6「When You Wish Upon Heaven」(中)

 踏み込み一歩で、彼女との距離をゼロにして真横に薙ぎ払う。

「Scheisse!」

 ミハエルの剣が無を斬る。いるはずの彼女は、既に常人ならざる跳躍力で後ろに跳ねていた。彼女は跳ねた勢いで壇に背中を打ちつける。

 何をした。

 運動能力は人の枠を超えている。彼も承知の上で、だからこそ予備動作なしで斬りつけたのだ。それなのに、一瞬体の動きが鈍くなり、剣を振るう間がずれた。

 能力を、使った。

 ミハエルが体勢を戻し、剣を構え直す。剣を握る左手を右の肩に置き、剣先は腰を床につけている彼女に向けて。

 ミハエルが計算を開始する。

 距離、方向、手順を計算する。

 最も適した攻撃を思考の大部分を使って組み上げていく。

 呼び出しているのだ。

 彼女は攻撃をする気になっていないようだ。未だに言葉を発せずにミハエルを見ている。

 銀色の刀身にステンドグラスを通した微かな光が反射し、銀髪が映える。

「何で! なんでなんでなんで!」

 彼女はまだ、自分が追い込まれている状況が理解できていないのだろうか。

「私は悪くないの!」

 彼女が喚く。喉から絞り出された擦れた声を出し、苦しそうに彼女が咳き込む。

「私は、貴方が悪かどうかの判断はしません」

 ミハエルに処分の命令が下った段階で、彼は行動を開始する。彼女が悪かどうかなど、使節にとっては何の意味もない。能力を自発的に使っている、ということが、使節が彼女を罪と認定する理由である。ミハエルはそのルールに従い、処分を執行しているに過ぎない。

 髪を振り乱して、彼女は叫ぶ。

「何で私なの!」

 戦闘の思考とは分散しつつ、ミハエルは彼女の言葉を考える。どうでもいいことと割り切りながら、けれど無駄に考えてしまう、自分でも認識している悪い癖だった。いつでも、その思考を断ち切る方法を心得ているからだろうと、彼は自己分析している。

 何故弟が事故にあってしまったのか。

 何故こんな能力を得てしまったのか。

 何故今ミハエルによって殺されようとしているのか。

「誰も助けてくれなかった!」

 そうだ、誰も助けてくれはしない。

 誰かがいつか助けてくれる。そう考えている人間に、ミハエルはどうしようもないほどの嫌悪感を抱く。助けを求めても、世界は救いを用意しない。世界は、一人の人間のために、救いなど用意する余裕はないのだ。

 そして、彼女は能力に目覚め、自らの力で解決することにした。自分のわだかまりを、自分の力で。行動には常にリスクが伴い、結果、この状況になっている。

「ここで私が見逃したとしても、いずれは別な者がやってきます」

 ミハエルは、自分が人を殺すことを正当化したいのではない。

 最適手段、形式番号327

 彼女が驚きの表情を浮かべるよりも速く、人間としての限界速度で駆け抜ける。

 切先はそのままに、彼女の心臓へ。案の定ミハエルから見て左へ避けようとした彼女に、今度は剣を返して下ろしながら横へ振る。彼女のスカートの裾を裂き、踏み込む足で奥へと剣は鋭角に跳ね上がる。

 完全に入るはずだった、彼女の姿がミハエルの前から消えた。

 気配を追って、ミハエルが左上方を向く。彼女は二階観覧席にいた。息が上がっているのか、自分の行動に戸惑っているのか、彼女は肩で呼吸をしている。

 いくら修行を重ねても所詮騎士は人間だ。枠を最初から超えている異種や混血には直接の運動能力では及ばない。

 最適手段未決定。

 助走を二歩つけ、ミハエルが宙を舞う。体が重力に逆らっているうちに、脇にある長椅子の背もたれに足を掛ける。膝に力を込め、体のバネを最大限に活かす。

 二メートルを越える高さを詰め、ミハエルの剣が彼女の懐に届く。

「やめて!」

 剣が彼女の腕に触れる直前、僅か数センチのところで剣を振るう左腕に力が入らなくなる。重力に従った体が行き場を失って落下する。体を丸く、膝を曲げ、着地の衝撃を和らげる。

 混血と戦闘をする上で、取るべき方法は二つある。

 一つは、相手の出方をうかがい、能力を把握してから対処する方法。

 混血の能力は魔法以上に限定的に発するもので、能力の質さえわかれば弱点はおのずと見つかる。

 もう一つは、相手に能力を発動させず一方的に攻撃を仕掛ける方法。

 前者の方法だと、能力を見極める前に致命傷になってしまう場合がある。リスクは高いが、奇襲という手を取って、この方法を選ぶこともある。

 もう一度、振り返って長椅子に跳躍する。観覧席に背を向ける形になりながら、ミハエルが背面飛びをした。体を捻り、振り向き様に空中で剣を払う。

「近付かないで!」

 振った腕が動かなくなり、頭から地面に向かう。

 なるほど。

 思考をしながら半回転をして、着地し、追撃を避けるため反対側の壁際まで下がる。

 彼女との距離は直線で二十メートル。

 ミハエルが彼女を冷静に見つめる。彼女は未だに手で顔を抑えて震えていた。

 ミハエルの剣技である円舞は、方法論でいえば二割が前者、八割が後者である。

 最適手段、形式番号17

 剣を下に構えて、駆け出す。地面に右足が付くかどうかも見えないほどの速さで、左足が前に出る。

 円舞には、防御、という概念は存在しない。

 攻撃に重きが置かれているのではなく、圧倒的なまでの攻撃性のみしかないのである。

 彼の剣術は事前に複数の動作で構築された幾千のパターンをいかに高速で相手に叩き込むか、この一点に凝縮されている。構え、初撃、追撃、迎撃、ミハエルは、その場で斬り込み方を考えているわけではない。相手との距離、両者の状態を加味して、最も効率の良いパターンを打ち込む。全く同じ状況ならば、その騎士は全く同じ組み合わせを百パーセントに近い確率で再構築する。その状況でどのパターンをどう選ぶかの決定は、本来は今現在の彼がすることではなく、気の遠くなるほど同じ動作を繰り返している修行中の彼に委ねられているのだ。

 これがシュヴァンデン騎士団が誇る剣術、『円舞』の正体なのだ。

 だが、刻々と状況は変化をし、一切が同一条件の場合など存在しえない。

 ミハエルが思考しているのは、一体どのパターンを出せば効果が高いのか、その判定だけである。

 この円舞の利点は一つ、最適手段を決定してからの動作が、人間が持てる限界の速度に達している、ということだ。この速度こそが、彼らが編み出した、人の枠を超えるモノに打ち勝つための方法なのである。

 パターンを発動した後のミハエルの思考は既に次のパターンのために使われている。発動中の体は彼自身を俯瞰したような感覚があり、自分から行動終了まで動きを止めることはできない。

 だから、彼は相手がどう動こうか関係なく、防御も取れない。円舞を開始した人間にとって、相手は壊すための置き物と同意なのである。

 思考をする自分と、攻撃をする自分。

 二つの乖離を受けて、本当はどっちが『自分』なのかわからないまま、それでもミハエルは思考する。

 彼女の能力は、肉体に直接影響を及ぼすが、それ自体に攻撃力はない。

 平均時間は、一秒強。

 作用領域は、全体ではなく、一部分、腕一本分程度。

 しかし最初に会ったとき、ミハエルと唯同時に仕掛けた。

 能力の幅を指定できるのか、発動ラグが短いのか、そのどちらかだ。

 観覧席付近まで駆け、飛ぶ。

 思考と切り離されてしまった筋力はリミッターから外れ、生物としての限界値を刻む。発動のパターン通り、彼女の前に現れたミハエルは、パターン通り、下から斬り上げようとする。

 恐らく、彼女はここで能力を使う。

 思考の彼は、肉体の彼を見ながら感覚を計る。

 彼が行動中に制御できるのは、動きでなく思考であり、そしてシュヴァンデンが開発したもう一つの術だけである。

 腕に意識を集中する。全体の意識を調節し、剣を持つ左腕に込める。

 キッと彼女がミハエルを見据える。

 が、そのままミハエルの剣は、内から外へと自然に彼女へ襲い掛かる。驚きの表情で顔を歪ませた彼女は、すれすれの位置で避ける。垂れた髪とブレザーが胸の下で切れ、皮膚が見えた。

 やはり。

 観覧席に足先を置いたミハエルは、手段決定をせずに彼女の脳天目掛けて振り下ろす。

 体勢を崩して仰け反っていた彼女は、円舞でない彼の剣を見ていた。

 ミハエルの振り下ろしたレイディアントは、ステンドグラスを通した仄かに赤い光で、紋様を浮かび上がらせていた。彼女との距離は僅かに数センチ、ミハエルの意思ではない。

「やめて!」

 動かないままの剣から体を逸らした彼女が、ミハエルを両手で思い切り押す。その力はもはや人のものではなく、ミハエルはその圧力で教会の真ん中まで飛ばされた。彼女も何も考えずにミハエルを突き飛ばしたらしく、前につんのめって下の床に落下する。

体と意識を一つに戻し、ミハエルは空中でバランスを取る。

 ミハエルは、彼女の能力の正体を掴んでいた。

 その能力は、『止める』ことだ。

 ミハエルが剣を振り下ろしたとき、腕ではなく、剣だけがその位置で接着剤をつけられたように固定されていた。

 生体かどうかに関わらず、彼女は見たものを止めることができる。イメージはわからないが、彼女は何かを規定することで、相手の動きを止めるのだ。

 腕をあわせて顔を防ごうとしている彼女を見ながら、床への加速を感じつつ、ミハエルは合点する。彼女は道路を横断しようとしている人間の足を能力で止め、事故を起こさせていたのだ。

 相手を調べ、機会を待つ。相手がそういった状況になるのを、執念深く、ひたすら、じっと、相手が油断するのを待ち続ける。それが数日間で連続的に起こったのは、単なる偶然だろうか。彼女の願いを聞き入れた神様はいたのかもしれないと、ミハエルはその小さな可能性に笑った。

 落下速度は時間の二乗に比例し、彼女とミハエルは同時に床に落ちる。ミハエルは足を曲げて最小限の衝撃で済んだが、彼女は頭から長椅子目掛けて落下した。老朽化した椅子の砕ける音と、その破片と埃が交差する。

 ミハエルは立ち上がり、剣を振って元椅子の塊を見つめる。

 彼女は擦り傷を負い、服はボロボロだった。破片で切れたのか、額からは血が顔に沿って滴っていた。膝を落として、硬く閉じられた両の拳は壊れた木片の上に置かれている。

 そして、彼女は泣いていた。

 痛みか、悔しさか。

 彼女は燃えるような黒い目で、ミハエルを見る。

「あなたにはわからない! 弟をなくした私の気持ちなんて!」

 彼女が叫ぶ。

 ミハエルは冷静に、しゃがむ彼女を見下ろす。

「わかりません。他人の気持ちなど、わかった気になる方がどうかしているのです」

 ミハエルは他人の気持ちがわかったと思ったことも、わかろうと思ったこともない。わかったと感じるのは、勝手な思い込みであり、わかりあえると願うのは、単なる楽観視でしかない、そうミハエルは思っている。

「では、聞きましょう」

 ミハエルが一歩彼女に近付く。

 彼女は能力を使わない。

「貴方は、弟の気持ちがわかったのですか」

 二人は見つめ合い、互いに視線を逸らさない。

「弟が復讐を望んでいたのですか」

 ミハエルの口調はゆっくりとしている。しかし、語尾が上がっていない。ミハエルの質問が、何ら彼女の答えを要求してないからだ。これは疑問ではなく、詰問だ。

 彼女はそれに応えるのか、何も言わない。

「違うでしょう。復讐を望んだのは貴方です。貴方は自らの意思で復讐を望んだ。それは他の誰のためでもなく、貴方のための殺人行為です」

 ミハエルにとってみれば、動機など興味もない。殺人は殺人なのであり、それにそれ以外の意味を付け加える必要などどこにもないはずなのだ。

 その言葉に、彼女は強く、初めて絶対的な優位にいる騎士を睨みつけた。

「そんなことない! 弟だって、きっと!」

 銀髪の騎士は眉すら動かさない。

「いいえ」

「望んでた! こうして欲しいって!」

「言ったのですか」

「言ってない、言ってないけど、私にはわかるの!」

「気になっているだけです」

 何故か、ミハエルは最適手段を選ぶ思考を止めていた。それよりも、彼女に対して反論をしている自分が奇妙に感じられた。理由は、彼自身理解できていないだろう。

 彼女はミハエルとは対照的な意見を言っていたが、彼女の目は真剣そのものに見えた。今から自分が殺されるかもしれない、という危機よりも、自分の意見を押し通すことが重要らしいようだ。

「あなたにだって、家族がいればわかるでしょ!」

 確かに同様の境遇にあれば、相手への共感度は増すといえるかもしれない。しかし、ミハエルから見れば、それは共感している気分になっているのであって、全くの同じ気持ちになれるはずもない。他人は、どう考えても他人なのだ。

「ええ、います」

 ミハエルにも家族はいる。

 だが、彼は、家族、という響き自体を忌み嫌っていた。

「それなら!」

 わかるはずだ、と彼女は言いたいのだろうか。

 ミハエルの前に、蘇った記憶が重なる。

「私の家では、必ず同性の兄弟が生まれるのです。例外なく、そう一度の例外もなくです」

 ミハエルの家はシュヴァンデン騎士団を束ねる直系の家である。その家にミハエルは生まれた。

 そのとき、既に彼の前に立つ人間がいた。

 ミハエルには、三歳年上の兄がいたのだ。

 彼は無愛想ともとれるほど物静かで、一人のときはいつも椅子に腰を掛けて本を読んでいた。

「けれど、家を継ぐ人間は一人しかいない」

 ミハエルは何不自由なく、一切の疑問を持たず、シュヴァンデンとして騎士の修行をしてきた。彼は、そうするのが日常であり、それ以外の世界など考えもしなかった。大きくなったら、騎士団の後継者となった兄とともに、任務につく。その日のために、訓練をする。彼にとってのその日常が、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。

「それで、どうすると思いますか」

 ミハエルは剣先を床に向けている。向かい合う彼女は、膝をつけて彼を見ていた。

「先に生まれた方が」

 彼女が小声で言う。

「そう、普通ならそう考えるはずです」

 年長者が、家を相続する。

 ミハエルも、ずっとそう思ってきた。

 あのときまでは。

「しかし、我々は違った」

 記憶は強制的に幻影を作り出す。

 ミハエルは、忘れたくともできない記憶を、頭の中に呼び出している。

 彼の一部分が、今この台詞を言おうとしている自分を制止する。

 必要のないことだと割り切りながら、ミハエルのどこかが、勝手に喋る。

 シュヴァンデンは、異端を狩る騎士の一族である。

 彼らは、決して普通ではない。

 彼らに要求されているのは、非情なまでの、徹底。

「戦わせるのです、兄弟同士で」

 淡々と、抑揚なく、ミハエルが言う。

 彼女は聞き取れなかったのか、訝しげにミハエルを見つめたままだった。

「弟が十二歳になった誕生日、互いに剣を持たせて広間に立たせるのです。どちらかが死ぬまで」

 ミハエルは、立っていた。

 純白の薄手のコート、シュヴァンデン騎士団の正装を着て、彼は立っていた。

 古びた屋敷の中央、無駄に広い空間、壁には彫刻が施され、部屋の奥には六枚の羽が生え右手に剣を持つ騎士の銅像が一体、部屋全体が真っ白、毎日毎日通った見慣れた場所に、父親から呼び出された彼はいた。

 周りに立つのは、両親、傍系でも直系に近い親族、そして、目の前で剣を握る、いつもと変わらず静かな兄。

「そんな……」

「信じられませんか。それでも本当のことなのです」

 素直に信じられない、という表情をする彼女に、ミハエルは言う。

 事実を述べる、独白として。

「まず年上の者が勝ちます。経験と実力が違いすぎるのですから」

 シュヴァンデンが伝える円舞にも欠点がある。

 それは、円舞の使い手同士の戦いにおいて最も顕著になる。円舞で重要視されているのは、パターン数の多さ、それから、判定に要するための思考速度の二つである。

 端的に簡略化してしまうなら、腕力にさほど頼らないため、他の技術よりも経験の差が大きい、ということだ。

 それはつまり、単純に戦闘をして、ミハエルに勝ち目がないことも示していた。

「それはある種儀式のようなものです。血縁者を殺し、決意を試すための」

 太陽が照りつける外の暑さとは切り離された世界、凍りついたようにどこまでも静かで、誰の呼吸音も聞こえない広間に彼は立っていた。

 まだ、彼は何が起こるのか、わからなかった。

 見知った顔が、厳かな表情で立っている。

 誰も何も言い出さず、幼い彼は戸惑った。

 少なくとも、この異常さが、自分の誕生日を祝うためのものではないことに、気が付いていた。誰かに聞こうともしたが、その重たい空気は、彼に言葉を発することを許さなかった。

 広間の中心に立つ兄からも距離を置いて、彼は立ち尽くしていた。

 そして、彼の父親が口を開く。

 彼の父親としてではなく、シュヴァンデン騎士団の総長として。

「ですから、下の者にはその事実は知らされない。上にだけ生まれたときから教え込まれる決定事項なのです」

 ミハエルは、何も知らなかった。

 誰も、彼以外の人間がそのことを知りながら、彼に言わなかった。

 戦いに生きる、平凡とはいえない狭い世界で、けれどミハエルは平穏に暮らしていくことを夢見ていた。

 夢とは叶わないものだと、実感させられるその瞬間までは。

「貴方にはわかりますか? 十二歳の誕生日、人々から祝福されると喜んでいた少年が広間に連れてこられ、その事実を知ったときの気持ちを」

 それは、ミハエルに死を告げたものと同じだった。

 誰も言わない。

 しかし、広間にいる誰もが理解していた。

 ミハエルは、勝てない。

 彼は、今ここで死ぬのだろう、と。

「貴方にはわからないでしょう? いつかは殺されるために今まで育てられてきたと知った人間の気持ちを」

 彼は、何も言えなかった。

 何かを言えるような空気ではなかった。

 誰とも焦点を合わせられないまま、彼は剣を手渡される。

 初めて手にする、練習用ではない真剣であるテンプルナイトは、円舞用に軽量化されてはいるが、それでもずしりと体に響く。

 誰かを殺すための剣。

「わかるわけがないのです。他人の生を際立たせるためだけに存在すると宣告された者の気持ちなど」

 背中を押されるような感覚で、ふらふらと彼は広間を歩く。

 中央には、未だに彼を見ない、兄の姿があった。

 肩を過ぎる長い銀髪を軽く揺らす様は、髪が短く切られた彼の憧れでもあった。

 そして今まで一度も勝てなかった兄との決闘が、絶望の状況の中始まった。

「でも」

 彼女が、ミハエルに向かって言う。

 打ち解けてなどいない、だが、今は剣を向けられないことがわかっているのか、彼女の声は落ち着いていた。

「あなたは」

「ええ、私は生きている」

 あのとき何を考えていたか、ミハエルはもう思い出せなかった。何も考えられなかったに違いない。パターンをどう呼び出したのか、それとも呼び出せていなかったのか、それすらも見当がつかない。

 ミハエルが持っていたものは、ただ一つだけだった。

 それは、生きたい、という純粋な生への執着心。

「私は生きたかった。何のためでもなく、自分のために」

 彼は、自分から向かっていった。

 確実な死から逃れたい恐怖だったかもしれない。

 誰も教えてくれなかったことへの憎しみかもしれない。

 とにかく、彼は剣を出した。

 どちらせよ、結果が変わらないということを知っていながら。

 気が付いたときには、彼は硬質的な床に倒れていた。彼の兄は足元にいて、剣を向けていた。

 何をされたかも覚えていない。

 しかし、既に彼は負け、死は数秒後に迫っていた。

 彼は、目をつぶらなかった。

 その瞳に映る兄の表情は、普段と変わらなかった。

 そう、思っていた。

「地に臥し剣を突きたてられる瞬間、こともあろうか兄は迷った。躊躇したのです」

 本当に、一瞬だった。

 突き立てられるはずの剣が、鈍った。

「今しかない、そう私は思った」

 彼は、倒れながら、まだ自分が剣を右手に握っていることを確認した。

 円舞も無視して、敵を排除をするために渾身の一撃を放った。

「私は、兄を殺した。生き残れるかどうかの刹那の判断で、私は自分のために、血の繋がっている兄を殺したのです」

 白に彩られた世界で、彼の剣は深く兄を貫いていた。

 防御力を考慮していない正装は、剣を吸い込み、兄の背中からは剣先が生えていた。時が止まった中で、一度彼は血を吐いた。腹部から血が溢れ出し、剣を伝ってミハエルの右手を深紅に染める。とめどなく、血は流れ、純白だった右腕を血で染めきり、兄は倒れた。

 ミハエルに倒れこんだ彼は、やはり何も言わなかった。

 もう、何も。

 驚愕も、拍手もなく、粛然として全てが終わり、全てが始まった。

「このような人間が、貴方の気持ちなど欠片もわかるはずがないでしょう」

 それ以来、彼は、本当のシュヴァンデンとなった。

 ミハエルが真直ぐに彼女を見る。

 ミハエルは後悔はしていない。

 生きるか死ぬかの選択は、間違っていなかった。

 レイディアントを左手で握り、ミハエルが彼女の前に突き出す。

 輝ける、という名を持つ聖剣は、呪われている。

 この剣を使うための条件自体が、本来起こらない偶然で、上を殺した下の者に限られる、というものだからだ。それを手にしているということが、すなわち呪われている証明になるのである。

「少し、喋りすぎたようです」

 何故今さらこんな昔話をしたのか、彼自身、上手く説明がつけられない。

 彼女は体の埃を払い立ち上がる。怯えた目ではない。

「あなたは、誰に償っているの?」

 彼女はそう言った。

 それは、ミハエルには思いもよらない言葉だった。

 あの日以来壊れた世界で、一ヶ月の間、彼は光を失っていた。真の暗闇の中で、誰の声も聞こえず、一言も言葉を発せず、ただ、考えていた。

 どうすれば、この罪を償えるのか。

 答えがない疑問に、現実と夢の区別もつかない闇で、ミハエルは考え続けた。

 今でも、考えている。

「私、本当は知っていたの。あんなことをしても何の意味もない、って」

 顔を一度伏せたが、彼女は直に正面のミハエルに向き直す。

「弟は生き返らない」

 彼女が両手で髪を掻きあげる。

「目を離した私の罪が消えるわけでもない」

 彼女の論理に従えば、彼女が弟を見ていれば、彼女がボールを買い与えなければ、彼は事故に遭わずに済んだ可能性だってある。彼女は、それを理解して、心に閉じ込めてしまったのだろう。能力を持ってしまった、異種の血がそうさせたのかもしれない。

「弟に、許して欲しかったわけでもない!」

 今までが本音だとしても、これもきっと彼女の本音だろう。

「そんなことじゃなかった!」

 彼女は、死んだものに償う方法を探していたのだ。

 そして、それが世界中どこにもないことを、わかっていた。

 復讐という安易な手段は、そのジレンマをどうにかして埋めるための柔らかいパテでしかなかった。

 結局、彼女が望んでいたことは復讐でも救いでもなく、

「止まって欲しかった、全ての世界が、私が何も考えられなくなるように」

『停止』だった。

 感情、記憶、思考、自分を創る全ての停止。

 彼女は、存在の凍結を望んでいたのだ。

 ミハエルは彼女の言っている意味を、何となく理解する。それとともに、何故自分が過去を彼女に話したのか、それがわかった気がした。

 彼女は、やはり、あのときの自分と同じなのだ。

 兄の死がこびりつく無の世界で、ミハエルは一人だった。自分に関するものが一つ残らず消えてしまえば、自らの呪われた血も罪も一緒に消えてくれるのではないだろうかと、ずっと考えていたからだ。

 それが無理な夢だと知っていても、叶わないからこそ、願わざるを得なかった。

「思い留まるべきでした、最初にその力に気が付いたとしてもです」

 ミハエルの言葉は、結果から遡っているに過ぎない。

 それはもはや何の解決策にもならない。

「そうかもしれない」

「だが、もう遅い」

 ミハエルが剣を、右手に持ち替える。

 歯車は止まらない。

 彼女の能力を持ってしても、その能力が獣に起因している故に、彼女の傾倒を止めることはできない。

「ええ、きっと」

 彼女は軽やかな声で返した。

 獣の血が自分を崩していくのを彼女は感じているのだろうか。

「だけど、私は死ぬつもりはない」

 彼女の姿がミハエルの視界から消える。

「だから、私は」

 ミハエルが再認した瞬間には彼女は剣をすり抜けて正面にいた。

 剣が間に合わないほど接近した彼女を避けようとしたが、胴体が停止する。部分的に止められて、命令と行動のずれが生じて足が浮く。

 右ストレートでミハエルが胸を殴られる。停止を解除され、ミハエルは壁に勢いよく叩きつけられた。

 背中を打ったが、それほどの痛みはない。

 ミハエルが、立ち上がる。

 彼女を見ると、腕を伸ばしたままの体勢だった。自分でもそこまで飛ぶとは思っていなかったのだろう。

「時間があまりないようです」

 傾倒が早まっていることに対してミハエルが自分に言ったが、彼女には意味が通じていないはずだ。

 彼女は、それを、どう受け取ったのだろうか。

 ミハエルが足に力を込める。

 最適手段の判定を開始する。

 武器の有無を含まなくとも、攻撃力ではまだミハエルの方が勝っているようだ。円舞を発動すれば速度も同等だが、その速度で回避することはできない。

 彼女の能力が厄介だ。

 円舞発動中でも、彼女の能力の干渉を排除することはできる。しかし排除は、精神力を大きく削る上に、主に空間に反発力を生む技で、連続使用は不可能だ。

 ミハエルが彼女を見る。

 彼女は、何かが吹っ切れたような顔で、清々しささえ感じられた。

 その彼女が、口を開く。

「私は、私のために戦う」

 魔力が込められているような妖艶な笑みで、彼女が言う。

 ミハエルが唇の右端を上げ、微かに笑う。

「それでは行きましょう。ここからが本番です」

 彼女も、それに応えて、嬉しそうに無邪気な笑顔で返した。

 互いの、意志を賭けて。

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