花喰い娘と夢を喰う魔物 -2

 灯を消した部屋で、わたしは眠れずにいました。眼を凝らして扉を見つめます。何度か瞼を閉じてみましたが、落ち着かずにすぐに開いてしまいます。体の向きを変えてみても、扉の方に向けてしまいます。何を隠しましょう。扉の向こうから、魔物さんが寝る前の物語を聞きにおいでにならないのかと期待していたのです。

 今日はいろいろなことがありました。魔物さんと騎士様は階段下の小部屋で眠るとおっしゃいました。部屋に泊まっていいと申し出ましたが、魔物さんにやんわりと断られてしまいました。理由は、わたしが女だからでしょう。

 毛布を頭から被ります。母に言われ続けた教えが頭の中で響きました。

 女の一日は、鏡から始まる。

 わたしは鏡が嫌いです。恐怖心すら抱いています。鏡を覗き込むと、女であり続けなければいけない現実を嫌でも知らされます。いつか背負わなければいけない家の重さを、充分に理解しておりました。女のわたしに力はありません。大人になれば家のために、誰かのところへ嫁がなければなりません。

 それがわたしの現実なのです。

 母は女の楽しみを知って欲しかったのでしょう。女として生まれた限り、女としての生き方を受け入れて欲しかったのでしょう。けれど、わたしは母の期待を裏切ってしまいました。

 わたしは最初に、鏡に映るわたしを否定しました。他人に映る自分を受け入れられず、大人の顔になっていく自身に怯え、紙袋を被って逃げました。それから、花のように元気になれたらという母の願いを断ち切るように、花を食べてしまいました。わたしにないものを、わたしが欲しかったものを、わたしが望んでいたものを、花は全て持っているような気がして憎くて憎くてたまらなかったのです。

 わたしは花のようにはなれません。花のように美しくも気高くもなれません。母が望んだ立派な女性にはなれません。この塔に暮らし始め、この塔で魔物さんと会い、この塔で騎士様とカラカラ姫の物語を知り、わたしはようやく理解できたのです。

 わたしは、誰の期待にも応えられない。

 この不細工なわたしも、紙袋のわたしも、花を食べるわたしも、情けないことに全てどうしようもないわたしなのです。

 魔物さんに映るわたしも、騎士様に映るわたしも、使用人に映るわたしも、母に映るわたしも、皆、同一人物なのです。

 わたしはどれか一つになれない。無垢のままではいられない。汚れて黒ずんでいくことを、これから知っていくのでしょう。

 目頭が熱くなって顔を覆いました。喉から漏れたのは言葉にならない震えた声でした。幼子のように泣きじゃくるわたしがそこにいました。

 子どものままではいられない現実を、それでも子どもで在り続けたかったわたしを、受け入れざるを得なかったのです。

「泣いているの」

 どのくらいそうしていたのでしょう。扉の奥から、穏やかな声が聞こえました。言わずとも誰なのかわかっておりました。

 体を起こし、手の甲で涙を拭います。

「……はい、泣いています」

「そう」

「ごめんなさい。物語を聞きに来てくださったのでしょう。今夜はできません」

「なぜ?」

「あなたにお見せできる顔ではありませんから」

「それは残念」

 言葉に反して声は軽く、扉の向こうで肩を竦めているのだと想像できました。

「今夜はね、物語を聞きに来たわけじゃないんだ」

「それでは、何の御用で?」

「君の話を聞きたい。君の声を、もっと近くで聞きたい」

 わたしは無言で頷きました。ベッドを下り、扉へ近づきます。両手と片耳を扉に当てました。

「こう、ですか」

「うん、よく聞こえる」

 魔物さんが笑った気配がしました。扉の奥で物音がします。こつんと扉に寄りかかったような音がしました。

「魔物さん?」

「ん? あぁ、座っただけだよ」

 裾がこすれるような音が聞こえます。扉に寄りかかったのでしょう。魔物さんが座ったと知り、わたしも床の上に腰を下ろしました。使用人が今の姿を見れば、間違いなく叱るはずです。

「今日はいろんなことがあったね。疲れただろう」

「はい。でも、なんだかすっきりしました」

「そう。僕もだよ」

 互いの間に沈黙が流れます。気まずさはなく、心穏やかな気持ちでした。

「魔物さんは、見つけたんですね」

「うん、そうだよ。君もだろう」

「はい、見つけました」

 扉に額を当てます。何がおかしいのかわかりませんが、晴れやかな心地のせいか自然と笑っていました。

「魔物さん。わたし、やっぱりおかしいんです。使用人に失望したと言われたとき、安心してしまいました。楽になってしまったのです。本当、愚かですね。期待を裏切らないようにしようとしていましたのに。言われてしまえば、こんなに楽だったなんて」

 今夜のわたしは饒舌です。まるで物語を語るように、自分の話を致します。

「わたしは、わたしなんですね。お嬢様のわたしも、花を喰らうわたしも、視線に怯えるわたしも、悲しいくらいに愚かしいぐらいに全てがわたしなのだと知りました。なりたいと思っていたわたしになれたのかはわりません。けれど、こんな愚かなわたしを好いてくださる方がいるのだと、ようやく理解できたのです。わたしは、とんでもない贅沢もので幸せな人間です」

「そして、その幸せな君を不幸にするのは僕だ」

 間も置かずに返された言葉には、親しみがあります。思えば、出会ったときから魔物さんは宣言されていました。

「魔物さん、あなたがわたしの夢を食べなくても、不幸になることがひとつあります」

「……それは、なんだい」

「この恋は叶わない」

 迷いは、ありませんでした。

「あぁ、君は僕を嫌って」

「違います。違うんです。わたしは魔物さんが」

「聞きたくない」

 制した声は低いものでした。

「これ以上聞いたら、使用人との約束を破ってしまうことになるよ。この扉を開けて、君を連れさらってしまう」

「魔物さん」

「連れさらって欲しいとは言ってくれないんだね」

「……ごめんなさい」

 溜息が吐かれました。

「帰るんだろう」

「はい」

「そうだろうと思った」

 魔物さんは明らかにふてくされていました。

「魔物さんも一緒に連れていきたいです」

「君のご両親は僕を受け入れないよ。それに君は、いつか他の人と」

「わかっております。……ごめんなさい。今のはわたしのわがままです。忘れてください」

 この恋は叶わない。魔物さんに告白をされたときから、薄々感じておりました。

例えわたしも魔物さんと同じ想いを抱いていても、叶うことは難しいと。

「方法が全くないわけではないんだ」

「え?」

「君の言う通り、恋が叶わない不幸は訪れるかも知れない。でも、君と一緒にいられないわけではないんだ」

 そのときの魔物さんの口調は穏やかでしたが、何かたゆたうものをそっと抑えて堪えているようにも思えました。扉一枚隔てた向こうで、どういう顔をしていたのでしょう。

「僕を当ててくれ。そうしたら、魔法が解ける。僕は魔物ではなくなる」

「魔物さんは、ご自身で見つけたのに」

「誰かに言い当てられて、初めて僕は成立する。その誰かは君がいい。君じゃなきゃだめなんだ」

 返事ができず、わたしは卑怯にも代わりの言葉を用意しました。

「魔物さん。ひとつ、お聞きしてよろしいですか」

「なんだい」

「もし言い当てることができても、また、あなたに触れられますか」

「それは」

 濁した言葉が何よりの答え。予想していたひとつの回答が、確信へと変わりました。

「魔物さんは、やっぱり優しいです」

「違う」

「優しくて、温かくて、意地悪で悪戯好きで、子どもが嫌いで。でも、本当は人を、誰かを愛したくて仕方がなかったのですね」

「……やめてくれ」

 震えそうになる声を抑えるために、大きく息を吐きます。ふと、扉に当てている手も震えていることに気づきました。指に力をこめます。わたしは扉を見据えました。

「今度はわたしがあなたの願いを叶えます。結果が不幸であれ幸福であれ、あなたへの気持ちは変わりません。あなたを言い当てるとき、止めた言葉をちゃんと聞いてくださいね。あなただけに言い逃げされるなんて、女の矜持が廃ります」

「困ったなぁ。本当に連れさらうよ?」

「その覚悟も準備しておきます」

「そうか」

「はい」

 靴音がしました。魔物さんが立ち上がったようです。わたしも立ち上がり、慌てて声をかけます。

「明日は、明日は掃除をしましょう」

「あぁ、そういえば掃除を教えるという約束をしていたね」

 魔物さんはわたしのこころがわからないと言い、紙袋を被って理解をしようとしてくださいました。わたしは魔物さんのことを何も知らないと答え、知るために掃除を教えて欲しいと申し出ました。使う機会を失いかけていましたが、頂いたハーブの石鹸は大切にしています。

「ご指導、お願いしますね」

「塔ともお別れになるからね。わかったよ」

 どちらも就寝前の言葉が言えず、紛らわすように声をかけたのは同時でした。魔物さんの笑い声が聞こえます。

「通じ合うというのはこういうことを言うのか。面白いね」

 恥ずかしくなり、俯いてしまいます。

「君に渡したいものがあるんだ。ここに置いていくから、僕が階段を下りたら扉を開けてくれ」

「渡したいものですか」

「今の君なら問題ないよ」

 何なのかわからず、首を傾げます。

「それじゃあ、今度こそ。おやすみなさい、僕の可愛いお嬢様」

「おやすみなさい。わたしの素敵な魔物さん」

 魔物さんが階段を下りていく音が少しずつ遠ざかっていきました。やがて、静寂が戻ってきます。一抹の寂しさを抱きながら静かに扉を開けました。

 暗闇の中に、りんごがありました。

 扉を後ろ手で閉め、りんごを拾い上げます。螺旋階段を見下ろしますが、魔物さんの姿はありません。このりんごよりも赤い紅玉の瞳を思い浮かべます。いつもわたしは、あの瞳に助けられていました。視線が苦手でしたのに、魔物さんの瞳だけは安心感がありました。

 手の中にあるりんご。

 その赤く熟れた果実を、わたしは齧りました。

 口の中に広がった甘酸っぱい味に、懐かしさが込み上がりました。果実をさらに齧ります。みっともないとわかっていても止められませんでした。丸い果実を歯形だらけにし、赤い皮に包まれた果実をさらけ出し、咀嚼しては飲み込みました。喉を通り腹の底へ沈んでいく感覚に溺れてしまいそうになりました。

 半分になったりんごを落とします。芯が露になったりんごを視界に入れた途端、ぽとりと涙が落ちました。

「あぁ……」

 言葉ではない、声が漏れました。

 りんごを拾い、その場に崩れ落ちるかのように座り込みます。魔物さんに心配をかけさせまいと、声を抑え、ひたすらぽたぽた涙を落としました。

「わたしは、もう、花喰いではなくなってしまったのですね。魔物さん」

 全てわたしだと認めたら、わたしを見つけることができました。

 ずいぶん遠回りしてしまいましたが、ようやく「わたし」に出会いました。

 さようなら、花喰い娘。

 そして、初めまして、鏡の中のわたし。

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