エピローグ「Anyone Wishes Happiness, Anytime, Anywhere」

 朝が訪れていた。

 二人の間にほとんど会話はなく、淡々と時が流れていった。

 誰も、止めるものはいない。

 灰になった名前も知らない彼女は、唯の中で静かに記憶になり始めていた。そしていつかその記憶は、思い出せるかどうかもわからないほどに薄まる。そして、彼女と同じように美咲の記憶も。

 唯は、ミハエルが自分のために単身向かったことも十分承知していたし、それが自分の甘えから来ることも良く分かっていた。

 だが、それを認めてしまえば、自分の中の何かが崩れてしまうような気がして、何も言えなかった。

 彼女にとどめを刺したのは自分だ。

 それは、覆せない事実である。

 ミハエルはミハエルで、唯を部屋に置いて出て行ったことについて、恩着せがましく言うことはなかったし、それが当然であるかのように振舞っていた。ミハエルは純粋に唯のことを心配しているのは、唯も知っていた。

 それは、唯にとってはとても嬉しいことだったが、自分の不甲斐なさを再確認することでもあった。いっそのこと、自覚が足りないと里見のように強く叱ってくれた方が気持ちが良かったかもしれないが、ミハエルがそんなことをするはずもないぐらいはわかっていた。

 それに彼は唯に重荷を背負わせてしまったことを、悔やんでいるに違いないと思っていた。

 ミハエルは唯に手伝ってもらいながら簡易の治療をし、結果的に、不恰好にも体の半分が、常備して置いた真っ白い包帯で埋まることになった。服を着れば隠せる程度だが、その傷は決して浅いわけではない。

 傷の状況を確認したかったが、知った医者も魔法士もいないここでは何かと疑いをかけられるのも面倒だと感じ諦めることにした。最低限の物理的処置と、肉体の回復力を多少高めるための香料、個人で出来る回復魔法を複合させるくらいしかない。

 これから里見に会うのだから、治療はその後で考えよう、という結論になった。

 この時ばかり、唯は自分にそれを可能にする力があれば、と思った。

 唯はミハエルに謝りたかった。

 言葉を探して、選んで、また呑み込んでいた。

 里見の指定した時間が迫っていた。

 ミハエルは例の如く本部に連絡をし、本部から里見に連絡が行き、里見からミハエルに連絡が行った。何故そのような回りくどい方法を常に使節が取っているのかは分からない。ただ、そこには純然たる規則が存在し、指令塔は指令塔であり、執行人は執行人でしかないのだ。

 薄汚れた集まり、いつかミハエルは使節のことを唯に説明する際、そのように言ったことがあった。その意味はまだ彼女には分からない。

 エレメンツと騎士団との関わりが上手くいっていないことも、それを束ねるはずの評議会が幾つかの派閥に別れていることも、同盟を組んでいない団体が不穏な動きを見せていることも、全て形の上では知っている。

 形は形、唯がミハエルや里見のように直接関わっているわけでもなし、彼女には言う権利も調べる権利も与えられていないのだ。

 それが分かるときが、本当に世界の裏側を知ったときなのだと彼女は思っていた。

 出発の準備をして、今まで滞在していたウィークリーマンションから二人はチェックアウトをした。

 未だ、会話はない。

 透き通った朝の風が二人を包む。

 このまま駅前へと向かう、待ち合わせに適している駅前の広場、そこで二人は里見と落ち合う予定だ。二人にとってみれば、一ヶ月振りの再会となる。

 歩き出す足取りは、重くも軽くもなかった。

 駅前で行き交う人は多い。

 様々は人が、様々な目的を持って街を歩いている。

 いくつかの角を曲がり、中心部に近付く。

「私、彼女の気持ちが分からないわけでもないよ」

 唯が下を向いたまま口を開く。

「どうしてです?」

 ミハエルは、唯を見ずに返した。

「ただ、彼女が復讐したいのは人間で、私が人間じゃなかった、ただそれだけの違い」

 唯は、大切な人を彼女の目の前で奪われた。それがなければ今の彼女はないはずで、たとえ美咲が継承者の力を渡さなかったとしても、方法があれば復讐をしたいと思っただろう。

 世の中には、叶わないこともある。簡単なことを、唯は何度も思い知らされている。

 どうにもならないこともある。彼女は力を持ってしまったがために、どうにもならないことを少しだけどうにかすることが出来た。

 だから、力を使った。

 単純に、ただそれだけなのだ。

 そんなものに善や悪という決めつけができるだろうか。

「……そうですね」

「あの人も、弟のところに行けるといいね」

 唯が言いながら、空を見上げる。薄らと雲がかかっているが、いくらか昨日よりは天気が良い。天気予報によれば午後から晴れるらしい、昨日の憂鬱な気分ごと晴らしてくれればいいのに、と唯は自分勝手な考え事をしていた。

 彼女に行って欲しいと思うのは、他でもない唯の勝手な願い。

 唯もミハエルも死の後に何が待っているか知らない。現象としての事実はいくらか知っているが、真実は、自分が死ななければ、永遠にわかりようもない。

 天国があるとしたら、彼女は行けるだろうか。

 成り行きはどうであれ、彼女は自らの意思で人を殺していた。天国には行けないかもしれない。

 それなら、その彼女を殺した自分も、きっと天国には行けない。

 これから先、血に染まるはずの両手をかざして、唯は雲から覗かせる太陽の光を遮った。

「ミーちゃんは、この仕事が正しいと思っている?」

 為すべきこと、仕事、そう唯は表現した。それが唯の精一杯の表現だった。

 ミハエルが唯と同じように天を仰ぐ。

「いえ、この世に絶対などあるはずがありません、使節が掲げている『楽園』なんてものが存在するとも思っていません」

 使節は二人が行っていることの先に『楽園』があると言っている。異種のいない、問題の起こらない、平和な世界。

 一千年以上の時を経ても尚、それが実現不可能であると使節の誰もが認識しながら、それぞれの主張や意思を貫いてそれを追い求めている。

「それでも、続けるの?」

「私には、それしか道がありませんから」

 ミハエルは知っている。

 自分がいるべき場所と同一の、逃れられない場所。

 消せない罪を永遠に償う場所。

「そうだね」

 唯も同じだった。

 二人が歩くその道は、後ろには既に崩れ、前には棘しかない。そうだとしても、二人は歩き続けるしかないのである。

 入り組んだ立体歩道橋の中心には、空中に浮くように待ち合わせ場所がある。駅前にあって目印になりやすいため、待ち合わせには適しているといえる。

「あー」

 唯が落胆で語尾を下げながら声を出す。

「まさか」

 ミハエルも声の先を確認して驚く。

 その場所には、中心に大きな羽の生えた獅子のような動物の石像が咆哮しながら鎮座している。それをぐるっと囲んで、ベンチが備え付けられているのだ。

 座っている人や、立っている人、待ち合わせの形は色々だが、一ヶ所だけ、ぽっかりと空間ができている部分があった。

 ミハエルと唯はそこを足を止めて見ている。

 おでこを全開にして、長い髪を後ろに、うなじの辺りで束ねている。濃紺のスーツを身にまとい、右を前にして組んだ足からは膝まで肌が見える。何を重視しているのかわかりにくい黒のショートブーツを履き、左の踵は、コツコツとメトロノームのように地面を踏んでいる。

 唯目線で言えば、コンクリートを削っている。

 あろうことか待ち合わせの場所に里見がいた。十分ほど遅刻したのは二人であるが、十分程度では遅刻常習者である里見は来ないだろうと踏んでいたのも二人であった。

 自分の遅刻には何も言わないくせに、他人の遅刻には厳しい里見である。

 相当お冠らしいことは、組まれた拳が妙に固く握られていることからも見て取れる。

 苛立ちながら腰まである長い髪を弄び始めた。

 怒っている、という表現で充分だろうか。俯いている里見からは表情は読み取れない。

 彼女を知っている二人だからこそ、彼女の怒りが大分高いレベルだということがわかる。周囲の人間がその様子に気が付くでもないが、本能で適度な距離を取っている。

「怒ってるね」

「ええ、相当」

 近づくのを躊躇うほど、里見は不穏な空気を醸し出していた。

 ただこのまま放置してしまうのは、最も危険な選択肢だ。

 一歩一歩、気配に気が付かれないように唯が歩み寄る。

 それは、明らかに無駄な行為だった。

 里見がこちらを向く。

 二人を確認した里見は、異常なほどの笑顔を作った。

 唯とミハエルはそれに合わせるように顔を引きつらせる。

 第一声はどちらに向くだろうか。

 唯はそれを気にしていた。多分、ミハエルもそれが重要だと思っているのだろう。

「ミハエル!」

 ゆっくりと里見が立ち上がり、笑顔を崩さず勢い良くミハエルを指差す。

 怒りの矛先がミハエルに向けられたのを確認し、唯がちょっとだけ安堵の表情を浮かべる。

「唯ちゃんも!」

 続けて発せられる名前に、ミハエルが苦笑し、唯が反射的に頭を塞ぐ。

「わー」

 唯が適当に驚いた声を上げる。

「二人とも、覚悟しなさい!」

 とりあえず、二人の前には棘よりも先に待ち構えているものがありそうだ。

 雲が流れ、少しずつ快晴に向かっていく空、誰にも公平に無慈悲に時間は過ぎていく。

 一先ずは、三人に僅かばかりの休息が与えられた。

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