五日目 「効率性を重視する者はリスクの小さい賭けを好むという統計的示唆について」
九月も半ばに近付いたのにも関わらず、外は暑かった。太陽が自らを誇示するように照りつけ、アスファルトの表面が揺らぐ。最近では見なかった暑さだと天気予報では言っていたのだが、つい先日日本に来た里見にとっては関係がない。
彼女にとっては、今暑いことが問題だった。
里見は、昔馴染みの喫茶店にいた。
相変わらずメイド服の店員が、眠たげな表情で目線を泳がせている。
里見の前には、穂波がいた。
楽しそうに、紅茶を飲んでいる。
今日、呼び出したのは里見の方だった。午前中に連絡をして、穂波が了承をした。里見が言う用件は、唯のことについてである。それ以外に、今彼らを結び付けているものはない。過去は彼らを自分の体に縛り付けているだけだろう。
しかし、会話の先手を打ったのは穂波だった。
「それで、どうだった?」
「何が?」
アイスコーヒーで喉を潤した里見が、怪訝そうに穂波を見た。
「先日の事件の話。きちんと異種の偽装を見破って、彼女達は紙雁の屋敷から抜け出すことができた?」
楽しそうに、まるで自分のことのように穂波が聞く。
「知っているのね」
「まあね」
「何故?」
別段驚いた様子もなく、淡々と里見が聞き返す。穂波がネクタイを緩めて、襟元のボタンを一つ外す。
「企業秘密だよ。ここで一番動きがいいのは僕、大抵の情報はフリーで入ってくるからね」
穂波がにこやかな顔をしている。その奥には何か不透明なものが潜んでいるのを里見は感じ取っていた。
どこまで本当のことを言っているのか。
どこから嘘をついているのか。
「愛、使節を辞めて、僕のところに来ない? ここならきっと君の能力を充分に活かすことができる。才能のある人員はいるんだけどね、彼らには知識が足りない。その教育係として……」
「断るわ」
全て聞き入ったように、穂波の誘いをはねつける。
「理由は?」
それも予期していたようで、間を挟まずに聞いてから、穂波は自分のアイスコーヒーにシロップを入れてかき回した。
「離れる理由がないからよ」
「愛らしいね」
即答した里見に穂波が肩をすくめる。
彼の元に行く必要もないし、使節を積極的に辞める理由もどこにもない。理由がないのなら、行っても行かなくても同じはずなのだが、現状を維持することが彼女にとっては重要だった。
里見は何かを考えるように窓の外を見つめている。裏路地を歩く人間は少ない。この道を横切ることで近道になる事を知っている地元の人間が、時折通るだけだ。
「薫、神楽に行った?」
思い出したように、里見が切り出す。
「僕はあの家の敷居をまたぐ権利がない。外子だからね」
「内子はもういないのに?」
外子は本家に対しての傍系、内子は直系である。穂波の家は、大戦の折に、直系がいなくなってしまった。その場合、一番近い血の家系であった穂波の祖父がその地位を継ぐべきだったのだが、既に五見は壊滅状態にあり、正式な継承はしなかった。
彼らは常に、五見という世界の裏側でさえ、副として扱われてきたのだった。
「それでも、だよ。行く理由もないしね。愛こそ日本へ来たんだから、神楽には顔を出した方がいいんじゃないかな? 里見の爺さんのところには行かなくてもいいけど」
五見と呼ばれる異種及び退魔統括機関がなくなった今でも、その一部だった家の者達は、統括者だった統世の神楽家に膝を折っている。里見が嫌いな自分の家や、穂波が抜け出した家も同じことである。
形骸化された集団ではあったが、彼らにとって、ただ一つの拠り所であったのだ。若い彼らは、そのような関係も意味がないことだと思っていた。何を下すでもなく、存在するだけで動こうとしない神楽は、ある意味で鬱陶しいと思わせる部分もあったのである。
「私はそんなこと話すためにここにいるわけじゃないのよ、薫」
「君達が彼女を離すつもりはないのは承知しているよ、もちろん」
話を切り替えて、唯について関与しないように打診をしようとした里見の前に、穂波が数枚の白い紙を置く。一枚の顔写真と、文字が羅列されている。誰かのプロフィールのようだ。
「これは?」
「彼らに渡すといい。まだ本格的には『起きて』いないんだろう? 僕が奪う算段をするのはそこから先でもいいさ。そのためには、彼女には日本で起きてもらう必要がある。僕は日本から動くことは許されていないんでね」
「意外とはっきりばらすわね」
「隠し事には、意味のあるものとないものがある。今のは言ったって何も変わらないだろう? それより、それはどうする? 必要ないならこちらで処理しておくけど?」
その言葉の裏には、唯を全く諦めていないということと、更にまだ何かを隠しているということが見えている。
眼鏡を通して里見が中身を読む。
綺麗な黒髪の少女だった。年は唯と同じくらいだろうだか、高校の制服を着ている。だがその表情は、あまり快活そうではなく、むしろ憂いを帯びているといったほうがよさそうだ。
「蒔浦、か。また懐かしいわね」
氏名の欄を見て、里見が意味ありげに呟く。
その表情を悟った穂波が、口元を緩めながら返す。
「多分まだ組織も感づいていないと思う。僕らのように、要注意の混血家に監視体制を敷いているわけではなさそうだからね。それだけでも、組織が旧家の情報を持っていないことがわかるけど」
「確かに蒔浦なら、それなりの能力があったとしても驚かないわね」
「何せ水鏡見と対等に渡り合ったとされる家だからね。退魔の力にかけては日本では有数だった、今では貿易商なんて仕事をしているけど」
蒔浦は古くから退魔師として活動をしていた混血の家柄で、その能力は飛びぬけていたとされる。本当に組織が目をつけていれば、勧誘をしているかもしれない。
「やっぱりその前に処分しておくべきだったのかもね」
元々混血の多い土地である日本では、使節のように、混血だからというだけで処分の対象にすることはない。五見は、全体としての調和を基本としている。可能な限りその土地ごと、家ごとに適した処置を、彼らが関与しなくてもいいように日本を取り纏めるのが役目なのである。
「あとの祭りってね」
だから、バランスを保つことが主であり、その力に長けていたわけだが、一度バランスが大きく崩れると取り返しのつかないことになる。
これとは逆の考え方をし、バランスが崩れ傾き始めた段階で処分をし、平衡を保とうとするのが使節である。使節は、事件が起こるよりも前に、異端者を見つけ出し、降伏をする前に、彼らを処分する。
「それはそうだわ、私達がどうこう言う問題じゃない」
「そう、今は手持ちのカードをどう使うか、それだけだろ?」
「そのために一人潰すってこと?」
「ああ、実に使節的な考えだろ?」
計算高い笑みを浮かべ、穂波が里見を見やる。無邪気なようでいて、誰よりも先を考えて計画を立てるのが、穂波だ。頭を使うボードゲームでは、里見が一度も勝ち越したことがない。
「勘違いしないで薫、彼女は既に事件を起こしているんでしょう?」
昔は仲間、今はほとんど敵となって、その男が使節の魔法士である里見の目の前にいる。
彼が持っているカードを、見極めなくてはいけない。
「そう、だから処分をするのは使節の役目だ。まだ僕らには戦力が足りない。僕が直接出て行けば別だけどね」
「そうね」
「それともあれかな? 精神的ショックなら純粋な人間の方が強いかな?」
「いい加減に……」
穂波が滑らかな口調で遮る。
「彼女は、自分が使える、ということに気がついていないんだろう? それはきっとまだ、自分が『普通の人間』だと思っているからだ」
穂波の言葉は事実だ。唯は、自分の限界がどこにあるのか完全に把握していない。それどころか、彼女は自分の能力を拒否している。里見が彼女に継承者以外のことを伝えたとしても、それは変わらないだろう。
一呼吸、溜息をついて、里見が口を開く。
「どこまでも、彼女を知っているかのような素振りね」
「まあ、君より日本にいる期間は長いし、監視体制を敷いていると言っただろう? 家系上は、彼女は最優秀、里見家と同等だ、目をつけていて当然だろ?」
日本に永らく存在し、退魔に関係した家は、有名どころで言えば統世に所属する五見に加え、純血の東雲、混血の蒔浦と紙雁、例外血族の賀茂、などがある。大戦を境に、彼らの大部分はその道から降り、一般人として生活をしているものが多い。
里見がきつい目線で穂波を睨む。その追求を避けるように、睨まれた男が弁明をする。
「彼女があんなものを抱えていたなんて思いもしなかったよ。それを知っていたのは、神楽の娘と、君くらいかな? 僕らが情報を得たのは、本当にあの事件があってからだ。情報部に上手く隠蔽されていたことに対して、僕らは上から大目玉さ」
「彼女には、何もしてないのね?」
「ああ、非常に残念なことに」
それを聞いた里見が、考えるように下を向いて顎に手を当てる。
一瞬の間があり、そして諦めたように呟く。
「受けるわ。彼女には、現実を知らせるための良い機会かもしれないしね」
「そうこなくっちゃ。彼女の護衛は、シュヴァンデンの彼だけでいいのかな?」
「ミハエルについても、何か言いたい事があるのかしら?」
すっかり相手の策略に嵌まってしまっていることを里見は自覚している。打つ手がないのなら、相手の罠に踏み込んでから、思惑を外せばいいと言っていたのは穂波だ。
「数世代振りに現れた実に惜しい使い方をするね。本当ならもっと実力を出しても良さそうなのに。きっと、彼も自分を認めきれていないんだろうね」
唯とミハエルの二人を一緒にさせたのは里見の考えだった。お互いの欠けた部分に気がつけば、どうにかなると思ったからだ。もっとも、その先に待っているものが、彼らにとっていい方向だとは思っていない。
「誰だって、弱い部分はあるわ」
「愛の弱い部分は、僕と同じなのかな」
里見が漏らした言葉に、穂波が答える。
「薫が、あの時のことを持ち出すとは思っていなかったわ」
「僕だって、忘れられるものなら忘れているさ」
悲しそうな目で、惚けた口調で穂波が言う。里見は、彼と目を合わせているのが少し辛く感じた。
うな垂れ、二人は黙していた。
里見は、彼との間に決して飛び越えられない裂け目を感じていた。それは穂波も同じ事だろう。二人は長い時間をともにしていたが、あの出来事以来、四年間という月日が二人に決定的なほどの距離を作ってしまったのだ。
「どうして、私達には何も言わなかったの?」
里見の問いかけに、穂波は小さく首を振った。
「正直、わからない。ただ、僕には一人で考える時間が必要だった。それだけ」
「答えは、出た?」
穂波は、繰り返し揺れるように首を横に振るだけだった。
「考えるには、時間は短すぎる」
「そうね、そうかもしれないわ」
同意も、否定もしない。
小さな声で、自分に言い聞かせるように穂波がテーブルを見て言う。
「答えは出ない。どんなことをしても、還らないものの解決にはならない。僕が今考えていることも、意味はないと思う」
「考えていること?」
「意味のないことさ。でも今は、僕はやらなくちゃいけない」
かすかに最後の一言だけ聞こえた里見が聞き返したが、穂波は答えにならない応えをしただけだった。
「c7へプロモーションクイーン。トレヴィ、覚えているって言ったじゃないか……」
その呟きは里見には聞こえていない。
「薫」
里見の問いかけに気がつき、穂波が里見と目を合わせる。
いつものように、明るい少しおどけた声で穂波が言う。
「あのとき、愛が正しかったのか、僕が正しかったのか、そんなことはわからない。でも、僕はまだ彼との勝負はついていないんだ」
里見は、穂波のその曖昧な言葉の意味を、しかし正確に受け止めていた。
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