第4章とりのこされて

 青年は迷わず主人のグラスを払った。

「代わりを」

 ミスターは、もはやすでに酔っぱらっているのか、動きが緩慢だ。

「聞いているのか、あんたは!」

 平然とミスターは繰り返す。

「代わりをもて!」

 命令するのがあたり前で、そこには支配階級の残酷な鋭ささえ、しのばれる姿ではあったが、こうして飲んだくれているのにはわけがあるのだ。

「僕に教えないおつもりなのですか?」

 ミスターはけだるげに息を吐いた。

 そして誘うように、やけに艶っぽい笑みを見せつける。それだけで青年は震えが走った。

「だから言ったろう。多分あの天の穴から、どういうわけか、過去へ飛ばされてしまった、そして古城のままのこの城にたどり着いて」

 彼の指先が何かを示し、ゆらりゆらりと何か図のような物を描き、何か大切なものを思い出そうとでもいうような動きをした。

「で……?」

「……」

 青年は主人の胸ぐらをひっつかんで、乱暴にゆすった。

 だが、彼は閉じた目を開く気配がない。

「寝るなー! あんた、こんな肝心なとこで寝とぼけてる場合かー!」

 ばしばしひっぱたく。ぐらぐら肩をゆする。それでも気がつく様子がないので、青年は仕方なく彼をベッドまで運び、たった一人で不安な夜を過ごした。列柱からのぞくツタが夜風に震えていた。彼はずうっと、それを眺めていた。




 朝になり、少々気が立っていた青年はがっつんがっつん相手をゆすり続けたが、ミスターは眠り続け、こともあろうに起きて早々、

「朝摘みの薔薇湯を用意せよ」

と、のたまったのである。そしてついでに、寝ぼけたままの彼の入浴を助けたのも青年だった。

 ミスターは夕べの酒が抜けきっていないらしく、足がふらつくというのでサンルームまで抱えるように連れて行った。他の者に事情を話し、頼みこむと、彼らは是とうなづいた。

 ミスターには、熱い湯を張った猫脚つきのバスタブに、朝露をたたえていたであろう大量の紅薔薇のつぼみがゆっくりと花開いてゆくのを、ご堪能いただいた。

 早朝のサンルームは暖かくされ、薔薇の芳香がする。

 しかし、ミスターときたら服を脱ぐところから手がかかる。赤ちゃんみたいだな、と青年は思った。

(断じて僕の子供じゃないけどね!)

「話が聞きたいのであろう?」

と、言われてしまったのだ。ミステリアスな演出に弱い青年は、ついてゆくしかなかった。彼は後になって気づいたが、昨日の涙で顔がぐしょぐしょの汁まみれになっていた。ついでなので湯を運ぶ容器から薔薇湯をいただく。洗顔したらさっぱりして、目がさめた。

「うし! 男前!」

 バシッと両頬を叩く。と、いっても、元からか、この城には鏡がない。

(確か鏡に映らない化物の話、有名だよな)

 確かに思う。あまり影が映るようなものはない。青年は自分がタイムスリップしたようだ、と改めてじわじわと胸を押される感覚がし、吐き気までしてきた。そして自分の立ち位置といえば、ミスターの入浴を面倒みている。

(なんなんだ、この倒錯的な図は)

 生白く、生気を感じさせないミスターの肌が温められて、香りと共に腕を、肩を色づかせていく。くらっときた。

(見ない、僕は見ないぞ!)

とは思いつつ、彼は物珍しさについ、ちらりと横目で見た……華奢な東洋人はそれでなくとも若く見える。すると、赤く、なにかのしるしのように、頸動脈あたりの首筋に傷のような跡ができているのがわかった。湯をつかう前はそんなもの、見えなかったのに。

「あんた、どうしたんだこれ!」

「あ……っ」

 ぞくっときた。

 耳に何事かささやかれるけれども、肝心な頭に血が集まらない。

「え?」

 ゆらりゆらりと指が示し続ける。さすがに窓にはガラスがはまっている。そこになめくじのようなものが這っているのが見えた。不快なので見ないようにしていたが、ミスターの指は「見ろ」と言っている……ような気がしたので見てみる。

 そこに虚ろな暗い穴が二つと、つぶれた鼻があり、唇と舌とが張り付きながらうごめいており、ガラスを蹂躙していた。

 ガラスは宝石よりも貴いとされていた時期があり、サンルームのガラスは贅沢な白。見る角度や光の加減によって、微妙に色合いを変える。それはほとんどが偶然の産物として生まれ、秘密裏にされてきた。作り手は決して製法を明かさず、レシピなども二百年後には保存すらされてない。

(これは文化への冒涜だ)

 青年はいらだった。こうも露骨に主人の姿を覗かれるのには我慢ならない。

 映画のネタとしては面白いが、のぞきは一つの禁忌であり、侵してはならない領域があるのだという、少々保守的なところのある青年は、嫌な予感がしてミスターの身体をつややかな生地でくるんでしまうと、さっさと連れて出た。役目はそれっきりのはずだった。

 だがしかし、ミスターは、

「クインキャッスルの秘密が聞きたいんだろ」

と、いちいち餌をちらつかせるのである。

「そういえば、一般公開する際にむけて、あちこち修繕していましたもんね。それで費用が足りなくて、一時作業は滞っていたようですもんね」

「くわしいな、オマエ」

「実は僕は公開を楽しみにしていた一人なんですよ。まさか修繕前のクインキャッスルを目にするなんて思いよりませんでしたが」

(と――面接のとき言わなかったかな?)

 青年は思案する。

 雨はしとしとと壁を濡らしてゆく。

 が、内に至れば風が吹くだけだ。

「あんまりこっちに長居すると、未来の歴史が変わっちゃったりするのかな……」

 青年はぽつ、と口に出して言っていた。もちろん誰かの返答を待っていたわけではない。

「変わるだろうな、もし、何もしなければ」

「ううわっ」

 ミスターは背後からぼそぼそとつぶやきを聞かせるので、思わず悲鳴が出た。

 脅かさないでくださいよ! 

と、言っているのに聞き入れてくれたことがない。

「あの、像を見ただろう。一つだけ欠けた四角形の台座」

 青年は次の瞬間、主人をおいて走り出した。台座にはプレートにタイトルが刻まれていた。今なら難なく読めるはずだ。彼は草をかき分けながら庭園のあった場所まで走り抜けた。

 だが、そんなことは夢幻に過ぎなかった。草だらけで誰も手を入れてない庭には、人々が憩う泉もベンチもなかった。

(どうすんだ、これ)

 久々に雇い主以外のことで頭を悩ませる青年だった。

――多分、あれだ。

 なにが多分か、わかってもいない頭で彼は動き始めた。

 城の離れに納屋がある。現代では馬がつながれていたはずだが、過去では女性とつながっているようだった。

 青年はアタリをつけてなるべくそろりと鎌と草を運ぶ車を運び出した。

(なんにもしなければ、未来が変わる。なんにもしなければ……と、いうことは、僕には今、ここでするべきことがあるということ)

 言葉だけ解釈すべきではない。意味はわかる。なにもかもがこれからだった。彼の主人を信じるならば。

 祈るように彼はまず、草刈りから始めた。そこへフィリアが来て、作業用にとグローブをくれた。

 ここへきて彼は、ミナもフィオも区別しきれないのに、フィリアだけはわかるな、と実感し始めていた。ちょっと人見知りするような、はにかむような仕草とか、あと……このことはほんのちょっと、うぬぼれてるかな、と青年は自分で思うけれど、彼に親切だ。そんなことは、フィリアだけなのだ。わからないはずがない。男だか女だかいつも不思議がられる彼の主人を、間違いなく男だ、と言えるのと同じに。

 彼女はこの城の謎を明かしていった。青年はボーっとしてそれを聞いていた。




 とんとん、とんとんとん。

 夜間、青年にあてがわれた寝室におとないがあった。彼は眠い目をこすって、戸を開けにベッドから起き上がった。表からは必死の声がする。

「助けて天使様!」

「はあっ?」

 だしぬけに言いだしたのはミナだ。フィオかな? と思ったが、どちらかだろう。小鹿のフィリアでないのは確かだ。

「わたし、本当は知っているの。この城には魔物がいるって」

「ちょ、ちょっと、待って!」

(魔物って、なに、魔物って!」

「落ち着いて話そう。まず、今のこの時間、ただ事じゃないよね。わかるんだけど、僕天使じゃないから、困るから、そういうの」

 ミナ(フィオ?)は頬を涙にぬらして訴えようとする。

「魔物の呪いの力が増す、三つの月の夜、それぞれここにいる人間は石にされてしまうの」

(また……泣かないでとも言えないし、芝居なら時と場所がらを考えてほしいな)

「わたしは一番目だから、月の魔力の届かない朝にしか人間に戻れないのよ。ウィリスも……」

「今、彼はどうしているの」

 明かりをミナの手から拝借すると、ドアの向こうに穴があいただけのような目に、青い唇をしたウィリスがいた。

 が、呼んでもこないし、追いかけると逃げる。捕まえようとしたがもう見当たらない。

 青年ははた、と気が付く。いつの間にかウィリスを追って一人きりになってしまった。辺りは濃密な薔薇の香りがたちこめていた。

「いろんな種があるみたいだな。違いがわかるほど知ってるわけじゃないけど、いかにも秘密が潜んでいそうだ……」

 言うなり、彼は薔薇の香気を胸いっぱいに吸い込んで、気絶してしまったようだ。そこは、城にひそむ、もう一つの薔薇園。そして、恋人たちがむつみあう最後の楽園。

 青年は見ずにすんだが、ガラスの向こうには、黒い穴があいたような目玉が張り付いていた……。

「おーい! でっかい独り言が外まで聞こえていたぞ。カギくらい……は、使用人が所持するのだったな。おかしな話だ。だれもいないんだからな」

 涼風が吹いた。青年はぱちりと目を開けた。

「な、なぜここに……あなたが?」

「それより自分の恰好を気にしろ」

「へ?」

 胸元がおおきくはだけて、あちこちに虫刺されの痕がある。焦った。

「よっぽどうまいんだな、オマエの血は」

「誰かさんと違って労働に汗してますから」

「わからんぞ。この身に流れる遠い貴族の血がうまいと思う輩も、いないとも限らん」

 言うなり彼は青年の腕をとり、そこに歯を立てた。

「硬いな」

「おかげさまで、みっちり鍛えられてますから」

 青年は苦笑、後、照れ笑いだ。

「細いのに、よくまあこれだけつくりあげたな」

と、多少の努力も認められないでもないのだ。

 青年はうれしかった。純粋に。

「おかげで女の顎ではかなわなかったようだ。よかったな。オマエの僧帽筋よ」

「はあ……」

 ミスターの言葉はときどき理解できない。

「オマエは何かというとそれだ。はあとかへえとか、たまには別のことを言ってみろ。今なら耳をかしてやらんでもないから」

 青年は最初躊躇したが、根が素直なので、ぼそりと言ってみた。

「なんだ、聞こえんぞ。このオレが聞いてやると言ってやってるんだ。遠慮などするな」

「あの、なんでこちらに……」

「聞こえん!」

「な、なんで僕のこと構うんですか! それになんで倒れてる僕のこと、見つけちゃったりするんですか! 僕のこと好きじゃあないくせに」

 相手が怒鳴るのでつられて大声になる。しかし相手は雇用主なのである。

「これっきりですか? 僕たち……」

 ミスターはあんぐりと口を開けた。

「気持ちの悪い言い方をするな。しかしまあ、よくしゃべるヤツなんだな、オマエ。使いどころによっては役に立ちそうだ。好きだぞ」

 そういうと、にやりとして、ナイトガウンからのぞく細い首筋を、気にするように掻いた。

「あ、そこ」

「なんだ」

「虫刺されしたでしょう。ならんで二つも」

「またか……」

 青年は首をひねっている。

「また気を回すような言い方をしやがって、むかつくんだよ! さっきの方がまだマシだ。オマエはオレのなんだ」

「おっしゃりたいことはわかります……」

 言ってみろ、とミスターが目線でうながす。

「僕はあなたの配偶者でも母親でもない、知ったふうなことを言っても、肝心な時にそばにいない、ダメな男なんです」

「だれがそんなこと言った」

「以前からつきあっていた彼女で、僕のことぼろぞーきんみたいに捨てたひとです」

 ミスターは首を鳴らせた。

「あたってるだけにむかつくな」

「でしょうー? 別れるときになってぶちまけていったんですよお……」

「いや、オレがむかついているのはオマエにだ」

「そんなーああぁ」

「安心しろ、オレはいらないと思ったら、即切ってやる」

「せめて僕が次の就職先を見つけてからにしてくださーい」

「こんな恥ずかしい大人、初めて見たぞ」

「うわああーん。お願いですからー」

(こんなのと一緒にいて、オレはちゃんとした大人になれるんだろうか)

と、ミスターも疑問に思わないでもないのだ。彼は自分の裸足を見つつ、難しいパズルを解くよりももっと難しそうな顔をした。

 青年の処遇をどうすべきか、ここが考えどころのミスターだった。

「気に障るな。そんな女に泣かされるくらいなら、オレのために万倍泣け! 返事は!」

「はははいィ!」

 嗚咽交じりに目を見開き、しゃっくりしながら、青年は立ち直った。

(オレのために、なんてところを考えると、まだ首の皮一枚でつながっているみたいだな)

 泣きつかれてほう、と息をつく。子供みたいだ。

 でも、大人はいろいろだ。なんとか自分を取り巻く事象と折り合いつけて、生き延びるのだ。

「馬鹿だ、オマエは。いじけた大人になってから気づいても遅いんだぞ。オレはどうしてかわからないが、オマエに戦って欲しいんだ」

 ミスターは思っていた。

(そんなのは嫌だって言ってくれよ。戦ってくれよ。本気になって生きろよ。生きてくれよ! 世の中猫背なんかになって歩くなよ)

 だが、ミスターは肝心のことはしゃべらない性質なので、当然その気持ちは伝わらない。

「馬鹿だオマエは。こんなに、近くにいるのに。星にさえ、近く手を伸ばすことができるというのに、縮こまってばかりいる」

「いえ、明日は胸を張って死ねますよ」

「なに? 死ぬだと?」

 いぶかしげにするミスターに、赤くなった顔を腕でこすって、青年はぽつ、と言った。

「魔物の呪いを受けるのは僕一人だけでいい」

 一瞬、ざわりと空気が揺れた。


 

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月の宮の三姫 れなれな(水木レナ) @rena-rena

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