4「昼前 ホテル」

 ノックの音がドアを伝って響く。

「ユイさん、ユイさん起きてください」

 シーツが揺れ、何かが落ちる音がした。布を引きずる音とミハエルの溜息が交差する。

「ユイさん?」

「ふあい」

 気の抜けた返事とともにガチャガチャとドアノブを鳴らす。

「なあにミーちゃん」

 ドアの隙間から唯が顔を出す。薄手の白い毛布を背負い、毛布お化けになっている。

「もう朝です」

 ミハエルは既にスーツを着込んでいた。人前ではいつもその姿勢を崩そうとせず、唯はミハエルがスーツ以外を着ているのを見た事がなかった。

「まだ眠い」

 唯が片方に寄った髪を右手でかき混ぜながら欠伸をする。

「また夢を見ていたんですね」

 ミハエルが唯の赤く腫れた目を見て言う。

「うん……」

「わかりました。本部に連絡を取ってきますから、着替えが終わったらレストランに来て下さい」

「ありがと」

「それではまた後で」

 ミハエルが慎重にドアを閉め、その場を後にする。唯は自分の置かれている状況を確認し、毛布をベッドに向かって投げる。毛布は回転しながら頼りなくベッドに舞った。

そして、洗面台の鏡で顔を見、適当にシャワーを浴びることにした。流れる水に逆らおうと顔を上げ目を閉じると、夢の映像が鮮明に浮かび上がってくる。

口内にあの時の錆びた鉄の味が蘇り、激しい嘔吐感に襲われる。急いで左手で口を押さえ、右手で喉を締める。

 しばらくして波が去り、両手で浴槽の縁を指が白く変色するほどに強くつかむ。

「絶対、なくさない」

 唯が声に出さずに呟き、浴槽のプラスチックが軋む音で我に返った。

 力が抜け、シャワーに当たりながらその場に座り込む。髪を伝って頬に水が滴る。自分が今どれだけ涙を流しているのか唯にはわからない。

「美咲、会いたいよ」

 その声は彼女自身にも聞こえなかった。

気合を入れるため頬を手の平で叩き、簡単に着替えを済ませ、部屋を出る。

 ベッドのヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計は十時半を表示していた。

 一階レストランの手前、公衆電話の受話器を片手に会話をしているミハエルがいた。身振りや手振りを加えず、淡々と会話をしている。その姿は出張先のビジネスマンのように見える。実際、彼にとってはその程度の認識しかないのかもしれない、と唯は何となく思っていた。

「はい、ええ、そうだと思います。予想通りの可能性が高いですね。ユイさんですか? ええ、今来ました」

 ミハエルが唯に目で合図すると受話器を離した。

「サトミさんです」

 唯に受話器を交代すると、ミハエルは向こうにいます、と苦笑とともに小声でつけたしてレストランへ入っていた。

 唯が、不安げに受話器を耳に当てる。

 受話器からはどこかの行き先を告げるアナウンスと沢山の人々の喧騒が遥か遠くに聞こえた。

「はい、唯ですけ……」

『ゆーいーちゃん!』

 聞き慣れた声が唯の挨拶を遮って、受話器から流れる。

『あんたまた弾無駄使いしたんだって? ミハエルが言っていたわよ!』

「ううー」

『ううーじゃないわよ全く、あんたは私に小言言われるだけかもしれないけれどね、そのあと上から怒られるのは私なんだから!』

 あまりに普段のことで電話口でさえ彼女が腰に手を当てている様子が唯の目に浮かぶ。

「やっぱり」

『やっぱり? わかっているならあんまりそういうことしないでくれる? 私はあなたのためを思って言っているのよ』

『あなたのため』が口癖の彼女は別段怒っているわけではない。これがいつもの口調なのである。

『上からいつも何て言われていると思う? あんたはそれでなくても貴重なんだから』

「ミーちゃんと同じこと言う……」

『自覚しているなら少しは抑えなさい。ミハエルに迷惑かけるのもなし』

 今の台詞を一呼吸で言ったサトミは、それを取り戻すために電話の先で大きな溜息がした。自分の周りにいる人間は、溜息が少し多いな、と唯は理解していたが、特に直そうという意識はない。

『わかったわね、それにしても』

「今、どこ?」

 唯が、サトミが疲れるまで彼女の愚痴が繰り返し再生のように続きそうなので話題を変えようとする。

『私? 今空港』

「空港? 愛ちゃん飛行機苦手なんじゃ」

『名前で呼ばないでって言っているでしょ、それに私はあんたの上司なんだからね!』

 電話越しの女性、里見愛は、理由は明かしていないが名前で呼ばれるのを酷く嫌う。性格と名前が一致していないからかもしれない。

 連絡員としての里見は、普段は方々を駆け回って、戦闘を担当する使節員と情報部、もしくは現場との仲介役を担っている。だが今は、優先度から唯とミハエル中心の上司となっている。

『さすがにローマから日本に来るにはこれしか方法がないんだもの、しょうがないわよ』

「あ、里見さん日本に来てるの?」

『日本語を話せるメンバーが少ないからね、臨時で連絡員の私にも直々に命令が来たわけ』

 唯が里見の言葉を聞いて首を傾げる。

日本が管轄に入っていない使節にとって、日本語が話せる人間は少ない。その中でも流暢に日本語を扱える人間となると、元々日本人の唯と里見、それに何故か日本びいきのミハエルくらいだ。だから里見の言っていることに間違いはないだろうが、使節がそのような決定を下すとは思えなかった。彼女は、あくまで連絡員なのである。

「そうなんだ、で、いつ一緒になるの?」

『ん、今のところは合流予定はないわね、しばらくはミハエルと二人で動いていなさい』

「じゃあ里見さんは?」

『事後処理の一端みたいなものよ。そっちが片づいた後くらいに合流できそう。それじゃ私の方は終わり』

「えー、うん」

 何か腑に落ちない所はあるが、一応上司である里見にこれ以上聞くことは出来ないので唯は素直に諦めることにした。

『それと、あんたがそういう態度を取っていることに対して否定はしないけど、『使うとき』は必ず来るんだからね』

「うん、わかってるよ」

『良い子ね。次会ったら撫でてあげる、それじゃね』

里見が妙に優しく言葉を締め、一方的に電話を切る。唯が受話器越しに意味もなくむくれてみせた。複雑な気持ちになりながらも、唯はミハエルの待つレストランへと足を向けた。

 一階のフロアを流用した豪華ではない、軽食もコーヒーも料理も扱うレストランだ。

 遅い時間のためか客は疎らで、ウェイターが暇そうに外を眺めていた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「サトミさんは何て言っていましたか?」

 ミハエルが読みかけの新聞を畳む。単なる趣味の範囲を超越して、ミハエルは日本に詳しい。訪日は三度目だという。

ミハエルは、珍しく銀縁の眼鏡を掛けていた。年寄りくさい、と唯は思ったが、それはそれで似合ってしまうのがミハエルの不思議さだ。

「うんと、まあ愚痴とか」

「そうでしょうね」

 ばつが悪そうな表情の唯に、ミハエルが微笑を浮かべカップに口をつける。

「ミーちゃん、その取り合わせ変だよ」

「そうですか? やはり朝はご飯だと」

 器用に箸を使ってご飯をすくう。

「……そういうことじゃなくて、コーヒー」

 ミハエルはご飯、味噌汁、焼き魚にコーヒーという組み合わせで食事を取っていた。

「サトミさんに日本では学校の食事に、ライスに飲み物としてミルクが出ると聞きましたが」

「え、あ、うん、言われてみれば確かにそうなんだけど……」

 大真面目の表情のミハエルに返す言葉をなくした唯が口ごもる。

「ユイさんも食事にして下さい」

 唯がミハエルの正面に腰を掛け、近づいてきたウェイターにトーストを注文する。

 間もなくやってきたサラダとセットになったトーストに噛りつく。

「本部に依頼してこの町について調べてもらいました」

 唐突のミハエルの言葉に唯は頬一杯にトーストを押し込みながら目を丸くする。

「少し疑問に思ったことがありましてね。まったく面白いことがわかりましたよ」

「面白いこと?」

 唯がトーストを詰まらせそうになりながら苦いコーヒーを喉に流し込む。三分の一を飲み切って、砂糖の袋を破った。

乾き始めた髪にピンをしてこなかったので、左の前髪がぴょこんとはねた。何度か面倒くさそうに左手で抑えるが、手を離す度に髪は癖を取り戻して反り返る。

「簡潔に言うとですね、ここは『ヒトでないもの』が集まった町なんです」

「え?」

 慌てた唯がフォークからサラダを落とす。

 レポートを読むように、ミハエルが空で言葉を続ける。

「その昔、人々、つまり私達のような存在に追われたものが、自らの居場所を得るためにこの土地に逃げ込み町を築いたようです。ユイさんは気がついていなかったかもしれませんが、この町の住人には彼らの血が雑じった人達が相当数います」

「気にしてなかったけど、なら……」

「ええ、昨日の少女も納得が行きます」

 二人が出会った少女は、限りなくヒトでないものに近い存在であった。

 元々人外の血が雑じっていることは珍しいことではない。それは外見上での系統が近いヒトとそうでないものが交わったまさに異種交配の結果である。現実として血が雑じっていようがいまいが、普段の生活に影響はない。が、薄くなるはずの血統は、極稀にその血を強く受け継ぎ、ヒトにはない能力を手にする混血を産み出すことがある。

運動能力、寿命、回復力、全てがヒトという枠から逸脱する。

「そう……」

 使節が呼ぶところの特殊な能力を持つこの『穢れた血』の持ち主である人間達を集め、純血種の異種を狩ろうとしているのが使節と対立をしている『組織』である。

 だから、スタートの手法から使節と組織は相反しているのだ。反目しあうのは当然の結果と言える。

「それは昔話として伝えられている程度ですが、その過程でもう一つわかった事がありました」

 唯がレタスを頬張る。新鮮なそれは、口の中で小気味の良い音を響かせた。

「どうもこの町には別個で動いているものがあるらしいのです」

「ベッコ?」

「はい、ここは組織の管轄とは別なエリアに属しているようです」

「でも日本には他に有力な団体はないって聞いてるよ?」

「もちろん集団としてまとまっているのは組織だけですが、古くからそういった事を生業にしていたものはいるのです。皮肉な事に、逃げた異種が生活を成り立たせるために別の異種を狩ることを仕事としたのですよ」

 ミハエルはそう言ったが、異種というは便宜上人間達がつけた『人以外の人によく似た種』の総称であるから、異種同士に仲間意識があるというわけでもない。それぞれが少数民族、という雰囲気が近いかもしれない。時には、『食料』を巡って争いをすることもあるらしいが、純血の異種同士が偶然に接触する機会は少ないとされている。

 ミハエルがコーヒーに手を伸ばし喉を潤す。

「それで?」

 上目使いで唯がミハエルを見た。右頬は膨れ、中でトーストを咀嚼している様子がわかる。

「狩り手は現在一家族だけだそうです。その家がありながら、本来管轄外の使節に漏れる程事件を放って置くという事は」

「血に負けたんだね」

「その可能性が高いですね。組織が出張って来ない理由はわかりませんが」

「どうするの?」

「確認も兼ねて、そこに行ってみましょう。夕方になってからの方がいいですね。場合によっては即時交戦もありえますので、装備の方お願いします」

「りょーかい。整備しておく」

 最後のトマトを口に運び、唯がオレンジジュースを追加で注文する。ミハエルは相変わらずコーヒーを飲みながらご飯を食べていた。

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