八十パーセント程度とし、生まれたあとさらに病気や怪我や偶発的な事故に遭う確率を計算すると……今君が無事にここにいる確率はざっと二億分の一かな」

 昔、酔った亀井が言っていた講釈のを受け売りだった。

「私には関係無い」

「確かにそうだ。ただ、二億分の一の確率で当たったものを無駄に捨てるのもどうかなと思って。ちなみに宝くじで一等が当たる確率は五百万分の一くらいだ」

「そんなこと、どうでもいい」

「じゃあもし、これを言ってるこのオジさんの寿命があと一年だとしたら?」

 少女は驚いた表情でこちらを見た。

「実は今日、病院で癌の宣告を受けた。口から出任せじゃ無い。診断書も持っている。転移もしている。何も治療をしなければ一年後の今日はあの世にいると医者に言われた。ちなみに君は健康なの?」

 少女は頷いた。そして彼女の表情が少し緩んだのが見て取れた。

「じゃあ健康問題で死のうと考えているわけでは無いんだ。まあここで立ち話も何だからさっきのベンチに座ろうか? 寒いからこれでも飲みながら」

 私は缶コーヒーを少女に差し出した。

「缶コーヒーはちょっと……」

「そりゃ悪かった。じゃあ温かいお茶とかは?」

「はい」

「じゃあ買ってくるね。先にベンチに座って待ってて」

 その時、駅に向かってくる急行電車が見えた。念のため通り過ぎるまで待ってから温かいお茶を買ってベンチに戻った。


「さっきの話だけどオジさんさ、病院で癌って言われてしかも一年以内に死ぬかも知れないとか言われて泣き出しちゃって……格好悪いだろう?」

 少女は私が座って差し出したお茶を受け取った。

「オジさんは子供はいるの?」

「いない。でも病院には奥さんが来た」

「奥さんは?」

「やっぱりオジさんと同じように泣いていた」

 少女は手に持ったお茶の容器をじっと見つめている。

「君がもし本気で自殺を考えているのならここで止めても意味は無いのはわかっている。君が抱えている問題の根本的な部分を解決しない限り、どこか別の場所や方法で自殺するのが明白だからね」

「じゃあ何で止めたの?」

「簡単に言うと、今日は死体を見るような気分じゃ無いんだ。もし死体を見たら一年後の自分を見るようで……それに簡単に死ねるのがわかってしまったら、せっかく前向きに治療をする気になった自分が変わりそうでね」

 私は一本目の缶コーヒーを一気に飲み干し、二本目の蓋を開けた。

「そんなに急いで飲まなくてもいいのに」

 少女は笑ってお茶を口に含んだ。

「ほら、喉が渇いていたし、今飲まないと……いやそんなことは無いのだけれど入院したらもう飲めなくなるような気がしてさ」

「オジさん、何だかそう言う気分じゃ無くなったから私、今日は止めておく」

「そうか、良かった。ちなみに実行に移そうと思ったのは今日が初めて?」

「そう」

 少女は小さく頷いた。

「じゃあさ、一年後の今日のこの時間にオジさんはまたここに来る。来なかったら死んでいるか死にかかっていると思ってくれ。俺も君が来なかったら死んだと思うことにする。そしてもし、二人が無事再会できたら一緒に食事をしよう。いや、変な意味じゃなくて生きていることを祝うために。これは連絡先だ」

 会社の名刺を少女に渡すと驚いた顔をして私を見つめた。しかし私もそんなことを言い出した自分に驚いていた。

「約束はできないけど……」

「別に構わない」

 少女はベンチから立ち上がると私に右手を差し出した。私も右手を差し出そうとしたら制止された。

「違う。その空き缶。捨ててくるから」

「ああ。ありがとう」

 少女は私から空き缶を受け取ると離れた場所にあるゴミ箱の方に歩き出した。途中までその後ろ姿を見送ると、正面に視線を戻して溜めていた息を吐き出した。

 ホームにアナウンスが流れ、電車がホームに入ってきた。私は反射的に少女の歩いていった方向を見た。電車が急停車しなかったところを見ると大丈夫のようだった。電車が止まって人々が乗り降りしているのが見える。

 突然ベンチの後ろから声をかけられた。

「すみませんが、先ほどの学生さんのお知り合いですか?」

 振り向くと制服姿の駅員が立っていた。

「いいえ。話してはいましたが、通りすがりの者です」

「実は私、彼女のことをベンチに座っていた時から管理室のモニターで見ていました。彼女の雰囲気からして、もしかしたら線路に降りる気じゃないのかなと思いました。それで管理室から出て様子を見よう思ったところ、丁度お客様が彼女に話しかけられまして……」

「なるほど。だったら私がいなくても彼女は今日は無理だったのか」

「彼女はどのような感じでしたか?」

「もう落ち着いた感じでした。そう言えば戻ってこないな」

 再びゴミ箱の方に視線をやると、彼女の姿はもう無かった。駅員もホームの反対側を見たが彼女を見つけられないようだった。

「電車に乗られたようですね」

「とりあえず良かった」

「では私は管理室に戻ります。他の駅にも知らせる必要があるものですから」

「ますます今日は無理ということですね」

「ええ。そう簡単にさせるわけにはいきませんので」

 駅員は早足で階段の方に歩いていった。

 私も立ち上がって次の電車に乗ることにした。


 翌日、私が他の部署と接触するのが面倒になるであろうとの部長の配慮で、午後遅く出勤すると前日やり残した仕事を片付け始めた。

「倉田さんが戻られるまで僕たちは……」

 部下が私の席まで来て話しかけてきた。

「ありがとう。でも私のことは待たなくていい。いつ戻れるかなんて誰にもわからない。それに戻ったところでまた同じレベルで仕事ができるとも思えない」

 私は手を止めずに部下に答えた。

「通常通りに仕事を続けてくれ。そうしてくれた方が私が気を遣わなくて済むから」

「わかりました」

 部下は自分の席に戻っていった。

 もう彼らと仕事で顔を合わせることは無いであろうと思っていた。最悪の場合、彼らが次に私に会うのは私の葬儀の時だ。最後の私物を段ボール箱に詰めると、自宅宛ての伝票を貼った。

「それでは諸君、私はしばらく入院してくる。もし君たち全員が代わる代わる見舞いに来たりすると、私に死が近いのがバレるので気をつけてくれ」

 部長が彼らにどこまで私の病状を説明したのかわからないが、そう言うと部下たちは力無く笑ってくれた。私はそれで十分だった。これで仕事の片付けは終わりだ。手ぶらで部屋から出て警備室に向かったが、運が悪く今日も源さんはいないようだった。

 会社のビルから出て駅に向かって歩き出すと、後ろから走ってくる足音が聞こえた。振り返ると源さんだった。

「リョウちゃん、これを渡そうと思って」

 源さんは息を切らせ、作業ズボンのポケットから小さな紙袋を出して私に渡した。

「これはお守りですか?」

「ああ。今朝さ、今朝一番で家の近くの神社でもらってきたんだ」

「で、どんな御利益があるんですか?」

「時々願い事を叶えてくれるらしいんだ」

 真面目な顔をしてそう答えた源さんに思わず吹き出した。

「何ですか、そのいい加減な神様は?」

「でも無いよりマシだろう?」

「ありがとうございます。じゃあ病気が治るまで身につけておきます」

 私はお守りを首から提げると源さんに右手を差し出した。

「また帰ってくるんだよな?」

 源さんは私の右手を握り返した。

「ええ、また缶コーヒーを飲みながら話をしましょう。それまで源さんこそお元気で。それとこれに私の自宅の連絡先と携帯のメールと電話番号が書いてあります。何かあったら連絡してください」

 それ以上話すと涙が出そうだったので、源さんに名刺を渡すと踵を返して駅に向かった。


 その晩、家に帰ると妻が私の入院の準備をしている最中だった。

「夕飯は家で食べるわよね?」

「ああ」

「病院では食べられそうも無い香辛料がたっぷり入ったカレーを作っておいたわ」

「ありがとう。家に入った時に匂いでわかった」

「久しぶりに二人きりでの自宅の食事ね」

「ここ三年ほどは忙しくてすまな……」

「もう言わなくていいわ。残りの台詞は病院から退院する時に聞きますから」

 妻も私の状況を受け入れたようだった。恐らく私がいない時に友人や親類に相談をしていたのであろう。

「明日は小林さんのところでストラトスを受け取ってくる。その足で実家に行ってストラトスを置いて一泊して電車で帰ってくるから」

「あの車がやっと走れるようになる思ったら、今度はあなたが入院とはね」

「一応、今晩のうちに実家には俺から電話しておく。明後日から入院することは伝えるけど、お袋のこともあるので病状については言わないから口裏を合わせておいてくれ」

「わかったわ。余計な詮索をされるといけないから私は行かない方がいいわね」

「ああ、俺の入院の準備をしていると伝えておく」

「必ず薬は持って行ってね」

「大丈夫、それに無理だったら実家に行く途中でもこっちに戻ってくるから」

「そうしてね」

 妻は入院用のバッグのファスナーを閉めると、台所に歩き出した。


 翌日の午後、オーセンティック自動車にタクシーで乗り付けた。私がタクシーから降り立つと、丁度小林さんが事務所から出てくるところに出くわした。

「あれ、今日は自転車じゃ無いのですか?」

「ええ、今度は体力をセーブする必要が出てきたもので」

「倉田さんは体力を使ったり、セーブしたり忙しいですね。入院でもされるのですか?」

「ええ、実はその通りです」

「でも大したことは無いのでしょう?」

「はい。働き過ぎで内臓が悲鳴を上げたみたいです」

「ここ二、三年お忙しそうでしたから、たまにはゆっくりした方が良いですよ」

「はい。おっしゃる通りです」

「じゃあ、ストラトスのお披露目といきますか」

 小林さんは前回とは違ってショールームに隣接している来客用の駐車場に私を案内した。そこにはボンネット前部に四連の夜間ライトを取り付け、白地に赤と緑のラインで彩られたアリタリア航空カラーのストラトスが止まっていた。

 私はストラトスの後部に回った。小さいトランク ルームの上に取り付けられたリア ウィングには『LANCIA Alitalia』と書かれている。

「どうでしょう?」

 小林さんは不安げに私の顔を見た。

「言葉が出ませんね」

 小林さんの顔がほころんだ。

「四連ライトは車内に取り付けたスイッチで実際に点灯します」

「ありがとうございます」

「何か注意点はありますか?」

「特に……と言うか現代の車と比較したら注意点だらけですよ。ライトは暗いし、ブレーキの効きは悪いし、ギア チェンジは面倒ですし」

 小林さんは笑いながらストラトスの屋根を軽く叩いた。

「キーはすでに付けてあります。ガソリンも満タンですし、油脂類はすべて入っています。車両保険もかけてあります。慣らし運転はすでに終了しているので全開で踏むのでしたらすぐにでも可能です」

「ありがとうございます。では書類の手続きをさせてください」

「わかりました」

 事務所で残金の精算をしたら三十万円ほどお釣りが戻ってきた。入院で金がかかるのは間違いないのでこれは有り難かった。

 小林さんにお礼を言って事務所から出てストラトスに乗り込んだ。三点式のシートベルトを締め、サイドブレーキを確認し、ギアをニュートラルに入れ、念のためクラッチ ペダルも踏んだ状態でキーをひねった。

 小林さんが言った通り、ストラトスのエンジンはあっけなく始動した。サイドブレーキを解除し、ギアを一速に入れるとゆっくりクラッチを繋いだ。エンジンは一瞬回転数が落ち込んだが、あとはそのまま二千回転ほどでゆっくり前進を始めた。

 事務所の前で小林さんが笑顔で手を振っているのが見えた。私は一旦停止すると窓を開けた。

「言い忘れましたが仮ナンバーは私があとで外して返却しておきます」

「わかりました。また退院された時にでも車を持ってきてください。調子を見ますから」

「ありがとうございます。では行ってきます」

 ストラトスを公道に出すと、実家を目指して久しぶりの運転を始めた。実家までは今の時間であれば三時間ほどで到着する計算だ。


 ショーイチさんに乗せてもらったあの日から、ストラトスに乗ることを夢に見ていた。中学校では車の雑誌を読み漁り、部品の役割はわからなかったものの名前は覚えることができた。高校に入学すると自動車の修理書を読むために英語の勉強を始めた。そして大学では念願の自動車免許を手に入れ、中古の国産車を改造して毎夜のように山道を走った。

 今の会社に就職をすると仕事が多忙でストラトスのことを考える暇が無かったが、偶然出会ったストラトスに運命を感じてレストアすることを決めた。しかし妻の秋子は自動車に興味は無く、レストアの出費が嵩むわりにはいつまでたっても走れない車を疎ましく思っていたようだ。

 それでも動かないストラトスの運転席に時折座るとあの日のことが思い出された。あとで祖母に聞いたところによれば、ショーイチさんは若い頃に陸上自衛隊に勤務していたらしい。その後村に戻ると独学で車の修理を始め、試運転も村の山道で行っていた。そして天性の才能もあって運転技術は向上し、酒宴の席では村の山道で偶然出会った現役のレーシングドライバーがカーブ3つでバックミラーから消えたと笑っていたらしい。

 その後私はショーイチさんを大学時代に一度見かけたことがあった。スラロームでタイムを競うジムカーナに出場した際、優勝した若者のメカニックがショーイチさんだったのだ。その若者は私と同じクラスの車両を運転していたが私より2秒速く、まったく歯が立たなかった。そしてその若者が競技終了後に表彰台に向かうのを見ながら車両の方に目を向けたところ、ショーイチさんが黙々と若者の車両を整備していた。しかし話しかけようと歩き出したところ、関係者が嫌がるショーイチさんを表彰台の方に連れて行ってしまい話す機会を失った。

 私の運転技術に関してはショーイチさんには遠く及ばなかった。子供の時に体験した狂気のような速度で走るショーイチさんにはいつまでたっても到達できなかった。そしてあの時記憶に残った運転中のショーイチさんの緩んだ表情は、ラリードライバー特有の表情であることも後になって知った。恐らく私とショーイチさんの大きな違いはアクセルの踏み方であったと考えていた。ショーイチさんはとにかくアクセルを踏んでいたのだ。極端なことを言えば、車両競技ではアクセルを長く踏んでいる選手の方が速い。私は恐怖心が先に立ってそこまでアクセルを踏むことができなかった。それはアクセルで車の姿勢を制御できないことにつながり、それも理由で速く走れなかったのだ。

 初めて公道を走るストラトスはエンジンも快調で信号待ちからの発進も問題無かった。しかしやっと走行できるようなったストラトスではあるが、私の病状によっては手放すことも考えなければならない。幸いにも今日が初めての走行なのでそれほど車に対する思い入れは無い。もしそうなったらショーイチさんに買ってもらえれば嬉しいが、今は先の事を考えることはやめにした。


 ストラトスは都内の一般道渋滞を抜けて順調に高速道路に入った。

――この道を走るのは久しぶりだ

 通常、正月またはお盆の年に一回は実家に帰ってはいたが毎回新幹線を使っていた。車を持っていないのが大きな理由であったが、運転をしない分だけ新幹線の方が行き帰りが楽であることも理由の一つであった。

 新幹線から見える景色と車から見える景色は大きく違う。一番大きな違いは目線だ。新幹線は高い位置から景色を見下ろすが、車は歩いている時と同じ目線だ。さらにこのストラトスはかなり車高が低く、一般車両でさえ運転席から見上げる形になる。

――こんなに樹木が多かったのか

 車内はヒーターのおかげで暖かくなっていたが県境を越えたあたりで、半分ほどしか開かない運転席の窓を開けた。一気に外気が車内に入ってきた。

――いつもの春の匂いだ

 春特有の緑が混じった匂いが車内いっぱいに流れ込んできた。来年はこの匂いをかぐことができないかも知れないと思い、鼻の奥が痛くなるまで鼻から息を吸い込んだ。

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