6「When You Wish Upon Heaven」(後)

 ミハエルが右手に持つレイディアントを突きの体勢にする。

 対する彼女との距離は十メートル、ミハエルなら次手の瞬間に到達できる。

 しかし、彼女の能力は停止だ。どこを止められるかわからない以上、『排除』は使えない。彼女の能力速度は認識の速さと同速だ、排除発動よりも速い。

 それならば。

 ミハエルが呼吸を落とす。

 気配を操るシュヴァンデンの騎士の中でも最も基礎にして極めるのが困難な高位の技、『無心』である。

『排除』と対をなすこの技は、同じく見た目には何も変わらない。

 だが、

 形式番号138

 円舞を発動させ、ミハエルが駆ける。彼女が能力を使おうとするよりも早く、右横に跳ねる。彼女はミハエルを認識しきれていない。認識できなければ、彼女は能力を使えないはず。

 俯瞰した思考で、ミハエルは自分の体を眺める。

 もうミハエルはどこにもいない。

『無心』とは、自らを殺す技。

 この技は、気配を無にすることができる。気配を殺すのではなく、自分の存在定義を消すことで、気配をどこにも感じさせることなく、モノとして行動をする。

 円舞は二つ目の移動、彼女の左脇腹へ向けて捻りを加えながら突きを繰り出す。獣としての本能か、彼女は一番完全が確かなミハエルがいなくなった空間に飛び出す。最後の行動で、ミハエルが彼女がいた先を右に払う。

 円舞は相手の位置を予測せず連続で攻撃をするが、それが外れても行動終了まで解除不能なため、短い組み合わせの方がより無難である。だが、最も円舞の実力を発揮できるのは長い組み合わせであり、その長短の選択も攻撃では重要となる。

 剣を払いきったミハエルは、次の選択を決めようとするが、既に遅かった。

 左足を軸にして、振り向き様に彼女がミハエルを蹴りつける。格闘技でもやっていたのではないかと思われるほどの的確な蹴りで、ミハエルが長椅子の中へ突っ込む。

 追撃を避けるために、ミハエルは足で彼女へ向かって椅子の破片を蹴り上げる。

 ミハエルに痛みはない。

 存在をゼロにする無心は、相手に気配を先取られないのと平行して、自身の痛みすら消してしまう。それは痛みに動きを鈍らせることがないという利点とともに、傷の深さを計れないという欠点も抱えている。

 形式番号179

 剣を逆手に握り、ミハエルが跳ねる。

 彼女の正面に向かう。

「止まれ!」

 彼女が言って、手を差し出す。

「甘い」

『排除』

 彼女の制止を振り切って、ミハエルは彼女の眼前へ。彼女の干渉を強制的に排除した影響で、両足が捻れる感覚が意識に伝わる。円舞は発動中であり、彼には止まる術を知らない。

 無心と正反対のこの技の正体は、気配を増幅、切断という手段を用いて、擬似的に、あくまで擬似的にだが、彼の前にもう一人の彼を作り出す。しかし、偽者の彼は本体の彼が受けるべき認識による作用を代わりに受け止める。肉体の破損を逃れて、精神に対して引き裂くような痛みを与えるという代償を得ることで。

 腰を屈め、倒れこむように前のめりに、逆手の剣を振り下ろす。彼女がバックステップでそれを避ける。ミハエルの剣は床に突き刺さり、その反動を活かしたまま、剣を中心点にして体を回す。弧を描いて右足で、彼女を蹴る。

 と、その足は、彼女の能力で止められてしまった。

 失速するミハエルに、彼女が背中を殴りつける。骨が軋む鈍い音が円舞終了後のミハエルに聞こえる。背骨が折れたわけではないようだ。肋骨のどこかにヒビが入ったのだろう。

 剣を引き抜く動作で、真後ろにいる彼女を斬る。排除をするタイミングを逃して、ミハエルの剣が止められる。ミハエルの排除は、肉体の非干渉体複製であって、無機物の代わりにはなれない。

 その手首を掴えられ、ミハエルは上に放り投げられた。今では腕力でさえ、彼女はミハエル、いや人間の域を凌駕している。空中で意識を戻したミハエルは、落下する前に、剣を下にいる彼女に向ける。

 彼女はそれを避けて下がった。

 再び対峙する。

 彼女は、笑顔だった。

 ミハエルも、兄の血で染めた右手に剣を持ち、シュヴァンデンとしての血が起きているため、顔が自然と綻んでいる。

 判定開始。

 円舞のコードナンバーは自分で叩き込んだもので、規則性があれば自分で決める。ミハエルが組み込んでいる総円舞数は、二千余りだ。

 そろそろ、本気を出すか。

 ミハエルが、胸元から小瓶を取り出す。コルク栓を抜き、中に入っている液体を剣に注ぐ。異種に作用し、その身を焦がす、聖水である。混血の血が目覚めはじめている今なら効果が期待できる。

 水分を帯びて、青白く剣が輝く。空気に触れることで気化が進んでしまう聖水は、剣が熱せられているようにも見える。

 形式番号382

 ミハエルがコードに与えている規則性はさほど多くない。最初の数字が初撃の種類、それだけである。

 ミハエルが前に、打突。

 二つ目以降は、訓練によるものなので一つが一動作に対応しているわけではない。しかし、ミハエルだけの共通性がないわけでもない。

 突き出された剣は彼女の手前で真上に斬り上げる。彼女が、その反射で下がるのを見越して剣ごと体を彼女に寄せる。流れるように、再度突きを入れる。彼女からの距離を離さないように、舞う。剣を振る勢いで滴る聖水が彼女に掛かる。皮膚が剥き出しになっている顔、足、それからミハエルによって裂かれ白い肌が見えるへその辺りに聖水が触れるたび、そこから焼きごてのように、煙が上がる。彼女が顔をしかめるが、ミハエルの剣をかわすので精一杯のようだ。意識を集中しなければ能力は発動できないらしい。

 円舞なので、最初の攻撃を入れた段階で、全ての行動は決定されている。

 ミハエルの舞は止まらない。

 十二撃目、中ほどまで振り下ろす。

 彼女はまだ剣を追えていない。

 と、彼女が、突きを出したミハエルの剣を胸の前で左手で掴んだ。指が切れ鮮血が漏れる。混血の血液は、レイディアントのミスリルに触れ聖水とともに白煙をあげて気化する。

 決して混血には折れないその剣を握り、彼女が力を込める。ミハエルは引かず、彼女を突き刺すために、左手を添えて押す。

 力は拮抗しているが、刃先を握る彼女の方が分が悪い。

 ミハエルが彼女を見る。

 彼女は、不敵な笑みをこぼした。

 体をくねらせて、髪を揺らしながらミハエルの懐にもぐりこむ。

 殴られる、そう思い体を逸らそうとしたミハエルの胸に、彼女はそっと手を置く。

「止まれ」

 彼女が囁き、ミハエルの膝が落ちた。

 予測するべきだった。

 彼女は目で標的を定めている。視覚に入らないものは人間は認識しづらい。しづらいが、不可能なわけではない。その枠を超えればそれ以上に止める可能性だって持っていたのだ。

 ミハエルが止められているのは、肺の活動、つまり、呼吸だ。

 呼吸ができなければ思考が止まる。

 これが、彼女の本当の力だ。

 停止時間が長すぎる。

 完全に、覚醒した。

「まだだよ」

 呼吸を停止されたまま、彼女がミハエルを蹴りつける。何もできなくなったミハエルは、加えられた力を全て吸収して壁にぶつかる。

 ようやく能力から解放されて、ミハエルがゆっくりと立つ。内臓が損傷したのか、口から黒い血を吐く。

 彼女は、笑っていた。

 しかし、それはまだ人間としての笑顔だ。

 獣の力を持って、意思を保った。

 それは、ありえない。

 獣は血の根底に存在しているものだ。理性で抑えられるほど弱い力ではないはずだ。

 戦いを続けるには、肉体の損壊が激しい。無心のおかげで痛みはないが、先ほどから円舞中速度を思考のミハエルは計測していた。若干だが、ダメージの影響で遅くなりつつある。

 加えて彼女の能力は停止、しかも今では体に内部にまで作用するまでにレベルが上がっている。

 通常の円舞では、追いつきそうにもないかもしれない。

 彼女が人間の意識を失って、獣になってしまえば、どんな影響が出るのは見当もつかない。今のうちに、処分をしなければ。

 立場が逆転してしまったようだが、ミハエルには勝ち目がある。

 彼は最も忌み嫌う、彼自身の血の力に頼ることだ。

 できることならばミハエルはこれを使いたくはない。しかし状況を取得して、戦闘を計算しているミハエルは、それ以外の手段に肯定的な意見を出していない。

 仕様がない。

 剣を上げ、胸に重ねる。

 思考破棄。

 ミハエルが、彼自身でいることに見切りをつけようとした瞬間、彼らの時間を切り裂くように扉が開いた。


 唯は走っていた。

 どの道をどのくらいの時間走ったのかわからない。まだ息が切れていないのが救いだった。走って、ミハエルを探す。どこにいるか、彼女自身にはわかりようもなかったが、体が許す限り、足を動かした。

 へとへとになって、それでも走って、頭が空っぽになりそうになったとき、唯は不思議な感覚に襲われた。

 自分が自分でないような、体の中で疼く誰か。

 でも、不快感はない。

 心地良い暖かさ。

 美咲。

 心の中で、彼女はいなくなってしまった少女の名前を呼ぶ。

 彼女の姿は見えない。

 それでも、融けてしまった少女を感じている。

 唯は、また走り始める。

 がむしゃらではなく、一つの方向を目指していた。

 美咲が、教えてくれている。

 たとえそれが幻であっても、思い込みでも良かった。

 美咲の声も、姿もない。

 そして、一つの場所の前に立つ。

 古ぼけた、ところどころ黒ずんでしまっている教会。

 疑いはなかった。

 唯は、扉を開ける。


「ユイさん!」

 ミハエルが叫ぶ。

「ミーちゃん」

 唯がミハエルの傷ついた姿を見て、駆け寄ってきた。

「私、私……」

 唯は何か言いたそうに、言葉を詰まらせる。

 まさか、唯が場所を見つけるとはミハエルは思わなかった。そう思っていた自分に、ミハエルは迂闊だったと実感する。目覚め始めたばかりだと言っても、継承者、その能力を使おうと思えば、探索魔法などお手の物だったのかもしれない。

「ミーちゃん、私、ごめん」

 唯が小声で漏らしたその言葉に、どれほどの意味が込められているのだろうか。

 ミハエルには、正確なところはわからないが、彼を気遣って言っている、という意味も含まれているのだと考える。

「ええ。ですが、その話はあとにしましょう」

 ミハエルが唯を見て、視線を移動させるように促す。

 唯も、目線を移し彼女を見た。

 彼女は、無言で二人を眺めていた。

 どうすればよいか、ミハエルは計算をする。

 ミハエルが持つ奥の手を使えば、恐らく彼女を殺せる確率は高い。その代わり、唯も巻き添えにしてしまうだろう。それも、それを自分で自覚していながら唯を傷つけてしまうことになる。任務と自分の命を優先させるなら、使わないわけにはいかない。二人で連携して倒すには、今の唯では動きが遅すぎる。

 ミハエルが、剣を構え直す。

「ミーちゃん無理だよ!」

 唯がミハエルの左腕を掴む。その振動ですらミハエルには無心の影響で精神に激痛が走ったが、表情には出さない。唯の手にはべっとりとミハエルの血がついていた。

「いいえ、まだやらなければいけないのです」

 ミハエルが二人を羨ましそうに見ている彼女に同意を求める。

 彼女は小さくだが、確かに頷いた。

「もう、やめて」

 唯が胸から拳銃を抜き、彼女に向ける。黒光りするそれは、誰が見てもわかるほどカタカタと音を立てて震えていた。

 やはり、無理だったか。

 ミハエルは、唯の決断ができていないことを見抜いていた。

 やめて、とは、皮肉な言葉だとミハエルは思う。彼女は一体何をやめればいいのだろうか。全てが終わり、今はもう結末は収束し始めているというのに。

「それが無理です。彼女は覚醒しています」

「でも……」

 唯は彼女がまだ人間のままでいると思っているのだろう。実際、ミハエルの目から見ても、彼女は意思を保っているように見える。これほどまでに、意思で獣を抑え付けている混血を初めて見た。だが、能力、腕力、どれ一つとっても人間と呼べるものはない。

 あと、何分持つか。

「ユイさん、この間の魔法を使えますか」

 桜下町で唯が継承者として最初に使った魔法、あの捕縛ができれば、彼女をこちらから止めることができる。

「……ごめん」

 ミハエルの問いかけに唯が下を向く。

「構いません」

 彼は唯に返す。

 左手で唯を、自分の後ろに隠す。

「申し訳ありませんが下がっていてください。貴方の装備では戦えません」

 彼女の能力があれば、唯は引き金を引くこともできない。それに今の彼女に、ミスリル皮膜の弾では効果は薄い。

「でも!」

「私は、彼女を殺します」

 はっきりと、彼女にも聞こえる声で、ミハエルが言った。

「言い訳も愚痴もありません。それが全てです」

 冷たく取られるかもしれないが、今は仕方がない。

 ミハエルは、自分を気遣わないでほしいと思っている。

「私は、そういう人間です」

 押し黙る唯を、手で後ろに押す。唯は力なく一歩下がった。

 少々危険だが、あの手を使うしかない。

 ミハエルは、懐にしまった大きめのフィルムケース程度の瓶を取り出す。今ミハエルが持っている中の最後の一瓶であり、レイディアントを整備時に浄化させるために少量使う、濃縮された聖水だ。

 それを、左手で向かい合う彼女に投げつける。

 瓶は彼女の喉下に当たり、割れた破片とともに聖水が降りかかる。

「あ、がああ」

 煙を上げながら、彼女が喉を掻きむしる。

 これで倒せるわけでもない。

 逆に本能に従おうと獣への傾倒が早まってしまう。

 しかし、ミハエルはこの瞬間を狙っていた。

 意思と獣の境目で、彼女は錯乱状態に落ち込む。

 形式番号286

 肉体と思考を切り離す。

 これで、いい。

 構えを正し、彼女の前で大きく払う。

 次の動きも考えていない様子で、彼女がしゃがむ。浮いた髪の毛がバッサリと切られた。

 予想通り、彼女は能力を使えない。

 ここからは時間の勝負、これを凌ぎきられてしまうと彼女は獣になってしまう。ミハエルで対抗できるのは最後の手段だけだろう。

 円舞を続ける。

 二撃目は上から振り下ろす形で最初から彼女がいない方向だったので空を斬った。連撃を加える。彼女の動きは遅い。

あと数回で、とどめまでいける。

「がっ」

 剣の動きを追えないと判断したのか、彼女はミハエルの持ち手であった右拳を殴った。追撃しようとしたミハエルの動きが止められる。

『排除』

 認識速度は彼女の方が速い。思考のミハエルの判断は誤り、止められた体の腹部に肘打ちをくらう。

 円舞が強制終了され、ミハエルの体が折れ曲がった。

 ここまできて、こちらも止められない。

 無心を解除、骨が折れ、関節がズタズタになっている痛みが現実世界に引き戻され、出血と内容物が逆流して嘔吐感がミハエルを襲う。

 左手で口から溢れる血を拭い、彼女に向け浴びせる。

 形式番号37

 視界が遮られた彼女が、気配を頼りに能力の解放をしようとする。

 だが、気配が急に増えたことで彼女の獣としての認識が撹乱して、標的が定まらない。彼女は唯よりも、自分に近いミハエルに彼女の能力が移行される。

 標的はミハエルに向けられた。

 ミハエルは『排除』をする余裕もなかった。そのためには、一人分の気配を保つだけの体力も残されていなかった。

 ミハエルはまた呼吸を止められることも予期していた。彼女が異種としてのレベルで放つ能力である。

 それくらいでは、モノになったミハエルの円舞は止まらない。

 唯に手を煩わせることはない。

 しかし、彼の意識があったのはそこまでだった。

 意識が急速に薄れ、思考が落ちる。

 彼女の能力で、ミハエルの心臓が、『停止』した。


 唯はミハエルの指示のまま、立ち尽くしていた。

 言いたいことはあったが、唯は、やっぱり言えなかった。

 結果的には、ミハエルに甘えているのだと思っていた。

 ミハエルが瓶が投げ、攻撃をする。

 ミハエルの攻撃は、唯にはほとんど確認できないほどの速さで、それに対する彼女も避けている。ミハエルの言った通り、今の唯では足手まといになるのは目に見えていた。

 妙に、安心している自分がいることに唯は気付く。

 それは、ミハエルが勝つという安心と、自分が手を下さずとも良かったという安心が重なっていることに、唯は自己嫌悪に落ちかけたとき、ミハエルが彼女に沈み込んだ。

 すぐにミハエルが剣を握ろうとしたが、彼女が何か呟いたように見えたあと、彼は力を失ったようだった。

 助けなきゃ。

 唯は、ただそれだけを思った。

 方法も考えずに、唯はミハエルに駆けた。

 ゆっくりと右へ落ち始めるミハエルの体の下を、トンネルを潜るように唯がすり抜ける。ミハエルを抜けて、唯が彼女の正面に向かった。彼女はまだミハエルの血が視界を邪魔しているようだった。

 ふわりと唯のスカートが浮く。

 付け根近くの肌まで覗かせるが、誰に構うこともない。唯はそのままスカートの裾が落下する前に、左の太ももにつけていた、里見からもらったナイフをホルダーから抜く。

 判断は、できていない。

 持ち手すら銀色の薄い刃のナイフを、右手に構え、彼女に向かう。

 二歩で届く。

 一歩。

 彼女と目線が合う。

 彼女は、しっかりと唯を見据えていた。

 決断は、タイミングだ。

 唯の前で、世界が揺れた。

 色のない振動が唯に向かう。

 その中で、唯は一つのモノを見た。

 彼女から飛び出して唯に向かってきたのは、テレビで見るような形で、白い錠前だった。

 それが、彼女が使う能力のイメージだということも理解しないまま、唯は、幻の手錠にナイフを刺しこむ。感触もなく、錠前は二つに割れる。

 最後の、一歩。

 裂いた手錠は、霧になって消える。

 驚いた彼女の前には、唯の姿がある。

 唯は、彼女を抱きしめるように、ナイフを彼女に突き立てた。

 そして、深く深く唯のナイフは彼女の心臓を貫いていた。

 舐めらかすぎて、何か刺したという感じはほとんどなかった。

 しかし、二十センチに満たない刀身部分全てが、彼女の中に捻じ込まれ、唯の手が彼女の胸に触れている。

 唯に近戦闘の技術はない。

 ただ、純粋にそれが手を通して致命傷であることだけは分かった。短い刀身は全て彼女の胸に収まり、死の足取りを明確に蛇のように走らせる。

 ただのナイフでさえ命取りだが、突き立てられていたのは混血の命を奪うミスリルのナイフである。

 それは彼女の肉を焼き、異種が持つ回復力を低下させ修復を不可能にする。

 唯も、ミハエルも、彼女も、誰もが動きを止めていた。

 それは彼女の能力によって『時』が止められているかのようだった。

 唯は力の失った彼女を抱きかかえていた。

 静かに、静かに、彼女の体が崩れていく。

 それは比喩的な崩れであり、肉体的な崩れであった。

 肉体の限界を超え、元は人間であるが故のか弱い細胞が焼け付き、唯のミスリルが絶対的な死を呼び込む。体内から放出された高すぎるエネルギーが彼女の衣服が炭化させていた。肉とプラスチックが焦げる臭いが、周囲を満たしていく。

 ナイフの部分から染みが侵食するように、そこから彼女の体が灰になっていく。さらさらとした灰は床に落ち、降り積もる。

 唯と彼女は目が合っていた。

 唯は目を逸らさず、彼女もそのままだった。

 二人は、何かを伝え合っているようにも見えた。

 腹部が灰になり、肩、腰、と伝染しながら体が床に沈んでいく。

 その影響が喉を越えて上に向かおうとしたとき、彼女が小さく口を開いた。

 かすれて、風が擦れた音のように、

「……助けて」

 と。

 それは、獣かどうかもわからない彼女が、最後に唯にだけ聞こえる声で溢した言葉だった。

 彼女の体が灰になり、唯の突き刺したナイフがそのまま姿を現す。灰の塊になった彼女は、屋内に流れる僅かな風に吹かれその姿を薄めていく。

 全ての執行は完了した。

 唯とミハエルにとっては任務の終了であり、彼女にとっては命という存在の終了。


 呆然とその場に立ち尽くしたあとで、唯はミハエルを思い出す。

「ミーちゃん!」

 振り返ると、剣を杖にして立ち上がっているミハエルがいた。黒いネクタイは曲がり、スーツは所々擦り切れている。テディベアは、唯に挨拶するように、片手と顔だけを出していた。

「助かりました」

 弱々しくミハエルは言う。

「戻りましょう」

 ミハエルが唯に声を掛ける。

 彼女の能力が解かれたことで心臓の鼓動が戻り、体中に酸素と血液を運ぶため強烈に拍動した勢いで、肺に繋がる血管が切れ、ミハエルの口から血が漏れる。

「酷い格好」

 唯が引きつった顔で意識を切り替えるように溜息雑じりに笑った。

 ミハエルの衣服は乱れ、右足首、鎖骨、肋骨も二三本は確実に折れている。白いシャツには血が滲み、円舞の反動に耐え切れなかった両手の拳からは血が滴っている。

 通常の人間なら全治一ヶ月では済まされないだろうか。

「換えの服が必要ですね」

 全くつまらない冗談でミハエルが返す。

 剣を一度、軽く汚れを振り落とした後、床に置いておいた鞘に戻す。

『無心』を再発動している以上今の彼には痛みはない。解除したときに襲ってくる痛みは想像を絶するだろうが、ミハエルにはとってはどうでもいいことだった。

「行こう」

 灰に目を移し、唯が小さく頷く。

 唯の頬に、微かに伝う感触があった。

それは一筋の水。

 泣き出してしまった空、雨が天井をすり抜け教会の中に降り注いでいた。雨漏り、相当痛んでいたのだろう、今の戦いで破壊が進んだのかもしれない。

 ミハエルの上にも、灰になった彼女にも均等に漏れた雨が申し訳なさそうに滴っていた。

 それは、誰かの涙のようだった。

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