第21話 名古屋 ~ 博多 2
走る新幹線の中、前のシートの背もたれについているテーブルを下ろして、その上に、今回のゲーム〈手本引き〉で使うことになるチップを置いた。ドル表記で3650ドル分のおもちゃの紙幣だ。
「ゲームが終わるまで、スマホは触らないでね」
「なぜです?」
「この勝負には、必要のないものでしょ?」
「……わかりました。出目の傾向の記録を取るのは?」
「それはもちろんいいよ。ノートとペンを使ってね」
僕は自分の膝の上にノートとペンを置いた。
準備が整った。
「始めますか」
「うん。……でも、その前に……とりあえず一回、賭けはなしで私が目を選ぶから、それを次からの勝負の参考にして」
トキワカさんはテーブルの上のサイコロにハンカチを被せ、そこに手を差し込み、僕には見えないようにかたかたとサイコロを動かしてから、手を引き抜いた。
サイコロを頂点に、ハンカチがテーブルの上でなだらかな丘になっている。
「私が選んだのは……1」
そう言ってからトキワカさんは、ふわりとハンカチを取り払った。その下にあったサイコロは、赤が天を向いていた。
「私がデタラメにサイコロの目を決めないために、選んだ目を口で言ってから、サイコロを見せる。ゲームもこの手順で進めるから」
「はい」
「……ここがポイントだからね?」
「え?……はい。わかりました」
妙に強調して言い含めようとするトキワカさんに、僕はとりあえず頷いてしまった。すると、トキワカさんは何故か不満そうな顔になった。
「……じゃあ、始めるから」
「はい。お願いします」
ノートの白紙にとりあえず1と書き記した僕が見つめる前で、トキワカさんは先ほどと同じ手順で、僕には見えないようにサイコロをかたかたと回した。
「考慮時間は……五分間にしようか」
トキワカさんは自分の手首の腕時計に目を落とす。
「最後の二戦だけは考慮時間の制限なし。博多に着いたらそこで終わり。いい?」
どうして最後の二戦だけ、と思ったが、異議を唱えたところでルールを決めるのは結局トキワカさんだし、どのみち博多に着くまでが制限時間だ。
「おーけーです」
「じゃあ改めて……スタート」
そこから五分間、僕とトキワカさんは沈黙した。
トキワカさんは腕時計の文字盤を見つめ、僕はハンカチの下のサイコロを見つめた。
僕に透視の超能力でも備わっていればわけのないことだが、そんな馬鹿げたことは脇に置いて―――考える。
トキワカさんが、1から6までの目の中で、何を選んだのか。
これが純粋に一度目の挑戦だったのなら、何の判断材料もない六択の問題だが、考える手がかりはある。トキワカさんがゲームの前に、1を選んでみせたことだ。
とりあえずは「1か、それ以外か」の二択を考える。ゲーム開始前―――零戦目と呼ぶとして、その回に1を選んだトキワカさんは、一戦目にも1を選ぶだろうか。
それはないだろう。僕の思考を誘導するにしても、僕が「また1を選ぶ」と判断してしまえば一点賭けで当たってしまう。期待値上の有利があるトキワカさんがそんなリスキーな選択をするとは思えない。これが真剣勝負である以上、トキワカさんは手を抜かない。僕に勝ちに来る。僕の読みを外そうとする。だからこそ連続で1が来るというのも十分ありえるが、まだ有効なミスリードを誘うほどの伏線がない。だから一戦目は1以外の、1と関わりの薄い数字が来るのではと予想。
数列上の1の隣の2ではない。サイコロの構造上、1の真裏に来る6でもないだろう―――と、考えを進めるにつれて、どんどん自信がなくなっていく。
判断材料が少ない。もちろん「できる」つもりで挑むが、トキワカさんの思考を読めるはずがない。一戦目は外すつもりで当てに行かなければならないのだろう。
リスクを背負わなければギャンブルではないのだ。
「決めました。3、4、5に、10ドルずつ」
「3と4と5ね」
僕がおもちゃの十ドル紙幣をテーブルの上に出すと、トキワカさんはリュックの中から三個のサイコロを取り出して、それぞれ345が天を向く格好で一枚ずつ文鎮として置いた。
賭けが揃い、トキワカさんはハンカチをつまむ。
「私が選んだのは……4」
トキワカさんがハンカチを取り払うと、宣言どおり、4の目を出しているサイコロが現れた。
「はい。おめでとう」
外した目に賭けたチップが没収され、当てた目に賭けたチップに三倍が足された。淡々とした祝福に対して、僕のほうも快哉を上げる気分にはなれなかった。まだ一戦目。トキワカさんの選択を読みきったわけではない。
トキワカさんが再びサイコロの目を選んで、ハンカチで隠す。二戦目の始まりだ。
ノートに数字の4を書き込んで―――さて、次の数字は?
数学の授業を思い出す。サイコロというのは不思議なもので、それぞれの出目は六分の一で出るのだが、六回振ってすべての目が出る確率は2%を切る。サイコロを六回振るくらいでは、98%以上の確率でいずれかの目が重なるのだ。
普通のサイコロなら、同じ目が出ても不思議ではない。しかし、このゲームの出目は、トキワカさんが自分の意思で決定している。運任せではないのだ。
だとすれば―――現状のトキワカさんは、同じ数字を選びにくいのでは? 心理学を学んだことはないが、心理的に偏りを避け、一度も出ていない数字に意思が流れるのでは?
理由はこじつけでもいい。このゲームに勝とうと思ったら、選択肢を三つ以下にまで絞らないといけない。
1と4が来ないと仮定し、4を境目として、大きい数字(56)か小さい数字(23)か。1と4を可能性から排除したのは〈きっと偏らない〉という前提による。その前提に則るならば、そもそも4がサイコロの中では大きい数字であるため、連続して〈大〉に偏らないのではと予想する。
思考をまとめ、僕は2と3に、10ドルずつ賭けた。先ほどと同じように、2と3が上を向いたサイコロを紙幣の文鎮にする。
結果は―――
「私が選んだのは……1」
―――大外れだった。前提から間違えていた。
偏りのある選択をすれば、プレーヤーの判断がそっちに流れれば一点賭けで当てられる可能性もあるのに、トキワカさんはリスクのある選択をした。
続く三戦目で、僕はまたしても2と3に10ドルずつ賭けた―――が、トキワカさんは驚いたことに〈4〉を選んでいた。
ノートに四つ目の数字を書き込んで、四戦目。
外したこととは別の事柄について苦悩する。
零戦目の1も加えると、これまでのトキワカさんの出した目は、1414だった。
明らかにトキワカさんは、自分の意思で出目を偏らせている。
ここがひとつの分岐点だということはわかった。
1414と来て―――次は、また1か、それとも今度こそ違う数字か。
ぐるぐると巡る思考の渦の中で、これが〈手本引き〉の妙味かと理解する。相手がサイコロではなく人間であるだけに、余計に頭を働かせなければならない。
14141414141414……僕の頭の中で、ふたつの数字が吐き気を催すほどに駆け回る。脳内に「次も1だ」と主張している自分もいれば、「1以外だ」と反論する自分もいる。
偏りを主張したトキワカさんが、ここでまた1を選択するのは、僕に当てられることを考えればとてつもなく危うい。僕ならこの辺りでほかの数字に出目を散らすだろう。だが、僕がそう考えるのを見越してトキワカさんが1を選択しているとしたら? あるいは、数列の順序を縮めて4を選択しているとしたら?
残りのチップを数えると、開始時から30ドル分のマイナスだった。
―――結局、安易なほうに思考が流れてしまった。そしてなおさらに悪いことに、負けた分を取り返そうと、欲を出した。
僕は1と4に50ドルずつ賭けた。きっとまだまだ偏らせてくる、と予想した。
「私が選んだのは……2」
―――ここを外してからは、坂を転げ落ちるように負けていった。
負けを取り返そうとして負けはじめた。
五戦目、次は大きい数字だろうと、456に50ドルずつ賭けた。
「私が選んだのは……1」
金こそ賭けていないが、僕はギャンブルに飲み込まれた。
六戦目、ぐるぐる考えた末に、今度こそ大きい数字だと、56に300ドルずつ。
「私が選んだのは……3」
負けが負けを呼ぶ。ギャンブルの負けをギャンブルで取り戻そうとするとこうなるという典型。ギャンブル中毒者はこうやって破産するのだろうと身を持って体験した。
この勝負で、仮想の額面よりも大事な物を削られているような気がした。負ければ負けるほどに、トキワカさんが遠ざかっていく気がした。焦りから、手の中が汗で湿るのを感じた。
七戦目―――これまで比較的に奇数が多かったので、246に900ドルずつ賭けた。これまでの記録から、さほど心強い根拠でもなかったが、何かしら理由をつけなければ賭けることができなかった。
この時点で僕の残りのチップは2770ドル。900ドルの三点賭けは、ほとんど有り金のすべてで、当てればこれまでのマイナスをきれいに取り返せるが、外せば絶望しかない。
いっそトキワカさんが忠告してくれたように、今回の勝負を諦めて、負けを増やさないように賭けようかとも一瞬考えた。ここで諦めれば、再戦のための空白は三ヶ月ほどで済む。
しかし―――自分がどこにいるのかもわからないくらいに勝負に熱くなっていた、ということももちろんあるが、ここで勝負を諦めてしまうと、たとえ日を置いてトキワカさんに挑戦しても、結局負けてしまうような気がした。ずるずるだらだらと負けに慣れてしまう気がした。
そもそも、三ヶ月だろうが一年だろうが、トキワカさんが待ってくれるという保障もない。勝負はこれっきりかもしれない。
だから、勝ちに行こう、と心に決めて―――2と4と6に、900ドルずつ賭けたのだ。
総額で2700ドルの大勝負に、しかし僕よりも先に結果を知っているトキワカさんの表情は、淡々として変わらない。
平坦な声で、作業のように、サイコロを隠すハンカチをつまむ。
「私が選んだのは」
おいでませ……
「……5」
……絶望。
走る新幹線の中、自由席のひとつのシートで、膝の上に肘をつき、頭を抱える。
僕の右手には、残った十ドル紙幣が七枚だけ。3650ドルで始めたゲームが、八戦目を前にして70ドルにまで減っていた。
僕にはギャンブルの才能がないのだろう。野望などない身だ。なくて幸いかもしれないが、このときに限っては寿命を縮めてでもほしい才能だった。
敗北の二文字に押し潰されて僕が俯いていると、隣でかたかたと音がした。トキワカさんが八戦目の準備をしているのだろう。パスは禁止のルールだ。チップが残っている限り、僕は賭け続けなければならない。当てたところで焼け石に水だろうが。
むくりと顔を上げると、腕時計を見つめるトキワカさんが、スタート、と言った。五分の考慮時間の始まりだ。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「シロさんは……どこまで戦えました?」
金沢からの新幹線での勝負は、シロさんが負けたとは聞いた。しかし、どのように負けたのかまでは知らない。
十戦終えて、チップを少しでも残したのか、それとも―――
「シロさんは、もっと早くにチップをすっちゃったよ」
「……そうですか」
とりあえずはシロさんよりは戦えたのかもしれないが、せめてシロさんよりは、という張り合いを失った気分になった。
「一度はチップを倍くらいまで増やしたんだけど、次のゲームで全部張って、結局すってんてんになっちゃった」
「……馬鹿なんじゃないんですか?」
「銀朱くんとは勝利条件が違ったからね。……それに、『守りに入るのは嫌なんだ』って言ってた。『そんな気の抜けたプレーは見せたくない』って」
「なるほど。……かっこいいですね」
「そうかな? 私の本意じゃない。みっともなくても、ずるくても、最後まで勝負してほしかったな」
トキワカさんは不満そうだが、僕としては、さすがは〈見られること〉を仕事にしているだけはある、と思える。負けを取り戻そうとしてずるずると賭け金を吊り上げてしまった僕とは、勝負事の哲学が違う。
見習いたいと思った。
「その全額勝負って、何戦目のことです?」
僕がそう尋ねると、トキワカさんは、僕の膝の上に開かれたノートに手を伸ばした。
「ここ」
トキワカさんは、これまでの出目の記録、その数列上の〈2〉を指した。
まだ四戦目じゃないか、せっかちだな、と思って―――
「……」
―――ふと、かすかな違和感が頭を掠めた。
何か―――何か、ものすごく変なことが起こった気がする。
とてもとても奇妙なことを、トキワカさんは言った気がする。
自分の八戦目の選択について考えなければならないときに、しかしその違和感を無視することができなかった。
頭の中でもう一度、今起こったことを再生してみる。
僕が「その全額勝負って、何戦目のことです?」と尋ねると、トキワカさんは、人差し指でノートの数列の〈2〉を指し、「ここ」と言った。
何戦目、の問いに対し、ここ、と。
ここ―――〈2〉であると言った。
「……まさか」
そんなはずはない、と思いたい。
ぐるりと首を向け、トキワカさんを凝視した。
「トキワカさん。まさかですけど……俺とシロさんは、同じ道を辿っているんですか?」
僕からの問いに、トキワカさんは、沈黙で答えた。
しかしわずかに歪んだ表情が雄弁に物語っていた。「しまった」と。
トキワカさんは受け答えのミスをしていた。
そのミスによって導き出されたのは、僕とシロさんに対して、トキワカさんはまったく同じ目を選んでいるという事実―――そして、恐らくは、十戦目まであらかじめ、トキワカさんのプランが決まっているという事実。
「……!」
僕はすぐさまノートの上に視線を落とし、零戦目も含めたトキワカさんの八回の選択、出目の数列に目を落とし、何度も何度も数字を眺め回した。
何か法則がある。確信できる。
本来、プレーヤーに合わせていかようにでもトキワカさんは出目を選択できるはずなのに、彼女はそれを放棄して、あらかじめ決めた道筋をなぞっている。そこには何かしらの意味があるはずだった。なければそんなことをするはずがない。
勝負はまだ終わっていない。
考えろ。考えろ。考えろ。
「14142135……14142135……14142135……14142135……」
八桁の数字をぶつぶつと呟いて、思考の渦の中に自ら飛び込んでいく。その渦の中心に潜むはずの何かを求めて。
「……14142135……」
時間ばかりが過ぎていき焦りが募る。せっかく掴みかけた手がかりが無になろうとする。
落ち着け。
目を閉じ、呼吸を整える。この世に焦って解決する問題はない。
目を開いてから、数字を改めて眺めるに―――〈仲間はずれ〉を見つけた。
最初の1だ。これだけは賭けが乗せられていない。
思いつきのままに、最初の1と次の4の間に斜線を引いてみる。
「……ぐっ!」
―――ボールペンの小さな軌道が、瞬く間に意味を持ち、〈答え〉を切り拓いた。
「…………ぐぎぎっ!」
八桁の数列の持つ意味、その〈答え〉は、僕にとっては痛恨の極みだった。
「くっそぉ……!」
握り締めてくしゃくしゃになった十ドル紙幣を七枚、テーブルに叩きつけた。
「わかった……わかりました……っ!」
そうしてテーブルの上のサイコロ、そのひとつを掴み、ぐりんと回した。
選んだ目を天に向け、重ねた十ドル紙幣の上に置いた。
「……6です。トキワカさんが選んだ数字は、6です」
もっと早くに気付けたはずだった。
新幹線の中ですれ違っただけのシロさんよりも、一週間も旅を共にした僕のほうが、その可能性があったのだ。
「……
それなのに―――
「トキワカさん、あなたは……√2を、2の平方根を、サイコロで唄っていたんですね……!」
僕が苦しく呻くのに対し、トキワカさんは、
「大正解っ」
久しぶりに晴れやかに笑って、サイコロを隠すハンカチを取り払った。
見るまでもなく、ベールから現れたサイコロは、昆虫の複眼のように六つの黒が並んでいた。
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