第22話 名古屋 ~ 博多 3
「私のうっかりだったけど、よく気付けたね」
「……褒められてる気がしません……」
僕の賭けた70ドルが四倍、280ドルになったのを、しかし僕は喜べなかった。
トキワカさんのメッセージに気付けなかったことが、第一に、悔しかった。
思い返せば、ヒントさえも提示されていた。
「一戦目の前に、『ここがポイントだからね』と言った理由が、ようやくわかりました」
てっきりゲームの進行手順についての
零戦目の〈1〉と、一戦目の〈4〉。その中間が―――まさしく
いや、たとえそのヒントがなくとも、トキワカさんが数字について執着していることくらい前々からわかっていた。2の平方根についても、神戸から金沢の車中で唄っていたのを、確かに聞いていたのに。
悔しがる僕の隣で、トキワカさんは穏やかな表情をしていた。
「√2ってね、小数点第十位まで、ぜんぶ1から6の数字なの。だから……だから、私を好きだと言ってくれる人には、この〈暗号〉を出そうって、ずっと前から考えてたの」
そんなに落ち込まないで、と肩をさすられた。
「銀朱くんに気付いてもらえて、とっても嬉しい」
「……でも、俺は、…………俺はもう、勝てません」
確率という意味でなら、まだ逆転の余地はある。手持ちの全てを、残る九戦目と十戦目で一点に賭けて当てれば、収支プラスで終えられる。
九戦目で出てくる数字は、2の平方根の小数点第九位だ。そこまでわかっている。
そこまでは。
「……俺は、語呂合わせの先を、知りません。……覚えていません」
誰が最初に考えたのか、有名な語呂合わせ、「一夜一夜に人見頃(1・41421356)」。この名文句によって、誰もが2の平方根を小数点第八位まで諳んじることができる。
しかし、その先を知っている人が、日本人にどれだけいるだろうか。きっとたくさんいるだろうが、一般常識の範囲内ではない。
「……覚えていないんです……」
トキワカさんのメッセージに気付けなかったことが第一に悔しくて、第二には、以前に彼女が〈答え〉を唄ってくれていたのに、それを僕が覚えていないことが悔しかった。
僕とトキワカさんの、大切な旅の思い出のひとつであるというのに。
俯く僕の隣で、トキワカさんは静かに、またサイコロを動かしている。
そして、ハンカチでサイコロを覆い隠すと、こう言った。
「……私の暗号に気付いてくれたから、大サービスで、アドバイスしてあげる」
八百長をしてくれるとは期待しないが、僕に顔を上げさせるには効果的な言葉だった。
「なんで私が、スマートフォンを使っちゃダメって言ったのか、わからない?」
「……え?」
「なんで私が、ノートとペンの使用を許しているのか、わからない?」
「それは……記録を……」
「なんで私が、九戦目と十戦目を、考慮時間無制限にしているのか、わからない?」
はっとした。
トキワカさんの助言は、本当に本当に、血が出るような大サービスだった。
「銀朱くんの根性を、見せてほしいな」
「……わかりましたっ」
僕はすぐさまノートをめくり、白紙のページを広げた。
そうして、ずらずらと数字を書き付けた。1・41421356―――4。それを二段に組んで、下線を引いた。
今までやったこともない、十桁×十桁の筆算だった。
考慮時間無制限とはいえ、博多に着けばそこで終わり。
それまでに―――求めなければならない。
2の平方根の、小数点第九位と第十位を。
トキワカさんが唄う次の数字を。
自分の力で。
僕は文系で、正確な定義は知らないが、2の平方根とは、二乗して2になる数字のことだ。
2の平方根は無限に続く無理数である。1・41421356……と続く√2は、どこかで区切って二乗すると限りなく2に近付くが、決して2になることはない。
僕が求めようとしている2の平方根の小数点第九位の数字も、それまでの九桁と合わせて二乗すれば、2に近い2未満の数字になる。
がりがりとペンを走らせ、二十分ほどで筆算と検算を終えた。1・414213564は、二乗すると2を超えた。すなわち、4と5と6は2の平方根の小数点第九位ではない。僕の求める答えではない。
手を止めずに次の数字を試していく。今度は1・414213562の二乗だ。これでもう一度、筆算の答えが2を超えれば、僕の求める九戦目の答えは1となる。2の平方根の小数点第十位までが1から6だとトキワカさんが明言したのだから。
そうやって僕は、愚直な筆算によって、虱潰しに可能性を消していった。
―――僕が頭のいい理系の高校生だったなら、もっと効率のいい計算法で2の平方根の語呂合わせの先を求められたかもしれない。単純に記憶していればもっと簡単だった。旅の途中でトキワカさんは一度、答えを言ってくれていたのだから。
しかし、今さらそんなことを悔やんでも、何の足しにもならない。
僕は―――松島銀朱は、頭のいい理系の高校生でもなければ、記憶力がずば抜けているわけでもない。自信のある才能など何もない。
だから、愚直な計算で、地道に〈答え〉を求めていくしかないのだ。
トキワカさん―――常磐若菜さんの隣にいたいのならば。
乱暴にがりがりとノートに数字を書き連ねる。慌しくペンを動かすものだから、5と6、4と9がほとんど判別できなり、頭を掻き毟りながら筆跡で判断する。
1・414213562の二乗の筆算は、検算の結果2未満になった。これで答えは2か3のどちらかに絞られたが、一点賭けで当てなければならないため、1・414213563の二乗についても計算しなければならない。
九戦目のあとに最終十戦目の計算もある。迷っている暇はない。すぐにペンを動かす。
トキワカさんは黙ったまま僕を見守っている。
約二十分後、
「……できた。2ですっ。2に全部賭けますっ。答えをっ」
筆算の結果、2の平方根の小数点第九位は2と判明し、チップの全てをテーブルに置いた。
トキワカさんは素早くハンカチをめくった。
「おめでとう。正解だよ」
ハンカチの下のサイコロの2の目を確認したのも束の間、僕はまた、すぐに計算に取り掛かった。時間が足りなさ過ぎた。
「僕は……計算しますっ! 手順を進めておいてくださいっ!」
次は1・414213562の次の数字を探るための、十一桁×十一桁の筆算だ。
まずは先ほどと同じように4を試す。これまでの計算で利用できる答えをできる限り利用して時間短縮に努め、どうにか十分ほどで、4ではない、という答えを手に入れる。十戦目の答えは1・2・3のいずれかだ。即座に今度は2を試す。
もし仮に、今ここでトキワカさんに「スマートフォンを使っていいよ」と言われたら、僕は迷わず電卓機能を使って掛け算を行っていただろう。電卓で√機能を使うことやネットで調べるというアイディアは湧かない。
急げ、急げ、急げ、急げ。
がりがりと頭皮を掻き毟りながら、膝の上のノートに数字を書きつける。心臓の鼓動が速い。恐らく息を止めて計算していた。高校入試でもこれほどまでに集中しなかったような気がする。
十戦目、二回目の筆算の結果は、2未満。九戦目と同じく、2か3にまで絞り込まれた。もう一度筆算が必要になった。
息を吐く。もうダメだ、まだ諦めない、そのふたつを同時に感じながら、泣きたくなった。唇を噛み締める。泣き言を漏らす時間さえ惜しい。
早く、早く、速く、速く、はやく、はやく……
あと少し、あと少し……
―――十一桁×十一桁の筆算が、最後の足し算になったところで、間もなく博多、というアナウンスが流れた。
最後の一呼吸までペンを動かしていたが、
「タイムオーバーだよ。ペンを置いて、銀朱くん」
トキワカさんが僕の右手を止めた。
「降りる準備もしないと。……さぁ、どれに賭けるか、選んで」
爪が白くなるまでつまんでいたボールペンを離して、ノートの数字を睨む。
ぎりぎり―――間に合った。
掛け算の筆算の、最後の足し算。手を止められる一瞬前に書き込んだ数字が9だった。
2の平方根の小数点第十位の数字が2であれ3であれ、その二乗した数字は限りなく2に近付く。問題は2を越えるかどうかだ。
僕が最後に書き込んだ9は、恐らく、1・999999……の9だ。
小数点第十位が4だと2を越えた。だから―――3だ。トキワカさんが選んだ数字は3だ。
そのはずなのだが―――検算をしていないので、合っているかどうかがわからなかった。これだけ時間に急かされての十一桁の筆算だ。ひとつでも計算ミスをしていればすべてが狂う。
周囲の乗客が降りる準備をする中、本当に3でいいのだろうかと煩悶した。
計算ミスで、本当は2かもしれない。4かもしれない。
どうしてもっと早くにトキワカさんのメッセージに気付けなかったのだろうと、考えても仕方のない今さらすぎる後悔さえもする。
決断しなければならない。どれかひとつに、僕の全てを賭けなければならない。
目を閉じて、開ける。
「き……決めました」
間違えだらけかもしれない。
それでも、必死に考えて導き出した、大切な〈答え〉だ。
青春を賭すには、自分を信じたほうが、負けても納得できる。
―――新幹線が、博多駅に到着した。
「僕は、3に賭けます」
「……3ね」
トキワカさんは僕の意思を確認してから、ハンカチを掴んだ。
そして―――
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