4「Dark Blood To Go Blight」
唯とミハエルは、同じ部屋にいた。互いに会話をするでもなく、ぼんやりと過ごしている。
ミハエルが本部に連絡してから、一日が経っていた。
ミハエルが持ってきたその日の夕刊は、いつもと変わりなかった。
一面に先行き不透明な経済を憂う記事、二面には使えない道路に対する批判云々が大きく掲載されていた。新聞など久しぶりに読んだ唯だったが、前から何も変わっていないんだろうと思う。
そして、三面にはいつものように交通事故の記事が控えめに載っていた。二人が見ていた交通事故と、もうひとつ同じ大きさの、現場をそう離れていない場所の交通事故である。普通の人間なら見落としてしまうほど、余ったスペースをどうにかして埋めたような、ぞんざいな扱いの記事だった。
犠牲者を確認する必要はない、事件が起きた場所は前回とほぼ同じ、誰が関わっているかは明白であった。
ミハエルはただその記事を読み、表情は変えなかった。ミハエルにとってみれば、当然の結果だったのだろうが、唯はどうしてもやるせなさを拭えなかった。
結局、彼女は彼女が思うように実行をしただけだったのだ。
ミハエルは、忠告をしたわけではないが、唯は、彼女にそれがどんなに危険なことかわかってもらいたかった。それは、彼女自身、能力を使うたびに感じていたはずだったのだ。
しかし、それを簡単に乗り越えるほどの意志が彼女にはあった。
ただ、それだけなのだ。
そんなことは、唯もわかっていた。恐らく、やるだろう、と。
それでも一途の望みはあった。これで止めれば、もし止めるとするならば、二人は結論を出さなくてもいいかもしれないのだ。使節が一瞬判断に猶予を与えて、ここで止めれば見逃してくれる可能性も、ほんの一握りの砂ほどの可能性はあったのだ。
唯は、まだそんな甘い考えを、自分でも甘いと思っていながら持っていた。
自分勝手な望みは簡単に打ち砕かれた。
彼女に罪を償えと言えるだろうか。
だとしたら、彼女は何の罪を。
何の罰を。
小さく唯は自問を繰り返していた。
間接的だろうと、彼女が能力を使い人を殺していることは事実だ。
事実だが、彼女には彼女の目的があって行動をしている。そのための手段が、能力だったのだ。
その行動に、罪など必要なのだろうか。
そのことは、一つの結論を出していた。
いや、もう結論は出ていたのかもしれない。
テーブルに置かれた支給のケータイが液晶を光らせながら、安っぽい音楽のワルツを流す。
これは、結論を実行に移すための合図。
そこからは、たった一人しか連絡が来ない。その連絡も、未だ非通知のままである。
唯が通話ボタンを押す。
案の定、声は里見だった。
いつものように唯は挨拶をしようとしたが、静かに里見は、
「ミハエルと換わって」
とだけ言った。
返す言葉も見つからず、唯は無言でミハエルにケータイを渡した。
任務の伝達は常にミハエルが行う、それは二人が共に行動を始めるようになってから里見に最初に言われたことであり、それは今でも変わらない。
規則により世界は動く、使節の大前提たる言葉。
ミハエルは何も言わず、ケータイを受け取った。
「はい、換わりました」
ミハエルが里見と声を交わす。仕事の声で。
最近特にミハエルが口調を落としているのが見られた。唯は聞かなかったが、彼自身、何か問題を抱えているのだろうということはわかった。ミハエルは自分のことは何も言わない。
出会ったときから、それは何も変わってはいない。
何も、だ。
里見の過去もミハエルよりも知らない。
自分だけ、常に蚊帳の外だと唯は思った。それが自分を気遣ってのことだということもわかっていた。だから、無理に何かを言おうとは思わなかった。せっかく固めた砂の城を自分で崩してしまうような、得体の知れない不安が過ぎっていた。
「はい、従います」
ミハエルが指示了承の返事をする。声に抑揚はなく、全てを背負う声だ。
「『処分』が決定しました」
ミハエルがケータイから耳を離し、唯に振り返って一言だけ告げる。
その声は冷静で、ただ決定事項を伝えるための声だった。感情は、どこにも見当たらない。
処分。
もっと簡単に言えば、『殺す』ということ。
唯も覚悟をしていた。
それは、使節としては至極当然の結論なのである。
彼女は人間としての殻を破り、人外の能力を使い続けた。
ここから先、彼女がもう能力を使わない保証はない。使わないとしても、彼女の中にある血が目覚めてしまった以上、血は使い続けることを望むのは確実だ。
そうなれば、厄介な存在になる。
放っておけば野獣を街に放し飼いにしているのと同意だ。
だが、
「ミーちゃん」
電話を切ろうとしていたミハエルに唯が声を掛ける。
「何ですか」
「換わって」
やってはいけない事を唯は言っている。自分から連絡を欲してはいけない。それが出来るのはミハエルだけであり、ミハエルでも不必要に連絡はしない。それは唯自身が一番良くわかっている。
ミハエルは唯のじっと見つめ、刹那の沈黙の後、小さく息を吐いてケータイを耳に当てた。唯はその間中、視線を逸らすことはなかった。
どうしても、唯は、里見に聞きたいことがあった。
「唯さんが話したがっています」
小さなやり取りがミハエルと里見の間で続き、ミハエルが諦めた顔でケータイを唯に渡した。
「里見さん」
「ここからはあなたの独り言として聞くわ」
唯が里見に話し掛けるのと同時に里見が言う。里見としての結論だ。会話をしてはいけない。それが知られれば、いかに里見といえども評議会送りになりかねない。
例外を極力排除することで、規則を保つ。
それが、使節の規則。
だから、独り言として聞き流すと。
「ありがと」
小声で唯が応える。
里見からの返答はない、言うなら勝手に、ということだ。
「私は、本部の判断が間違っているとは思わない。でも、何か間違っているような気がするの、何だかわかんないけど、こんなの間違っているような気がするの」
唯の率直な気持ちだ。
「もしかしたら、もしかしたらだけど、そこまでしなくても助かる方法があるかもしれない。人間じゃなくて、世界じゃなくて、彼女を助ける方法がどこかにあるかもしれない」
透明な時間が流れる。
里見が、電話の向こうで溜息を付くのが聞こえた。
「私も独り言として言わせてもらうわ」
里見が続ける。
「それなら、代替案を言いなさい」
唯は言葉が出ない。
「『私達』が一千年かけて出した結論を覆す、あなたの代替案を言いなさい」
唯に返す言葉はない。
血に自覚してしまった彼女は最早早いか遅いかだけ、必ず人として外れ、人外に近くなる。それも理性のない獣へと。そうなってしまえば、使節は総動員をかけて処分しなければいけない。その獣のせいで何度世界が危機へと晒され、その度に幾らの血が流れたことか。
身を隠すことに長けている異種よりよほど外面的被害は酷い。
辛うじて人間の意思を持ち、まだ完全に能力を使いこなせていないだろう今なら、それほど手を煩わせずに処分出来るのだ。
唯は、何度も里見とミハエルが教えたことを思い出していた。
「もっとも、あなたの『中』にはあるのかもしれないわ。動き出した時間の歯車を逆に回す、神とも取れる方法が」
知識の集合体、闇に潜み誰とも交わらず悠久の時を研究にのみ費やしてきた血族の知識が唯の体には埋め込まれている。使節を遥かに凌駕する魔法の理論が詰め込まれている可能性もないとはいえない。
「あなたが拒否したことよ、使節員魔法士、『継承者』風見唯」
最後、里見が最も唯が言われて欲しくない言葉で締めた。
里見とて好きでこの言葉を使っているわけではないだろう。
そんなこと唯には重々承知の上だ。
「里見さんはどう思っているの」
消え入りそうな声で唯が聞く。
里見は使節の人間として当然のことを言っているに過ぎない、だから、そう返されるだろうということは、感づいていた。しかし、唯は、彼女自身はどう思っているのか、それが聞きたかった。
「従いなさい、これは命令よ」
里見が返す。
それは応えでも答えでもなかった。
「これで終わり、切るわね」
遠慮なく電話は切られ、規則的な電子音が聞こえた。
苛立った動きで唯がベッドに腰を下ろした。
苛立った理由は自分にあった。里見の言う通り、継承者の力を拒否しているのは自分のせいだ、自分の身勝手な都合のせいだ、それは世界の責任でも使節の責任でも里見の責任でもない。
何故、自分はこんなにも優遇されているはずなのに。
何故、人間一人を救う方法すら浮かばないの。
頭を抱え、纏められた髪の毛を軽く掻き毟る。ピンが外れてしまったが、全く気にしなかった。丸い瞳は、強く塞がれている。
ミハエルはその動きを静かに受け止めていた。
「どうして、彼女を殺さなくちゃいけないの」
ミハエルに唯は問い掛ける。
疑問ではなく、会話として。
二人の立場は今現状に置いては対等である。同じ、里見から命を受けた使節員として。
ミハエルは静かに語りかける。
言葉を選び、諭すようだった。
「私たちは異種だけを狩るのではない、それはユイさんも知っているはずです。彼女は人が使ってはいけない能力を使い、人が侵してはいけない領域へと足を踏み入れ、人であることを拒否した。本来ならば一度で処分されうるべきなのです」
ミハエルの言葉は正しい。
「極論を言ってしまえば、彼女は血に目覚めその能力を行使した段階から人間とは呼べなくなってしまっているのです」
これも、正しい。
人間であるかどうかの境目など元より薄ら氷のようなものだ。打ち破るのは簡単すぎる。
使節はそれを、血を自覚しているかどうかに定めた。
彼らの法に従って。
「人は人が裁く、では人でないものは誰が裁くのか」
表の人間でも、危害を及ぼした獣を害獣として処分する。それは処罰ではなく処分である。それを使節も実行しているに過ぎない。
一般の人間の及ぶ範疇ではないところで。
知っている。
全部、唯は知っていることなのだ。
「それでも、彼女には生きる権利がないっていうの?」
「生きる、権利ですか。権利はあるでしょう、だが彼女は他人の権利を剥奪した、それが誰であろうと、それならばそれなりの代償を伴うものです」
それは通常の法と同じだ。
他人に影響を及ぼすから、法は人を罰する。
使節は人として裁くのではない。
知識があろうと感情があろうと、人でない限り、使節は害獣と見なす。
だから、使節の法は甘くない。
「じゃあ、私たちは? 私たちの行動は?」
人ではないもの、場合によっては人ですらその実力を持って世界から排除する。
排除のための機関。
「私達に、殺す権利があるの?」
自分達が殺すことに何の意味があるのか。
何故、自分達は殺すのか。
唯の問いかけに、ミハエルは首を振った。
「そんなものはありません。誰にも、命を奪う権利などあるはずがないのです」
「じゃ」
「誰かがやらなくてはいけないのです。誰かがやらなければ、簡単に世界など壊れてしまう」
「どうして私達が」
「我々は既に血に汚れているのです、罪人は裁かれるその日まで、ただ他人が浴びる血を代わりに浴び続けなければいけないのです、これ以上被害者と罪人が増えないように。私達が護るのは、世界です」
ミハエルは唯に反論の余地を与えない。
間違っていないからだ。
「永遠に」
「永遠に、です」
唯の言葉に確認を押す。
「やっぱり、わからないよ」
唯が慣れていないだけか。
慣れれば、誰でも受けて入れてしまうのか。
唯は、正しいことが何なのか、わからなくなっている。
最初から、答えなどない質問に、沈み込んでいることに、自分で気が付いている。
「どうしてもと望むのであれば、この話の続きは明日にしましょう」
ミハエルはそう言い、時間が大分遅くなっていることを告げた。実際、夕食を取るには遅すぎる時間だった。
「夕食は、要りませんね」
冷蔵庫の中にレトルトの食べ物がある。外出してまで食べることはないだろう、という意味である。
「それでは、自室に戻ります」
優しげな視線を残しながら、ミハエルがドアへと向かう。
唯を気遣う瞳だ。
「私、わかりたくない」
そう言った唯の声にミハエルは何も返さず、静かにドアを閉めた。
完全な静寂が訪れる。
食べ物のことなどどうでも良かった。
唯は世の中にはどうにもならないことがあることを痛感していた。自分が美咲を救えなかったと同じように。
明日になれば、恐らく自分はミハエルと共に彼女の元へと向かう。
ただ、処分をするためだけに。
処分、そう自分で考えて唯は心底自分自身が嫌になった。
やはり、自分を正当化しようとしている部分がある。
人間を殺しに行くのだ。
それはこの世界に足を踏み入れ続けている限り、つまりは自分が生きている限り、付きまとうものだ。
独りきりになった唯は、何も考えないようにシーツに包まった。子供がどうにもならないことに駄々をこねるように、そうして自身を眠りに陥らせるしか方法がなかった。
唯に、夢は訪れなかった。
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