四日目 「能力と意志の強さは必ずしも比例しないという証明について」

 太陽は西の建物群の中に沈み、空は黒い絵の具で塗りつぶされていた。雲はなく、星は誰が見上げることもなくとも、洋々と煌めいていた。

 ホテルの屋上、本来立ち入り禁止の区間を越えて、里見が立っていた。途中の監視カメラを欺き、屋上へ通じる非常階段の鍵は彼女にとって最も適切で真っ当な方法で開けた。

 つまり、鉄製のドアを勢いよく蹴破って。

 緊急用のヘリポートとなるような屋上で、中心にはヘリが降りられる赤い印があった。里見はその大きくバツが書かれている場所から、空を見上げていた。

 目的は特になかったが、別段することも思い当たらなかったので、一人で時間を潰すことにしたのだ。持ってきた文庫本は、全て移動のときに読みつくしてしまった。もう少し、多めに何かを持ってくればよかったと、里見は今更ながらに考えていた。

 夜は思考が明瞭になる。

 夜は人間が動くことがなく、安定した風を保てるからだ。

 唯が初めて魔法を使ったと、早朝連絡が入った。唯にとっては苦痛以外の何者でもないだろうが、使節側にとっては大きなカードとなりうるだろう。

 里見は双方の考えを知っているため、複雑な感情が入り混じっていた。唯自身のことだけを考えても、こうなったことを彼女は望んではいないだろうが、いつかは必然となることを知っているだけに、どちら側にも完璧には立てなかった。

 ただ、里見が唯のことを本当に心配しているということだけは事実だった。

 できることなら、彼女に負担が少ない方法で、彼女のために何かをしてあげたい気持ちだったが、それがままならないことくらい、里見自身が理解していた。

 まとめられていない長い髪が強風になびき、憂鬱な瞳が眼鏡を通して静かに下界を見下ろしていた。

 昨日見た夢が、里見の頭からこびりついて離れようとしなかった。穂波と会ったことが原因だろうが、それにしても生々しく、起きてからしばらくも、手を伸ばせば全員に触れる事ができると錯覚するほどだった。

 もう、触れることなど、ありはしないのに。

 頭を冷やすには、充分過ぎるほどの風を浴びて、彼女は立ち尽くしていた。

 夢は、現実だった。

 それは記憶の端に住み着き、忘れかけようとした瞬間にまたその姿を見せつける。いかにも、それが『お前のせいだ』と誰かが責め立てているようなタイミングだった。

 多分、それは自分が自分を責めているのだろう、と里見は結論付けた。

 彼女を責められるような人物は、どこにもいないからだ。

 目を細めて、世界を見る。

 世界の色を、何通りにも空想し、それに合わせて世界を分解し、更に同一のものとして統合する。それが何色かといわれても彼女には答えられない。彼女は、世界に対して、自分が知覚しやすい『色』で表現しているのであって、実際に世界に色がついているわけではもちろんないからだ。

 ほとんどの魔法士、魔術師が持っている能力、世界を構成するエーテルを見極めるという単純で複雑な能力を、もっとより強く個性化したものに過ぎない。

 それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけの才能。

 里見がどうであろうと、世界の色に変化はない。

 永遠に、一人きりで世界に佇んでいると認識させられる。

 それでも、彼女はこうしていることをいつも望んでいた。

 世界を見ていなければ、彼女は本当に一人きりになってしまいそうな気がしていた。

 だから、彼女は今もぼんやりと、世界を見据えている。

 バサリ

 何かがはためく音が彼女の頭上でした。

 最初は鳥かと思ったが、そのあとに広がる圧迫感を背後に感じ、刹那でその思考を排除する。臨戦態勢を取ろうとして、咄嗟に身構えながら振り向くと、そこには一人の女がいた。

 長身で、見かけ上は若々しい。年齢でいうなれば、二十代前半といったところだろうか。里見とそれほど変わりはないように見える。すらりとしているようで、スタイルはいい。それを強調するでもなく、非常に地味な格好をしていた。今の季節には少々厚着なのでは、と思わせる白いセーターに、細いパンツで、レザーのパンプスを履いていた。

 ただ、彼女が他の一般的な人間と分けているのは、その燃えるような深紅の髪だった。ブラッディカラーとでも表現すればいいのか、滑らかで光沢があった。緩やかなシャギーがかかり、毛先が胸元に触れている。

「はじめまして」

 距離を保ったまま、里見の前にいるその女性が頭を下げる。どことなく、その言葉に違和感があった。

 あまりにすんなりと、澄み切った言葉である。

 風が、なくなっている。

 自然に吹き付ける風と違い、ここに吹き付ける風は、ビル風が主を占めている。止むことはないはずなのである。

 何が原因で、どうやってそうなっているのか、そんなことは里見にはどうでもいい。

 目の前の彼女が原因だ、ということで充分すぎるほどだった。

「ヒト、じゃ、ないわね」

 臨戦態勢を崩さない里見に、女性は一歩進み出る。

 ヒトかどうかを見分けることくらい里見にとっては造作もない。

「使節の人間よね」

 彼女の言葉は羽よりも軽い。

 一つ一つの言葉が、念入りに紡がれた魔法のようだ。

 先手を打つべきか、里見は判断をこまねいていた。

 しばらく実戦から離れていたからか、パターンの計算が上手くできない。加えて、目の前にいる彼女には、これまでにないほどの圧力を感じる。動かなければ負けるはずなのに、動けば確実に殺される、という相反した感覚。

「戦うつもりはないわ、あなたが手出しをしなければ。ま、戦うとは言わないだろうけど」

 聞けば聞くほど彼女の言葉は優しく響く。

 だが、里見は彼女の言葉を簡単に信じるほど、おろかではない。

「お前は、なんだ?」

 慎重に、気配を探りながら里見が言う。

 エーテルに変化はない。三秒あれば、魔法を発動できる。だが、その三秒が命取りになるとわからせるほど、彼女は何かが違った。

 強い?

 それは当然だ。彼女の前にいるものは、純粋な化け物そのものだ。

「どんな呼び名がいいかしら?」

 首を傾げて微笑む。

 その異様さで、里見の顔つきが驚愕へと変わった。

「アッシャ!」

「そういう呼び方もあったわね」

 当たり前のように彼女が言う。

「アッシャ、永劫の姫、デモノプリンセス、あとほかにどんなのがあったかしら? 人間というのはよほど名付けが好きなのね」

 舌打ちをして、里見が手を前に出そうとする。

「今ここで争って、どちらが死ぬかくらい、懸命な貴女ならわかりそうなものね」

 姫と称されるに疑いもないほど、高貴に、力強くアッシャが里見に忠告をする。

 戦っても勝てるわけがない。相手は生粋の化け物で、未だかつて誰にも傷をつけられた事がないという異種だ。

 人一人の力では及びもしない。

 格が違いすぎる。

 たとえ里見が何人集まったところで、不意を突かれた今のこの状況では、不利にもほどがある。

 それでも、

「私達は相手の強弱に因らず、最善を尽くす!」

 里見が叫んだ。

「無理よ」

 里見が魔法を刻むより速く、その体が宙に浮き、風に乗ってフェンスに背中を打ちつけられた。

「何を……」

 呻きながら彼女は左手でフェンスを掴む。

 肺を打ちつけられた痛みで呼吸が不安定になった。

 里見でさえ、アッシャが何をしたのかがわからなかった。吹き飛ばされた感覚があったが、風を操ったわけでもない。

「ふうん、空壁魔術か、随分と古風な魔術形式を使うのね。てっきり六百年くらい前に消滅したのかと思っていたけど」

 ごく普通に、感心した顔でアッシャが里見を見る。

「他の魔術を憶える才能がなかったのよ」

 腰を屈めた魔法士が、忌まわしげに吐き捨てる。

 まさか発動もしていない、加えて知るものも少ない魔法を見破るとは里見は思っていなかった。その稀少度も戦闘時にはアドバンテージとなるのだ。

 タネを知られたマジックは、何よりもつまらないものだ。もしそれが、それでも人々の感嘆を誘うのであるとすれば、そのマジックは、タネを知られても実際には見破れないほど、手品師が熟練者だということだ。

「進展なし、の烙印を押されて研究がストップしたんじゃなかったかしらね。それに通常の詠唱よりも発動に時間がかかるでしょう。単独戦闘には向かないタイプね。確かに使い勝手自体はいいはずだけど」

「さすが長生きしているだけのことあるわね」

 嫌味を込めて言いながら立ち上がる。

「面白い人間は嫌いではないわ。私は貴女と戦うつもりはないの」

「騙される気はない」

 背中に回した右手で発動の準備をする。

「貴女と遊んでいるほど暇じゃないのよ」

 乾いた音がして右腕が弾かれる。右肩から痺れて力が入らない。

「もうわかったわね。だいたい罠も張っていない魔法士が、私に傷を負わせられるわけがないの」

 運動能力が乏しい魔法士は、事前に準備をしておくことを何よりも必要とされる。敵前で慌てて魔法を使うくらいなら、引けば弾が出る銃でも構えていたほうがよほど役に立つ。魔法士に求められているのは、人としての知恵と知識なのだ。

「何が狙い?」

 膝を付いた里見が燃えるような髪の女に聞く。

 戦う気もないのに、わざわざ姿を現すことをするはずがない。それが事実であるなら、からかいに来ているようなものだ。

「何も」

 アッシャが答える。

「私達がすることに、何もしないでもらいたいの。そうすれば貴女には危害を加えたりはしない」

「わたし、たち、ですって?」

「複数形は、『たち』ではなかったかしら?」

 問いに対して、的外れな返しをする。アッシャの表情を見るに、どうやら大真面目らしい。

「世界に干渉する気? そうすれば使節は総動員をかけて戦いを挑むわよ」

 今まで何度も使節は彼女を処分しようとしていた。これまで大事にはならなかったのは、単に彼女が強すぎたというのもあるが、使節が本腰を入れなかった、という理由もある。

 世界に干渉しない彼女は、放っておいても別段被害は出さない。彼女を執拗に追いかけるよりは、使節は被害を実際に出している他の異種に力を注いでしまうのだ。

「だ、か、ら、貴女に言っているんじゃないの。貴女は見ていないと言えばいい。見ても、見ていないと言い張ればいい。事前交渉、というものよ」

「到底呑めない要求だわね」

「呑んでもらうしかないのよ、貴女方が出てくると厄介だから」

 彼女の言葉には、使節が強いから厄介だ、という響きはない。虫が飛ぶと邪魔だから、といった程度の関心しかないのだ。

「何をするつもり?」

「それを教えるつもりもないわ」

「なら、呑むつもりはないと」

 強く睨んだ里見の側に、アッシャが歩み寄る。

 腕力では勝ち目のない里見は、動きたくても動きようがない。

 今、彼女の命はこの異種に握られているのだ。

 深紅の姫は里見の耳元に口を近づけ、

「任務と彼女、どっちが大事かしら?」

 と笑みを込めて言った。

 その言葉に里見は声が出なかった。

 それがどれほどの意味を持つのか、里見にとっては簡単すぎた。

「手を、出さないと誓えるか?」

「私は契約は破らない」

 背中あわせに、言葉を交し合う。

 里見はそれには何も言わなかった。

「それじゃあ、契約が成立したようね。貴女とは、気が合いそう」

 くすくすと笑って女はそう言い、フェンスを飛び越えて姿を消した。

 ハードルを越えるように、易々と。

「あんな質問を、またされるとは思っていなかったわ」

 人とは違うものの気配が完全に消えるのを感じてから、魔法士は胸に仕舞っていたタバコに久しぶりに火をつけた。タバコをくわえて、彼女はフェンスに背中を預ける。風が戻り始め、それに煽られるように、先端がちりちりと燃えていく。

 実に四年振り以上、いつも吸えるように常に用意しておいた、吸うはずのなかったタバコは、苦いだけで味はなかった。

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