“蒼”の心理都市奇譚//性転換した奴が犯人だ

@ZEP

「トランスセクシャルは恋の夢を見るか」

 これは貴方に贈る恋文です。

 あるいは私が人生に残した余白、とでもいいましょうか。人生を一つの物語だと俯瞰すれば、間違いなくカットされてしまうような、本質的には無意味な想いを欄外に綴ったものです。

 明日私は死ぬかもしれません。

 もしかすると、生き残るかもしれません。

 生きるべきか、死ぬべきか。

 私の青春はいわばそれだけがテーマでした。

 戦争という時代がそうさせました。有事の際に決して逃げる訳にはいかない、この身に打ち込まれた社会の楔もまた理由の一つです。

 私の人生に架かる物語が、私の意志を一切介することなく、そんな陳腐なものに決定させられてしまったことに、私なりに葛藤と、己を取り囲む社会に対するルサンチマンが生じたことは言うまでもありません。

 ですが、そのことについてはここでは語りません。それは物語の本筋であり、逆説的にここでは語るまでもないことだからです。

 ここに綴られる想いは、そうした戦争だとか、社会だとか、人の生き死にだとか、そういうものは一切関係ないのです。

 何もかもから乖離したところにある、純粋な恋の話なのです……



(トランスセクシャルは恋の夢を見るか)


 1.とりあえず探偵。そして事件も引っ付いてくる。


 ユウ・ワンの油にまみれた麺をすすっていると、隣のカウンター席に同業者が座った。小柄な身体に、茶色がかったショートヘア。彼女は抑揚のない声で一番安いメニューを注文した。「色々薄め」というフレーズを忘れずに。

 葵は特に反応もせず、実体を伴う形で、油で加工された肉を頬張った。

「前から思ってたけど、アンタを捕まえるのって本当に楽よね」

 同業者たる彼女は淡々と言いながら、経典手帳を覗いては、何やらげっそりとした顔をしている。帝都に張り巡らされた純情報網状帯ネットワーク “シキ”に祈り、ユウ・ワンの中華麺の栄養表示を手に入れたに違いない。実体を持つ者としては、まぁ気になるところなのだろう。


「……知ってる? 同じ店にしか行かない人って、あまりよろしくない精神傾向があるらしいよ」

「実体ある現実を以てして精神を測るのはちょいと前時代的だと僕ぁ思うがね――僕はこの店が好きなんだ」

 と言って葵はどんぶりより顔を上げ、ユウ・ワンの従業員を呼んで「細麺、替え玉」と告げた。ユウ・ワンの従業員は亜細亜人らしい妙な発音で「あかーりあした」と言って注文を承ってくれる。

「で、“紅の探偵”さんがどうしてここに?」

「実体的な場で、そういう意識的な名前を出してこないで欲しいな“蒼の探偵”さん。偽五芒星事件での雄名は帝都中に轟いているみたいで結構、結構、ってとこ?」

 意趣返しと言わんばかりに仕事についてのあれこれを出され、“蒼の探偵”こと葵は「うへ」と声を漏らす。それに対し“紅の探偵”こと桜院巴菜はというと、悪戯っぽく微笑んでいた。嫌味の押収というよりは、長い付き合い故のじゃれ合いである。

「で、何しに来たんだよ、巴菜。それに僕を探してるなら手帳で呼べばよかっただろ?」

「だって私が呼んだらアンタ逃げるじゃない。面倒くさがって」

 巴菜はやってきた中華麺をすすりつつそう答えた。色々気にしていた割に存外旨そうに食べている。ようやく少女から抜け出したばかりの、しかもその実結構良い家柄の彼女が、こんな場末の油塗れの店にいることは、ともすると変な絵面だろう。昔、帝都に葵を追いかけてやってきた頃に比べて、何とタフになったことか、と葵は妙に感慨深いものを感じた。

 まぁ仕方がない。探偵なんてやっていれば、誰しもがそうなる。特に実体な面では。

「で、要件だけど仕事の話よ。割の良さげな事件あるんだけど、やらない?」

 ……そして話の振り方も前置きがなくなってコンパクトになる。葵もまた替え玉の面を受け取りながら、二人並んで麺をすすり出す。

「仕事ね。同業者、それもライバル中のライバルから仕事の斡旋ってのも情けない話だけど」

「何を今更。私なしじゃアンタ生きていけない癖に」

 そう言って巴菜は、ずい、と顔を近づけてくる。

「大体アンタね、生活能力と経済能力が欠如してるっての。事件の終わりに出てきてパッーと解決編やってそれで役目は終わり――なんてのは実体的じゃないの。仕事としてやる以上、経費は落ちるのかとか、依頼主が犯人だった場合に誰が払ってくれるのかとか、色々とやっておくべきことがあるでしょう。そういうのがないから何時まで経ってもこんな中華そば食べてるの。全く最近はアンタのとこにも食い扶持増えたでしょうに……」

前言撤回、まだまだ話は長い、と葵は胸中で呟いた。

「分かった。分かったから。僕はお前のお蔭で生活してるよ――で、事件ってのは?」

 なだめるように言う葵を巴菜は不機嫌そうに見つめた後、

「転性の捜索」

 一言そう告げた。^

「トランス・セクシャル? 飛翔的転生業者の摘発とかそういうのか?」

「違うわ。そういうのは私たちじゃなくて、実体憲兵の出番でしょ」

「んじゃ何さ」

「端的に言うとね。死人の墓荒らしなの。センチな感じのね。死人の恋文が誰当てたものだったかを知りたいって依頼」

――この中に性別を変えた者がいる。そいつが犯人って訳。

 巴菜はそう告げたのち、再びどんぶりに向き合った。


 帝都の空は何時も曇っている。しかし、決して暗くはない。

 何故なら空は純情報網状帯ネットワーク“シキ”から漏れ出してきた実体雑音に塗れているからだ。帝都をすっぽりと覆う形で張り巡らされた蜘蛛懸糸が、膨大な純情報の奔流によりどろどろに発光。結果として極域さながらのオーロラを天に浮かべている。帝都の空は雲でなく、蜘蛛の糸によってぐるぐる巻きにされている訳である。この為、帝都は外から見るとドーム状の都市に見えるという。


 帝都のこの造りは世界的には別に珍しいものではなかった。伯林ベルリンでも、巴里パリでも、倫敦ロンドンでも、きっと似たような空が拝めることだろう。心理工学機関の完成によって、都市構造はポリス時代のそれまで退化したといえるだろう。

『渦中の人物は山本源一郎。大正元年生まれで、先の亜細亜戦線にて戦死。享年二十三歳。死亡時の階級は少尉。先代も陸軍士官っていう、まぁそういう家の出身ね』 

 今夜も不気味に溶けた空の下、葵と巴菜は並んで街を歩いていた。数年前より帝都にも実体として顔を出すようになった擬似霊素車が、今日も盛んに行きかっている。まき散らされる第五元素に顔をしかめながら、色とりどりの空とは対照的に灰色一色な帝都の街を歩く。


『彼の死についての処理は既にもう終わっていて、そこで私たちが介入する余地はなかった。んだけど、最近になって出てきたある遺品が事の発端になったとか』

『最近になって出てきたって、どういうことだ』

『戦地で見つかったのよ。大陸の方でさ――で、それが恋文だったって訳』

 道中、巴菜が持ってきた“仕事”についての情報を整理する。それらのやり取りは声などという実体的なものは介さない。経典式手帳の有線通信を介した半意識的なコミュニケーションだ。探偵として、こういった情報の取り扱いは慎重を期さねばならない。今すれちがった実体祈願者と思しき黒衣の僧侶やら、意識魔術師御用達の電機ショップ“大極”の店番やら、一欠片の情報から国家転覆を狙うような輩が溢れているのが今の帝都だ。まぁここは全ての中心たる新宿なので、混沌の権化たる秋葉原や中野に比べればマシなのだが。

『恋文ねぇ……そっとしておいてやればいいものを』

『そういう感傷ないし干渉は私たちの領分じゃない。ま、それに今回はそう暗い話じゃないみたいよ』

『暗い話じゃないって?』

『遺産がらみとか、想い人の相手を亡き者にしてやろうとか、そういうのじゃないってこと』

『何故断言できる?』

『故・山本源一郎氏の葬儀も、その相続に関する手続きももう数年前に片がついていて、実体的にも、社会的にも彼はもうきちんと死んでるって訳。今更恋文一つでひっくり返る筈もない。それでもなお、故人のセンチな部分に踏み込むってことはさ』

『依頼人の心の中の、意識的な山本氏についての問題ってことか』

 依頼人が誰か、というかはわざわざ聞く気はないが、なるほどこの依頼が“知ること”で完結していることは理解できた。“知った”上で利益を得ようだとか、公表して何かにつなげようだとか、そういう繋がりのない、ただ“知りたい”という意識的な動機を以てやってきた依頼な訳だ。もっと言うなら感傷的な依頼。

 それは分かった。が、だからといって暗い結末を迎えない訳じゃないだろう、という言葉を葵は敢えて口には出さなかった。戦火の下で散った故人が遺した、ささやかな恋文。それに関する顛末が綺麗なものであって欲しい、という巴菜の想いもまた理解できたからだ。そうでない可能性も十分にあり得るとしても。

『で、ここから本題だけども――その宛名が書いてなかったのよ、その手紙』

 巴菜は語るように、書いた。手帳の有線通信は科学小説でいうところのテレパスに感覚としては近い。思考が混信するのである。

『これはたぶん故意ね。わざと、誰当てのものか分からなくしていた。宛先を知っているのは自分だけで、その自分が死ねば絶対に相手には届かない。そういう状況を演出して、それで死んでしまった。だからこの手紙に綴られた想いは、そこにあるべき名前を決定的に欠いたまま、未完に終わっている……』

『それをわざわざ掘り出して完成させるのか。そりゃ蛇足ってもんだぜ』

 巴菜の情緒的な文言にぴしゃりと冷や水浴びせかけるようなことを、葵は言った。できるだけ偽悪的に。

『ま、未完の名作に、どうしようもない結末をこしらえるのが探偵の仕事といえば仕事だが』

探偵は結末を選べない。選べないが、探偵は結末を齎すものだ。それがどんなものであろうとも、終わりを受け入れない探偵に価値はない。

『……話を続けるわよ。で、宛名が書かれていなかった恋文な訳だけども、故人と親しかった依頼主は、直接的な名前こそ書かれていなくとも、その内容から大体の容疑者を絞り込んだって訳。まず第一に“故人と実体を持って接触していたこと”、第二に“会った当時に異性であったこと”』

 全くもって冗談みたいな前提だが、今の社会では結構な縛りなのだ。特にこの帝都では。

『第三に“実体年齢は二十歳前後”、第四に“源一郎のことをある仇名で呼んでいたこと”』

『仇名?』

『そう。手紙にあるのよ。“君は何時も私のことを「弦」と呼んでくれたね。どうしようもなく男性的な名に、情緒的で美しい字を当ててくれて”って文言が』

『だから、そういう風に呼んでいた人間ってことか』

 ただの短縮形ならいざ知らず、当て字まで決まっていたとなれば、手帳のログかなんかを漁る権限のある者なら、確かに特定はできるかもしれない。

『それで依頼人が、たぶんこの人たちの中の誰かだって、ことで挙げてきた人間が三人いるんだけどね』

『最初の時点で三人とはまた楽なもんだ』

 選択肢が少ないのは、探偵として良し悪しでもあるのだが。

『うんでもね――三人とも今は男なのよ』

 巴菜は告げた。

『もちろん実体でね。ついてるってこと。棒と玉がさ』

 その声に特に恥ずかしがるような様子は見えなかった。全くタフになったもんだ。悲しいほどに。

『で、最初の前提と矛盾するってことか』

 前提二、犯人は故人とは異性である。この部分が矛盾する。

『だから――最初の話に戻るのか。実体的に転性した者はいないかって』

『そう、指定する三人の男の中から、元は女だった奴を見つけて欲しいっていうのが、私に舞い込んできた依頼。桜院の家と、山本の家はまぁちょっと交流があってね。帝都の“紅の探偵”に是非――ってことで来ちゃった訳よ』

『コネクションは大事だってことだ』

 書くと、巴菜は笑うように、

『そう。アンタと私みたいにね。で――ウチ経由の依頼だから報酬の方も』

 途端、経典手帳に数字が表示される。この上なく実体的で、現実的な、お金の話だ。それを見て葵は小さく口笛を吹いた。

『悪くない』

『でしょ? で受ける? 受けるわよね。私と貴方の連名ってことならお金は綺麗に貰えるわ。依頼人には協力者を募るかも――とは言ったし』

 綺麗でないお金の貰い方、というのも探偵にはよくある話だった。

『受ける受けないも……これだけ事件の内情について知らされちゃ受けるしかないだろう』

 それを知っていて、かつ葵が絶対に断らないことを知った上で、事務所に行くまでに巴菜はこれだけの語ったのだろう。付き合いが長いが故の、手順のスキップという奴だ。本当はよろしくないことなのだろうが。

 とにかく、葵が帝都新宿二丁目“蒼の探偵”事務所に帰還する頃には、探偵が手にするべき“事件”と“命題”を手に入れていたのであった。これがなくては、何も始まらないし、何も終わらない。


2.三人の容疑者と、絶対に正しいこと


 事務所といっても、あるものはソファとデスクとコーヒーメーカーのみという、とにかく座って待つこと以外に何もできないがらんとした空間である。古き良き捜査会議用のホワイトボードや書類をまとめる棚等の小道具は帝都の探偵事務所からは姿を消している。“シキ”による都市網状帯が実用化されて以来、帝都では事務的な意味での紙の意義は完全に消えた。結果実体な事務所は、そこに存在する、ということが最大にして唯一の意義となっている。

 ちなみにこの事務所は扉一つ隔てて1kのマンションと連結された造りになっており、そちらが葵の住いである。“蒼の探偵”の城と葵の住居は、実体的には同じものと言える。

「……ただいま、ナイン」

 そんな城に帰還した葵は、同居人に声をかけた。事務所のソファに無言で座る彼ないし彼女は振り返りもしなかったが、葵は満足気に微笑んだ。こくり、と僅かに顔が動いているのが見えたからだ。

 ナイン、と呼ばれた彼ないし彼女は、今日は実体祈願者が羽織るようなゆらりとしたローブを身に纏っている。ゆらりとした布生地が身体のラインを隠しつつも、同時にところどころ出ている部分は強調し、結果として、その下に何も身に着けていないであろうことが見て取れる。ともすれば性的な外観だが、ナインほどその言葉が似合わない者もいないだろう。草原を駆け抜ける風を思わせる翠色の髪。真っ白できめ細やかな肌。水晶のような無垢で、そしてどこか凛々しい瞳。ユニセックスという言葉が形になったかのような、そんな外見だ。

 ナイン。ある事件をきっかけに葵と同居するようになった“蒼の探偵”の助手である。

 信用できる語り手、とかつての発見者はナインを指してそう呼んだ。

「……この娘、元気なの?」

 視線を泳がせつつ、巴菜はナインについて尋ねてきた。彼女は彼ないし彼女に対し、内心複雑な想いがあるらしい。

「意識的には元気だよ」

 が、葵はそんな想いを敢えて汲み取らず、探偵用のデスクに座りながら、淡々と語った。

「…………」

 巴菜はナインを意識しつつも無視する形で向かいのベッドに座った。結果事務室は葵、巴菜、ナインで三角形を描く形で座ることになる。

「それで」

 しばしの沈黙ののち、巴菜がどこか気まずそうに口を開いた。

「――それで捜査の方法についてだけど」

「方法も何も一つしかないだろう? 聞き込みだよ」

 依頼の事情は色々込み合ってはいるが、今回の調査は要するに素行調査だ。三人の事情を探り、転性した痕跡を調べ上げる。

「うん、まぁそうなんだけど、二人で手分けしてやるか、一緒にやるか、そういうことも考えないと」

「手分けしてやればいいよ。仕事なんか早く終わらせてしまいたい」

 言いつつ葵は経典式手帳をめくった。

『調査対象のデータを送るわ』

 そこには思った通り巴菜からの情報が既にあった。巴菜と捜査の算段を話しつつ、葵はそれを読み込んでいく。

『対象一:辰巳薫/字:巽アリア。

 年齢は二十三歳。帝都で活躍中の画家。巴里式の“意識の高次元コネクト”をいち早く取り入れた斬新かつ鮮烈な画風で“シキ”内で一躍有名となる。ケルト魔術にも傾倒し、ルーン言語を使い、“シキ”内で動作する擬似妖精を再現した経験も有り。

 その性格は奇矯かつ奔放。巴里および帝都に存在する彼のアトリエは、構造が三の三百三十三乗のパターンに三十三秒ごとに変化する魔術が施されており、彼はこの構造の変化を見てその日の朝食を決める、と発言している(※1)

 活躍の場が意識の方に集中しているのもあり、彼の実体は滅多に表舞台に姿を見せない。最後に確認されたのは六年前、帝都の画壇を二分した“浪漫画”事件の際である。この際、彼は“実体画の限界を語る”浪漫派と共に行動しており、のちの作風にも繋がっていると考えられている(※2)

 女性関係についても奔放であり、“シキ”内では彼と交際したというゴシップが真偽問わずここ数年だけで百件は見ることができる。カストリ雑誌を開けば一人はアリアの女がいる、などと揶揄されたこともある。

 故・山本源一郎氏とは少年時代に会っている。共に千葉に親類を持つ山本家と交流があった。辰巳こそ画家だが彼の家系は元々軍人を多く輩出する家系であり、そこで縁があったと思われる。当時の彼の性格を物語る情報は少ないが、いわく“竹馬の友”であったとか。(※3)

 社会的には当然、転性したなどという情報はない。が、実体がどうなっているのかは公的には全くアナウンスされておらず、調査の必要ありと思われている。

出典:

(※1)帝都絵画旬報佰伍号のインタビュー

(※2)意識画評論家ロバート・アベンゼンの記事

(※3)依頼人からの情報』

 芸術家かねぇ、と葵はぼやく。一般市民でない有名人の調査ということで、この案件は少し難易度が上がった。

「彼の場合、ここ数年の言動に関しては情報を手に入れるのは簡単だと思う。ただまぁ転性したか否かは」

「実体についての情報がないので苦労必死、か」

 面倒だ、と思いつつも葵は次の資料をめくった。

『対象二:金井恭二郎。/字ラットホー。

 年齢は二十三歳、学生。帝都大学神学部第三神理学科で学業に励んでいる。研究分野は易経をモチーフにした“シキ”の実体的見地からの定義。(※1)

 故・山本源一郎とは帝都高等学校での学友。趣味の文芸を経て交友が始まる。軍人肌だが文人方向にも資質があった山本のことを、恭二郎はひどく慕っていたらしい。

(※1)帝都大学電算手帳より』

 先の薫氏に比べると、随分と情報が少なかった。有名人と一般市民の違いだ。とはいえ彼の場合、身元はしっかりと分かっているので接触自体はそう難しくはないだろう。

 問題は次の彼だった。

『対象三:。李冰/字---.

 十年ほど前まで山本家に仕えていた使用人の息子。源一郎とは仲が良かったとか。

 現在の足取りは不明。未確認情報だが、数年前に帝都の違法実体整形に手を出したとか』

 ほとんど不明、である。実体、意識、双方で不明となると、もはや帝都の探偵の捜査能力では捕捉するのは不可能に近い。これは頭が痛かった。都市網状帯がない海外に飛ばれていたら手の出しようがなかった。

「ま、何も本人を見つける必要はないわ。彼がかつて転性したかどうか。その記録さえ見つければいい」

 こちらの心中を察したかのように巴菜が言った。まぁ確かにそうだ。何も挙げた人間を検挙する必要がない以上、数年前に帝都にいたという“過去の李冰”を捜査すればいい。それ以上のこと――帝都の外のことは残念ながら領分ではないと割り切ることになる。

「公的な経歴には全員転性したなんて記録はない」

「となると非公的な技術を使った訳か」

「そういうこと。まぁ実体で会えれば一発で分かるような気もするけど」

 見知らぬ人間と実体を持って会うことは、この帝都においては敷居が高い。“シキ”内で何時でもすぐに会えてしまうからこそ、実体で会うことを要求する者を警戒するのだ。

「見るに対象一、対象三が面倒臭そうだな。逆に二は簡単そうだ」

「そうね。とりあえず手分けするなら私とアンタのどっちかが対象一を、もう一方が対象二、三を調べる形にしましょう」

「了解した。期間は一か月ということだが、これは巴菜が依頼を受けてから、ということだな?」

「ええ、だから実質残り時間は三週間程度。ま、実体な時間なんて誤魔化しが効くものだけど」

 二人で話を進めつつ、頷いた。何度も仕事した仲だけあって、非常にスムーズに話は進む。

「それで葵は誰を調べる?」

 葵は少し考えた。芸術家に学生に、正体不明の中国人。“蒼の探偵”として赴くべきは――

「――芸術家を僕が調べるよ」

 葵は言った。

「ふうん了解。じゃあ私が金井恭二郎と例の中国人ね。李冰に関しては手伝ってもらうかもしれないけど」

「了解だ。こちらとしても早めに片づけてそっちを援護したい」

「連絡方法は」

「いつも実体番号で。間違っても“シキ”は経由しないで」

「分かってる」

 会話を交わしたのち、巴菜はソファを立った。仕事となると動きは早い。葵と、そしてナインを交互に一瞥したのち、「じゃ」と言って彼女は出ていく。

「…………」

 ナインが、僅かに瞳をぴくりとさせていたが、彼女はきっとそのことに気づいてはいないだろう。葵は無言でコーヒーを入れて、飲んだ。やりたくもない仕事の始まりだった。カップを置いたのち、彼は経典手帳を開く。

そして、祈りを奉げた。

 瞬間、過去の記憶がフラッシュバック。見覚えのある過去と見える筈のない未来が交互に炸裂する。その後、案内に従って“シキ”へと彼は同化した。

――切り替わる。

 葵という人間持つ実体な部分、肉体だったり服装だったり名前だったり、そうしたものは全て消え去り、純粋な意識が抽出され、表現される。心理エンジン“シキ”によって、帝都でも可能になった、意識と意識が作り上げる網状帯に飛び込むのだ。


 葵という名は消え去り、代わりに字という新たな殻が形成される。葵でなく、アオイとして自我が押し込まれ、表現される。葵なる者の代わりに、蒼いロングコートに、顔を隠す蒼いハット、それから如何にもなパイプ、を備えた“蒼の探偵”が現れるのだ。

 “シキ”における“蒼の探偵”事務所は、先月より海中をイメージした意匠になっている。透き通る水の色がきらめき、色鮮やかな魚が部屋を縦横無尽に泳いでいる。まぁ変なプラグインは使用していないので、慎ましやかな方だと思う。

「アオイ。アオイ。アオイ」

 祈りを終えたアオイに呼びかける声がある。彼ないし彼女は溌剌と笑いながら、

「またお仕事に来たんですね。結構です、結構です、結構です。私は待っていました。うん、本当に」

 そう言って、くるり、と上機嫌そうに回った。髪が揺れると同時に赤、青、黄、緑、と様々な色彩の花がその周りに咲き、そして散っていった。デザインの一種だろう。

「ナイン君。大切なことは一回だけ言えばいいのだよ」

「うん、分かりました。なるほど。そうすればよかったのですねですね」

 そう言って“シキ”におけるナインは、ニッ、と笑う。天真爛漫を絵に描いたような、見る者を微笑ましくさせる笑みだった。

 ナインの姿カタチは帝都におけるそれとなんら変わりはない。白くきめ細やかな肌に、美しい瞳。身体をすっぽりと覆うローブ。違うのはその髪で、虹色のグラデーションが施されたその髪は一秒ごとにその色彩が変化している。

「それで、今回の事件はどうするの?」

が、それ以上に実体の方と違うのは、その感情の現れ方だろう。ともすれば人形のようにしか見えなかった実体と違い、意識の方のナインは非常に感情豊かなで、かつ女性的だ。顔や身体つきは変わらないのに、くるりくるりと舞うその姿を見て少女と思わない者はいないだろう。

「聞き込み。それだけだよ」

そんな少女たる語り部に対し、アオイは気障ったらしく言った。フッ、と小さく笑うことも忘れずに。アオイでなく葵――帝都にいる方の自分であるならば、素面では絶対にできないであろう振る舞いだな、とアオイは内心で思う。

「私のやり方は実体的に巴菜と会話した時に説明しただろう? それが全てだよ。私はどんな私であろうとも嘘は言わない」

「嘘ばっかりです。それ自体嘘です。うん、嘘嘘嘘」

 けらけらとナインは笑って、とん、とジャンプしてそのまま天井まで浮かび上がった。水の中だからそれくらいは当然のようにできる――と思うことができる。

「まずは辰巳薫とやらに接触するさ。有名人で芸術家ってのは頭が痛いがね。何といっても自分が世界の中心だと思ってる輩だよ」

「ねえ知ってる? アオイ。ホーソンって人が書いた“アンドロイド”の話。ほら“イナゴ”を書いた人ですよ」

 不意にナインがそんなことを言い出した。全く脈絡のない言葉だが、ナインにはよくあることだ。それで、同時にナインが本当に脈絡がないことを言わないと知っているアオイは、思わず耳をそばだてる。

「あれみたいですよね、今回の事件」

「ふむ」

「人間そっくり、なアンドロイドを求めて主人公が奔走する話な訳ですけど、今回の構造はそれと同じ。出会った人がアンドロイドかどうか探し回るのが、今度は出会った人が転性かどうかを調べて回る話になっているって訳」

 つまりアオイはブレードランナー、とナインは言った。

「でもどうやってアオイは相手が転性か調べるの? フォークトカンプフ法でも使うのかな?」

「実体の方を見れば一発……ってのはまぁ無理として、そうでなければまず聞くだけだ。“シキ”の方で話してみて、確信を持てれば非合法な手を使ってでも裏を取る。今回は別に相手を逮捕するとか、そういうことが必要ないからな。ま、とりあえず出たとこ勝負ってことさ」

「つまりノープランってことだね」

「今回は調査対象が少ないのだ。このくらいで何とかなるさ」

「わおプロフェッショナル、プロ、フェッショナル。すごいです」

 ナインはそう呟きながら、また天井からゆっくりとアオイの前まで降りてきた。虹色の髪が水の中でゆらめくように舞う。

「じゃあ、色々探りにいくに当たって、絶対に正しいことを言うね」

 そうして今度はアオイを見上げる形になって、ナインは告げる。

「まず――前提は絶対に覆らない。巴菜が君に告げた“依頼人の前提”覚えてます?」

 それを話している場にはナインはいなかった筈だが、当然のようにそのことについて触れている。経典手帳のログを漁ったのだろう。ナインのような真魔術師ならばその程度のことは鼻歌交じりでやってのける。

「前提かね。ああ覚えているとも」

 アオイは鷹揚に答える。こちらの自分は会話を覗き見られた程度で騒がない。

――前提一“故人と実体を持って接触していたこと”、前提二に“会った当時に異性であったこと”、前提三“実体年齢は二十歳前後”、前提四に“源一郎のことをある仇名で呼んでいたこと”

 アオイがつらつらと語ると、ナインは「うん!」と大きく頷いた。

「そうです。それは絶対に、正しい。今回アオイが探すべき人は、必ずそれらを満たしている」

「ふむん」

 なるほど覚えておくとしよう。ナインの言葉は絶対に正しいのだ。

「次に、君が探すべき人間の名を、アオイはもう知っています。今後知らない人が出てくるなんてことはこの依頼に限ってはない」

「そいつは重畳」

 言いながら、アオイは捜査の算段を立て始める。事件と容疑者と前提が揃ったところで、あとは探偵が動くだけとなった。


3.一人目の転性疑惑者


 転性などという技術が確立されたのはここ百年程度のことだ。端を発したのは産業革命だ。西洋で最初の心理エンジン“ユガ”が発明され、その結果として生まれた純情報空間は、人間を肉の塊から解脱させることに成功した。

 数世紀前に“肉体は魂の入れ物に過ぎない”などと言った哲学者もいたが、そうした理念的な面でさえ、革命以前の人間は実体を捨てることができなかった。松果体が魂との接続部であればもっと論は簡単なものであっただろう。

 ともあれ人間が“祈り”なる動作により意識をひっぺがえすことに成功し、非物質的な都市の形成に成功したことは、各方面にブレイクスルーをもたらした。意識に関する部分だけでなく、演算、実験に物質的な制約がなくなった結果、物質的な工学方面も多大な進歩を迎えたことは非常に逆説的な展開と言えよう。転性もまた、こうした潮流の最中に生まれえた技術である。意識の革命が、実体的な革命をもたらしたのだ。

 そして――そうした面とはまた別に多大な影響を受けた分野がある。

 芸術だ。

「なんですの、私に用って」

 薫氏が元々女であったか、生まれた時からずっと男であったか、その調査に乗り出したアオイを迎えたのは――非の打ちどころのない少女の姿であった。

 少女のカタチをした――彼は、すみれのようだった。

 愛らしく大きな瞳は赤と紫の狭間を揺れるような、どこか儚い色彩をしていた。陶器のような肌はところどころ紅潮して、それがまた可憐だ。十代半ば程度を想定しているであろう発展途上な身体を覆うものはなく、そう、言うなれば彼という少女は全裸なのである。

 代わりに髪がある。

長く、長く伸びたすみれ色の髪がある。その髪は150cmほどの彼女の体躯をすっぽりと包み、その上で尚あり余った髪が床に垂れている。そして、それ程に持て余した髪をその体躯に巻きつけているのだ。胸部から股間にかけてぐるぐると巻かれたすみれの髪が、彼の唯一の服飾として機能しているのだった。

「私、こう見えて忙しいので手短に終わらせてもらうと助かるのですけど」

 髪を着た少女――の恰好をした薫氏は、そう傲岸な口調で言い放った。そのキッと睨むような瞳は、気に入らなければすぐ帰るわよ、と言外に告げているようである。

「ふむ、氏は偏在魔術を扱うと聞いたが。ここにいる氏はその意識の末端、子機のようなものだろう?」

 “シキ”内で特定人物と接触することは容易い。こと帝都にいる限り物理的な制約は無に等しく、加えて実体に縛られないのだから、容量が許す限り自分を増やすことだってできる。故にアオイが彼の一端に接触することは何よりも簡単だった。

「私の魂は何時だって忙しいんですの。それがたとえ千分の一に薄められようとも、私の魂は閃きを求めているのですから」

ふん、と言って腕を組む薫氏に対し、アオイは不敵に笑う。こういうのは舐められたら駄目であるし、葵でないアオイはこの手の人物には対応し慣れている。その手の天才という奴は、要するに自己意識が社会をねじ伏せるほどに強い輩を言うのだ。想うだけで世界を変えてきた人間であるから、天才のままでいられた。


――故に対等に相対するならば、歌うように接すればいい。


 アオイは言うまでもなく女の姿をした男に対し、追及する。

「千に薄められようとも忙しい。それは当然だ。当然に私は理解している。何故ならば私は貴方の作品を見たからだ」

「だから?」

「貴方は芸術家であり、それ故にその作品には意識がこびりついている。そこにいる貴方は千分の一とは言わせない。オリジナルか、あるいはそれ以上の貴方がそこにはいるのだろう?」

 そう言ってやると、ふん、と薫氏は漏らした。

「分かってるじゃない。いいですわ――いいわ、ちょっとだけ話してあげる。何時もやってくる自称ファンだとか、インタビュアーだとか、評論家だとか、そういうのって大抵私の画を見れば分かるようなことしか聞かないのよね。あれだけ雄弁に語っているのに、こんな劣化した私に何故聞くの? そう思っちゃうから大抵五秒で話は終わるのよね」

「そんな輩ばかりだというのに、積極的に自分を配っている貴方も殊勝なことだ」

 言うと「ああもう!」と叫ぶように彼は言った。

「本当を言うと、やめちゃいたいくらい! どいつもこいつも、私の作品の名前だけで全部知った気になってる。今描きたいものは何ですか――なんて、私の直近作みたら大体分かるじゃない。飽きて最後の方に混ぜたテーマが今私が描きたいものよ!」

 ヒステリックに言った後、薫氏は、しゅん、となって、

「でも、でも、駄目なの。だって芸術家は常に色んな者、人と会っていなくちゃいけないから。だからほとんど無駄になると分かってはいても、自分の魂のいくらかは分割して外に配ってやらないといけないから――」

「それでは言おう。私は探偵だ」

 愚痴ばかり聞いてはいられない。

「君は山本源一郎のことが好きだったのかい?」

 故に単刀直入にアオイは尋ねた。

「好きだったに決まってるじゃない」

 ……するとすっぱりと彼女は答えてくれた。

「それは、どういう意味で?」

「探偵さん、何が聞きたいの? 私は弦が好きだったわよ ――そりゃもう性的な意味で」

 少女のカタチをした彼は、目をぱちくりとさせながら答えた。

「ふむん、しかし君の実体的な性別は」

「男よ」

 少女の姿をした者は言う。

「別に隠してないもの。私、辰巳薫は立派な日本男児。男として生まれ、男として育った。それで、何か問題はある?」

「いや、ないさ。だが確認のために聞いた。君にとって性別とは決して実体的なものではないんだね」

「そりゃもうそうよ。私、何時だって描いてるでしょ。実体には何一つ意味がないって。実体ある帝都には何の未練もない。実体なんてクソ、クソ、クソ――現実とは呼んでやらないわ、あんなもの」

 吐き捨てるように彼は言う。

「だから私の全ては全部もうこの“シキ”の中にある。意識こそが私の現実であり、全てなの、分かって?」

「しかし山本源一郎氏と君の交流は実体的なものであった筈だ。それでも君は」

「たとえその時点で実体的でも。今となっては弦の思い出は、過去のものものよ」

「過去」

 ええ、と彼は目を閉じながら言って、

「過去。それは記憶の中にだけあるもの。それはもう実体なんか伴っていない、意識のものよ。意識のもの故に揺らめき、薄れていく……」

「…………」

「私が意識を重んじるのは、それが自由なものだから」

 薫氏は目を見開いた。

「ここでは何もかもができる。つまらない制約など取っ払って、想ったことが即現実となる。想いを共有した世界。政治も宗教も知りませんけど、こと芸術に関してはこれ以上ない空間ではなくて? だから私はなりたいようになるし、なりたいように生きる」

「ではその姿は、貴方は女になりたかったということだね。いや――貴方は少女になりたかった」

 言うと彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、

「下世話な言い方……でもまぁ、女でなく少女と言いなおしたから及第点にしてあげる。そうよ、私がこの姿になったのは――そうありたいと想ったから」

 彼はすみれ色をした少女の身体を手で示した。衣擦れならぬ髪擦れの音がした。その発展途上な肉体を、彼の指が、つつ、と滑っていく。

「理由はそれが美しいものだからだろう? 神話の時代より、純粋なる美とは少年あるいは少女で語られてきた」

 ふふふ、と薫氏は笑みを漏らした。艶然と、蠱惑的に。

「正解」

 そしてそう言ってくれた。

「ま、別に隠してはいないから、探偵なら当然の洞察ではあるんでしょうけどね。この姿は私にとって、美のイデアに等しい。美を夢想した際、結ばれたイメージが、これ」

 白い指先が、すみれ色の髪に絡まる。胸部を覆う髪を彼女の指先が弄り回し、その向こうに肌が見え隠れする。

「何故古代ギリシアで少年愛が尊ばれたか。何故少女が美の象徴たり得るのか。それは何故天使が両性具有なのかに通じるものがある。少年も、少女も、それは性的ありながら性的でない、純粋さを秘めているからよ。だからこの問いはこう言い換えることができる。何故人は――性の超越に純粋なる美を見出すのか」

「ふむん、性の超越ね」

「理解できない? まぁこれは感性の問題ですものね――でもね、でも私は純粋なる美と言うものは、全て普遍な存在だと考えているの。そして同時に、地母神にして三相女神たるものこそが……」

「しかして君は先ほど山本源一郎氏への想いを性的なものとしたが、その意味は如何に」

 この手の輩に自由に話をさせると長くなることを知っているので、アオイは早々に話を進めた。とにかく彼の口から山本源一郎を語らせなくてはならない。

「弦のことね」

 その名を出すと、薫氏は手元で髪を弄るのを止めた。

「簡単よ。あの頃の私と弦は、どうしても性的にならざるを得なかった。何故って、まだ私が実体に囚われていた頃だったから。肉を伴った愛は純粋とは呼べないもの」

「貴方は当時からその姿でありたかった?」

「うん? 何が言いたいの? そんな訳ないじゃない。千葉で弦と会った頃は、私はまだ“シキ”も“ユガ”も深く知らなかったのよ? 実体から離れられない以上、私がそうありたいと望む訳がないじゃない」

 薫氏は何を言っているのかわからない、とでもいうように首を傾げた。

「私は確かに私は当時から実体あることに何の意味なんてないと思っていたけど、だけども少女になる手段なんてなかった。だから夢想するに留まっていたし、現実的でない願望まで含めるなら確かになりたかったけれど……」

 薫氏はそこで不意に寂しそうな顔をした。どこか遠くを見るように目を細め、ぐっ、とその手元を握り込む。

「だから私は本当は、今こそ弦に会いたいわ。今でなら純粋にあの人を愛せるでしょうに」


4.二人目の転性疑惑者


 さてアオイが薫と対談しているのと同刻に、“紅の探偵”こと巴菜もまた対象を調べていた。

 金井恭二郎。帝都大学の学生たる彼とコンタクトを取ること自体は意外なほど簡単であった。実体でなく、“シキ”を通じてでの会話ならば、偏在魔術を介してないオリジナルとの会話が容易に取れた。

 それもこれも“紅の探偵”のブランドが大きいだろう、と“シキ”内の喫茶店で待機しながら思う。すするコーヒーは原色の“コーヒーの味”でなく、専用の料理人が味をコーディネイトしたものだ。その味は繊細かつ大胆で、湯気立つホットコーヒーであるのに飲めば何故か雪山のイメージが喚起されるという代物だ。想えば何もかもが現実となる“シキ”の内部において、現実の帝都での味を再現するということがあまりにも容易なため、結果として現実的でない、ファンタジックな味が持てはやされる傾向があった。

 巴菜としては、こういう妙な味付けはあまり好まないのだが、まぁ流行りというものは受け入れるしかないものだ。そう頑強に拒否するものでもない、とも思っている。

「ああ、お姉さんですね」

 そこに、待ち人が現れた。

――いや正確に言うならば、それは人ではなかった。

「金井さん、ですか」

「はい、僕が金井です。今日は捜査協力と言うことで、どうもよろしくお願いします」

 そう言って彼はその柔らかな手を差し出した。巴菜もまたにこやかにそれを握りしめる。ぷに、とした感覚が手に伝わった。

 端的に言って彼は猫であった。白く、茶色く、黒い。三色の毛色が舞う三毛猫である。つぶらな瞳が巴菜を見つめる。そこに如何なる感情が含まれているのか、身体からは掴めなかった。

「コーヒーを一つ。山吹色のものを」

 ウェイトレスにそう語りつつ彼は向かいの席に座る。猫、といってもサイズ自体は人と変わらない。かといって造形自体は完全に猫である。四足である気ままなあの動物を、そっくりそのまま数倍にスケールアップしたもの。それが金井恭二郎なのであった。

 “シキ”においての身体は実体に縛られない。それ故にこうした身体を纏う者も少なくない。純粋なる情報が乱舞する空間故、何もかもが“あり”なのだ。

――だからこそ探偵なんて職業が持てはやされるんだけど。

 純粋な情報の空間が確立されたからこそ、薄汚れた情報を浚う賎業の需要も増した。何もかも調べれば即座に“識る”ことができる帝都では、その事実に実体を当てはめることのできる探偵には一定の地位が宛がわれたのだ。

「“紅の探偵”ハナさん、虐天則事件での活躍は僕らの耳にも届いていますよ」

「それはどうも。私はただ居合せただけですが」

「いやしかし、あの事件に関しては、私も神理学者の末席を汚す者として考えるものがありましたからね」

 三毛猫はそう言って髭を揺らした。笑っているのだろう。そうやって適当な社交辞令を挟んでいるうちにコーヒーがやってきて、話が始まった。

「それで山本源一郎氏についてのことなんですが」

「ああ、アイツのことですが。良い奴でしたが、あの若さで命を散らしたのは悲しいことです」

 ちなみに辺りの客については、曖昧な形で伝わってこない。プライベートを意識した造りとなっているこの喫茶店では、そこにいる、という感覚以上のものは表現されない。故に他人の会話はもちろん、そこに誰がいたか、などということもひどく呆けた感覚になる。

「詳しくは話せないのですが、ある事件に関連して、彼について聞き込みをしているのです」

「なんと」

 ぴん、と尻尾が上がった。

「貴方は故人と縁深かったとお聞きしたので、お話をお伺いできないかと」

「ふむ、そういうことですか」

「ええ、協力して頂けませんか?」

 巴菜はにこやかかつ丁寧に尋ねていく。その言葉に嘘はなかった。けれど本当のことも言ってはいない。知りたいのは山本源一郎についてではなく、今まさに尋ねている彼、金井恭二郎についてなのだ。

 これは探偵としての技術の一つだった。自分が疑われている、探られている、と警戒されては上手く進まない聞き込みも、自分は自発的に協力している、と思わせることで簡単に進むことがある。こうした技術は帝都の探偵における初歩だ。情報が全てであるが故に、逆説的に情報が貴重化した“シキ”において、非公開の情報について探るには直接あっての聞き込みが最も基本となった。

「……分かりました。そういうことでしたら、私の知る限りのアイツについて、お話しましょう。最も、私が知っている源一郎は、彼が学生だった頃のことに限りますが」

 猫の姿の金井、またの名をラットホーは神妙にそう切り出した。とりあえず、語らせることには成功したようだった。

「アイツはそうですね。未来の士官としての道を着々と歩む、言ってしまえばエリート軍人の道を歩んでいた訳なんです。一方で僕と言えば、まぁ裕福な家柄に支えられ、将来は学者か作家かなぁ、などと夢想する、ものぐさな書生でした。そういう意味じゃアイツと何もかも違う環境だったんですがね、これがどういう訳か馬が合った」

 滔々と猫は語り出す。ここまでは事前の調査通りだ。

「趣味を通じて――とお聞きしましたが、具体的には何の」「詩、ですよ。アイツは詩を詠むことが好きだった」

 猫はそこで目を細める。昔を懐かしんでいるのかもしれなかった。

「僕らは当時、似たようにものぐさで根暗なとこのある者同士でつるんでサロンめいたものを作っていたんです。ハイカイ文人、なんて名前でしたかな。徘徊と俳諧をかけてるんですね。まぁ歴史も何もない、ポッ出の集まりでしたから別段スゴイことをやっていた訳ではないんですが……」

 猫は語る。ある日そこに源一郎がやってきた、と。

「徘徊の名に敗けず、僕らは帝都内のカフェーだの“シキ”では易経サロンに出入りするだの、妙なところに入ってましてね。そういうことをしてたもんだから、放課後に彼の顔を見た時は、てっきりしょっぴかれるもんだと思いました。何せそっちのエリートの道を歩まれる方は、揃いも揃って結構な堅物か、それか筋肉のない僕らみたいなのを蔑むようなのばっかりでしたから。いや、これは僕らの被害妄想も混じってるんですが」

 けれども――源一郎は違ったのだという。

「仲間に入れてくれ、と言って彼は詩を詠んだんです。詩といっても、日本のそれじゃないんです。西洋のポエムという方が近いですかな。彼は英国のバイロンとかいう詩人が好きでして、そういうことを語り合える仲間が欲しかったそうなんです」

「それは、本当に趣味として?」

「ええ、もう。最初は僕らも警戒してたところがあったんですが、話してみると、思った以上に源一郎という男は、ナイーブと言いますか、繊細なことを言う奴でした。雪を見て、“我が恋は眠つてゐる。眞白な雪と氷に蔽はれて”とハイネの詩をもじったようなフレーズを呟く、そういう奴でした」

 少なくとも、金井たちの前ではそういう人間だったようだ。が、一方で文人仲間たち以外には、そういった側面を一切出さなかったとも聞く。

 巴菜は源一郎の父を知っているが、彼はそうした文化的なものを惰弱と切り捨てる性質の人間であった。そんな父の下で青春を過ごした彼にとって、金井たちとの交流は、そうした抑圧された自分をさらけ出せる貴重な機会だったのかもしれない。

「印象として、源一郎氏について何か印象深いエピソードはりますか?」

 尋ねると、三毛猫はうーんと声を漏らし、

「……これは、そうですね、本来ならば外に漏らすべきことじゃないんでしょうが、アイツはどうにも実体祈願者とも交流があったらしくて」

「実体祈願者……この街に住みながらも“シキ”を憎む僧侶」

「ええ、そうです。ああしたアングラな奴らとも付き合いがあったんですね。普段は真面目一徹な奴なんですが、しかし当時の彼はどういう訳かひどく焦っていた節がある。勘違いして欲しくないのは、別にアイツがそういう宗教染みたものに嵌っていたとかじゃないってことです。アイツは寧ろ実体には意味がなく、純化すべきだ――なんてことをずっと言っていましたから」

「それに対して、貴方はどう思っていました?」

 アンダーグラウンドな付き合いがあった――というのは別に驚くことでもない。思春期であるし、情報の氾濫する帝都に身を置く学生ならば、大なり小なりそうしたことにも手を出すだろう。

 気になるのはそれに対し、この金井恭二郎がどれほど関わっていたか、か。経歴に載らない転性などという技術は、当然にして裏社会でしか遭遇する機会がない。

 猫は「ふむ」と声を漏らして、

「私は元々外れた人間でしたから、彼がそういう振る舞いをするのにもさほど抵抗はありませんでした。一緒に色々回ったこともあるくらいです。でもまぁ、そういう時の私と彼は、どうにも隔たりを感じましたね。私のような何も考えてない学生と違って、どうやらアイツは強い信条を持っていたようですから。純粋であるべきだ――なんて言って、西洋の方の優性論まで齧っていたようですから……」

 それからも巴菜は猫の口を通じて、彼の語る源一郎像を聞き出していた。つらつらと語る彼の話は聞き取りやすく、その点で非常に協力的であったと言えよう。

――うん、まぁあまり怪しくはない、かな。

 話を聞きながら、巴菜は思う。それは論理ではなく直観だ。探偵として、人間として巴菜はそうした直観を大事にしていた。

――どうにも完全に過去のことになっている。

 金井の語る源一郎は、完全に青春時代を懐かしむ口調だ。そこにはあまり熱がない。依頼人が怪しんでいた、源一郎との深い結びつきというものが、彼からは欠如している。

 もちろんそれも含めて嘘という可能性もあるが――今回の調査に関しては嘘を言う動機も果たしてあるのか。

 そうして直観から、そろそろ話を切り上げるかと巴菜が思っていた頃であった。

「ああ、そういえばですね。巴菜さん」

 話の流れで、ぽろりと猫は言った。

「実は私、転性しているんですよ。実体の私は、こう、おっぱいのある女性でして」


5.条件の整理。そして、三人目


「ふむ」

 巴菜が送ってきた記憶情報を見終えたアオイは、一言そう漏らした。それぞれ聞き込みが終わり、情報の同期をしたわけだが、少々意外な展開になってしまった。

「自白されてしまった」

 そう呟いた場所は水に溢れる“蒼の探偵事務所”だ。彼は己のデスクを前に足を組んで座り、思考を整理している。

「ねえアオイ、アオイ、アオイ。どうして悩んでいるのです?」

 そこに溌剌な声が響く。ナインだ。彼ないし彼女は水の中を気持ちよく泳いで回りながら、アオイに疑問を投げかける。

「試験問題にずばり解答が書いてあったのを見つけてしまったような気分という訳さ」

「ふうん、そういうこともあるんじゃない?」

 その言葉にアオイは頷く。そう――そういうこともある。全て調べ終わっていない段階で、答えが出てしまったなどという。

金井恭二郎はあまりにもあっさりと自分が転性したことを認めた。元より隠してはいなかったのだろう――非公式な手術、ということでともすれば問題になる筈だが、しかしそこは“紅の探偵”への信頼が勝った、という訳か。

「金井は学生時代のやんちゃの延長で、転性手術を受けている。まぁ文人坊ちゃんだから、気まぐれの一種だったのかもしれないがね」

「だったらそれでいいじゃないですか? 少なくとも依頼人が求めていたものは手に入れた」

 その通りだ。三人のうち、誰かが転性しているようだから探して欲しい、という依頼自体はこれでもう片付いてしまった。今は巴菜が金井の発言の裏を取るべく、当時の転性界隈について探りを入れている。金井から事情を聞けたようだし、調査にそこまで時間はかかるまい。

「――でも、アオイは引っかかると」

「というか、あまりにも呆気なさ過ぎてな、色々持て余してる感じだ。時間が余って、解答を見直す時間ができてしまったというかな」

 まぁ分かって入る。実際探偵の調査などというものは地味で、つまらないオチのものばかりだ。それはこの帝都だろうと変わらない。一部“シキ”内で噂されるような探偵の武勇伝じみた話は、本当に極一部の変わり種の事件なのだ。

 だがアオイは考える。考えることは彼にとって呼吸するようなものでもある。

「そもそもこれは問題文にもおかしなところがある。依頼人がどのような思惑を持ってあの四つの前提を用意したのかは分からないが、誰かを特定したかったのならば、転性した人間が二人いた時点でこの調査の根本は崩れる」

 アオイは言った。そうこの可能性は依頼を受けた時から頭にあったものだ。前提四つを満たすものが、一人とは限らないのだ。

「ふむ、ふむ、ふむ」

 ナインはゆっくりとアオイのデスクまで降りてきた。そのたおやかな肢体がデスクの上に寝転がる。

「うん、そうですね。だから一人が転性だと確定しても、依頼の十全な遂行とはならないかもしれない。否、依頼自体は完遂できても、依頼人の求めていた情報は手に入らないかもしれない。依頼人が求めていたのは、当時誰が山本源一郎と恋をしていたか、だろうから」

「そうだ。その点で、この依頼には瑕疵があるといえる」

「一人しか転性がいなければ、幸運にもこの物語を閉じることができる、という訳ですか。うん確かにそう――じゃあ聞くけど、アオイは辰巳薫が転性したと疑ってるの? だからこそ悩んでいるの?」

 ナインは顔を、ずい、と近づけて尋ねてくる。アオイは首を振り、

「いや、それはないな。断言するが辰巳薫は転性などしていないよ」

 そう言った。

「へえ、それは何で、何故、どうして?」

「分かっているだろう。転性というものは、実体ありきのものなのだよ。“シキ”内部で自由自在に性別を超越した、擬似的な身体を得られるようになった今、わざわざ肉体の性別まで変えてやろうなどと思うのは、よほど実体にこだわりのある人間でなくてはおかしい」

 その点において、辰巳薫のパーソナリティと全く合致していないのは言うまでもない。

「全く芸術家というのは恐れ入るよ。千分の一、どころか万分の一まで希釈されようとも、自分の言葉を持ち、自分の思いで語るのだから」

 アオイは薫氏との会話を思い起こす。魔術によってクラウド化された自我を、末端の端末に至るまで“自我を自我として”成立させたのはひとえに魂の濃さによるものだ。

 作品を見れば薫氏の性格は分かる、とあの時のアオイは語ったが、何を隠そう相対していた薫氏そのものが、母機たる巽アリアの作品なのだから恐れ入る。 現代の芸術は、人の意識を一つの作品として見ることが可能になっている。あの自我は、公的に配布された美術であるが故に、アオイはいとも簡単に彼と接触できたのだ。

「だからこそ、分かる。あれは本音だよ。芸術家が、自分の作品に対して嘘を込めては失格だ。あの信条は、あの少女となった薫氏は、本当に実体を軽視している。そんな彼が転性などしまい。現にもう“シキ”の内部で少女となっているのだから、それで彼にとっては十分なのだ」

 アオイはそう言い切った。ナインは頷いて、笑った。

 アオイは続ける。

「だから私は、金井が転性だとしても何も驚かないよ。思春期で不安定な自我を抱えていた源一郎と、その不安定さ故に転性した金井と危うい恋に陥っていた、という筋書きもなんらおかしくはない。何せ金井、あるいはラットホーはメスしかいない三毛猫にわざわざなるような人間だ」

 そして同時に、とアオイは言う。

「源一郎にとっては死の直前まで抱えていた金井への恋心も

金井にとってはさして後を引くようなものでもなく、完全に過去となっていた、というのもありがちなことだ。オチとしては、少々救いがないがね。ま、人の墓を荒らして良き結末が待っているなんて、そんな物語の方がおかしいのだよ」

 だから、これで巴菜が金井の発言の裏付けを取れたのならば、それで依頼は解決でいいだろうとも思う。三人目に関しては調査が必要だが、帝都にいるかさえ分からないような人間だ。調べるのにも限界はあるし、その旨を伝えた上で、“恐らくの事の真相”を伝えれば終わりではないだろうか。

「……うん、そうかもしれませんね」

 こちらの心中を察したのか、ナインが僅かに顔を俯かせて言った。

「確かにそういう結末でもいいのかもしれない……でも、一つ教えてあげよう。今回の事件――君は必ず真相が分かる立場にいる……立場にいます、いるんだよ」

 そして、そんなことを言った。

 アオイは、じっ、と彼ないし彼女を見つめる。ナインの言葉にはノイズが多いが、しかしその言葉は絶対に正しいのだ。故に考える。今ここで、ナインがそう語る真意は……

『“紅”より“蒼”へ。一つ報告がある』

 その時、不意に意識に浮かび上がる言葉があった。巴菜だ。アオイは思考を中断してその文面に集中する。“シキ”内でなく実体番号を通じて呼びかけているため、水に溢れる事務室には何ら変化はない。アオイでなく、葵が経典手帳を通じて読み上げているのが、こちらまで降りてきている。

『金井は本当に転性していた。帝都の闇医者を調べたら、当時の記録が出てきた』

 やはりか、とアオイは思う。これで事件の終わりが見えてきた。

 そう考えた、次の瞬間にこんな言葉が降りてきた。

『あと棚から牡丹餅って感じ。例の対象三のデータも偶然見つかった。李冰って名前が転性のリストにある。彼もまた転性していたみたい』


6.発想の転換を。解決編1


 丸く収まるか、と思われたが、ここに来て面倒なことになってしまった。三人のうち、二人が転性だった。恐れていた事態だった。これでは依頼人が真に望んだ情報を用意することができない。無論、依頼そのものに瑕疵があるのだからこちらに責任はないといえばないのだが、しかしこう中途半端な仕事をするのは、アオイとしては厭だった。

「ふむん、三人目の調査も必要か」

 アオイはぼやく。これで三人目の情報が一切出てこないのならば、現実的に捜査は不可能だったが、しかし出てきた以上はそちらも徹底的に洗うことになる――いや、待てよ。

 アオイはふと思考を転換した。そして、ナインを見た。彼ないし彼女の言うことは、絶対に正しい。絶対に正しいが故にナインなのだ。

「ナイン、今君は、私が必ず真相が分かる立場にいる、と言ったね。これは、もう既にその立場にいる、ということか?」

 尋ねると、ナインは微笑んだ。その微笑みは、それまでの女性的な仕草とは、どこか違う空疎なものを感じさせた。

「うん、たった今、君は全ての手掛かりを手に入れた」

 そして、そう語った。

「今?」

「そう今です。“紅の探偵”から手に入れた言葉と、そして私が語った事実で、一人に特定にできます、できる、できるんだ」

 ナインの言葉にアオイは顎を撫でる。さて、こうなってしまうともう解決編に入る必要がある訳だ。語り部たるナインがこう言っている以上、探偵であるアオイは求められるように思考を開陳せねばなるまい。

 となればここで一度色々なものを整理しておこう。アオイは内心で思考をまとめ始める。

 依頼の名目は「故・山本源一郎氏の恋文は、果たして誰に当てたものだったか」

 そして具体的に何を探すか、というと四つの前提条件を見たいしている者の捜索である。

そしてその前提とは、一“故人と実体を持って接触していたこと”、二“会った当時に異性であったこと”、三“実体年齢は二十歳前後”、四“源一郎のことをある仇名で呼んでいたこと”である。

そして、ナインいわくこの前提は絶対に覆らない。

手に入れた辰巳薫氏と金井恭二郎氏との会話データ。

金井と李が転性だったという確かな事実。

 そしてナインが語った“既にアオイは一人に特定できる立場にいる”という厳然たる事実。

 これらを基に、アオイは思考をまとめていく。

 蒼い部屋は、深い海の音がした。そしてナインもまた考える探偵を前に蒼く笑っている……

「さて、じゃあこんなのはどうだ」

 不意にアオイが口を開いた。

「犯人は巴菜だ」

 と。


 そもそも、と“蒼の探偵”は語り出す。

「そもそも全ては巴菜が私を引き込んだことから始まった。そして私に依頼を語り、私は巴菜に言われるがままに聞き込みをした。この時点で全ての主導権はあちらにあったと言ってもいい」

「主導権って?」とナインが口を挟む。

「依頼の内容について、アイツは改竄する余地があったということだ。まず巴菜は依頼人について詳しく語っていない。陰謀や利害が絡んでいない、とは言っていたが、しかし誰がどうして故人の恋文をわざわざ読み漁っているか、という点は私には情報が伝えられていない。ここが少し引っかかった」

そして何より――ナインは前提は覆らないと言ったが、逆に言えばそれ以外のことは覆り得る、ということだ。巴菜の言葉で語られたことには、もしかすると嘘が混じっているかもしれない。そう思ったが故の推理だった。

「で、あの人が犯人っていうのは、どういうことです?」

 ナインは尋ねた。アオイは、ふふふ、と勿体付けて、

「依頼人と言うのが、巴菜なのだよ」

 そう言った。

「まず冷静に考えて欲しい。この依頼において、四つの前提を満たしている者は誰だろう。転性した二人だろうか? それもそうだが――そんな過去の友人が実は女で、性転換していた、などというイレギュラーを考えずとも満たしている者がいる。それは巴菜だ」

 巴菜は元々彼女の出身――桜院の家より回ってきた依頼と言っていた。このことからも桜院家と山本家の間に交流があったことは想像に難くない。巴菜と源一郎が実体を持って会っていたとしてもおかしくはない。そして巴菜は“少女からようやく抜け出した”程度の年齢だ。その見た目から見ても二十代前後であることが分かるだろう。

「そしてもちろん、巴菜と源一郎氏は異性だ。昔も、今も異性である。だから転性など考えなくとも前提を満たすことができる」

「うん、それは分かるけど、でもじゃあ仇名で読んでいたのが三人っていうのは?」

「巴菜の嘘だろう。先ほどのように、前提条件以外の巴菜の言葉は、本当であるという確証がないんだよ。だから正確には――自分以外で源一郎を“弦”と呼んでいたのが三人だったということなのだろう。転性を探せ、など嘯いたというのは彼女なりのミスリードだ。最初にそう言われると、思考がそういう方向に流れていくからな」

 ふぅ、とアオイは息を吐く。これで巴菜が犯人でないと言い切ることはできなくなった。

「その上でまずは動機を予想しよう。思うに、巴菜は嫉妬深い女だった。かつて源一郎氏とほのかな恋に落ちていた彼女は、その想いをずっと胸に抱いていた訳だ。家柄良い者同士うまくくっつければよかったのだろうが、そうはならなかった」

 好いた者同士でもあっても、それが必ずしも恋と呼ばれ愛に結ばれる訳ではない。

「そうして、源一郎は死んでしまった。これは、そうだな、悲劇だろう。すれ違いの果てに、海の向こう側で想い人は死んでしまったのだ。その時巴菜が何を想ったかは分からない。だが――」

 彼の死から数年後、恋文が出てきてしまった。

「その恋文に綴られた文面を見た、嫉妬深い彼女はこう想った。この手紙の送り主を探し出したい、と。探し出してどうする気だったかは分からない。だが、喪った筈の恋と、まさかの形で相対することになった彼女は何かをせずにはいられなかった。それ故、彼女はこの手紙が誰に送られたものかを必死に探すことになった……」

 ナインは微笑んだ。微笑みながら、頷いている。

「だが、ここで一つまたすれ違いがある。その手紙は、他でもない巴菜へと送られたものであったのだ! 冷静に考えれば転性などというイレギュラーでない彼女こそが第一候補といえるだろう。けれども――ここが人間として難しい心情なのだろうが、彼女は絶対に自分に向けたものではない、と思い込んでしまった」

 源一郎が自分を愛していた。

 それを認めてしまうことが、その恋が、どうしようもない結末を迎えたことを認めることになる。手に入れたかもしれない。何か一つずれていれば、二人は結ばれていた。けれどもそうはならなかった。そんなボタンをかけ違えたかのような結末にしたくなかったのだろう。

「故に、巴菜は何としてでも、源一郎が自分でない誰かを恋していた、とする必要があった。その為に私を使い、転性した人々を探すことになった……というのが真相ではないだろうか」

 アオイはそこで、目を細めた。

「しかし、結局は巴菜は自分の結末を認めることになるんだ。そう、自分の恋が、結局どうしようもないものだったという、さして珍しくもない結末に……」


7.またまた発想の転換。解決編2


 そうアオイが語り終えた時だった。

 “シキ”内でない方のアオイ――実体を持っている方の葵に呼びかける声があった。

「xxxxx」

 だが聞き取ることはできない。意識が“シキ”に移行している今、アオイは葵について漠然とした感覚した得ることができないのだ。

 アオイはナインに目配せした。彼ないし彼女は察したように「いいよ」と言った。

 それを見たのち、アオイは祈りを解く。


 そして――意識が帝都に戻ってきた。実体で、薄汚い帝都の事務所。そこでは埃くさいソファと素っ気ないデスクだけが置かれている。

「ねえ」

 そこに声がした。

 巴菜だった。小柄な身体に、茶色がかったショートヘア。そしてベージュのロングコート……

「なあ、巴菜。お前は」

 葵は一瞬息を呑んだが、意を決して口を開いた。この依頼においての“推理”を彼女を前にして語らなくてはならない。

「分かったわ、犯人」

――だがしかし、巴菜は葵の言葉を遮った。そして、ぴっ、と指を突き立て、

「犯人はアンタね、葵」

 そう言った。

「だってアンタ、女じゃない」


 つまりね、と“紅の探偵”は語り出す。

「まずアンタは前提を大体にしてクリアしている。山本家と縁のあった私と幼馴染らしいアンタは、源一郎とどこかで会っていてもおかしくはない。その上で年齢に関しても私と同程度である。加えて貴方は女であるから、源一郎氏と異性であるという点もクリアできる……」

 が、堪らず葵は口を挟んだ。

「おかしいだろ、それ! そもそも僕じゃあ“源一郎のことをある仇名で呼んでいたこと”という前提が満たせない」

 言うと巴菜は、ふん、と鼻息荒く漏らし、

「そんなことは前提が間違っていたってことでしょ」

「いやそんな筈はない。だってナインがそう言ったからだ」

 葵はソファを一瞥する。そこにはローブを纏い中性的な外見をした少年あるいは少女が座っている。“シキ”でのナインと違い、その表情はぴくりとも動かない。

「…………」

 ナインを巴菜もまたじっと見つめている。断言する葵に対し、何も言わないが、しかし何か言いたげであった。

「それにだ」

 葵は言葉を重ねる。

「僕は男だ」

 そう言って葵は立ち上がった。くたびれたワイシャツに、

蒼さの足りない装飾、“シキ”での彼には何枚か劣る顔立ち……葵は正真正銘の男であった。

 そう、そもそも巴菜の推理は何もかもずれていた。葵は男だし、山本源一郎なる人物に会ったこともない。そして、そのことを巴菜が知らない筈もなく……

「ふん」

 そう指摘すると、巴菜はそう不機嫌そうに漏らし、加えて葵を睨み付けた。

「まーた私を犯人するからよ」

 そしてそう言い放った。

「……聞いていたのか、お前」

「“シキ”内での会話は知り合いなら簡単に手に入るものでしょう? ちょっとログ確かめたら、めっちゃくちゃな推理言ってて頭抱えたわ」

 はぁ、と漏らしながら巴菜は言葉通り頭を押さえた。もさもさもさ、と髪を弄り回しながら、彼女は言葉を投げつけてくる。

「私が嫉妬深い女ですって? 私が源一郎氏に恋をしてたですって? その上――結末を認められない女ですって? そんな馬鹿げた推理してたら、意趣返しの一つや二つしたくなるってもんでしょう」

――そう、何もかも間違っていた。

 巴菜の推理が全く持っておかしなものであるように、葵の推理もまた、事実無根のめちゃくちゃなものであった。いや巴菜のものよりは、まだしもハッタリが効いていたように思うのだが、そもそもあの推理では“巴菜が犯人でないとは言い切れない”とはできても“巴菜が犯人である”と決定する要因には一切ならないのだから。

 論理の脆弱性を自覚していた葵は「あはは」と苦笑して、

「あー、うん、まぁ何時ものことだろ?」

「何時ものことだから、怒ってるんじゃない」

 推理に行き詰ったら、とりあえず巴菜を犯人にしてみる。それは帝都に来て以来、葵が論理をこねくり回す際にやっていることだった。

「いや、意外といいんだよ、これが。無理やりでも誰かを犯人にしてみようと論理を組み立てると、思いもよらぬ発想の転換ができる。それに、巴菜だってよく僕を犯人に仕立て上げるじゃないか。虐天則事件の時はそれで本当に……」

「それはアンタが懲りないからでしょ! 私はずっと止めてって言ってるのに、アンタが止めないから、なら私も同じこと対抗してやるーってなったんじゃない」

 互いに言い合い、睨み合う。まぁ何時もの流れである。そう思っていたのだが、しかし今日の巴菜は何時も以上に不機嫌であった。何時もなら「全くもう」で流すところを、ぷりぷりと頬を紅潮させながら怒っている。今回、葵が適当にでっちあげた“巴菜の悲恋”という推理が、彼女はえらく気に入らなかったらしい。

「……あー、まぁ、その、すまん」

 どうやら本当に相手が怒っていることを察して、葵は素直に謝った。こういう時、変に意地を張ってはいけない。

「…………」

 巴菜は尚も不機嫌そうにこちらを睨んでいる。これは茶菓子でも奢ることになるかな。しかし遊んでないで早く推理を進めなくては。ナインいわくもう答えは出せる範疇らしいし……

「……あ」

 不意に、葵は声を漏らした。

「分かったよ、犯人。それと誰が転性していたか」


8.今度こそ。解決編3


 舞台は再び“シキ”へと移っていた。

 こぼれる水の音。気持ちよく泳ぐ魚たち。ずん、と響き渡る海の音。

 “蒼の探偵”事務所。

 そこで二人の探偵が対峙している。

「逆説だよ。逆説。馬鹿げた論理の話さ」

 そう気取った口調で語るのは、蒼い男だ。蒼一色で固められたロングコート。特殊な蛍光テクスチャなのか、その姿は、ぼう、と光っている。まぶかに被った帽子もまた蒼く、そして手で弄るパイプが気障ったらしい。

 彼こそが、この城の主、“蒼の探偵”である。

「ふうん、今回はきちんとした推理みたいね」

 対峙するは紅い女である。

 水にゆらめくそのロングヘアは、蒼一色の部屋にあって異物であった。何せ、燃え盛るような紅色をしているのだ。それは明らかに――浮いている。

「ま、聞いてあげるわ――“蒼の探偵”」

 しかし、当の彼女の存在感は、全く蒼に敗けてはいない。その強靭な紅は、蒼をはねのけるかのように歴然として存在し、その色彩をばら撒いている。

 髪と同じく深紅に染まった瞳で、毅然と彼に相対する者こそ、その好敵手である“紅の探偵”である。

「ふふん、始まるんだ、終わるんだ、終わらせるんだ」

 その間に浮かぶのは、少女のように笑うナインである。彼ないし彼女は微笑みをたやすことなく、ゆらゆらと虹色の髪を揺らしている。

「……ナインの言うことはね。絶対に正しいんだ」

 “蒼の探偵”アオイは語り出した。

「これは絶対だ。少なくともこの物語においてのルールをナインは示している。そんな彼女が“既に私は犯人を特定できる”と言ったんだ。これもまた絶対に正しくないとおかしいだろう?」

「さぁ? 私は詳しくないから何とも言えないけど」

 とぼけたように“紅の探偵”巴菜は言う。それに対しアオイは首を振って、

「絶対に正しいんだ。これは何度も強調したが、逆にルールの下にある我々は、それを逆手に取ることができる。“今の時点で絶対に分かる”ということは、逆説的に“今まで得られた情報で特定の一人に絞ることができる論理”こそが正しいということになる」

 今の時点で分かるのだから、何か追加の情報がいる論理や、どうしても複数人になってしまう考え方は絶対に間違っていると言えるのだ。

「だから、こう考えてしまえばいい。候補三人のうち二人と一人に分ける条件が現れたのだから、その一人になっている方が犯人になるような論理を考えればいい、と。私たちは都合よくそんな情報を手に入れている」

「それは?」とナインが尋ねる。

「転性だ」

 間髪入れず、アオイは答えた。

「辰巳薫、金井恭二郎、李冰手……この三人の中で、二人は転性していた。つまり、一人に特定されるのは転性していない者――辰巳薫こそが犯人、山本源一郎氏の恋文の相手だったのだよ」

 と。

 転性。結局はそこに戻ってきた。この条件で特定できる筈だから、だからこそ探すべき人間が裏返るのである。

 全くもって反則染みた論理だ、とアオイは自嘲する。世界のルールを裏読みして、初めて成り立つ推理なのだから。

「……ううん? アンタの言いたいことは、そのまぁ、納得はできずとも理解はできるんだけど、でもおかしくない? 辰巳薫って転性じゃないのよね?」

 巴菜が腕を組んで尋ねてきた。

「そうだ。この魂を賭けて断言するが、実体の薫氏は男だよ。その作品を見れば分かるさ」

「じゃあおかしくない? いくら特定できるといったって薫氏が男だったら、同じく絶対に正しい前提である“会った当時に異性であったこと”が崩れちゃうじゃない?」

 そう、その指摘は的を射ていた。辰巳薫が犯人であるのならば、山本源一郎と彼は異性でなくてはならないのだ。転性を抜きにして、だ。

 そこでアオイは、ふっ、と笑った。

「だから言っただろう? 犯人と、誰が転性していたかが分かったって」

「だからそれは金井と……」

「いや違う。それだけじゃないんだよ、巴菜。私たちが転性してないか調べるべきだったのは、もう一人いる。何故ならばその結果次第で、絶対に正しい前提がひっくり返ってしまうからだ」

 その言葉を聞いた時、巴菜が片方の眉を吊り上げるのが見えた。彼女もまた察したようだった。

「――山本源一郎は女だった」

 その上でアオイは告げた。

「元々山本源一郎が男であったという確証はない。社会的な性と実態が乖離しているなどというのは、薫氏や金井氏を見ていれば明白だ。だから、少なくともある一定の時期まで山本源一郎氏が、対外的には男として扱われた少女であった、と考えれば説明はつく」

 “会った当時に異性であったこと”は、山本源一郎が男である限り、“会った当時に女性であったこと”となる。それ故、候補三人の男性のうち、転性している者は誰かという考えになってしまった。

 が、山本源一郎が女性であったのならばどうか。前提の“異性”はひっくり返り、依頼もまた“誰が転性していないか”という転換される。

「それに、あの手紙のことだ」

“君は何時も私のことを「弦」と呼んでくれたね。どうしようもなく男性的な名に、情緒的で美しい字を当ててくれて”

 前提をこしらえることになった文言をアオイは諳んじた。

「この情緒的で美しい――と言う表現は、女性的と言い換えることもできないか? その前に対比するように男性的と書いてあることも助長している。彼――いや彼女は、本当の自分として、源一郎などという男性的な名前でなく、弦という女性の名前を持っていたんだ」

 金井にこれを呼ばせていたのも、ポエムを愛したのが源一郎でなく、女性としての弦だったからかもしれない。

「だから、転性していたのは山本源一郎で、そして犯人は辰巳薫である、と……」

 巴菜はその推理を反芻した。己の中で、その論理を確かめているようであった。

「……確かにそうであるかもしれないわ。論理をこねくり回したような話だけど、そうであるかもしれない、とは言える」 

 でも、と彼女は試すような口ぶりで、

「でも、そうであるかもしれない、じゃあ駄目でしょう? 探偵である以上、論理には事実の裏付けを持って〆なくては」

「分かっているとも」

 その返しを待っていたと言わんばかりにアオイは返し、そして高らかに、

「――では、当事者に聞こうじゃないか、薫先生にな」


8.最終確認。動機について


 その言葉と共に“作品”は再生された。

 ぼう、と空間が歪んだ――かと思うと、その少女はやってきた。

「何? また貴方?」

――少女のカタチをした彼は、すみれのようだった。

 大きく澄んだ瞳、麗しい少女の肢体に、ぐるぐると巻きつけられた髪。ああそれこそ――巽アリアの代表作“辰巳薫”である。

 芸術家、巽アリアは己の自我そのものを作品として、“シキ”

中にデータとして拡散した。そうした自我はクラウド化されており、中枢たる巽アリアが感じ、想ったことがリアルタイムに反映される――正真正銘のもう一つの自我である。

偏在魔術という技術によって可能になったものだが、通常ではそんなカタチで人の意識は動作しない。が、しかし巽アリアの作品は違った。それは如何なる理屈か、あるいは如何なる想いに支えられたものか――一人の人間のように考え、そして動くのだ。

「薫氏」

「何? 探偵。つまらないこと言ったらこんなとこ、すぐに抜け出して他の私と同化するわよ」

 彼は突き放すように言った。芸術作品たる薫氏は、常に忙しいのだ。

「――一つ聞きたい。源一郎氏は、少女だったのか?」

 そして、そう率直に聞いた。

「ええ、そうよ。それがどうかした?」

 すると、彼はあっさりとそう答えた。

「弦の家は軍人一家。女よりも男を欲しがっててね、あの人のお父さんは男にするつもりで弦を育てた。これが昔なら、単なる馬鹿話で済んだんでしょうけど、でも今の時代、転性なんて技術があるわ。だから、冗談が冗談にならなかった」

「でも、そんなこと」

 反発するように声を上げたのは、巴菜だった。

「そんなこと、おかしいでしょ? 女が厭だったから、男にするなんて、そんなの親がやっていいことじゃないわ」

「うんそう? そうでもないと私は思いますけど」

 少女の姿をした彼は、首を傾げて、

「技術ってのは節操なしに進化していますから、たぶん“生まれてくる子どもの性別を予め設定しておく”なんてこともできるようになるんじゃないかしら。性別だけじゃない、どんな髪の色がいいか、どんな体型がいいか……色々と決められるようにさ。そうなったら、たぶん親はこぞって色々決めたがると思いますわ」

「でも――それだって傲慢よ。私は――私だから私になったって、そう思っている」

 巴菜は尚も薫氏に食い下がる。

「だから、そうなんじゃないんですの?」

 けれども、薫氏は巴菜の言葉を否定する訳でなく、逆に肯定するように、

「今の技術だって、音楽を胎児に聞かせたら頭が良くなる、とか、妊婦はこういうものを食べるといい、とか言われていますでしょ? それだって程度の差こそあれ、親が子どもの身体を設定しようとしていることに等しいでしょう。でもそれが悪いように言われたことがありまして?」

「それは極論よ」

「妙にこだわるのですね。私はそれが分かりませんわ。だって――いくら弄られようとも、それは実体の話じゃないですの」

 実体には何の意味もないの、と薫氏は言った。

「私はそう思っている。この心は、この意識は、肉体になんて侵されていない純粋なもの。どんな身体を持って生まれてこようとも、そこにある心は私なんですから」

 心と体。

 意識と肉体。

 それが完全に分かたれたものであると、薫氏は確信しているかのようであった。

「弦も同じことをよく言っていたわ。私と、同じく……」

 と、そこで彼は寂しそうに目を細めた。

「……でもね、だからなのよ」

 そして――動機を語り出した。

「だから私たちの恋は実らなかった。私も、弦も、同じように強く惹かれていたのに、でも決して触れ合う訳にはいかなかった」

「それは――何故だ? 少年と少女。君たちの恋は強く、そして純粋だったのだろう?」

 薫氏は首を振った。はらり、とすみれ色の髪が舞う。

「逆説よ」

 ぽつりと彼は漏らした。

「私も、弦も、恋は純粋であるもの、という印象が強かったの。でも――私は男で、それで弦は女だった」

 子どもだったのね、と彼は言う。

「純粋さを信じつつも、でも実体として結びついてしまうと、自分たちの恋が純粋でなくなる気がした。実体に価値なんてないと信じているからこそ、実体を持って繋がる訳にはいかなかった。そんな――逆説的なジレンマが私と弦にはあった。だから離れるしかなかった。離れて距離を取って、“シキ”という場所で純粋さを手に入れることができて、そしたら本当に恋と名乗ることができる筈だった」

「でも……」

 アオイは口を開いていた。

 探偵とは結末を与える職業だ。放っておけばいいものに、明確な結末を与え、文字通り終わらせてしまう、因果な仕事。

「でも、そうはならなかった」

 それ故に言う。

「山本源一郎は戦争でその命を散らし、貴方と繋がることはなかった。お互いの恋は冷めることなく、確かにそれは純粋であったかもしれないけれど、でも、潰えてしまった。どこか一つでもずれていれば変わったかもしれないが――」

 と。

 その言葉でこの顛末を総括してしまう。そこにあった想いを全て切り捨てるようにして。

「ええ、そうよ。私と弦の恋は終わっていたの。知ってたわ」

 それを――薫氏は受け止めた。

 この純粋な少女は、その恋の終わりをはっきりと認めたのだった。


9.エピローグ。報告書とか


「結局、薫氏に最初から全部説明していればよかったってこと?」

 全てが終わって、帝都の方の“蒼の探偵”事務所に帰ってきたのち、巴菜がそう尋ねた。

「私たちが色々推理しなくても、素直に聞いていればよかった、と。別に薫ちゃん、源一郎氏のこと隠してた訳じゃないみたいだし」

「まぁそうじゃないかな。僕らは変に人を疑うから、効率の良い手段は取れないんだ」

 苦笑しつつも葵は言う。ま、終わってから最適解を言うのはコロンブスの卵と同じだ。人がそう上手く動けるのなら、そもそも探偵は要らない。実際、面と向かって聞くと警戒されてしまうことの方が圧倒的に多いのだ。

「……じゃあとりあえず依頼人への報告書まとめちゃうけど、まぁ今回はありのまま伝えてしまえばいいか」

 言いながら、巴菜は経典手帳をめくっている。そうした事務的な面は巴菜の方が葵より格段に強い。任せておいた方がいいだろう。

 葵はデスクに座りこみながら、

「……なぁところで、誰だったんだ? 依頼人」

 ふと気になったのでそう尋ねてみた。

「ん、源一郎氏の父親」

 すると、あっさりと彼女はそう答えた。

「父親ってあの……」

「そう、転性させた、社会的な性別も変えさせた、張本人。その人が今回の件について調べて欲しいって聞いてきた。たぶん……最初から転性してない人を探していたんだろうね。あの人は、全部知っていた訳だから」

 まぁ気になっていたのね、と巴菜は言う。

「なんだかんだ、罪悪感があったみたい。自分の子どもを、自分が思うように転換させてしまって、その上で終わらせてしまったことに。あの恋文を読んで、色々思うところがあったみたいで」

「――なぁ」

 淡々と語る巴菜に対し、葵は不意に尋ねてみる。

「薫氏みたいに、お前も実体に意味がないと思うか? 物と心は完全に分けてしまうものだと思うか?」

 巴菜は、そこで一瞬顔を上げて葵を見た。子どもの頃からずっと見慣れた顔がそこにある。

「私は、そうは思わないかな。そう思えるほどに私は、自分のことを私であると思えないし、同時に女だとも思っている……」

 その言葉に葵は頷いた。

「ま、結局何ともいえないんだけども、何が純粋で、何が純粋でないかなんて」




(完)



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“蒼”の心理都市奇譚//性転換した奴が犯人だ @ZEP

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