花を喰らう君と星の海を泳ぐ姫君 -2
追いかけなくてはいけないと思った。思うことよりも先に体が動いて、どういうわけか長い螺旋階段を駆け下りていた。階下の彼女に何度も声をかけたが反応はない。ぐるぐる回る階段を先に下りた彼女は、扉の向こうへと消えて行った。半ば飛びつくように勢いよく扉を開ける。
青色の空は橙色に飲み込まれていた。橙色の隙間から薄墨のような暗闇が迫ってきていた。星の煌めきが強くなりつつある。花畑の花たちは眠りにつくために、つぼみになり始めていた。
辺りを見渡すと、すぐに彼女を発見できた。彼女の背中を捉えた途端、力が抜けそうになった。息を吐いて歩み寄る。あのときのように逃げられるかと思ったが、彼女は動かずにいてくれた。
「食べているの」
何を食べているのかは一目瞭然だ。彼女の手には花がある。掌を花びらでいっぱいにして、紙袋の下に突っ込んでいた。
紙袋を外すと、巻き毛の金髪がふわりと浮かび、むっとした花の匂いが広がった。一心不乱に花を食べている少女がそこにいた。茎から花びらをもぎとり、口に入れて飲み込む。食べ残された花びらはひらひらと落ちていく。紙袋を外されたことにすら気づいていないようで、手近にある花をひたすら腹に詰め込んでいた。
「花喰い娘」
彼女の目の前に立ってみるが、僕を見てくれない。
花喰い娘の瞳には、花しか映っていなかった。
「花喰い娘……」
立て膝になり、彼女の目線に合わせる。それでも、蒼の眼は僕を認識してくれない。
「ねえ」
たまらず、彼女の頬を両手で包み込んだ。人形のようにぴたりと動きが止まる。花びらがはらりと落ちた。
「ねぇ、君は誰?」
蒼の眼が瞬いた。
「君の名前は?」
「……わたしは、花喰い娘です」
「違う。それは呼称だ。君の名前じゃない。君には人としての名前があるだろう」
「何をおっしゃっているのかわかりませんが、わたしは花喰いです」
惚けたように笑う彼女の顔なんて、見たくなかった。
「君は、僕のように忘れちゃだめだ」
彼女は花を食べ過ぎた。花に飲み込まれてしまっている。彼女を不幸にしていいのは僕だけなのに、花は彼女を持って行こうとしている。させてたまるものかと、肩を抱き寄せた。
「好きだ」
口から思いがけない言葉がでた。
「好きだ。君が好きだ。だから忘れないでくれ」
言ってから、僕は驚いた。
言われた彼女も驚いた。
顔が熱い。腕の中の彼女もやけに熱く感じた。
「あの、魔物さん……」
「うん?」
「今のは、その」
真っ赤な彼女が顔を上げる。ようやく、僕を見てくれた。深く沈んだ蒼の眼が、僕を映し出している。驚愕と戸惑いと照れ臭さをないまぜにしてぎゅっと詰め込んだ表情を、もっと見つめていたかった。深い海色に似た不思議な眼も、時折見せる星の瞬きのような輝きにも触れてみたかった。
食欲とは違う。彼女に触れたいと思うことで、ぷかりと浮き上がるほのかな温もりを離したくはなかった。
「そういうことだったんだね……」
彼女もあの少年も、こういう心地になったのだろうか。かちりと鍵がはまったような、ぴったりと懐かしいものが箱に収まった感覚。
「僕は君に恋をしてしまったらしい」
わかってしまったのなら、話は早い。
「君が好きだ。花喰い娘」
彼女はぽかんと口を開けた。声がでないのか、ぱくぱくと閉じたり開いたりしている。花喰いから魚になったのかと驚いたが、口から息はしていた。
「花を食べ過ぎて言葉でも忘れた?」
顔だけではなく、耳まで真っ赤になっている。あれこれ理由を考えあぐねて、彼女に嫌われてしまったことを思い出した。
「君は僕が嫌いなんだっけ。それなら、嫌ったままでいて。恋が実らない魔物の話はよくあるだろう。そういう物語も悪くないよね。……いや、そこにいる僕としてはちっとも面白くない。これは困った」
物語の聞き手ならまだしも、実際にその場に立たされた身としては楽しいはずがない。
「君はどうなの?」
「あなたは……」
ようやく聞こえた声は、ひどく掠れていた。
「本当にお優しい魔物さんですね」
眩しそうに細められた眼は、遠いものを見ているようだ。
「あなたはわたしを叱りません。わたしを軽蔑せず、いつも傍にいてくださいます。わたしは人間の癖に人としてできていません。すぐに約束を破ります。誰かに守られているのは感謝すべきことなのに、嫌気がさしてしまう人間なのです。人にもなれず、だからといって魔物にもなれない。花喰いという中途半端なところに立っているわたしを、どうして好きになれましょう。わたしはわたしが嫌いです。鏡に映るわたしも、紙袋を被るわたしも、花を食べるわたしも大嫌いです」
ぽろぽろと吐露された言葉の端々が震えていた。吐息に混じる花の香り。すっかり濡れた眼から雫が溢れることはなく、ひたすら堪えていた。
「君は僕を優しいというね。魔物の僕を恐れず傍にいてくれた。あの子どもだって、柩に眠るカラカラ姫だって受け入れた。他人を認めるのに自分を認めないんだね。君は」
頬に触れれば、掌から熱さが伝わってくる。とくとくと血潮の流れまで聞こえてきそうな熱さは、何よりも君が存在していることを証明していた。
「ねぇ、君は本当に鏡を見ていたのかな。怯えているのが視線なら、どうして君は僕にだけ顔を見せてくれるようになったの」
「それは、魔物さんとの約束で……」
「僕にだけ顔を見せてくれる約束? うん、君は守ろうとしてくれたね。けれど、本当に怯えていたのは視線だけではないと思うんだ」
彼女は瞬きを繰り返した。自分がなぜ視線を恐れるようになったのか、理由すらも忘れかけてしまっているのだろう。
「初めて会ったとき、鏡に映る自分の顔がたまらなく嫌だと話してくれたね。そのうち、人の眼に映る自分すらも怖くなって紙袋を被るようになった」
彼女は間を置いてから頷いた。
「そう、です。それからわたしは花を食べ始めました。花はわたしにないものを持っているように思えたのです」
花のようになれたら。おそらくそれは、彼女が望んだ夢のかたちだ。
「君は花じゃないよ。君にはこころがあるんだ。君が誰なのか君自身が一番に理解しなきゃいけないのに、周囲に託して他人の言葉ばかり聞いてしまったんだね。だから、ありのままを映す鏡を怖がって、なろうとしたものに似ていた花を食べるようになったんだ」
花を食べるようになったときから、彼女の夢はどこかへ隠れてしまった。夢を見られなくなったのはそのせいだろう。
「僕もそうなんだ。たくさんの人にこうだと言われているうちに、自分が誰なのかわからなくなってしまった。それがね、魔物の正体なんだよ。怖い魔物には魔法がかけられているんだ」
深い蒼の眼が驚きに揺れた。
そういえば、僕の話をするのは初めてだ。自分でも不思議なくらい口から出てきた。
「人にはこころがあると聞く。もし、僕が人だったのならこころがどこかにあるはずなんだ。だからね、こころを震わせる物語を見つけて僕が誰なのか思い出そうと思ったんだよ」
人に尋ねても皆が皆、僕を知らないと言う。紅玉の眼を見て魔物だと指されたこともあった。
夢にはたくさんのこころのかたちが詰まっているらしい。試しに食べてみたら懐かしい味がした。もっと食べたら何かわかるかも知れない。願いを叶えることを条件に、人の夢を食べていった。そのうち、夢を食べられた人間は不幸だと嘆くようになった。
「僕は自分のために、誰かを不幸にする悪い魔物だ」
彼女の額から後頭部までゆっくり撫でる。柔らかな巻き毛が指先に絡みつき、すっと解けていく。腕の中の彼女は僕の話を真剣に聞いてくれた。どの言葉も聞き漏らさないよう真っ直ぐな眼差しで、時折、相づちを打って応えてくれた。
「ねぇ、それでも君は僕が怖くないの?」
彼女は勢いよく首を振った。予想通りの回答に、後ろめたさを感じる。
「ほら、やっぱりそうでした。魔物さんは魔物に見えません。そう申しましたよね」
「うん、そうだね……。君はそういう人だ」
だから、君に恋をしたんだ。
「魔物さん。指切り、お願いしてもいいですか」
新しい約束事でも思いついたのか、小指が差し出された。
「どんな約束?」
「先日、こころを震わせる物語を見つけることをお約束致しました。その約束を少しだけ変更したいのです」
一度話を区切り、意を決したように宣言した。
「カラカラ姫と騎士の子どもを救う物語を作りましょう。そうすればきっと、魔物さんのこころが見つかるはずです」
「なんだって?」
自分の耳を疑った。
「わたしたちで、物語を作るのです」
花喰い娘は時々固くなる。この状態を戻すのは難しい。土中に伸ばす根のように、ここだと決めたら簡単に抜けなくなる。
だが、時としてそれは愚かだ。
「……何か案があるの?」
「ひとつだけあります」
海に帰す案は少年に一蹴された。
彼は、何としてでもカラカラ姫と話がしたいらしい。
一度終わった物語は息を吹き返さない。眠った姫君をどう救おうというのだろう。
「姫君のこころは、まだここにあると思うのです。魔物さん。夢をお渡しすることはできませんが、先に願いを叶えてくれませんか」
「それは、どういう願い?」
「わたしの声を、カラカラ姫にあげてください」
花喰いをやめたい。
それが彼女の願いだったのに。
小指は突き出されたまま、僕の答えを待っている。
「花喰い娘、それは本気か……」
「本気です」
選択肢なんて、あるようでないものだ。彼女の望みは叶えなければいけない。
それが僕の、魔物としての役割なのだから。
「わかった。わかったけれど」
声のない存在に声を与える。それは、カラカラ姫という役割に抵抗をする行為だ。物語に反発するなんて、人間の思考はよくわからない。いや、この場合、彼女の思考か。
彼女が抵抗するのなら、僕も便乗しよう。
この花畑と空がどこまでも続く美しくも残酷な世界に一石投げよう。
「君を不幸にしていいのはカラカラ姫じゃない。僕なんだよ」
小指ごと彼女の手を包む。指を掌の中に潜り込ませ、手を広げさせた。白色の掌を掴み、顔を近づける。
「それだけは、忘れないでいて」
少女の薬指に口づけを落とす。
「はい、存じております」
ふわりと微笑んだ顔に年相応のあどけなさはなく、一人の淑女がそこにいた。
かさりと音が聞こえたような気がしたけれど、彼女の変化に驚いて気に留めなかった。
もしあのとき、何の音か探っていたのなら、僕と彼女の物語は少しだけ形を変えていたのかも知れない。
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