しあわせの定義

ゆとれヒト

1つ目「コーヒーのしあわせ」

幸せの定義は、人それぞれだ。


自分が考える幸せ、自分が見える幸せ、他人と分かち合う幸せ。

世の中には、人の数だけ幸せがある。

そういうものだろう。


7月21日、日曜日15時。雨。


新宿の裏にひっそりと立っているカフェ「あおぞら」で、森雅之はパソコンに向かって仕事をしていた。

仕事といっても、殆どの時間はフェイスブックを覗いて、エレファントカシマシの「今宵月のように」を聴いているだけだ。


来月で30歳になる森雅之は、エレファントカシマシが大好きだった。



いつまでも続くのか、吐き捨てて寝転んだ。

おれもまた、輝くだろう。今宵の月のように。


いつの日か、輝くだろう。



心地よいサウンドと、歌詞が好きだった。

ライブにも毎年足を運んでいた。


森雅之は、毎週末このカフェに来ていた。

すこし古臭い店構えが、昭和の匂いを残していた。


90年代のアメリカのポップソングに、壁一面に飾られた絵。

白黒の猫の写真に、すこし埃のたまった棚の上のブリキ人形。

ブリキの人形は、ジブリ映画にでも出てきそうな風貌をしていた。


日焼けしたメニューと、何を頼んでも必ずついてくる「バナナ」。

カフェでも、コーヒーでも、カレーでも必ず「バナナ」がついてきた。


新宿にあるこのカフェは、15人ほどしか入ることができない小さなカフェだ。

こじんまりとしており、昔からこの場所にあるらしく、客どおしの顔なじみが多い店のようであった。

今では、森も他の客に挨拶程度はできるようになっていた。


「マスター、コーヒーおかわり」森は、入り口から一番奥のバーカウンターにいる、マスターに声をかけた。


その声で、右側に座っているカップルが、ちらりと森を見た。

森はすこし気まずそうに目を伏せる。


隣のカップルは、いわゆる口論(別れ話)をしており

かれこれ1時間も、彼氏側の浮気について彼女が問いつめている。


彼女が森の右隣に座っているので、森には彼女の顔は見えない。

ちょうど右斜め前に彼氏が見えるが、彼氏は大学生だろうか。

茶髪に、体格のいいおしゃれなイケメンであった。

顔が綺麗で、最初は女性かと勘違いしたほどだ。


1時間ネットサーフィンをしながら概要を聴いたところによると

どうやら彼氏が、最近彼女に冷たいようだ。


また、長時間連絡が取れないことがあるようである。

(こりゃ浮気だな)森はそう、判断していた。


人並みに恋愛をし、自分は浮気をした事はないが、

客観的に友達などの話を聞いた経験からすると

彼女の問い詰めている内容は、まさに、浮気のようであった。


「彼女がいるんでしょ!?私の他に」そう彼女は、すでに潰れたストローを噛みながら言った。


彼氏は黙っているが、その表情が、苦虫を噛んだようである。

あの表情をしていたら、だれだって「そうです」と捉えてしまうだろう。


チリンチリン


「あらやーね!おたくの猫ちゃんの方が素敵ですわ!ウフフ。」


彼氏の後ろのカフェのドアが開いて、四谷のマダム風な2人組がカフェに入ってきた。

手には猫を入れるケースだろうか?2人とも大事そうにかかえていた。


「店員さん、2名!座れるかしら?猫ちゃんもいるの」


マスターと話をしていた、アルバイトの女の子が、奥から出てきて案内をする。

大学生ぐらいのアルバイトの女の子は、笑顔で接客をする。


「はい、こちらにどうぞ。」ちょうど森の向かい側にマダム2人が座った。

手前のマダムは三毛猫を抱えており、奥のマダムは白いペルシャ猫を抱えていた。


彼氏は、すこし五月蝿いな、という表情をしながらも

すこし、助かったような表情をしていた。


「ちょっと、聞いてるの?」彼女が追い詰める。


どうしてこう、女性の勘と言うか、

男性の気が散っている時の反応は早いのだろうか。


シックスセンスとでも言うのか。

完全に彼氏側は押されている。部が悪い。


左に目を向けると、マスターもバーカウンターの中から、

僕の隣のカップルを見ている。


マスターともなると、こう言った現場はよく見ているだろうに物好きだな、

と僕は思った。


「お願いします。」


マスターはそっと音が鳴らないように、

僕のコーヒーをカウンターに置いて、アルバイトに渡した。


雰囲気からすると、彼氏が色々言い訳をそろそろ始めるころだ。

アルバイトの子がトレーにコーヒーを乗せ、すこし僕に微笑んで、

こちらに歩いてくる。




彼氏が深呼吸をし、唾を飲んだ。




おそらく店の誰もが、それに気がついただろう。


マスターの視線も熱い。

完全に我々は野次馬だ。



「実は・・・」彼氏が、ゆっくりと喋り出す。



「彼氏ができたんだ。」



「え?」彼女より先に、アルバイトの女の子が声を発した。



右のカップルをみていたが、その「え?」の声が大きすぎて

僕は思わずカップルから目をはなし、アルバイトの女の子の方をみた。



時間が止まったようだった。

アルバイトの女の子はのネームプレートには《草りこ》と書いてあった。



(そうか、このこは草さんか)

そう思うか、それとも頭で認識しただけか、もう覚えていない。



確実な事は漆黒の液体が、自由に空中に放たれ、僕を目指してやってきたのだ。



「え?」のあとに、ガシャという、セトモノが擦れる音がした気がした。

それは、現実だった。



その漆黒の液体は、徐々に僕に迫ってくる。



その奥に少し微笑みながらも「やってしまった、やばい」という表情をした草さんが見えた。



液体の大きさが拡大し、確実に僕に迫ってくる。



空中で湯気が立ち、それは淹れたてのコーヒーである事を僕に伝えていた。


大きな液体の少し手前に、雨粒ほどの液体が見える。



おそらく、こぼしそうになった一瞬、草さんがバランスを取った時に、

先にあの液体の塊から卒業した子だろう。



あと0.2秒。僕は考えた。



避けようか。

それとも、手で少しでも自分にかからないように、ガードしようか。



漆黒の液体は15センチほどの縦長になり、店の照明に照らされ

むしろ漆黒から、光さす液体になっていた。




結局、なにも回避行動が取れずコーヒーは僕にかかった。


デニムを履いていたので、そこまで熱くもなく、

コーヒーのシミができただけだった。




右隣のカップルはどうなっただろう。

どうやら、まだ揉めているようだ。




幸せの定義は、人それぞれだ。




コーヒーをこぼしてしまった草さんは、

僕にお手拭きを3枚ほどもってきたが

何故か、はにかんで、幸せそうな表情をしていた。

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