第2話


 季節は夏から秋に移り変わり、空も夏に比べて幾分高く感じるようになった頃の事。高い秋空は雲一つない快晴で。首を上に傾けるとそこにはどこまでも群青色の青空が広がり、それを私は不機嫌そうに睨めつけていたことをよくおぼえている。


美しい景色は荒んだ心を和らげると聞いたことがあるが、それは心が平穏な状態にのみに限定される事だろう。年中機嫌が良くない私にとっては快晴の青空などイラつかせるものでしかなかった。心情とは真逆の空模様というだけで私の神経を逆なでしていたのだ。青空が嫌いだとかそういうことではなく、ただそれが気に入らない。流石に空に向かって唾を吐きつけるような事はしなかったが、内心で空模様にすら悪態をつく辺り、私の精神の不均衡さが窺える。


その日は日曜日で、夏服から衣替えをした冬物の制服に身を包んだ私はあてもなく銀杏並木の大通りを歩いていた。休日で快晴という好条件からか、大通りには大勢の人々が集まっていて、私はその雑踏に紛れるようにして背中を丸めて歩を進めていた。


上半身を少し丸めた猫背気味の姿勢は他人と視線を合わせないようにしていたら自然と出来たもので、俯く姿勢で歩いているせいで私の視界に入るのは地面に敷き詰められた煉瓦と闊歩する人々の下半身だった。


そんな中今日の予定を楽しそうに話す同年代と思わしきグループとすれ違い、私は一瞬だけ足を止めた。そういえば私はどこに向かっているんだろうか、なんて間抜けな事に思いあたってしまったからだった。


私が若年健忘症を患っているというわけではない。ただ、本当に目的なんてものがなかったのだ。友人もいないから誰かと待ち合わせをしているわけでもない。興味のある店を覗こうなんてことを考えているわけでもない。ただなんとなく歩いていた。歩きながらも一体私はどこに向かっているんだと自問自答するが答えはでない。ただ、あえて言うならば目的地がないというのがあてのない強歩の目的なのかもしれない。まるで禅問答のようだ。


傍目から見れば、私は待ち合わせの時間に急いで向かっているように見えていたのかもしれない。目的がないと言いながらも私は早足で歩き続けていた。そもそも目的地がないのだから早足で歩く理由もない。意味がないと理解していながらも懸命に足を動かしていたのはある種の強迫観念に駆られていたからかもしれない。見えないナニかが私を追いたてて、それから逃げるように。


以前から意味のない奇行に走ることが何度かあった。どうにもならない気持ちを持て余してた結果の衝動的な行為で、今回もその一種。それ自体には慣れたものだったが、今回は輪にかけて酷い。中等部に入学する頃の一番尖っていた時期に引けを取らないほど、当時の私の内面は荒ぶっていた。


寮のルームメイトに隠れて自分の枕を親の敵のように何度も殴りつけ、それでも収まらない感情の爆発を静めようと寮を飛び出た結果が、ふらふらと当てもなく彷徨う生きる屍と化した私だった。


一体どうしてこうなってしまったのか。当時の私がこうなった原因を省みるが、その理由は枝葉の如く多岐に伸びて絞りこむのは到底不可能だった。というのも明確な要因と呼べるものは普段の生活に溢れているものばかりで、それら全てが主要因であったからだ。さて、当時の直近の出来事といえば―――


ルームメイトの少女が最先端の技術を明らかに超えた超技術で人造ロボットを造り、それが何故か同じクラスに編入してきたり、同じクラスの少年がコンビニに屯っている不良共と格闘ゲームさながらの空中戦を繰り広げていたり、その仲裁に現れた担任教師が気孔波のように掌から繰り出されたビームで両者を薙ぎ払っいたり。まあ、挙げてみれば枚挙に暇がない。


 これらは漫画や小説といったフィクション内の出来事―――ではなく、全て現実に起こり、私がこの目で実際に視てきたものだ。一体ここはどこの異世界なのかと自分でも突っ込みたくなるが、私の住む星は地球という太陽系の惑星で間違いない。そしてここは日本というアジアの一国で、私は日本出身日本在住の平凡な日本人だ。


だが残念な事に先ほど挙げた出来事は私が住む、地方都市の郊外に設けられた学園都市ではよく見られる光景だ。そんな非日常は、最早日常風景と言っても過言ではない。本当によくある、それこそ一日に一回は遭遇する程度の事なのだ。


この学園都市ではなぜか現実に有り得ない出来事が容易に起こり、それをこの都市の住民は極当然のように受け入れている。ここはそういった場所だ。


彼らとは違い一般的な感性の持ち主である私にとって非日常な日常は苛々を生み出すものに過ぎない。だからそうした日々のストレスの積み重ねが原因だったのだろう。


それはさながら風船のようだ。少しずつ息を吹き込むようにして蓄積されていった感情の奔流は、最後にはほんの少し針で突いてしまうだけで弾けてしまった。そして行き場のない感情が、ただ私に足を動かさせている。


「……疲れた、な」


 無意識のうちに吐いた弱音が誰にも拾われないまま雑踏に紛れて消えていった。辺りを見渡しても見知らぬ誰かが闊歩しているだけで、まるで私一人だけが異界に取り残されたかのような孤独感と不安が心の中にこびり付いていた。


いっそ屋上から飛び降りて死んでやろうか、なんて危険な思考が飛び出るようになってきたのだから末期症状に近かったかもしれない。当然思うだけで実行に移すほどの勇気はなく、できることといえばのは煉瓦が敷き詰められた地面の地団駄を踏むくらいのものだ。そしてそんな事すらも疲労を感じて億劫になるだけだった。


歩きながら、足の裏には疲労が蓄積していた。学校指定の革靴などそこまで品質のいいものではない。長時間歩き続けたせいで足には疲労が溜まり、薄らとかいていた汗は寒さを鋭敏に知覚させる。一度それを意識してしまうと体が弛緩し、休息を求め始める。心身共に疲労困憊の状態になっていた。


腰を下して落ち着ける場所を欲しいが、よく晴れた休日ということもあって周囲のカフェを覗いてもオープンテラスを含めてほぼ満席状態だった。そんな中に一人きりで入店するには心許ないし、あのがやがやとした雑音の中で身体を休めることはできても心の方はそうもいかないだろう。身体の疲弊もどうにかしなければならないが、心を落ち着ける方が優先すべき事項だった。


とはいえ、休日の昼時に静かな場所を見つけるのは至難の技だ。該当する場所といえば図書館ぐらいのものだが、ここからの距離を考えるとそれも難しい。一先ず人目につきやすい大通りの店は論外として、大通り外れた路地に出る。大通りの店は大抵が満席だろうが、大通りを外れた人気のない飲食店なら席が空いているかもしれないと思ったからだ。


 道に沿って歩いていたが横に方向転換し、大通りから一本外れた通りへと。初めて来る場所ではあったが、私は方向音痴というわけではない。寮の位置を頭に置いてそれに向かって見知らぬ道を進む。目的とする場所が見つからなくても最悪の場合は疲れを我慢して寮に帰ればいい。今の時間帯なら彼女だっていないだろう―――。


そんな事を考えながら見知らぬ小道を適当に何本か通りぬけ―――私はそこに辿りついた。


 その建物は森の中に隠された木のように周囲の建物に溶け込み、存在感を希薄にしてひっそりと佇んでいた。よく観察すると歴史を感じさせる古い建物だが、建物自体はなんの変哲もない。だが近づいて見るとそれは喫茶店らしいことが分かった。


断言できないのは喫茶店と言えるだけの情報が不足しているからだ。メニューが書かれているサインボードの類はないのはまだいいとして、喫茶店の名前すらどこにも書かれていない。それでも湯気が立ち込めるコーヒーカップの絵が描かれた小さな看板といえば、私には喫茶店のイメージしか湧かなかった。


大きな通りを外れたとはいえここにもそれなりに人通りはあるが、道行く人々は目もくれず過ぎ去っていく。まるでそこだけが世界から切り離されて、人々に認識されていないかのように。


勿論そんなものは私の気のせいだ。各々目的地があってそこに向かっているだけだろう。しかし、もしかしたらその時の私は親近感に近いものを抱いたのかもしれない。蛾が本能によって街灯に誘われるように、私は玄関口にふらふらとした足取りで近づいて、気が付くと古めかしい押戸の把手を掴んでいた。


ぎいい、という戸が軋む音。からんからんというカウベルが来訪者を告げる音。

そんな音をどこか遠くに聞きながら、私はその喫茶店に招き入れられていた―――。


 



 さて、ここから先は特筆するべきことはなにもない。偶然発見した喫茶店に入り、一杯のコーヒーを飲んでそれで御終い。そこで何か私の意識が大きく変えられた、なんて事もない。色々と溜まっていたものはあったが、初対面の喫茶店のマスター相手にあれこれとぶちまけるわけにはいかない。


会話らしい会話もなく無言のままただ時間だけが過ぎていって、私は最後にご馳走様と一言残して店を後にする。文字にするとそんな味気ない話で、それ以上のことは何もない。本当に、ただそれだけの話。


けれど、きっと今の私はそこから始まったのだと思う。その時の出来事はほんの些細な事だったけれど、きっと未来なんてものはそんな些細なものが積み重なって出来上がる。ほんの少しの進路変更でも走った距離と比例して、まっすぐ進んでいった時との違いがどんどん大きくなっていくように。


私の人生のレールが組みかえられた時は、きっとその時だった。







―――夢見心地の意識が急浮上していく。コーヒーの香りが私の鼻を刺激し、意識が速やかに現実に引き戻されていく。瞼を開き視界に入ったのはテーブルの木目だった。手を枕にするように眠っていたらしく、腕がじんと痺れている。ゆっくりと上半身を起こすと、そこは落ち着いた内装で統一された喫茶店の店内だった。


「ああ、起きられましたか」


 眠気を取るように背伸びをすると私に低い男性の声がかけられた。この半年間でよく聞くようになった喫茶店のマスターの声に、そういえば私は喫茶店に来ていたんだったと思いだした。


コーヒーを飲みながらうつらうつらと転寝をしていたらしく、眠る前の記憶は少し曖昧だ。マスターが気を利かせてくれたのだろうか、端に追いやられたコーヒーカップの中に少量の液体が残っている。カップの腰に触れるとひんやりと冷たく、それなりの時間が過ぎているようだと推測できた。


「すみません、寝てしまって」

「構いませんよ。喫茶店は休憩する場所ですし、他にお客さんもいませんしね」


 自虐を含んだ冗談。マスターの言葉の通り、狭い店内には私以外に客はいない。狭い店内故に空いているという印象は与えないが、私が喫茶店を訪れると殆どこのような状況だ。マスター曰く黒字収支らしいが、私は内心何時か潰れやしないかと冷や冷やしている。この喫茶店は私の心の拠り所で、無くなってしまうのは正直困る。


「それで何か夢でも見れましたか?」

「え?」


 いつものように微笑を湛えたマスターが私の顔を見て言う。


「どうも、渋いような顔になった気がしましてね」

「あー、まあ夢は見ましたよ。夢というより回想と言った方がいいのかもしれませんけど」


 言いようのない不思議な感覚だった。昔の私を今の私が他人事のように眺めている夢でありながら、乖離したもう一人の自分が昔の私と一体化して嘗ての出来事を追体験していた。そして二重の視点で繰り広げられる映像作品の出来栄えは正直よろしいと言えるものではなかった。


「回想というと、昔の失敗談が夢に出てきたとかそういうことですか?」

「まあ、そうですね。正直封印したい過去です」


 物語性がどうこうの問題ではなく、この映画の主人公と思われる人物には感情移入がし辛いのだ。地雷女が自分の事を棚に上げて周囲に向かって内心で不平不満をぶちまけるだけで、そりゃお前が全部悪いだろと突っ込まれることは請け合いだ。クソ映画とはどういうものかを体現したような駄作で、実際にこんなものが映画館で上映されれば、多くの観客が金を返せと怒鳴り散らす事だろう。


今ならばどうだろうか、と益体も無いことを考えてみる。手前味噌だが、少なくとも昔よりは多少見れるものになったとは思う。それはきっと、私の成長と言えるものだろう。


「そういえば、コーヒーはお下げした方がいいですか?」

「いえ、頂きますよ。勿体ないですし」


 ホットコーヒーは劣化が速い。淹れて数時間ほど経過すれば酸味が全面に出されて、美味しくなくなってしまう。壁に掛けられた古時計を見る限り、転寝をしていた時間は30分程度のもの。飲むに当たっての問題はない。


ソーサーを目の前まで引っ張り、手に取ったカップを傾ける。冷えてしまったコーヒーだが、まだ風味は損なわれていないようだった。カップの中を全て身体の中に迎え入れて一息つく。


「そういえば頼んだのって水出しコーヒーでしたね」

「ええ、そうですが。……やはり冷えて美味しくなくなっていましたか?」

「え?ああいえ、そういう事ではないです」


 ただ、少し思い出していただけだ。あの時も確か水出しコーヒーを頼んでいた、そんなどうでもいい偶然を。駄目だなあ、と苦笑が零れる。どうも、この場所にいるといつもより感情的になってしまう。それが悪い気分ではないあたり、私も大分毒されてきたようだ。


「ただなんというか、ちょっと前の事を思い出していただけです」

「それは水出しコーヒーに関係する事ですか?」

「水出しコーヒーそのものは関係ないんですけど、その時に丁度頼んでいたものですから。何か月か前に私が変な事を聞いたと思うんですけど、それって覚えてますか?」


緩やかな空気の中、雑談に耽りながらそれと同時に自然と湧き出る追憶に身を委ねる。私がこの喫茶店を訪れてからの半年間の軌跡、それを振り返るのも悪くない。


断片的な会話の記録は繋がれて1つの話へと。1つの話は1つの物語へと。

その始まり、歯車同士がようやく噛み合いを見せはじめた場所へ立ち返ってこれまでを見直そう。マスターとの何気ない雑談の中に時折現れる、ルームメイトの天才少女、ハードボイルドな二次元偏愛教師、自称学園都市最強。そんな彼らの事も織り交ぜながら。

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貴方の為の物語 中田浩 @mamama

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