第5話 香瑠

 瞬きをするのにも理由が欲しい。

 呼吸をするのにも理由が欲しい。


 なぜなら、私という存在がこの世界に在ってもいいという保障が必要だからだ。

 誰かの役に立つためなら、堂々と存在できる。


 でも。


 私は存在を否定される。

 瞬きも呼吸さえもここではできない。

 なら、なぜ存在するのだろう。

 排除されるべきものが、なぜ生まれてくるのだろう。


***


 紅い雨が降った。

 髪に、肩に、掌に。


 並木道の真ん中。

 立ち尽くす私は空を見上げた。

 暗い暗い空が高く高くそこにあった。


「初めて見たわぁ……」


 その声に振り返ると、真っ赤に濡れた刀を手に、真っ赤に染まった男がいた。

 足元には鬼が転がっている。


「腹が減っとるんか? それとも、それしか喰えんのか?」

 男は眉間に皴を寄せ、目を細めて私を見た。

「言葉、通じへんか?」

 何も答えない私に、男はゆっくりと近づいてきた。

「人の子やろ? そんなもん口にしたらあかんで。美味うもぉないやろ。鬼になってまうよ」

 私の手からそれを奪い捨てて、刀の切っ先を私の喉元に突きつけた。


「……殺すのカ?」

「……話せるやんか。おまけにもう手遅れかいな。参ったわぁ」

 泣きそうな顔。

 なぜそんな顔をするのだろう。


「誰の肉やったんや?」

「……母さんの。生きろって言われた。食べなきゃだめだって」

「そうか。生き残ったん、お前だけやな。鬼が来る前からここは病んでたんやなぁ。納得したわ。お前がそんなんなってもぉた理由もな」

 男は、辛かったな、と言って私の頭に手を置いた。

 辛いってなんだろう。

 母さんの顔も何も思い出せない。

 私はどこかおかしくなっていた。


「でもまだ完全に喰らってなかっただけマシやけど、手遅れなことに変わりない。残念やけど、ここで死ぬかどうするか決めなあかんやんね?」

 困ったわぁ、と男は私の頭に手を置いたまま、空を仰いだ。


「……死にたいか?」


 空を見上げたまま、男は問うた。

 私は少し考えて、首を横に振った。

「そやんなぁ。普通は死にたい思わへんもんな。生きたいから、母さん喰ったんやもんな」

 せやなぁ、と男は少し押し黙って、それから。

「わしが育てたるしかないよなぁ。父親ってガラ、ちゃうねんけどなぁ」

 そう言って、私の頭をくしゃくしゃとかき回した。


「名前、なんてゆうん?」

「名前?」

「わしは火嶺かりょうゆうねん」

「覚えてないネ」

「なら、香瑠かりゅうっちゅうのはどうや? わしの名前と似とって覚えやすいやろ」

「なんでもいい」

「つまらんやっちゃなぁ。まぁえぇけど。リュウって呼ぶさかい、そう呼んだら返事するんやで?」

 男の曇った笑いに、私は頷いた。


***


 息苦しい。


 火嶺の家はとても広かった。

 でも、鬼封じの術が張り巡らされていて、私にはとても息苦しい場所だった。


「それ、常につけときぃ」

 家に入る前に火嶺が首にかけてくれた、不思議な御守。

 そのおかげで息苦しさもこの程度で済んでいるのだと教えてくれた。


「ちったぁ慣れたか?」

 この家はとても静か。

 そこに火嶺の声だけが響く。

「苦しい」

 そう答える私の声が響く。


「いずれそれにも慣れる。せやけど、人の間に入れるようにはよぅなってもらわなあかんねん。今よりもっと苦しいの、嫌やろうけどちっと我慢したら今よりずっと楽になる。下手したら死ぬこともあるんやけど……どや、我慢、できるか?」


 死ぬ。

 苦しいこと。

 どっちも嫌だ。

 でも、それを乗り越えることを火嶺は望んでいる。

 なら。

 私は頷くだけだ。


「御守、握り締めてわしだけを見とき。真っ直ぐに、他のこと考えたらあかんよ。何があっても、どんなに苦しくてもな。わしが守ったる。お前が、リュウである間はな。鬼に完全になったら、わしは問答無用で斬らなあかんのや」

 そう言って、火嶺が目を閉じた瞬間から、私の記憶は激しい息苦しさと痛みに暗闇に途切れた。

 再び光の中に目を開けた時、火嶺のホッとした笑顔が迎えてくれた。


「よう頑張ったな。邪気、だいぶ抜けたで。どや、まだ苦しいか?」

 呼吸がとても楽になっていた。

 起き上がると、風の流れる音に混じってたくさんの声が聞こえた。


「ここ、どこ?」

「どこ、て? さっきからずっと動いてへんで?」

 不思議そうな火嶺の顔に、辺りを見回す。

 確かにさっきと同じ場所だ。目を閉じる前と同じ場所だ。


 でも。

 静かじゃない。

 たくさん音がする。


「誰かいるの?」

「ああ。音、か。聞こえるんなら成功やな。もう苦しくないんやな? なら、いろいろ教えたるわ」

 嬉しそうに笑った火嶺は、背後の襖を振り返って、入りぃ、と言うと、襖が開いて私より少し大きな、でも火嶺より小さな男が入って来た。

了架りょうかや。わしとこいつで鬼を斬って、人を守る仕事してんねん。普段はわしは貸し本屋やっとるねん。鬼狩りの仕事しとるゆうたら、倦厭されんねん。下手したらわしらが殺される」

「守ってるのに?」

「鬼っちゅうのはな、初めから鬼として生まれてくるんは稀なんや。人の負の感情が邪気を生み、それがたくさん集まったり強くなって、人を鬼に変えてしまうんよ。それにな、見た目が変わる場合もあるんやけど、まだ鬼になりたて、もしくは鬼になってる途中ってゆうのんは、まだ人の姿を保ってるんや。人の姿のまんまの時に斬ったら、ただの人殺しに見えてもしゃあない。それにな、常に邪気の集まる場所にわしらがおるさかい、鬼を集めるようにも見えるんや。実際、寄せてまうこともあるんやけど……一応こうやって鬼封じやら邪気払いの結界も張ってるんやけどな。わしらも万能やない。守ろうとしても守れん時もあるんや。せやから、人に嫌われてまうんや。影から守るためにも表の顔として、普通の人として暮らさなあかんのや」

「銭や情報も必要だしな」

 了架がそう付け足す。

「せや。お前もきちんと働きや。遊郭ばっか遊び歩いとらんと。酒も少しは控えな、いざっちゅう時に役立たんで」

 火嶺の言葉に了架はへぇい、と言って、物珍しそうに私を見下ろした。


「で、こいつには何させんの?」

「こいつやのうて、香瑠や。リュウ、お前には薬と結界の張り方、あと人のことを今からみっちり教えるさかい、きっちり覚えや」

 火嶺の言葉にしっかり頷く。

「あとな、わしも人ちゃうねん。わし、人と鬼の間に生まれてん。半分鬼やから、リュウとちっと似とるな。けど、わしは鬼を狩る一族の正統な血が半分流れてん。ちぃと厄介な生い立ちやけど、わしは半分鬼やからって鬼を容赦することはあらへん。鬼はすべからく斬る。わしは鬼の血よりも狩る一族の血を大切に思っとる。鬼の血を恥じてへんけど、わしの立つ側は常に人の側やってこと、これだけはよう覚えておいてや」

 いつになく真剣な顔と声音に、火嶺が恐ろしく見えた。

 でも、すぐににこっと笑いかけてくれるから、少しホッとする。


 火嶺に嫌われるのは怖い。

 火嶺が今の私の全てだから。

 私は鬼にはならない。

 絶対に。

 私も火嶺と同じに、常に人の側に立つ。

 火嶺の側にいる。

 火嶺のために。

 火嶺だけのために。


 そう誓った。

 私が確かにここに在るために。

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