1章 了架と女
1-1.了架、東へ向かうのこと
早朝の空は雲ひとつなく晴れ渡り、大きく吸い込んだ空気は少し冷たいが、汗ばんだ体には心地良かった。
ここが自宅の庭なら気分良く伸びをするところだが、一週間も山中を歩き続けていた身としては、あまり良い朝の目覚めではない。
その上、向かう先で待っているのは気乗りのしない仕事だ。
普段の遊び人の姿とは違い、修行僧のなりをしている。
内密に仕事を頼まれた場合、笠で顔を隠せる修行僧の姿で行くことが多い。
旅人の姿でも構わないのだが、閉鎖的な村であった場合、旅人を快く思わないところもある。
それ故の変装であった。
それに武器を仕込みやすい。
錫杖は仕込み杖のようなもので、刀になっている。
右大腿に短刀を二本、左足首に矢針を五本、両手首に糸を巻き、他にも薬などを隠し持っている。
完全武装で向かうのは東にある辺鄙な村だった。
なるべく人目を避け、山中の木々の枝を足がかりに猿のように飛び跳ねて移動する。
風にざわめく木々に音を隠し、ようやく辿り着いた村で托鉢の
邪気でおおよその見当はつくが、密集した長屋などはどの家が依頼主の家か特定が難しい。
依頼主が商売をしている場合は店を訪ねればいいのだが、個人宅の場合は内密に訪ねるのは少々苦労する。
大っぴらに依頼を受けていれば良いのだが、大抵は秘密裏に呼ばれるからだ。
今回も内密に呼ばれたため、依頼を受ける際に托鉢を装うことは伝えていた。
依頼主の家では鉢に依頼料と一緒に黒い紙を入れることになっていた。
運良く三軒目で依頼主の家に当たり、中に招き入れられる。
貧しく粗末な家には、母親と老婆、そしてまだ十にも満たない幼い息子が二人いた。
その息子の内、一人は寝かされていたが、片足を失くし、体中に傷があった。
さらにその目は金色に光り、視線は定まっていない。
不安そうな家族の視線が了架に集まる。
体中につけられた傷は元々はかなりの深手だったのだろうが、今はもう血も止まり、塞がりかけている。
だが、膝から下を失くした片足は、傷口部分を包帯、というよりは布を破ったものが巻かれているが、真っ赤に染まり、今もなお血が滴っている。
手遅れだ、と了架は思った。
酷い傷のことではない。
傷はどうにかなる。
こういう場合に備えて医療の知識は多少ある。
傷口を縫合することも可能だ。
だが、問題は目だった。
金色に光っているということは、既に鬼になっている。
それを人に戻す方法はない。
鬼になってしまえば、他の者に危害を加える前に斬り捨てるしか方法はない。
いくら聖人のような人でも鬼になってしまえば、負の感情が支配し、人を傷つけることしか考えられなくなる。
「……すまない」
了架が俯いて錫杖に手を掛けると、老婆が泣き崩れ、母親が息子に覆い被さった。
「まだ角はないっ。牙もないっ。だから、助けてくださいっ」
悲鳴に近い叫び声に了架は眉を顰めた。
助けられるものなら助ける。
だが、もう手遅れだ。
錫杖から刀を引き抜く。
それでもう一人の息子も今から何が起こるのか理解した様子で、母親の上に覆い被さった。
「もう……手遅れだ。だから……」
言っても理解されない。
それはいつものことだ。
依頼料だってなけなしの金だと知っている。
この粗末な小屋のような家を見れば、大金だと分かる。
金を払ったのは息子を救うためで、殺すためではないことも分かる。
父親の姿がないのは、息子を救うために鬼に殺されたのだろうことも推測できた。
その上さらに息子を失う悲しみも想像できる。
分かっている。
全て解っている。
それでも鬼を生かすことはできない。
片足を失くして弱っていても、鬼は鬼なのだ。
「どいてください。これが最後です」
淡々とした了架の声に家族全員が首を横に振った。
どかなくてもいい。
無理に押しのけることもしない。
なぜなら息子の首が見えている。
覆い被さるなら頭にするべきだ。
動きは刹那。
人の目に映ったのは、宙に舞う血。
ただそれだけだった。
耳に聞こえたのは、斬撃の音。
ただそれだけだった。
その不吉な音に母親が起き上がって息子を見る。
大きく目と口が開き、一瞬遅れて悲鳴が上がった。
悲痛な光景に了架は刀を仕舞い、戸口で一礼してその場を後にした。
その背後からいつものように罵声が浴びせられる。
慟哭という言葉がふさわしい程の泣き叫ぶ声が村中に響き、何事かと覗きに周辺から人々が集まっていた。
角も牙もない。
だから、集まった人々に鬼狩りを呼んだことはバレないだろう。
ただ、無残な息子の遺体に何があったのか、憶測が飛び交う。
母親がどう説明するか、それは分からないが、ただ、鬼狩りを呼んだことは言わないはずだ。
だが、托鉢の僧侶に殺された、と言う可能性が一番高い。
そう叫び出す前に村を離れる。
いつものことだ。
いつもの。
だから、先に依頼料を受け取る。
でないと払わないと言い出すからだ。
大切な人を救うために呼ぶのに、殺されれば意味がなくなるからだ。
了架は大きく息を吐いた。
嫌なことに近くでもう一件仕事がある。
ただ、少し気が楽なことに、次の仕事は近くの山中で鬼を見たから殺してくれ、という内容だった。
助けてくれというより、殺してくれという方が気は楽だ。
それに鬼を見た、ということは、先程斬った少年と違って、完全に鬼の姿になっている、ということで、それはつまり斬っても鬼として割り切ってもらえることが多いということだ。
走りながら了架は袈裟を脱ぎ、忍装束になる。
鬼狩りの際の服装だ。
次の依頼先は鬼狩りを呼んだことを隠していない。
故に修行僧を装う必要がないのだ。
忍装束は動きやすく、そして顔を隠せるのが良い。
忍ではなく、鬼狩りだという印に漆黒の狐面をつける。
朱色で目の周りを縁取り、黒い紐がついている。
祭りの際に見かける白い狐面とは異なる。
狐面をつけるのは鬼狩りだという印以外に顔を隠せるということ、そして人でも鬼でもない者、という意味が込められている。
人でも鬼でもない。
なら、自分は何者なのか。
了架の頭に常にある疑問だ。
どちらでもないのに、鬼を狩って人を守る。
鬼狩りの家に生まれた了架は幼い頃からそう教えられてきた。
鬼のような人間もいる。
それでも人を斬ってはいけないと教えられてきた。
斬って良いのは鬼のみで、それが例え生まれたばかりの赤ん坊でも斬れと教えられてきた。
その理由はただ、鬼だから、というもので、幼い頃はそれで良かったが、徐々にそれ以外の納得できる理由が必要になっていた。
鬼を斬る理由。
それが分からなくなってから、鬼狩りの仕事は極力避けるようになった。
鬼狩りは人に嫌われ、鬼にも恐れられる仕事だ。
だから当然、誰も好んでなりたいものではない。
鬼狩りの家に生まれた、ただそれだけの理由で仕方なくやっているにすぎない。
嫌な思いしかしない仕事を続ける理由も欲しかった。
酒がいる。
いつも酔えた試しはないが、効かない薬のような感覚で酒を飲む。
飲めば少しは気が晴れて楽になる、そんなことを期待して飲み、そして落胆する。
それの繰り返しだ。
山を一つ越え、次の仕事がある町に着いたのは日が陰り始めた頃だった。
鬱々とした気分になった了架は着くなり酒を
着いた先は先程の村よりも大きく、宿場町として栄えているようで酒を期待できたからだ。
「鬼狩りだ」
了架の姿を見るなり、周囲でひそひそと話し声がし、人々は皆避けて通った。
目が合うと逸らしたり俯いたりして、視線さえ合わそうとしない。
自分達が呼んだのにこの態度だ。
それはいつものことなので、別段気にすることもなく、依頼をして来た家へと向かう。
「また
ふいに聞こえた会話に足を止める。
「女子供なら分かるが、貧乏な男を攫って何の得があるんだか」
「鬼狩りじゃねぇか? 鬼だと言い張って男を斬って金を貰うんだよ」
「鬼狩りが白昼堂々と歩いてやがる。物騒な世の中だよなぁ」
それはひそひそと囁くような小さな声で、しかも離れた場所でのものだったが、五感が鋭敏な了架には良く聞こえた。
足を止めたのは自分に対する悪態が聞こえたからではない。
拐かしという言葉に何か引っかかるものを感じたからだった。
鬼が出ることと関係あるかどうか分からないが、どうも嫌な予感がした。
依頼人の家で依頼料を受け取るついでに拐かしについて聞いてみた。
最初は女子供が拐かしに遭い、性質の悪い悪党の仕業だと思われたが、老若男女問わず人が消えるため不審に思っていたところ、ここ最近になって山中で女の鬼の目撃談があり、鬼の仕業と思って依頼が来た、ということのようだ。
拐かしのあった家と商売をやっている家が中心になって、鬼狩りを呼ぶ相談をしたらしい。
他の家は反対する者も多かったようだ。
金のために鬼以外も斬って行く。
そう思われている。
完全に鬼に変化していなければ、人と鬼の区別は難しい。
鬼狩りには明らかに区別ができても、普通の人には分からないため、畜生働きの強盗と同等に思われているのだ。
拐かしと女の鬼。
ここの人間はそれを関連付けているが、鬼が拐かしをするというのは前例がない。
だが、無関係でもなさそうだ。
鬼を狩るのに酒が必要だ、ということにして、了架は一升瓶をせしめ、目撃談のあった山中へと向かった。
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