最終話 不知火先輩の虚無
八月中に幻京は独立、分割し、複数の小国へと分かたれた。
赤野区は特異的に、都市破壊運動が八月の最初に起こったために、都市はほとんどなく、原野が広がっていた。それは広大で、六月当時の幻京全域よりも恐らくは広く、何マイルも草地と青い空が続いていて、いつだって爽やかな風が吹いていた。
建物はほとんど平屋だった。二十三区の要塞群とは対比的だ。今では三月とか四月のころのことは、半ば伝説として語り継がれている。独立前、幻京がひとつだったころの話だ。
老人は得意げに、草原の見渡せる縁側とかで、孫にダイヤルアップの話とか、決闘が罪だったころの話をしている。
鶫は赤野の高校に転校し、銅錬寺に行くことはなくなった。
空を時折、藤波区の飛行機械が飛んでいくのと見ると、昔のことを思い出す。
不知火先輩と虚無部の皆との日々だ。それはもはや、古代の伝承、前世紀の記録のように思える。
その日常と今日の間に、虚無が巨大な谷のように横たわっているのだ。
草原の彼方から一人の少年が歩いてきた。
顔ははっきりしない。その時点で誰かはっきりと分かった。日日谷だった。
赤野区は断絶されたが、彼は相変わらず万人の人生に点在している。
彼の話では、もはや二十三区と他の区は完全に切り離されているとのことだ。恐らく要塞の内部では二回くらい文明が終了し、また新しく始まっているかもしれないという。
藤波区も、赤野区とは時間の進み方が違っているようだ。少なくとも一世紀が流れていて、現在では仇野カルマのリバイバル・ブームが訪れているらしく、もし七月以前の作品があれば高値で取引されるそうだ。時折、古い地区からインディーズ時代のグッズが発見され、金塊並みの値段が付くらしい。
他の区も、完全に文明が滅んだ場所もあれば、まだ八月頭くらいで止まってる場所もあるらしい。
「不知火先輩はどうしていますか?」
まだ彼女のことを覚えている。つまり、まだ消えていないはずだ。
日日谷は、秋葉の子孫とこの前会い、彼女の行方を聞いたが、七十年前に銅錬寺の駅で各駅停車の電車に乗ったのを最後に、消息を絶ったらしい。
いつの日か、都市の虚無がまた高まった夏が来たのなら、不知火先輩が帰還することもあり得るそうだ。
その日を気長に待つ、と言って日日谷は二十三区方面へ向かった。たどり着くころには、いったい何世紀が経過しているだろうか。
十月。鶫は自転車で帰宅する途中、バス停に立つ人影を見た。
白く長い髪が風に揺れている。果たしてそれは不知火先輩だった。
「あ、どうもお久しぶりです」鶫は言った。「どうしてたんですか?」
「鷹無さんにとっては数ヶ月ぶりの再会だろうけど、私にとっては数千年ぶりの再会なんだよ」感慨深く先輩は言う。
「その間はずっと藤波区にいらしたんですか?」
「最初の数世紀はそうだった。区間戦争のとき、定期券を紛失してからはこちらに来ることもままならなかったよ。私は都市の果てを目指し、鈍行で長い旅をしていた。一回電車を逃すと三世紀は待たないといけないから、大変だった」
「じゃあ歩いたらいいじゃないですか」
「歩いたらたぶん五千年くらいはかかっていたよ。まあそれで、私はこのたび色々なものを見てきて、第六次区間戦争の辺りでは人々に絶望し、滅ぼそうと思ったけど、やはりもう少し待ってみようと思って、人類に猶予を与えることにした」
「ああ、宇宙人みたいな。前から思ってたんですが、それで滅ぼそうっていうパターンあるんですかね。毎回『人類の希望を信じてもう少し見守る』って話になるじゃないですか。『今すぐ滅ぼすんでよろしく』ってのはどうですか?」
「それは鷹無さんが選択に迫られたときに選んでくれ、私は辛抱強いんだから。ああ、今ではすべてが懐かしい。拝君だが、彼に私は最後に会ったとき、虚無部の部長に指名したよ。今でも彼の末裔は藤波区の虚無を維持してくれている。あるいは、赤野区のように、今から数千年後には、都市がすべて取り去られるかもしれない。鷹無さんと、こうした草原で陽光を浴び、鳥の声を聞きながら、自転車で一緒にまた通学したいものだ」
「そうですね」
「私はこの地から去る」
「どこにですか」
「外なる虚無だ。まず、私がこの地を内包しているんだけど」
「あ、そうだったんですか」
「その外側には別の世界、虚無的な世界があって」
「ええ」
「その世界もまた私に内包されてるわけで。で、その私の外側に別の世界が……」
「先輩、何を言ってるんですか?」
「あたま山っていう落語を知ってる?」
「いや、知らないです」
「まあ知らないなら仕方ない。とにかく、この世界は私の一部なんだ。場所で言うと小指の先辺りなんだけど、まあ小指も必要だから、約束とかするときに」
「必要ですね」
「ああ、最初に会ったときした話を覚えているかな? 私は鳥を飼おうかどうか迷ってたね。でも私はもうすでに飼っていたよ、ああうまい台詞が思いつかないけど、この世界という青い鳥を、みたいなことを言いたいんだ。つまりこの地に絶望してないっていう、そういうふうに解釈して欲しい」
「でもこの世界に対して難色を示しているのではありませんか?」
「そうだけど鳥ってうるさいもんだからね」
「やっぱり飼わなくて正解だったのでは」
「まあそうだ。今後は飼おうかとも思うけど。とにかく、また会おう。約束だ。小指を使うときだ」
「ええ」
不知火先輩は鶫と小指を交わした。
「それじゃあ、私は行くよ。私が再びこの地に来るにはあと数千年から数万年、赤野区の尺度で言うとたぶん来月くらいになると思う。永劫の時間が都市をどう変えてしまうのか私には分からない。あるいは、私が帰還する前に人々はその愚かさからすべてを滅ぼすかもしれない。そうなったらしかたないけど。虚無が私を呼んでいる。鷹無さんを、虚無が導かんことを」
歩き去ろうとする先輩に、鶫は言った、
「先輩。最後にわたしを名前で呼んではくれませんか?」
そうしようと先輩は口を開いたが、
「いや、それは今度会ったときにしておこう、なんだか照れるからね」
と言い、草原の彼方に歩いて行った。
しかし、先輩は尺度を計り違ったらしく、翌月になってもやって来ることはなかった。
鶫は高校と大学を出て、虚無隊に入り、他区から流れてくる怪物にガスを撒いたり、毒だんごを食べさせたり、古代の地層から発掘された兵器を用いて蒸発させたりしていた。
そんな日々に疲れ、草原を時折自転車で走っている。
ある七月に、虚無的な気分で青空を見ていると、一羽の鳥が飛んでいた。
蒼穹と同じ色で、溶け込むようにその姿が見えなくなったころ、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
了
不知火先輩は虚無 澁谷晴 @00999
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