一日目 「任務に対するささやかな抵抗と怠惰な感覚について」

「ええ? 私が?」

 電話を受け取ったのは一時間前だった。

 長い髪を振り払いながら、受話器に向かって言葉を返す。手入れも行き届いていない、伸ばすだけの髪が腰の辺りに触れる。寝起きだったので、髪はまだ後ろにまとめられていない。

 乱暴に掴んだせいか、受話器から埃がこぼれた。

 最近忙しくて掃除が行き届いていなかったことを僅かに反省する。前に戻って来たのは一ヶ月程前だから、埃が溜まっていても仕様がない。どうせ家にいる時間は少ないだろうと、それほどいい部屋を借りていないのも原因の一つかもしれない、と無駄な箇所に言い訳をする。

 安っぽいアパートの四階、定期的に訪れる、家というよりは住処に近いただ寝るためだけの場所、そこに里見がいた。ベッドが窓際に置いてあり、他には中央に古びた机と、後は旅行用のキャリーバッグが二、三端に並べられている。大抵の生活品はそのバッグの中に収められている。

 壁に広がる本棚には、様々な種類の本が乱雑に収められていた。

 いつもの癖で眼鏡を探そうとするが、視力が悪くて見つからない。眼鏡があればすぐに眼鏡が見つかるのに、と虚ろな頭で里見は考えていた。

 そんな時に電話が掛かってきたのだ、機嫌が良いはずがない。結局眼鏡も見つかっていなかった。

「何で? 私はそんなことする契約はしていないはずよ」

 彼女は苛立っていた。理由は起き抜けに電話がかかってきたからであり、電話の相手があまり望ましくない人間だったからである。人物自体は構わないのだが、この場合、誰からかかってきても好ましくないものなのだ。

「サトミ、そういう冗談は良くないな、君はいつでもそういう立場にあるのだ」

「立場? そんなもの」

 電話の声は落ち着いた声で続ける。

 女性の声だが、単語一つ一つに重きが置かれている。

「とにかく、二人が心配だと言うのならすぐに出発の準備をしたまえ、多少の用意をする時間くらいはある」

「決定権はあるのかしら?」

 くるりと指で髪を巻き取る。細い目が更に細くなる、眼鏡を掛けていない時はいつも誰かを睨みつけるような目になってしまう。遠くを見ようとすると眉間に皺が寄るのが、それを強調していた。

「決定権はある、が拒否権はないと思ってくれて結構だ。大人しく随順したまえ」

「はあ、わかったわ。チケットはそっちで用意してよね」

 予定ではあと一週間は休暇が与えられるはずだった。一週間でヨーロッパを二周したのだから、それくらいは当然である。給料に見合うだけの休養はもらえる義務はあるはずだ。

 だが、この押し付けとも思われる電話を断ることなど出来ようもない、いかに彼女が不機嫌で対応をしてもこれは上からの命令なのだ。

「当然だ、何ならチャーター機でも構わんよ」

「面白くない冗談、それで私の役目は? まさか彼らのお守りだなんて言わないわよね?」

「君は、まだあの意味がわかっていないのか」

「何の話?」

 里見が眉をひそめる。

「あれが我々にとってどれだけ重要な役目を持っているのかも考えようとしないのか。彼らが不穏な動きを見せ、厄介なことに例の姫まで関わってきている。とすれば我らが切り札である『六番目』を早急に起こさなければならない。猶予はないのだよ」

 猶予はない。

 それは里見にも良くわかっていることだった。だから、二人をわざわざ任務に当たらせている。

「そういうのはそっちでやってくれる? 私はただの連絡員なんだから、貴女方の思惑なんてどうでもいいのよ。そんなに彼女が重要ならパルチファルでも何でも送ればいいじゃない。それにね、彼女を『あれ』だなんて今後一切言わないでくれる? 彼女は人間なのよ、勝手にモノ扱いしないで頂戴」

 里見が電話先の命令口調に対してまくし立てた。

 受話器の向こうから、深い溜息と、親しみが込められた声が聞こえていた。

「……もう、貴女も前はその一員だったのに」

 電話の先の口調が屹然としたものからおっとりとしたものへと変わる。幾分、それは旧友に対する懐かしさを感じさせる言葉使いだった。

「そう、ね。逃げかもしれないわ、私には貴女方を否定する資格なんてないものね」

 里見が声を落とす。

 彼女は使節の人間であり、内部に深く入り込んでいる。これを否定するために自ら戦闘員という役職を払い、望めばもっと上に行けるはずの道を避け、今はただの連絡員として生活をしている。

 だが、結局は使節にいるという事実からは離れられないのだ。

「サトミ、何が私達を分けてしまったのかしら」

 嘆息と共に電話の相手が言う。

「わからないわ、それは元からこうなる運命だったのよ」

 そんなものは里見にだってわからない。昔の方が良かったのかと誰かに聞かれても、返答に困ってしまう。今は今、変えられない現実は、彼女が考えるより速く迫ってくるのである。

「サトミ、これが終わったら昔の人間で」

「昔の人間、ね。もう三人しか残っていないじゃない」

「それは、そうだけど、三人とも同じ時間を持ちたいのよ」

 里見の言葉に二人が苦笑する。忘れがたき記憶を共有する人間は、もう残り少なくなってしまっている。

「変わらない貴女を見るのは癪だけどね、イーアス」

 そろそろ三十代に掛かろうという里見が毒づく。自分では、まだまだ二十代前半、むしろ唯とさほど変わりないと思っているくらいだ。

「私だって好きでこの姿をやっているわけじゃないのよ」

 イーアス、と呼ばれた電話の女性が答える。

「イーアス」

「何?」

「その、やっぱり飛行機なのよね」

 里見が、少し後ろに引いた声で言った。

 里見は今その行動をヨーロッパに限定している。

 使節の活動範囲は原則世界中のどこでもであり、事件があればその地に反意組織がない限り使節員を派遣する。にもかかわらず、里見がヨーロッパという小さな枠に留まっているのは、単に飛行機が苦手だからだ。頭ではわかっていても、鉄の塊が空を飛ぶなどとは信じられないのである。

 魔法士といえども、いや、魔法士だからこそ彼女は理論と理解で動いている、自分の理解力の範疇を超えたものは、どうにも受け止めがたいのも魔法士の特徴なのだ。

「当然、船旅で行けるほど事態は楽観出来ない」

 仕事の口調で、半分笑いを噛み殺しながらイーアスが言う。

「こう、瞬間移動で」

 誰にも見せず、里見がすっと手を空に伸ばした。

「そんな魔法があったら見てみたいものね」

 現在、空間を転移する人為的魔法は存在しないとされている。それは人間の認識能力を遥かに超えてしまっているからだ。過去にも恐らくなかっただろう。

 だが、もしかしたら、という小さな希望が続く限り、魔術師達は研究を続けている。

「では、使節非エレメンツ連絡員サトミ、以後より事態の確認と収拾がつくまで日本への滞在を命じる。役職を魔法士に改め、必要な場合は自己責任において相当の処置をも認める」

 イーアスが任務の宣言をする。

 実質として、彼女は昔の戦闘員に戻ったのと同意であり、必要ならば彼女が使役する魔法を使っていい、という指示である。

「了解、全ての力は天のために」

 彼女が任務受諾の合図をする。これが、規則によって成り立つ使節が持つ、『規則』という理知の力だ。

「紅茶を淹れながら良いお土産を期待しているわ、次に会うまでは元気でね」

「ええ、イーアスも座りすぎで腰を痛めないように」

 役職上、その場から動くことさえ制限されている元同僚に、里見が軽口で別れの挨拶をする。それに、ええ、と笑顔で返して電話は切れた。

 イーアスの最後の言葉が妙に沈んでいたような気がして、里見は少しだけ心配になった。

「はあ、厄介事は全部こっち、と」

 誰も聞いていないところで里見が受話器を置きながら呟く。

 イーアスとは分岐をしてしまったが、世界の裏側からは永遠に出られない、という感覚は共通していたのだろう。こちら側の人間達から『異端』などと言われ、半ば蔑まれながら生活していた自分が酷く小さく感じた。

 何となく、窓から差し込む光を眺める。

 そこへ一陣の風が吹き付けた。

 確か窓は開けていなかったはずだ。

 見てもやはり窓は開いていない、隙間風が入り込むほど悪い立て付けではない。自分の感覚が揺れている。彼女は最近繰り返し見る、生臭い夢を思い出した。

 血と肉が焦げる臭い。

 それを払拭するかのように、部屋を歩く。たてつけのあまり良くない建物は、ギシギシと床を軋ませていた。

 唯やミハエルのことを心配している暇はないな、病院に行くのは自分が先になりそうだ、 自嘲しながら里見が部屋を眺める。

 使い古された樫の机の上、埃に重ねられて郵便物が積まれている。昨日帰ったと同時に郵便受けにあったものを束で拾って置いていたのだ。ほとんどが広告のようなものばかりで読む必要はない。この住所を知っている人間など限りがあるし、知っている人間は手紙を書くような趣味を持ち合わせていないか、既にこの世にいない人間か、である。

 適当に差出人を見ながらゴミ箱に投げ入れていく。

 その中に、一通だけ真っ白の手紙があった。配達日は一週間前、一瞬他人宛ての郵便が紛れ込んだと彼女は思ったが、それが住所と名前で自分宛であることを確認して、裏を返して差出人を確認した。

 とても見慣れた筆跡で、流れるように署名がしてあった。

 懐かしい名前で、消印はかつて自分が生まれ育った日本だった。

 そして、一人呟く。

「全く、面白くない冗談だわ」





 昨日まで持ち歩いていた灰色のキャリーバッグと、何冊かの文庫本を棚からバッグに詰め込んで外に出た。その他に必要なものは行く先々で揃えていけばいい。

 それよりも、日本へ行く前に、準備をしなければいけない。普段の仕事なら鞄一つでどうにでもなるのだが、今回は違う。魔法士としての行動と白い手紙、これらを遂行するためには今の『装備』では不安が残る。

 久しぶりの、そしてまたしばしのお別れである自分の部屋を見上げ、さらば、と独り言を言った。

 電車を乗り継ぎ降りた人気の無い駅から小道へと入り、里見は一軒の家の前にいた。

総レンガ造り、一本の煙突が家の中央から飛び出している。古く、長く使われた家のようで、あちらこちらに修復をした跡が見える。

 その庭先、ぼんやりと空を眺めている少年がいた。年の頃は十四、五歳くらいで、右手にジョウロを持っている。庭の植物、といっても芝生が生えているだけで他には何も見えない、に水でもやろうとしているのか。声をかけようかとも思ったが、その前に少年は家の中に入っていってしまった。

 その後を追うように、里見もドアの前に立つ。

 ガンガン、とノックする。

 少々乱暴かもしれないが、こうしないと向こうは気がつかないことを、彼女は経験によって知っている。一分ほどしてから、ガタゴトと家の中で音がして、ゆっくりとドアが開いた。

「はいはい、誰ですか?」

 丸眼鏡をした男が家から出てくる。黒い髪の毛はボサボサで、眠たそうな顔だ。よれよれの白いシャツは、徹夜明けのサラリーマンのようだ。そのシャツだけで服装への無頓着さが現れている。

「私」

 里見がそれだけを言うと、男は首を傾げ、それからその頬を緩ませた。

「ああ、ああ、サトミか、君にまた会えるとは思っていなかった」

 男は笑顔のまま、家の中に入るように手を振る。遠慮もなく里見が一歩足を踏み込んだ。

 広めの部屋ではあるが、その広さを埋め尽くすように所狭しと本棚に本が並べてられている。里見の部屋などとは比べ物にならない。しかも、軽く見通してみると、それらはきちんと分類され、また整理されている。だが、それに収まり切れなかったその倍の冊数が、床に積まれていた。あまりに均一に本が壁際に並べられているものだから、地震が来れば一溜まりもないだろう。

 男が指示した椅子に腰を掛ける。ミシっと床が軋んだ。

「実に二年振りだ、年月は短いようで長い。それで、どうしたの? 観光?」

 とても嬉しそうに男が話し掛ける。テーブルを挟み反対側の椅子に腰を下ろした。

「それなら良かったんだけどね、一応仕事の延長ってところ」

「ああ、それは残念」

「しかも現役復帰の命令付き」

「イーアス?」

「そう」

 素っ気無く里見が返す。

「ヒエロ、あんたからも言ってよ」

「僕はもう一線から退いたんだ」

 髪を掻きながら男、ヒエロが申し訳なさそうに言う。

 使節は建前上、脱退は個人の自由に任せられている。希望をすればいつでも抜けることができる。その代わり、その後どういった活動をするか、常に監視が続けられる。使節が保有する術を一片も外に漏らさないために。

「私も一線からは退いたつもりだったんだけどね。で、ヒエロ、今は何をやっているの?」

 里見の問いかけにヒエロが脇にあった一冊の本を取り出す。

 ひらひら、とその薄い本を里見の目の前で振る。

「教科書をね、作っているんだ」

 フランス語とおぼしき表題が見える。

「ふうん、ヒエロらしいって言えばらしいわね。私はてっきり小説家でもなったのかと思っていたわよ」

「僕はね、ゼロから作るのは苦手なんだ」

 笑いながらヒエロが手元の本を置く。それと同時に奥のドアが開き、先ほどの少年が現れた。里見が挨拶をしたが、少年は軽く会釈をしただけで、少しおどおどしたようにヒエロの顔を見ている。

「大丈夫、お客さんだから」

 ヒエロの言葉は色んな意味で失礼ともとれないが、里見は少年が子犬のような瞳をしていたので笑顔で流すことにした。間が空いて、少年はまたドアの向こう側に消えてしまった。

「まさか、男の子を囲っているとは思わなかったわ」

「酷い冗談だね」

 苦笑するヒエロに里見があっさりと返す。誰かといるときは、どんな時でも、彼は笑顔を崩さない。困っているときでもだ。

「ええ、冗談だわ。彼がライオン?」

「候補、だね。ああ見えて良い人材だし、物覚えも速いんだ」

 ふぅ、と一息ついてから、里見がヒエロの正面を見据える。

「いくらでも話していたいところだけど、急いでいるのよ」

「……そうだね、今の分じゃだめなのかい?」

「そうも言っていられないのよ」

 里見は鞄から投げやり気味に白い手紙を渡す。

それをしばらく見つめてから、ヒエロは珍しく溜息をついた。

「この筆跡は偽者、じゃないね。そうか、彼が」

「場合によっては、の可能性もあるわ」

 里見がテーブルに右肘をつく。

「正直に言って、僕は君に戦って欲しくない。もちろん彼にも。イーアスだって同じはずだし、何より」

「止めて、ヒエロ」

 里見がきつい口調で細い目をヒエロに向ける。

「あの時は、誰が悪いだなんてことはなかった。君がした行為にも責任はなかった。そうじゃないか」

「問題は、きっとそこじゃないのよヒエロ。私達は確かにあの場面にいて、そして決断をして、道を外れた」

 ヒエロが思いつめたように眼鏡を右手で抑えた。左手に持った手紙を里見に返す。

「君とこの議論をしても、きっと意味がないんだろうね。僕は逃げてしまった人間だから」

「私達は」

「過程がどうであれ、その法は下す、だろ」

「ええ」

 使節としての里見の言葉を元使節のヒエロが遮って続ける。

「わかったよ、で、僕はどうすればいい?」

「私が望むものを頂戴」

 少しの笑顔と、苦しそうな瞳で里見が言う。ヒエロには、それが決意の現れであることがわかってくれるだろう。

「書庫に行ってくる」

 一言だけ言って、ヒエロが席を立った。その場を離れると、少年がいなくなったドアを開けて出ていった。無音の中で、里見はそれと同化するように静かに呼吸をしていた。

自分の思いをヒエロはよく知っている。

 しばらくして、ドアが開いた。

 ヒエロはその手に古めかしい本を持っていた。手の平には余るほどの大きさで、赤黒い装丁には黒い筆記体で何か表題が書いてあった。

「これが、僕ができる限界だ。これは、僕が作ったもの」

「ありがとう」

 里見が本を受け取ろうと手を差し出す。右手が触れる寸でで、ヒエロが一瞬躊躇したかのように手を止めた。里見の目を見つめ、その意志に変化がないことを確認すると、諦めた表情でその手に置いた。

 百ページもないはずのその本は、意外にも里見の手にずしりと重みを与えた。紙の重みではなく、中に書かれている言葉の重みが、彼女に圧力を加えているのである。

「腐食が進みすぎていて、多分もうそれほどもたないと思う。紙が言葉に耐え切れないんだ。使わなければ、君が捨てて欲しい、少なくとも僕はそうなることを願ってる」

ざらついた表紙は、後から別なもので塗り替えられたような感触がある。

「僕も魔法士ならもう少しまともなアドバイスができたかもしれないけど、出来損ないの魔術師には、君の無事を祈るくらいしか」

「ヒエロはきちんと自分ができることをしている。私も自分のできることをするわ」

 本を鞄に詰め込んで、里見が立ち上がった。

 それにあわせて眼鏡の男も席を立つ。

 玄関のドアを開けて、もう一度里見がヒエロの顔を眺めた。

「イーアスが、今度皆で会いたい、って言っていたわ」

「ああ、イーアスのレモンティーに塩を入れる癖が直ったらいくよ」

 懐かしそうな、切なそうな顔をしてヒエロが冗談を言った。

 二人はお互いの顔を見て、首を傾げて微笑んだ。

「それで、日本へは飛行機で行くのかい?」

 やや笑った顔で、ヒエロが言う。眼鏡の奥には優しい瞳があった。

「それは、もちろん」

 里見は、大げさに肩を竦めて返した。

「それじゃあ、気をつけてね」

 ヒエロの言葉に、鞄を持っていない左手で里見が小さく手を振った。

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