5「疑っているの?」

 何故自分がここに来ているのか、唯は自分が不思議で堪らなかった。非現実なことが起こってばかりの日常で、最も不可解なものは自分の感情なんだと、今さらながらに理解していた。

 唯は、椅子に座っていた。

 それは夢の椅子ではなく、現実の椅子だった。

 ホテルからそう遠くは離れていない、駅から放射状に細く斜めに進んだ路地の先、小さな喫茶店の中に唯はいた。頂点を過ぎた太陽は、この細い路地には差し込まないようだった。喫茶店に入ると、丸眼鏡を掛けて紺にフリフリの白いエプロンを着けたポニーテールの店員が、愛想笑いを越えた笑顔で、唯を出迎えてくれた。

 待ち合わせの相手は既に椅子に座っていて、唯の前にいた。

 今、唯はココアケーキを口一杯に頬張っている。味は自分の好みにあうもので、甘めが抑えられていた。

 対する男は、アイスコーヒーを飲んでいた。

「はじめまして」

 そう切り出した男は、彼が言った通り、唯には記憶にはない人間だった。

「はじめ、まして」

 唯はこういう初対面の人間と話すのがあまり得意ではない。相手が年下だとある程度のアドバンテージが取れるような気がして、何とか話せるのだが、同年代以上になると、途端に何を言っていいのかわからなくなる。それは元が臆病であることを何とか誤魔化しているからだろうということは、唯自身思っていたことだった。

「あの、私」

「あまり時間がない、だろう?」

 全てを見透かした顔で、男は答えた。愛想の良い笑顔が、逆に真意を見せなくしている。

「はい」

 唯は、勝手に部屋を抜け出してきた。ミハエルと里見は唯が部屋で一日中寝ていると思っているのだろう。実際、今も相当眠気が迫っていた。気を抜けば道の真ん中でも寝てしまうかもしれない。

「それに、質問も用意していない」

「はい」

 何を話していいのかさえ、唯はわからなかった。里見の知り合いであることは、電話の時に聞いたが、どのような知り合いかなどは一切言わなかった。気のせいかもしれないが、この人懐っこそうな彼が、里見の機嫌を悪くしたように唯は感じていた。しかし、そのことを聞くのはあまりに無粋、というか、礼儀に反することだろう。

「自分がどうしてここにいるのか、もわからない」

「……はい」

 彼は、自分のことを知っている。唯はそのことが疑問だった。確かに、唯のことをまだ覚えている人間は、一般の世界にも残っている。当時のクラスメイトの中には、唯が思い出すことができる人達もいる。

 だが、目の前の人間は違う。

 そのことは、自分の目の裏側にある、もう一つの例えようのない目が言っている。

「まあ、そうするのが妥当だね」

 唯の行動に気が付いたのか、男が言う。

「印象は、どうかな?」

「魔法士、ですか」

「正解だ」

 唯は既に魔法士と一般人、それに異種と混血の区別がつくようになっている。それは、自分が一般人ではないことの証明でもある。

「魔法士か、愛にも言われたけどね、一応は魔術師だということにしておこう」

 当たり前に、男は里見のことを名前で呼んだ。何となく、彼が自分よりも里見に近い人間だと宣告されたようで、唯はちょっと嫉妬した。

「でも、少し、違うような」

 唯には、魔法士と魔術師がこちら側の世界でどういった差異を持っているのかは知らないが、彼はまた、今までみた魔法士とはまた違う存在のような気がした。希薄というか、細い、そんな直感があったのだ。

「そこまでわかるとは、やっぱり凄いね」

「何が、ですか?」

「今のはどっちの意味で?」

 質問を質問で返され、唯が男の言った意味を噛み砕く。どっち、なら複数なのだろうか。自分が複数の質問をした、のだろうか。

「どっちも、です」

「うん、合格点だ。答えは両方とも今は秘密だけど」

 結局、何が質問で何が答えなのが唯にはわからないままだった。

「さて、世間話をしてもいいんだけど、どちら側にも都合があるしね。何から話そうかな。質問は君が考えてもいいよ」

「あなたは、誰ですか?」

「僕は、僕だよ。と言ってはぐらかすのは意味がないね。君との関連性を中心を言おう。僕は元魔法士、数年前まで使節にいた。で、今はこっちの公的機関で働いている。仕事は、日本で起こるそういう事件を調査すること。一応名刺を上げよう」

 男は胸のポケットから名刺を取り出し、唯に渡した。ミハエルのあそこにはいつもテディベアがいるのを思い出す。

「穂波、さん」

「あ、そうだった、名前がまだだったね。苗字はあまり好きじゃないから、できれば名前の方がいいんだけど、そういうわけにはいかないよね」

 薫、と書かれた名前を心の中で反芻する。名前で呼ばれるのを嫌う里見とは正反対のようだ。

「私は」

「大丈夫、風見唯さん。君のことは大抵知っているよ」

 穂波は自分の職業を調査だと言った。数年前からこの職業に就いているのなら、自分のことを調べられているのは当然なのだろう。

「どのくらい?」

 相手が自分のことを知っている、というのは話がしやすいのと同様に気持ちが悪いという感覚がある。自分が握られている、ということだからだ。

「年齢、出身、親族、経歴、君が持っている書類上のパーソナリティは全てあると思って構わない」

「そうですか」

 嘘は言っていないだろう、と唯は思う。言っても意味がなさそうに見えた。

「ここ一週間の動きについても知っているよ、継承者であるということも知っている」

 唯は使節以外の機関を知らなかったが、意外と継承者は名前だけはメジャーな存在らしい。世界には、他にも継承者がいるらしいということも唯は聞かされている。

「ついでに言うと、君が知らない君のことについても知っているんだけど、僕から言うのはちょっとねえ、聞きたい?」

 笑顔で穂波が聞く。

 自分が知らない自分?

 なぞなぞのようだ。

 自分を試している気がして、唯はどう答えていいか様子を穂波のうかがっていた。年齢自体は里見よりも何歳か若そうに見える。多分、それは間違ってはいないだろう。ミハエルよりは上だとは思うが、子供のような笑顔で、落ち着いたミハエルとは雰囲気が対照的だ。

 どう答えるべきか。

 聞きたいのは事実である。

 ただ、それを素直に言っても答えてくれなそうだ。

「里見さんと会っていたのは何故ですか?」

 それを聞いた穂波は歯を見せずに、微笑んだ。

「どうしてそんな質問を? 昔馴染みだから、じゃ駄目かな?」

「里見さんは、来ていることを誰にも言わないと思います」

 存在を極力隠そうとしている使節は、理由がない限り、誰にも会おうとはしない。里見が普段から唯にきつく言っていることを、里見自身が破っているはずがない。

 表情を変えず、穂波が返す。

「偶然会ったんだよ、僕だって魔術師の端くれだから、彼女が街を歩いていれば遠くからでも気がつくのは当然だろう?」

「嘘、です」

「どうしてそんな風に思うの?」

「……勘です」

「勘、ね。それは良い答えだ。それ以上のものがないんだからね」

 どうやらツボに入ったらしく、唯の前なのも気にせずに左手で顔を抑えて笑い続けている。

 やっぱり子供っぽい人だ。唯は穂波の第一印象が間違っていないと思った。

 穂波はひとしきり笑い、アイスティーを飲む。

「いやあ、苦しい苦しい」

 楽しそうに男は言うが、唯の目から見ても、全く息が乱れていない。最初から呼吸をしていないんじゃないだろうか。

「うん、こんなに面白かったことはないね、愛だとこうはいかないよ。せっかくだから答えてあげよう。それが君と会っている理由でもあるからね」

 機嫌がとても良いようで、さっきよりも笑っている。

「君とこうしてあっているのは偶然だけど、会いたかったのは確かだよ。僕はさっきも言った通り、日本全体の情報収集に当たっている。当然君達が来ているという情報は集まる。で、僕の課は新設されたばかりでね、慢性的な課員不足なんだよ、だから愛に連絡をした」

 人不足で里見に連絡をする。

「里見さんを引き抜くつもりですか?」

 使節は建前上脱退は個人の自由である。もちろん、それが使節の不利益とならないと判断された場合のみである。里見が穂波のところへ行くとすれば、使節が反対するのは確実で、命の危険を伴うことは明瞭だ。

 だが、唯はそれ以上に、里見が自分の前からいなくなるという可能性を心配していた。

「半分当たり。正確には、彼女よりは、君が欲しい」

「え?」

 欲しい、という妙な言い回しのために唯の思考が止まる。

「今回は君の勧誘話がメイン。君の能力はとても素晴らしいものだ、君が自覚している以上に。もちろん愛も来てもらえると助かるんだけどね。どうだろう、少し考えてみてもいいんじゃないかな?」

 考える?

 一体何を考えるべきだろう、と唯は考える。

「使節以外にもそういう機関は沢山あるし、使節の体制があまり気に入っていないところもある。君は単なる異能力者じゃない、成長する魔法士だ、君が望むかどうかに関わらず、本当は引く手数多なんだよ」

 返答できない唯に穂波が続けた。

 更に穂波は何か言おうとしたが、唯が答えようと口を動かそうとしているのを見て止めたようだ。

「使節がそれほどいい機関だとは僕は思わないよ。元、の人間が言うんだから少しは信用してみる価値はあるんじゃないかな」

「私には、決められません」

「これは君の問題だよ、他の何に気を使う必要があるのかな?」

 唯は、自分が何故こうしているのか、意識的に考えず、割りと流されるままに行動をしてきた。考えてしまえば、帰結はあの事件に戻るからである。美咲のことは忘れたくないが、事件は思い出したくない、そういうジレンマが働いていたせいだろう。

 あの時から初めて現れたのが、里見とミハエルだった。彼らが所属していたのが使節であり、最初は保護という形で使節に入ることになった。やってきたのが別の機関だったら、唯はそれに従っていたのかもしれない。

「愛に、かな。愛とは契約しているわけじゃないんだろう?」

「契約……?」

 唯の質問に、穂波は少しはにかんだ子供のような顔をした。

「ああ、うん、血の契約のことなんだけど、ちょっと初対面の人に言うのは……」

 口ごもる様子で、唯が意味を推測する。

 血とは、体の内部、契約とは、交わる、という意味だ。

「え、あ、そ、そんなことありません!」

 一瞬、本当に一瞬だが、それを想像してしまって、唯の脳が焼きつく。そういうのは欠片もないというか、まさか里見はそんなわけないというか、自分ならともかく、というか、さっきまで写真だったのに、気が付けば頭の中で滑らかに映像に変化している。危ない、もう少しで音声が流れそうだ。

 心臓が鼓動を速め、血流も速くなる。結果、髪にほとんど隠れている耳まで真っ赤になっているのがわかる。

「いや、ごめん。質問が変だったみたいだね」

 穂波は笑いながら言う。

「ユーゴ君の癖が移ったかなぁ」

 と穂波は呟いたが、唯はまだ頭から映像を排除することに精一杯で聞こえていないようだ。

 しばらく落ち着くまで、唯は食べかけのケーキを全力で味わうことにした。ココアとチョコレートが多層構造を作り、チョコレートはほろ苦く、それが上手く味のコントラストを描いている。上面にはデコレーションはされていなく、質素なケーキだが、味だけで言えば充分に豪華なケーキだ。少し懐かしい気もする、子供の頃、どこかで同じようなケーキを食べたのかもしれない。

「おかわりはいくらでもあるから、好きに注文していいよ」

「はい」

 ケーキを口一杯に頬張りながら、唯は穂波の言ったことを考える。

 使節の場所自体に特にこだわりはない。場所、という観点からいえば、この日本に居た方が何かと便利だし、それに美咲のいた場所でもある。逃げるように離れてしまった神楽の家にも、顔を出せるようになるかもしれない。

「使節の君に対する立場はあくまで、保護だ。君が気兼ねをするような存在でもないだろう?」

 心の中で唯が頷く。

 唯が知り合いなのは、日本語が話せるミハエルと里見くらいだ。ある程度英語が話せるようになってからでも、他の使節の人間は、不思議なものでも見るような目で彼女を見ていた。

「簡単に決めることではないと思うけど、僕からはプレゼントを上げよう」

 飲み切って空になったグラスをテーブルの端に寄せる。それを合図にしたのか、店員がゆっくりと近付いてきて、グラスを下げた。おっとりしているようで、行動はテキパキとしている。

 何か追加の注文を店員が聞いたが、穂波は手を振り、唯は小さく首を振った。

「取引、ですか?」

 唯の問いかけに、穂波は大げさに肩を竦めた。

「君は意外と頭の回転が速い」

「疑り深いだけです」

「どっちでもいいけどね。引き抜きに報酬は必要なものだよ。聞いておいて損はない」

「里見さんにも、同じことを言ったんですか?」

「愛はルールに従っているだけだ。使節のね。僕からは出せる限りの提案はしたよ、今ごろ上層部の指示を待っているんだと思うよ」

 穂波は、唯をモノとして扱っていると宣言している。それくらいの覚悟は唯にもあったが、それよりも、里見が自分をそう扱っていることに心がぐらついた。

「愛のために言うと、彼女は君を手放すことには反対しているよ。愛は感情型だからね」

 子供のような笑顔で、穂波が言う。深い意味があるようにも取れる。

「だから僕としては、やっぱり愛と二人で来てくれると助かるんだよねぇ」

 里見が拒否をしているのは、穂波といたくないからだろうと唯は思う。だが、それを本人を前にしていうほど無神経ではない。それに、恐らくだが、もし原因が彼にあるなら、彼も知ってのことだとだろう。

「あ、と、プレゼントのことだったね」

 穂波は胸の内ポケットに手を入れ、一旦止める。

「禁忌、というものを知っているかな?」

「キンキ?」

 聞きなれない言葉を聞いて、唯が聞き返す。

「禁忌、タブーのことかな。君は魔法士の修行を全くしていないようだから、あまり知らないだろうけど、数々の魔術と魔法を開発してきた僕らには、誰もが知っている二つの言葉があるんだ。それは、『不能』と『禁忌』。簡単に言えば、出来ないことと、やってはいけないことの二つだ。出来ないこと、っていうのはわかる?」

 魔法は決して万能ではない。

 唯にもそれくらいはわかる。唯にとってはまだ不思議な力の一部ではあったが、それでも、理論によって構築されている以上、限界がどこかで生じるはずだ。千年もの時間、使節の魔術師達が魔術を研究してきているのに、継承者などを必要としているのはまだ不可能なものがあるからだろう。

「時間を止めたり、ですか」

「そうだね、実は時間に異変を生じさせる方法はなきにしもあらず、ってところなんだけど、それがどのように作用しているか、未だにわかっていない。ついでに言うと、空間も同じようなものなんだ。だから、セットで時空間操作は不能の仲間になっている。一応研究をしている人はいるけどね、僕は本当に不能なんだと思うよ。継承者でも実現しているとは思えない。他にもあるけど、不可能であることがほぼ立証済みなのが不能だ」

 穂波はまだ手を内側に入れたままだ。

「それが不能」

「そう、そしてもう一つの禁忌、やってはいけないもの。これは沢山あるし、魔術系統によっても異なるね」

「どうして、やっちゃいけないんですか?」

 唯が質問をする。

 不能ではないのだから、方法はあるということだ。出来るということは、誰かがいつか求めたから完成した術なのだ。それでも、禁忌というカテゴリーが作られるのは一体何故なのか。唯にはわからない。

「『人を殺してはいけない』のは何故だと思う?」

 話を切り替えて今度は穂波が問い掛ける。

 質問をされるのが慣れてしまったのか、唯は驚かない。

 人を殺してはいけない理由。

 人だけを殺してはいけない理由。

 誰かが、いつか言っていたような気がする。唯はその答えではなく、誰が言ったのかを考えていた。自分が思いつく限りの人間を一人一人上げてみる。

「リスクを背負うから」

 北条が言っていたような気がする。

「人を殺すことは、相手に殺されるかもしれない、というリスクを背負う。自分が死ぬかもしれない、という危険性は、人生の中で最も高いリスク。殺す側は、それをセーブするために、規則を作った。殺される側は、殺す側がその緩いタガを外さないために、法律を作り規則を強化した」

 確か、こんな内容だったと唯は思う。

「そうだね、それがベターな答えだ。感情論でもなく、比較的論理的だ」

 穂波が答える。笑顔のままなのを見て、唯はとりあえずこの答えが合格点を越えたのでは、と思った。

「禁忌を犯すものにはリスクが求められる。ほとんどは魔術の限界値を超えた方法によるから、場合によっては自分が死ぬこともある。いや、自分が死ぬだけなら自殺と同じレベルかな、誰にも迷惑が掛からないから良い、という可能性もある。もっと理由になるのは、過程も結果も、周りに迷惑が掛かる可能性が極めて高いんだよ。過去の反省というもので、それらは禁忌扱いされる」

「それを破って、もし本人が死ななかったら、どうなるんですか?」

「少しは、魔術師に興味が出てきたのかな?」

 楽しそうに、穂波が言った。

「違います……」

 見えないように、唯がむくれる。

「もしそんな魔術師がいたとしたら、多分、他の魔術師からは爪弾きにされるだろうし、使節に気が付かれたら、処分されるだろうね」

 唯は頷く。

 当然の結果だろう。どの世界でも、その中で作られた規則を守れない人間は最も嫌われる。使節は、規則を守れないものには、厳罰をもって処す、それが使節の規則だ。

「それで、その禁忌がどうしたんですか?」

 話を戻して、唯が穂波の真意を尋ねる。

「それでも、方法があるのなら、破るものはいる、ということかな」

 穂波の言葉に、唯が話のつながりがわからずに首をかしげる。

「僕が君に渡すのはこれだよ」

 穂波が、ようやく内ポケットから紙を取り出す。葉書サイズの大きさで、白い裏面を向けてテーブルの上に置いた。

 唯の前にあるそれを、取ろうかどうか手を置いて迷う。

「どうぞ、爆発するわけじゃないから」

 子供っぽい顔で穂波が笑う。

 手品師のトランプからカードを引き抜いたように、自分だけに見せるため目の前まで持ってきてから表に返す。

 そこで、唯の呼吸が止まった。

 比喩的な意味でもなく、彼女自身、全ての動きを魔法で時間ごと止められたくらいに瞬きもしなかった。

「これも禁忌、の一つに属する方法だ」

 それは、一枚の写真だった。

「相当リスキーで、しかもまだ完成されていないんだけど、君がこちらに来てくれるのであれば、すぐに続きに取り掛かるつもりだよ。君の実力を貸してもらえば負担も軽くなるだろうしね、継承者は禁忌を破るだけの能力は充分ある」

 ほとんど、唯に穂波の言葉は入っていない。

「これは……」

「少なくとも、合成ではないよ」

 唯の手は震えている。自分の血液が凄い速さで流れているのか、あるいは全く流れていないか、そのどちらかだろう。

「なんで……」

 その質問は、複雑すぎて一つに絞りきれない。その難しい質問が、唯の心境をそのまま表している。疑問だけで構築された思考は、方向性を持っていない。

「これ以上は教えられない。でも今すぐにってわけじゃないから、考えたいこともあるだろうしね。昨日掛けた番号に、そうだな、明後日までに連絡をくれるかな」

 唯は、答えなかった。

 外側へ向かえない思考が内側で膨大になり、何を考えているのかも、何を考えればいいのかもわからない。

「あ、ちょっと」

 穂波がケータイを取り出し、耳元に当てる。唯は全くその動作に目を向けられない。

「うん、東雲君、そう、仕方がないね、僕が行くよ」

 会話を簡潔にし、電話を切る。

唯はまだその写真を見つめ、唇を小刻みに震わせている。

「ごめん、用事が出来たみたいなんだ、この支払いはこちらでしておくから、好きにしていいよ。もちろん、追加注文もね」

 穂波が立ち上がり、唯の表情を確認したように一度見てから、

「良い返事を期待してるよ」

 と言ってドアを抜けていった。

 唯は、一人で俯いていた。店員が注文を聞きに来たが、唯が何も言わなかったので、静かに下がっていった。それから、唯は一人で日が落ちるまでそうしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る