6「怒っているの?」

 結局、唯がホテルに戻ったのは夜も六時を過ぎた頃だった。

 唯は、何も考えていなかった。それが最良の方法であり、ただ後回しにしているという事実も理解していた。

 自分が穂波の言う通り日本に残れば、里見はついて来てくれるだろうか。

 すくなくとも、使節とは敵という状態になる。

 騎士団の総長としての地位が約束されているミハエルとは会うことはなくなるだろう。今の実力では、ミハエルの足元にも及ばない。ミハエルは、恐らく任務とあれば剣を自分へと向けるはずだ。里見は、わからない。昨日の様子からして、里見が穂波に対して何らかの不満、もしくは嫌悪を感じてることは明白だ。それでも里見が穂波に会ったのは何故なのだろう。里見が、自分に隠していることは一体なんだろう。説明する必要がなかったのか、説明したくなかったのか。

 思考は不連続で突発的である、腐った水から濁った泡が時折浮いては弾けるように、ヒントもない問題は、補助線を引くこともできなかった。

 唯はフロントで自分の部屋の鍵を受け取ろうとふらふらとロビーを歩いていた。エントランスはガラス張りで、フロントの壁を左右にぐるりと回った後ろには吹き抜けで各階の廊下が見えるようになっている。一階と二階は全て飲食店で埋め尽くされている。外国人の客も多いらしく、泊まっている人のほとんどが、中流以上なのは間違いない。

 名前を告げてカードキーをもらい、左のエレベーターへと向かう。

 そこへ乗り込もうとしたとき、二人の見知った人物が唯の前に立っていた。

 ほっとした表情で駆け寄ろうとしたミハエルを、横で腕を組んでいた里見が制す。

「里見さん……」

「来なさい」

 今までになかった目で里見は唯を眼鏡越しに睨んでいた。怒っている、とかそういう状態ではない。その冷たい目は、恐怖すら感じさせる。

「あの……。ごめんなさい、私」

 唯はとりあえず、勝手に外出したことを謝ろうと思った。それ以外、何を言うべきか単純に見つからなかったからだ。

「来なさい」

 里見は表情を変えず、同じ言葉を繰り返した。口答えは無駄だ、ということだ。

 ミハエルは何も言わなかった。ただ両方に対して、心配そうな顔を浮かべている。

「はい」

 唯は、最大限感情を押し殺して、命令を受けた部下の声で答えた。


 唯がいないことにミハエルが気が付いたのは、唯が出掛けてから一時間ほどしてからのことだった。今日の朝に、里見から電話を受けて、いくつかの場所に手紙を書いていた。

 夢を見ないミハエルは、その分体力の回復が睡眠の全てであるため、寝起きは問題なかった。

 内容は使節の応援要請に関するもので、主にアメリカ方面へのものだった。雑務とも呼べる作業を二時間程してから、文字を読むためだけに使っている銀縁の眼鏡を外した。一息をついて、備え付けのコーヒーを飲む。インスタントではあったが、多少の回復をする分の美味しさはあった。日本の方が、味が繊細になっていると感じるのは何故だろうかと、することもなくなってからぼんやりとそんなことを考えていた。

 昼の三時を回っていたことに気が付き、昼食を取ろうかどうか悩んだ。

 ミハエルは、普段は昼食を取らない。最近は食事を楽しむ、という感覚が出来てきたので、夕食も味の良いものを誰かと食べるようになった。

 今食べると夕食に響くか一瞬考え、とりあえず二人のうちどちらかに連絡してから決めようと思った。ミハエルは二人に比べて、どうでもいいことに時間を掛けてしまう癖がある。

 まず最初にミハエルは唯の内線に電話を掛けた。

 一分ほど待ってみたが、唯の部屋には繋がらなかった。唯が昼過ぎまで寝ていることはここ最近何度もあったため、それほど気にすることもなくミハエルは受話器を置いた。

 次に里見へ掛けようとして、少しだけ迷う。

 昨日から引き続いて、里見の機嫌は相当悪かった。

 里見と会うようになったのは、あの事件の後だから、もう四年以上にもなるが、これほどまでに何かに腹を立てている里見を見るのは初めてだった。だがミハエルは唯ほどには驚かない。誰にでも、そういう機嫌のサイクルがあり、大抵そのサイクルに合わせて嫌なことが重なるものだとミハエルは思っていた。

 結局、ミハエルは里見へ電話をした。

 それから里見と合流して、唯を起こしにいく。

 ドアをノックしても唯は出てこなかった。電話でも起きないのだから、当然かもしれないと、二人は諦めようとしたときだった。たまたまそこを通りかかったボーイが、そちらのお客様はさきほどお出掛けになられました、と二人に言ったのだ。一人で勝手に食べに行ったのかとも思ったが、一応確認のためフロントに問い合わせてみたところ、律儀にも唯はカードキーをフロントに渡して出掛けていったことがわかったのである。

 慌てたのはミハエルではなく、里見の方だった。

 里見は尋常ではない速さで、ペンを走らせ、探索魔術を起動させた。指定範囲のエーテル局在点をエーテルを見えるものだけにわかるよう目の前の空間に描き出す。唯程度のエーテル保有量なら探索に引っ掛かるはずだと思ったのだろう。里見の空壁魔術では本来の魔法を完全復元することは出来ない。探索では、一定以上の量を保有しているかどうか、だった。とりあえず、駅近辺に絞ってみたが、それらしい人物は見当たらなかった。逆に広げてしまうと、天然で才能のある人間が大小様々捉えてしまう。

 里見が舌打ちをしたあと、ミハエルの申し出で手分けして街を探して回った。

 ミハエルもエーテルを見る能力に長けているから、近付けば唯の存在には気が付く。だが、一向に唯は見つからなかった。それに、ミハエル自身は、唯がいなくなったことに対してさほど問題にはしていなかった。多分、どこかへ暇を潰しに行ったのだろう、くらいにしか思っていなかったのだ。だから、里見の様子の方が心配だった。

 ミハエルは、唯が継承者以外の特別な素質がある、ということを知っている。継承者はその前段階なのであり、その次の段階である第六元素と呼ばれるものを安全に覚醒させるにはもう少しの時間が掛かると思っていた。

 二時間程探し回ってみたが、唯は見つからなかった。電車に乗ってしまえば、最早探しようがない。唯は、二人が持っている携帯電話の番号も知らないのだ。

 ミハエルは規定の時間が過ぎたので里見に連絡を取った。里見も見つけていなかった。仕方がないので、二人はホテルに戻ってきていた。

 里見は、午前よりもいらついているように見えた。

「サトミさん、何を心配しているのですか」

 ミハエルは腕を組んで黙っている里見に聞いてみたが、案の定里見は答えなかった。それから、二人はロビーで彼女が帰ってくるのを待つことにした。



 唯がいなくなったのを知ってから、里見は、いらついているのも隠そうと思わなかった。そんなことにエネルギーを費やすくらいなら、一刻も早く唯を見つけた方がいい。唯が出て行った理由は定かではない。だが、予感のようなものがある。ミハエルは、気晴らしにでも唯が出掛けたと思っているのかもしれないが、多分そんなことはないはずだと思った。それは経験に裏づけされた勘みたいなものだ。

 街を念入りに探してみたが、見つかるとも思っていなかった。ただその時間を何かで消費していないと、いらつきが限界まで来てしまいそうだった。

 六時も過ぎて、ミハエルとロビーで二時間程待った結果、ようやく唯が帰ってきた。慌てた表情で、いつもと同じく苦笑いしながら笑ってくれたらどれほど楽だっただろうか。唯は、普段より落ち込んでいた。何かがあったのはわかりきっている。でも、無事に戻ってきて良かった。本心は、それだけで充分だと言っているが、反面、氷でさえ一瞬で沸騰してしまいそうなほど自分が怒っている様子を俯瞰した自分が見ていた。

 何に怒っているのだろう。

 それは、唯が、自分に何も言わずにどこかへ行ってしまったことであり、つまりは、自分を信用していない、ということだ。

 自分で言い聞かせて、俯瞰した里見は否定した。

 違う。

 あいつが、唯に接触したに違いない。

 私の、唯に。

 それは、ごくごく簡単な、一語で表せる感情。

 嫉妬だ。



 里見に無言の先導を受けて、唯は里見の部屋にいた。ミハエルもそれに続いて入っている。ドアを閉めてから、しばらくの間、三人は黙っていた。誰かが話を切り出すのを待っていたようでもあるし、元から話すら存在しないかのようでもあった。

 里見はテーブルの椅子に、ミハエルは壁を背にして立ち、唯はソファの上に小さく座っていた。

 空気は重く、呼吸をする音でさえ酷く耳障りに聞こえそうだった。

 里見もミハエルも、何も言わずに唯を見ている。唯は、一人で下の絨毯の模様を追っていた。

「ごめんなさい」

 小さな声で唯が呟く。

「勝手に、出て……」

 叱られる、唯は外へ出る前からわかっていた。里見が怒って、ミハエルがなだめて、自分が適当に誤魔化して、二人が呆れて溜息を漏らす。それが、お決まりのパターンだ。

「唯ちゃん」

 しかし、里見から出たのは、意外にも、ゆっくりとした優しい口調だった。

 唯が驚いて顔を上げる。里見は、決して笑ってはいない。

「どこへ行っていたの?」

 精一杯、里見は無理をしているのだろう。唯は、そう思っていた。怒るだけでは言うことを聞いてくれないと里見は思ったのだろうか、と。

「あの、私」

 本当のことを言うべきか、唯は戸惑った。言えば、きっとまた怒られる。遊んでいたと言えば、小言を言われる程度で済むかもしれない。

 里見は、唯を心配している。

 それは、唯が心配をかけているからだ。これ以上、里見に迷惑をかけたくはない。唯は、穂波と会ったことは言わないことに決めた。明後日、自分は、二人とともにヨーロッパへと帰る。自分の帰る場所は、そこなのだ。それでいいではないか。今あるものより、もうきっと自分は何かを求めてはいけないのだ。穂波が持っていたものも、合成写真に決まっている。そう言い聞かせて、唯は、自分が覚えている限りの普段の顔に戻した。

「こないだ里見さんが連れて行ってくれたお好み屋さんの近くに、大きなアイスショップがあって、そういえばこっちにいた頃おいしいって聞いてたから、せっかくだから行ってみようかと思って。二人にも言おうと思ったんだけど、あんまりそういうの好きそうじゃないし、しばらく見納めになるな、って思ったらなんとなく独りで外を歩きたくなって。……本当に、ごめんなさい」

 身振りを加えて、唯が謝る。自分でも嘘が下手のはわかっている。

 上目遣いで座っている里見に目を遣ると、里見は悲しそうな目で溜息を付いた。

「薫に、会ったのね」

 里見には、全てわかっていたようだった。

 言い返さない唯を見て、里見は肯定と受け取った。

「どうして?」

 唯は首を振る。

 会おうと思った理由など、どこにもなかったのだ。ただ、ちょっとした悪戯のようなものだったのだ。

 里見は、唯が黙っているのを見て大きく息を吐く。ミハエルは石像みたいに静かに様子をうかがっていた。

「薫に、何て言われたの?」

 首を振る。

 言われたことはたくさんある。

 聞きたいこともたくさんある。

 唯は、それを言ってしまうと、全てが崩れてしまう気がしていた。

「言って」

 普段の命令口調ではない。

 里見は、立ち上がっていた。椅子を腰に当て、重心を後ろに移している。

「お願いだから、言って」

 里見の言葉が何を意味しているのか、唯は考える余裕はなかった。里見が、それを要求している、ということがわかっていた。

 頼んでいるようにも聞こえる。

 それから、また沈黙があった。ミハエルは相変わらず、微動だにしない。微かに、時計の秒針の音が響いているだけだ。

 二人は、唯が口を開くのを待っていた。

 唯も、言葉を選んでいた。

 下を向けた顔を再度上げ、里見とミハエルの顔を確認する。

「私に、隠していることは、なに?」

 里見は、唯の質問を聞いても表情を変えなかった。

「薫が何か言っていたの?」

「ううん、言ってない。でも、私が知らないことも知っている、って言ってた」

 里見はミハエルと目を合わせ、顎に手を当てて考えているようだった。

 ミハエルが壁から離れ、一歩前に出る。

「ユイさんに聞く権利はあると思います」

 珍しく、ミハエルは唯の前で里見に意見をした。

「ミーちゃんも、知ってるんだ」

 ミハエルが唯の目を見てしっかりと頷く。

「サトミさんほどではありませんが」

「後悔、しないわね」

「うん、大丈夫」

 念を押した里見に、唯はまごつきながらも答えた。

「そう」

 里見が重心をかけていた椅子を持ち、ソファの唯の前に置く。もう一脚をミハエルの場所へ置くと、最初の椅子に里見が腰を掛ける。

 目で促されてミハエルも椅子に座った。

「少し、話が長くなるわね。最初は、あの日から初めなければいけないわ」

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