第23話 旅の終わり
旅の終わり
旅の出発点である博多に戻ってくると、雨が降っていた。
「銀朱くんは、家までどうやって帰るの?」
「母親に迎えに来てもらおうかと。トキワカさんは?」
「私は地下鉄で天神まで行ってから、西鉄で帰るの」
「……じゃあ、ここでお別れですね」
「そうなるね」
駅舎の出口で空を見上げていたトキワカさんが、にこりと笑って僕を見た。
「楽しかったね」
「はい。お陰さまで。ありがとうございます」
「それは私の台詞だよ。銀朱くんのお陰で、黄さんと深町プロと周防さんに会えたんだから。感謝してる」
「……いえ、やっぱり俺にとっては、トキワカさんがいてくれたお陰ですよ。トキワカさんがいてくれたから、今回の旅は、とても楽しかった」
ありがとうございます、と僕がもう一度言うと、トキワカさんは照れくさそうに頬を掻いた。
「まぁ……そーゆーことにしとこうかな」
「はい。そうしてください」
「……あっ! そうだ! ずっと聞こうと思ってたことがあったんだ!」
思い出したように手を叩き、小動物的な丸い瞳で僕を見上げる。
「昨日……私が『嘘ついてた』って言ったとき、『知ってました』って言ったよね?」
「……はい。俺はなんとなく、トキワカさんが嘘をついてるだろうなって、思ってました」
「どうしてわかったの?」
一瞬、本当にわかってないのだろうかと思った。少し考えれば当然のことだった。
「だって……トキワカさん、自分のことを『頭が悪い』なんて言ってましたけど、あれだけ記憶力が良くて頭が悪いなんて、無理がありますよ」
「あー、そこかぁ。……まぁ確かに、勉強でつまずいたことはなかったね」
「その……大検っていうんでしたっけ? そういう資格を取って大学に入ろうとかは、考えてないんです?」
「今は高卒認定って呼ぶらしいけど……考え中。高校辞めてからアルバイト始めた経験もそんなに悪いものじゃなかったし。いろいろとやり直したいけど、もう二度と〈学校〉と名の付くものに縛られたくないっていう気持ちもあるし。……私のことは私が決めるよ」
心配しないで、とトキワカさんは笑う。
「もうひとつ、気になってたことがあるの」
「なんですか?」
「銀朱くんさ、ときどき『僕』って言うよね? 言ってたよね?」
そこを指摘されるか、と僕は苦い表情になった。
「もしかして……普段は『僕』って言うの?」
「……家族の前では、そうですね」
「なんで使い分けてるの?」
「………………『俺』のほうが、かっこいいかなって……」
僕がもじもじ答えるのを、トキワカさんはにやにやと笑いながら見つめていた。
「かっこ悪いよ」
「そうですか」
「でもかわいい。見栄っ張りなところも好き」
「……これは俺なりの〈化粧〉なんです。俺は、〈俺〉である自分で、トキワカさんの前に立ちたいんです。すっぴんの〈僕〉では嫌なんです」
「わかるよ。……私も、友達がひとりもいなかった中学のときの〈常磐若菜〉じゃなくて、いつか誰かに呼んでもらいたいと思ってた〈トキワカ〉でいたいもん。明るくて無邪気な〈トキワカ〉として過ごしていたいから、臆病で内気な〈常盤若菜〉を隠してたんだから」
弱い自分を隠すため。それが彼女が嘘をついていた理由。
初めて会った日のことを思い出す。
トキワカって呼んでくれたら、きみは友達。
「もしかして、俺が初めてですか?」
「そうだよ。私がずっと温めてきたあだ名で呼んでくれたのは、銀朱くんが初めてなの」
心臓をきゅっと絞られるような、切ない気持ちになるが、単純に嬉しくもある。
ただ、僕とトキワカさんは、もう〈友達〉ではない。
「それじゃあ、……友達でなくなった今、俺はトキワカさんを、どう呼べばいいんですか?」
「銀朱くんが決めていいよ。……私は、恋人になってからも、銀朱くんって呼ぶから」
そう言ってトキワカさんは、僕の手を握った。
小さな手、冷たい手。細い指、柔らかい指。
握り締めれば潰れてしまいそうな華奢な手だが、彼女がそんなやわな人間ではないのを知っているので、僕も強く握り返した。
「それじゃあ俺も、トキワカさんと呼びます。……俺が知ってるのは、〈トキワカさん〉であるあなただけですから」
そしていつかは、と思う。
「……いつか、俺の知らない素顔の〈常磐若菜さん〉に会えたらな、とも思いますけど」
「それは……まだダメ」
「ダメですか」
「結婚してもすっぴんを見せない女もいるんだよ? 私が見せたい〈私〉を見て」
「……わかりました」
今はまだ、それでいい。
時間は―――僕たちが色恋に現を抜かせる青春の時間は、着実に減ってはいるが、まだたくさん残されているのだから。
「それじゃあ……名残惜しいけど、今日はお別れね」
「また連絡しますよ。今日の夜にでも。たくさん話しましょう」
「嬉しい」
それから数秒間、僕たちは見つめあったあと、キスをした。
自然と―――ほんの一瞬のこと。誰にも見られなかったような気がする。
「……最後にひとつだけ、俺から聞いてもいいですか?」
「なに?」
「結局俺は……最後の賭けを、当てることができたんでしょうか」
トキワカさんとの勝負、手本引き。
その最終十戦目で、僕は3に
勝てば恋人、負ければ一年間は会えない勝負で、トキワカさんは―――「正解よ」と言っただけで、サイコロをハンカチで包んだままリュックに入れてしまったのだ。
それがトキワカさんの〈返事〉だというのは理解しているが、どうしても気になった。
トキワカさんは、キスのせいか、少しだけ頬を紅潮させていた。
「……手本引きはね、実際に選んだ数字が何であれ、胴元が『3』と言えば、3も当たりになるのよ」
どちらでもいいじゃない、とトキワカさんは言う。
「2の平方根の小数点第十位なんて、なんだっていいじゃない。……円周率だって〈3〉だけでいいのよ。……3・14から先なんて、覚えなくてもいいの。忘れてもいいの。そこは本質じゃないんだから」
きっと何千桁もの円周率を諳んじることのできるトキワカさんがそう言ったのが―――僕には、たまらなく、嬉しかった。彼女を抱きしめたくなるほどに。
「銀朱くんを見てて思ったの。……この人の決めた選択が、私の答えでいいって。……そう思えたの。私のために真剣に考えてくれた銀朱くんの選択なら……」
旅の終わりは寂しいものだと思っていた。
しかし、最後の最後が、僕にとって一番、嬉しい思い出となった。
トキワカさんと別れ、雨の降る博多駅の中、母親に連絡を取ろうとしたが、歩きたくなったのでコンビニで傘を購入した。
俵のように大きなリュックを担いで、傘を開き、雨の中を歩き出す。
そうして―――考える。
どうしようかな―――と。
きっと僕とトキワカさんは、また旅に出る。
また列車を使うかもしれない。飛行機で沖縄にでも行くかもしれない。
もしかすると、いつか一緒に、海外に行くかもしれない。
さて、次の旅はどうしようかな―――と、僕は考えていた。
スマートフォンでパスポートについて調べながら、とりあえずお金を貯めないとな、と、雨雲の向こうの、どこかの青空を飛ぶ飛行機を想像しながら、僕は帰路を歩いた。
賭旅 ~カケタビ~ 朽犬 @pocket2
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