エピローグ 「自己の認識と他者への依存の関係がもたらす幻想について」
今朝は、目が醒めるのがいつもよりも早かった。体力の回復のため、少しでも寝ていたいはずなのだが、妙に冴えてしまっていて、無理矢理体を起こした。
湯船につかり、冷えていた体をゆっくりと温める。体を沈めてお湯の中で息を吐く。里見は何となく自分には不釣合いに思えたので、泡を出すスイッチを押すのは止めておいた。
自分には不釣合い。
魔法使いになりたい、という生きている上で最初の不釣合いを自ら選んできたのに、彼女はそんな小さなルールに縛られている自分をもまた選んでいた。
「お前は普通に生きなさい」
その声を掛けてくれた、懐かしい曾祖母の言葉を思い出す。
今思えば、それは、彼女に対する気遣いであり、侮蔑などどこにもなかったのだろう。
私は、いつ、どこで、何を、間違えたの?
それは、彼女がいつも、どうしようもなく眠れないときに、いなくなってしまった人達に、問いかける言葉だった。
答えは要求していない。きっと、誰も彼も、彼女のことは責めない。責められないことは、彼女にとっての、最大の罰であった。
ぼんやりとした中で、里見は昨日の出来事と、最近続けて見る夢のことを考えていた。あえて答えを出そうとせず、ぐるぐると同じことを何度も頭の中に巡らせていった。意味はなくても、しなければいけないことはあるという、穂波の言葉は、とても深いところで自分を責め続けているような気がした。
シャワーで体の汚れを落として、タオルで水気をふき取る。
そのまま鏡の前に立って全身を観察していた。
昨日は痛みと疲れで、部屋に着くなり倒れこんでしまった。辛うじてベッドの上だったのが、何よりもの救いだろう。
ミハエルからの電話も、ほとんど呟き程度でしか返せなかった。細かい内容も思い出せそうにない。とりあえず、今日の昼過ぎに合流することにした。
体の節々が痛みで悲鳴をあげている。
久しぶりに派手に動いたからだったが、自分の年齢を感じてしまったようで里見はうな垂れていた。鏡に映った肌に対して、何となく溜息をついてしまった。足、胸、腕、そして背中と怪我をしている箇所をチェックする。太ももやら背中が打撲で内出血をしていたが、放っておけば治りそうなほどだった。幸い顔には目立った怪我はなかったので、服を着れば外見にはわからないだろう。
ズタズタに引き裂かれて駄目になってしまった法衣は、その辺に捨てるわけにもいかないので、小さく畳んで鞄の奥に押し込めておいた。
普段の服装に着替えて、腰を落ち着かせる。指定の時間まではまだ大分ある。穂波がいると気まずいので、あの喫茶店に行こうと思った思考は排除した。
出掛けようとしてロビーに立つ里見に、フロントにいる従業員全員が深くお辞儀をした。営業としての動作というよりも、相当上の人、という対応だった。最上階の部屋をたった一人で一週間以上も泊まっているのだから、従業員の間ではそれなりの噂が立っているのかもしれない。ミハエルと唯が泊まっているビジネスホテルとは、間違えても比較にならない。
フロントに確認はしていないが、自分が出ると決めない限りこの部屋は借り続けられるような、そんな雰囲気が漂っている。
国家単位で協力し、執行に見合うだけの金銭をもらっている使節は、ほぼ無尽蔵といってもいいほどの資金がある。実は使節は資金を要求しているわけではなく、次に何かあったときの優先的な行動を希望する、保護の目的で相手先が半ば勝手に渡しているのである。使節は別段返す必要もないし、魔術の研究や、武器の調達のためには、資金が必要となるので、特に礼もなく受け取っている。
駅に面して繁華街側は、人込みで溢れている。不景気とは名ばかりの混雑ぶりは、里見が高校生だった頃から何も変わっていない。それぞれの意思を持って、人々は街を歩いている。
出口からすぐの入り組まれた立体歩道橋の下には広場があり、そこは待ち合わせの場所になっていた。グリフォンのような、翼の生えた獅子の石像が広場の中央に鎮座し、周囲を見渡すように口を広げている。今にも飛び立ちそうなほど、生き生きとしている。
石像を囲む円形のベンチに腰を掛け、二人が到着するのを待つ。予定の時間よりは大分早かったが、これといってすることもなかったので里見は一人で座り続けていた。
待ち合わせをする人は少なくないが、里見の両側には誰も座っていない。直接的に距離を置いているのではなく、単に『何となく』彼女を避けているのだった。
里見は静かに下を見ている。
エーテルを見る能力が長けている彼女にとって、視覚はそれほど重要ではない。唯達が来れば、気配とも呼べるものでおのずと彼女達を感じることができる。自分の魂魄は使えなくても、他人のエーテルを見分けることはできるのである。
待ち合わせの時間を、里見は自分の時計で確認した。
時間にルーズな彼女が定刻通りにいることは相当珍しい。普段は遅れても平気な顔をしているが、他人が遅れてくることには容赦がない。
つまり、時間を五分過ぎたこの段階で、到着していない彼らに対して彼女は怒り心頭ともいっていいのである。
今、彼女の両拳は強く握られている。どのようにして怒ってやろうか、その方法を駆け巡らすことで、逆に彼らへの怒りを減少させている。
そうして待つこと十分が経ち、二人が里見の感知圏内へと入った。二人も里見をもう確認しているだろう。
ゆっくりと顔を上げ、二人を見る。二人とも顔を軽く引きつらせ、少し後ずさりをしている。唯は里見を見つつも、それとなく視線を宙に泳がせていた。
立ち上がり、ミハエルを勢い良く指差す。
「ミハエル!」
呼ばれた当の本人は、肩をすくめて何とも言えないポーズを取る。里見はすぐに、名前を呼ばれずに安堵の表情をした唯に目を向ける。
「唯ちゃんも!」
「わー」
里見の睨みの効いた声に対して、棒読み気味に唯が声を上げた。
そうして怒りながらも、里見は二人の姿を見て安心していた。今は、中途半端な彼らが、彼女を動かしている全てになりつつある。彼らを一人前にし、使節にとってはではなく、彼らが望む自分になれるようにしなければならないと思っていた。
あの時トレヴィを助けることができなかった自分にできる、数少ない行為であった。
彼女は、彼らのためになら、死すら恐れていなかった。いや、死は誰にでも恐怖だ。しかし、彼女には恐怖を引き換えにしてでも、彼らに死という恐怖を与えるべきではないと決意をしていた。
トレヴィが残った四人にそうしたように。
「それで、どうします?」
「どこか行きたいところでもある、二人とも?」
「いえ、私はありませんが」
「ミーちゃんは池袋に行きたいってー」
「それは唯ちゃんの希望でしょ」
「サトミさんは何かありますか?」
「そうね、神田の古書店街を巡るっていうのは」
「えーつまんないー」
「あんた、上司に向かって随分な口を聞くわね」
「ではとりあえず、誰かの部屋で今後の予定を立てるというのはどうでしょうか?」
「はーい、里見さんの部屋がいいと思いまーす」
「どうしてよ」
「一番広そうで豪華そうだからでーす」
「ううっ」
「図星なのですか」
「やっぱり! 横暴だ! 蹂躙だ! 職権乱用だ! 役職差別だ! 人権侵害だ!」
「わかったわよ、連れて行けばいいんでしょ」
「やったあ」
「本当に、サトミさんは甘いですね」
三人は一つとなり、雑踏の中に紛れ込んでいく。
いつまでもこうはしていられない。三人はどこかでそう感じながらも、そう感じているからこそ、普段のままでいようと思っていた。
そして人生が常にそうであるように、滑らかに、密接になりつつある彼らの隙間に滑り込むように、容赦なく分岐は近付き始めていた。
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