19「残っているの?」
「ああ、あああああああああああああああああああああああああ」
唯が一際大きな声で叫んだ。
唯が両手を広げる。
里見のかけた継承の文言が弾き飛ばされて、霧の中で散っていった。
誰に目にも、失敗したのは明らかだった。
「そんな……」
ミハエルが膝をつく。
やはり、里見の魔法はあらゆる魔法を再現する代わりに、どうしても劣化してしまうのだ。それも、本物の美咲ですら、こうなる前に手を打ったからこそ封じ込めに成功したにすぎない。
「万策尽きた、か」
ユーゴが呟いた。
「課長、どうするよ?」
立ち尽くす穂波にユーゴが判断を仰ぐが、穂波は呆けて地面に倒れている里見を見ているだけだった。
「ち、指輪の効果切れか。課長、早く指示を!」
ユーゴが叫ぶ。
キイイイイン、と張り詰めていた空気に高音の不快な音が響く。唯から発せられているものだ。
「本格的にヤバくなってきたな」
自分の世界に逃げ込めるうえに、死なないユーゴだけがほんの少しだけ冷静でいられた。ミハエルは耳を塞ぐこともせずに、その音を聞いていた。
「なんだ、ありゃ」
ユーゴが唯を見て言う。
里見の魔法を消し飛ばした唯の背中から、翼が生えていた。
翼は左右対称で、三枚ずつ、計六枚。
全身を優に包み込むほど、大きな翼だった。
微かな青い光を帯びている唯と六枚の翼は、神聖なものすら感じさせた。
マズい、唯と視線を合わせたユーゴが後ろに跳んで距離を稼ごうとした。
「ぶっ」
ユーゴの右足が吹き飛んだ。
翼から飛んできた一枚の羽が右足に突き刺さり爆発したのだった。
ユーゴの足が修復されていく。
「何もしてないじゃん……」
唯が再び頭を抱える。
不快な音がそれに合わせて消えた。
静寂のあと、空から声が聞こえた。
「これで、終わりみたいね」
その声の主、彼女は、浮いていた。
魔法も使わず、空を舞っている。
ふわふわと浮いているわけではない。彼女の足元に確固として固定された足場があるかのように、しっかりと立っていた。
右手は自由に、左手は、唯の頭を掴んでいる。それで、唯は動きを止めているのだ。腕力ではないもので、活動する第六元素の活動を押し止めている。
ミハエルとユーゴがあれだけ苦戦をして、防戦はおろか接近することもままならなかった唯を、ただ、左手だけで押さえ込んでいるのだ。
「とんでもないものね」
彼女は、軽やかに、優雅に、唯を見ている。
唯が、声にもならない咆哮を上げた。抑えられていることに苛立っている獣の叫び声だ。伸びきった翼を不自然に羽ばたかせ、自由を得ようとしている。両手で彼女の左腕を掴み、振りほどこうとするが、効果がない。今の状態では魔法を発動することすら、不可能であるらしい。
彼女の表情は変わらず、苦心しているようには見えない。彼女が、何をすることで唯の自由を奪っているのか、ミハエルには検討がつかない。
「こんな容量を持った第六元素は初めて」
こちら側の世界に身を置いているとしても、よほどのことがない限り、一生見る機会は得られないはず第六元素の保有者を、当たり前に存在するかのように彼女は扱っている。世界の異端を制しているのは、やはり、自身も異端でしかないだろう。
くるりと、彼女が振り返り、ミハエル達に向いた。
「はーい、みなさん」
彼女は、楽しそうに、呑気そうに、心底愉快そうな声で、右手を眼下にいる人間達に振った。
「あれ、は?」
全員が立ち尽くしている中で、唯一言葉を発せられたのはミハエルだった。彼女の出で立ちは、至極普通だった。しかし、それは見かけだけの話である。空を舞っているということだけが彼女の異常性を表しているわけではない。
ミハエルは、彼女が人間ではないことくらいは、瞬時に感じていた。
「まー見てな」
ミハエルの疑問に答える形になるのか、ユーゴがナイフを連続で投げた。的確に、三本のナイフは浮いている彼女に向かう。
「随分な挨拶返しね」
鳥のように軽い言葉で、彼女は右手を差し出した。
「これでアンタもわかるだろ、アレも正真正銘の化け物だって」
ユーゴが、横に立つミハエルに言う。その声は、今までの陽気な声ではなく、緊迫に満ちたものだった。
彼女が止めているのは、ユーゴのナイフだ。
彼女の前にある、ヴェールのようなもので、ナイフが固定されている。透明なガラス膜とでもいえばいいのか、そのヴェールはユラユラと揺れている。ナイフは彼女に突き刺さることも、地面に落下にすることもない。明らかに物質として存在する何かに、それは刺さっているのだ。
魔術でも、魔法でもない。
能力とも違う。
魔術師ほどではないミハエルの目にも、はっきりとそれが何であるか、わかる。
ナイフが刺さっているのは、単なる、エーテルの塊だ。
架空元素とまで言われる存在自体は希薄なエーテルそのものに、ナイフが刺さっている。
物質とは非干渉のエーテルが、である。
そう、それができるのはただ一つだけ。
偶然でも必然でも、出会ってはいけない。
時代の節目に現れて、災厄と希望をもたらすもの。
どこからやってきて、どこへ行くのか誰も知らない。
終わりと始まりを内包するもの。
その名は。
「魔法使い!」
ミハエルが叫ぶ。
「そうね、その呼び方が、一番古いかしら」
何のこともなく、彼女は肯定をした。
魔法使い。
全ての魔術、魔法、能力、宝物の動作の根底にある、エーテルそのものを操る異端中の異端の存在。
それを、総称して、『魔法使い』と呼ぶ。
魔術の起源は、魔法使いという種にエーテルの存在を教えられたことに始まるとされている。その根源の力を流用して、改変して、人間でも使えるように、『レベルを下げた』のが、魔術であり、魔法である。その構成を、人間は、異種や混血の異能力を模倣して生成してきた。つまり、最初から、魔術は、単独で戦えなかった人間のために作られた、人間以外の能力のコピーでしかない。
確かに、魔術師はエーテルから炎を起こす術を生み出した。
だが、魔法使いは、エーテルそのもので、相手の身を焼く。
魔術師は長い詠唱でエーテルと魂魄を共鳴させる方法を編み出した。
だが、魔法使いは、異能力と同じく、想うだけでそれを為しえる。
そもそも、エーテルは、魔法使いの専売特許だったのだ。
かつての魔法使いが、ちょっとした気紛れで、人間に扱う術をほんの少しだけ教えてあげたに過ぎない。
魂魄を使う必要もない。
彼らは、エーテルと同じく自然物なのだから。
使節が今まで、彼女に勝てなかったのは明白だ。
人間ごときが、敵う問題ではない。
人間程度の魔法などは、根元を奪われて失速する。
この世界に、魔法使いが何人いるのかはわからない。そもそも、現存しているのか、もしくは、最初からいたのかすらも怪しいものだった。ミハエルは、それほど魔法使いの存在自体をそれほど信じてはいなかった。
ユーゴといい、自分の周辺では伝説ばかりが生じている。
「あら、ユーゴ、久しぶりー」
楽しそうに、彼女は言った。
「二百年振りくらい?」
「先月会ったっての」
ユーゴと彼女は、面識があるようだ。ミハエルに返して、ナイフを投げることで彼女の存在を見極める実演をして見せたことからもわかる。ただの顔見知りではなく、それも、それなりに関係をしていた仲らしい。彼女は親しげに話しかけているが、ユーゴは苦々しい声で、何とか平静を保っているようにも見える。
それはそうだ、このような存在を目の当たりにして、平然としている方がおかしいのだ。彼女は、世界に対しての『自然』であり、ありとあらゆる生物からの『異常』に他ならない。
「どう? そろそろ死ぬ気になった?」
「まだそのときじゃないな。もうちょっと長生きしたい」
へらへらと、ユーゴが返した。
「鏡面世界ごと潰してあげるのに」
彼女の言葉は冗談ではないだろう。
魔法使いであれば、魔術師が創り出したものなど、魔術解析などしなくても、エーテルを使って真上から捻り潰すことも可能なはずだ。
ユーゴが、肩を落とす。その手には、ナイフもヴァンデッドも握られていない。
「やめやめ、無駄」
ユーゴが、駆け出そうとするミハエルを制止する。
無駄だ、彼のその言葉を、ミハエルも承知をしている。あれに対して、有効な手を打てるという気になる方がどうかしている。
「構いません」
それでも、彼は秩序を守る騎士であり、里見の部下であり、唯の友人だった。今、自分に背くことは、それがいかなる存在であっても認めるわけにはいかない。
降ろしかけた剣を構え直す。
「馬鹿か!」
横でユーゴが言う。
「雨よ」
彼女が、空いている右手で、空を指し、地面に振る。
途端、霧に充満していたエーテルの粒が、彼女の言葉通り、雨粒の弾丸となってミハエルに向かって降り注ぐ。一面の不可避の弾丸は、狙いを定める必要もなく、ミハエルに向かう。
「ぐ、あ」
駆けたミハエルが、雨粒を一身に浴びて力を失って倒れる。ウォーターカッターなどではなく、小さな拳銃の弾丸を全身に受けたようなものだ。
体が焼けそうになる。
無心を発動しているのにも関わらず、肉体の痛みが脳内のアラームを鳴らす。あらゆる痛点が、反応している。ミハエルが行っている痛覚遮断など、小手先の手段と言わんばかりに、彼女の攻撃は無視をするようだ。
血は出ていないが、内部がメチャクチャになっているに違いない。
「聞き分けのない子ね。でもそういう人間は嫌いじゃない」
力の差は歴然だった。
届くと思う心そのものが、過信だった。
エーテルを直に扱うということは、こういうことが出来る、という証拠だ。それでも、彼女は、どこまでも手加減をしているのだろう。
「巻き添えかよ!」
強度がミハエルほどではない体に、いくつもの穴を開けて、ユーゴは叫んでいる。血飛沫が舞い、肉が抉れている。しかし、その間にも、その体が元に戻り始めていた。
「だって、私これしかできないもの」
悪びれる様子も、勝ち誇る様子もなく、自然な声で、彼女は言う。
剣を杖にして、ミハエルが立ち上がった。彼女に向かって戦うことはおろか、歩くことさえままならない。
「あれが、魔法使いの力」
里見の亡骸を抱きしめて、穂波が呟く。力なく、夢の中にでもいるようなぼんやりとした声だった。
全ての魔術師が憧れると同時に、絶対に人間ごときに手に入らない能力の持ち主が、目の前にいるのである。
「私、彼女と契約をしていたの」
視線を落とし、穂波が抱く里見を見る。
「でも、もう契約は破棄されたのね」
少しだけ静かに、哀悼の意でも込めているつもりなのか、彼女は落ち着いた声だった。
ミハエルは、彼女が、里見と面識を持ち、更には何かしらの契約をしていたという事実を知らされていなかった。
「今は誰の手に負えるものでもない、と」
ミハエルが彼女に人間らしい感情を感じたのも束の間、笑顔で、唯を見た。
「それじゃあ、私が、『これ』を扱うわ」
彼女が、唯を掴んでいる左腕に力を込める。
「何を!」
ミハエルが言うよりも早く、魔法使いは持ち手を右手に替えて、唯の背後に回る。彼女を拒否するように、羽が大きく揺れる。
「黙りなさい」
苦痛に顔を歪ませてうめき声を上げた唯に彼女が囁く。飼い犬をたしなめているようだ。
「彼女が弱らせてくれたおかげで、とてもやりやすいわ」
何をしようというのか、ミハエルにはわからない。
魔法使いといえども、彼女は人間にとっては異種である。唯を『食べる』つもりかもしれないが、そのようなことを彼女がするとは思えない。毒物のような拒否反応を示すことにもなりかねないし、第六元素を抑えるくらい、彼女は十分すぎるほど強いのだ。
彼女は、唯の翼を左手で撫でる。
「壁よ、包め」
彼女の言葉に合わせて、周囲のエーテルがまとまり、球形となって唯を包む。エーテルの檻に閉じ込められた唯から、彼女は手を離した。既に唯は囚われの身であり、抵抗の意思を見せることはなかった。
東雲の持つ檻のように唯は透明な球の中で、小さく丸まって、胎児のような格好になる。きっと、宝物の檻はこれを再現しようとして作られたのだろう。両膝を抱え、六枚の羽は折りたたまれている。瞳を瞑り、眠っているようにも思えた。
そして、その球は、唯を包んだまま、収束を始めた。
小さく小さく、唯に球が接すると、それに合わせて縮小していく。魔法をかけられたように、唯の体は小さくなっていった。時折、光が漏れる。収縮に彼女の固めたエーテルが耐え切れなくなり、破壊と再構築を繰り返している。
それは、幻想的な光景だった。
揺れる光が、地上を照らし、静寂が訪れる。
最後には、野球ボール大になった唯を手の平に乗せる。唯の面影はどこにもなく、今は光る球でしかない。
「時期はそろそろかしら」
彼女が天を仰ぐ。霧の中では、何も見えない。彼女は、人間には見えないものを見ているつもりなのだろうか。
「それでは皆さん、いずれ時が満ちるまで」
意味深長な言葉を残し、彼女は空を舞った。
足の先に空を昇る階段のようにエーテルを固め、それを足場にしているのだ。傍目には、空を飛んでいるようにしか見えない。風を浴びながら、彼女はビルの間へ、飛び去っていった。
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