第3幕 貴方の腕に抱かれて終わりたかった
屋敷の外は相変わらず闇が支配していた。
光源不明の仄明りに照らされ、俺達五人は走る。
「ユメ、次はどの辺り?」
ユメは目を細める。
「少し、遠そうです。一度まかなければ厳しいかと」
「さっきみたいに蹴散らせばいいだろ」
さっきみたいに一撃で仕留めるのが、間違いなく一番手っ取り早い。
しかし。
「それは……無理です」
「無理? 何でだよ」
「どうしてもです。今回は他の方法を試みます」
腑に落ちない回答だった。
「アアァァアァアアァアアァアアァアアァァアア!!」
おどろおどろしい
「なっ!?」
音が届いたのは上空からだ。
疑問を抱きながら振り仰ぐと、ヤツが、いた。
月のない夜空に、淀んで腐ったあの黒が。
昏い空は、黒雲に汚染されていた。光源を遮断する黒雲は幾重にも重なって蠢き、空を覆いつくそうとしている。中心では血走った眼球が一対の月のように輝き、浮遊しながらこちらを追跡していた。
「空からねぇ、器用なこと」
どうしてあれが飛べるんだよ。
「くそっ、ふざけんな!」
立ち止まったらオシマイだ。ユメを先頭とした集団は歩を緩めず、ひた走る。
「上から見られてたんじゃまきようが無いだろうが! どうすんだよ!」
「大丈夫だよ」
「大丈夫だよー」
苛立つ俺を、遅れる事なくついてきた黒猫が笑う。
「お前らなぁ」
些細な笑顔ですら頭に血が上ってしまう。多分、追い詰められているからだ。
「だってスイがいるんだもん!」
「イツキもいるもん!」
「スイ強いんだよ?」
「イツキも!」
「あーそうですか!」
信用ならない。おまけに二人の言葉を噛み砕く余裕もない。
「怒らないでよぉ。スイもイツキも嘘ついてないのにー」
「ないのにー」
抗議に、無言で視線を外した。
これ以上口を開くと汚い言葉が出てきそうだった。
「アアァア……」
後方からは絶えず呻き声が聞こえる。
まだ次の手掛かりへは辿り着けない。隠れても見つかるに決まっている。
八方塞がりだ。
「この化け物がっ」
思わず上空へと悪意を吐き出した。
「アアァアアァアァァアァアアアァアアアァアアァアアァァアアアアァアアアア!!」
暴言から一呼吸おいて、凄まじい金切り声が一帯を震わせる。
音の暴力に、俺と朱音は耳を塞いで足を止めた。ユメと黒猫も顔を顰めて立ち止まる。
「くぅっ、耳が……」
数秒後、長い絶叫は不快な耳鳴りを残して絶えた。自分の発した声ですらまともに聞き取れない。鼓膜に纏わりつく雑音に一時的に聴覚を奪われていた。
朱音やユメが何か喋っているが、聞き取れない。
「――斗! 来るわよ!」
数秒の後、ようやく鼓膜を震わせたのは、朱音の緊迫した叫びだった。
「……え」
そして、その背後に鳴り響くのは、くぐもった濁音。
ぶぶぶぶぶ、と上空から得体のしれない音の集団が近づいてくる。
相変わらず赤い目玉はこちらを睨み、黒雲は広が……いや、違う。
もう雲ではない。
黒は霧のような細かな点となってこちらへ向かってきていた。
「ユメ!」
来る。
濁音を響かせて、黒塗りの
子供の頃俺を刺しやがった忌々しいやつらが、化け物と同化して。
「焼き尽くします!」
白銀の髪が舞う。
立ち竦んでいた俺はいつの間にか少女達に護られていた。ユメを先鋒にスイとイツキが続き、隣には朱音。
まるで亡国の姫様みたいだ。
「火傷しますから、あまり近づかないでくださいね」
降り注ぐ蝱へユメが左手を翳す。
すると手のひらを起点に激しく炎が噴き出した。轟轟と吹き荒れる火炎放射は蝱を迎え撃ち、一網打尽にしていく。
熱風が髪を揺らし、ちりちりと肌に熱を感じた。
漆黒の群れはその熱に慄く事もなく、次々に炎に飲まれては消える。
灰にもならずに、一瞬で掻き消えるのだ。
よし、これなら焼き殺せる。
僅かに沸いた希望はそう長くは続かなかった。
いくら火炎放射を続けても、遥か彼方に浮かぶ本体までは届かない。加えて蝱の数があまりにも多すぎた。
燃やせども燃やせども害虫どもは無数に飛び込んでくる。羽音が途切れる時は、やってこない。
「ユメ、ごめんなさい……」
「まだ、いけますっ!」
次第に火炎は威力を失い、半透明のベールのように前方ではためくだけの状態となってしまった。
ユメが圧されている。
苦し紛れに数回、本体を狙って火球を放つも黒い虫の壁で阻止された。たった一度でさえ、あちらに目に見えるダメージを与えられないのだ。
「つうっ、あぅ……」
前触れなく朱音が苦しそうに胸を押さえ、体を屈めた。
「朱音? どうした?」
「放っといてよ……」
強気な台詞とは裏腹に顔からは血の気が引き、脂汗が滲んでいる。
「この状況で放っておけるか」
ユメの作り出す炎のベールは既に風前の灯火。そのうえ、朱音まで。
非力な俺はミコトである二人に頼らなければ、あの赤目玉に喰われしまう。そして、純粋に心配だった。
「ユメちゃん、お腹空いちゃった?」
「ユメちゃんいつもの?」
後方で構えていた黒猫がユメを見上げる。元気に耳を立てたまま、不安の色も見せずに。
「お恥ずかしながら、そろそろ、です」
声が掠れていた。
俺の位置からでは表情を覗えないが、声色だけで十分苦しみは伝わる。
火力を保つためか、手首に片方の手を添え「あと少しだけ」と呟いたのが聞こえた。
切迫した状況下で、黒猫達は瓜二つの顔を見合わせて首を捻る。
「んーとねー」
まるで合わせ鏡だ。
「じゃあイツキが交代!」
元気に挙手したイツキはその場でくるりと舞った。
「すみません……よろしくお願いします」
「はーい。いっくよー、せぇーのっ!」
掛け声でユメとイツキの立ち位置が入れ替わる。薄く頼りない炎の幕は掻き消え、代わりに蝱の群れを襲ったのは――
「びゅーん!」
目視可能な程の風圧を伴った、乳白色の刃だった。
「びゅーん! びゅーん!」
暴風に一瞬だけ、朱音の純白が映る。
くるくると回る続けるイツキはただひたすら刃と暴風を生み出し続けた。
数多の刃は蝱を切り刻み、押し返す。鎌鼬といえば妥当だろうか。凶器と化した風は、道路沿いの樹木から青葉を奪い、昏い空へと舞い上がらせた。
「もぉーっとびゅーん!」
くるくる、くるり。
特大の刃が群れを圧倒する。黒は上空まで押し上げられながら数を減らし、徐々に淡くなり始める。
羽音も厚みを無くして弱々しく、か細く変化していった。
ああ、なんてこった。こんなのってありかよ。圧巻の攻撃に目を奪われたまま、じっと濁った空を見上げていた。
凶悪な風圧に抗おうとした蝱は群れを崩し、一匹また一匹と消えていく。生産スピードがイツキの刃に敗北したのだ。
こいつ、本当に強かった。
「びゅびゅびゅーん!」
生み出された
イツキが回るのをやめて、風は収まる。
残るは一対の目玉と、目玉を囲む靄のみ。
「よしっ。皆、一旦場所を変えるわよ」
「なぁ、大丈夫か? 顔、すげぇ青いけど」
「煩い。黙ってて」
青白い顔の朱音に従い、俺達は移動を開始する。
冗談染みた顔色に心配は残るが、気遣ってもこの言われようだ。
余計なおせっかいは火種になりかねない。本格的に動けなくなったらおぶってやろう。
しかし、簡単にはあちらも諦めてくれない。走れども走れども、振り仰げば深紅の目玉がこちらをじっとりと睨めつけてくる。
散らさなければ永遠に追ってくる。
絶望の原因を突き止めなければ、ここから出られない。
「なぁ」
一つ、気になる事があった。
喘ぐように呼吸する朱音に尋ねるのは心苦しい。だが、解決しておかねばなるまい。
スイとイツキ、それにユメは、俺達から五メートル程度後方で上空を監視している。各々の疲労は着実に蓄積し、ユメや朱音ですら例外でなかった。だからなのか、声をかけ辛い。
時折ユメから方向の指示が飛ぶが、会話と呼ばれるものはあまり無かった。
「わ、私が護るから心配しないで」
「それは知ってる。俺が聞きたいのは別の事」
「何かしら」
額から汗が伝い落ちる。
「荒御魂を鎮めるって、具体的にどうすればいいんだ?」
「あら、言ってなかった?」
「だから聞いてるんだよ」
一瞬、目が泳いだ。説明不足は癖か何かだろうか。
「荒御魂が対象者と一番叶えたい事……そうね、絶望を打ち消すだけの希望を与えてあげるの」
「例えば?」
「行きたい場所に行かせてあげたり、やりたい事を可能な限りやらせてあげたり、色々よ。突拍子もない事から些細な事まで多種多様」
「ふぅん」
気の抜けた相槌を返すと、朱音は更に続ける。
「きっと今回の荒御魂は、湊斗の傍にずっといた子よ。見えなくともずっと一緒に生活していた子。おきぬさんは正体を知っているんでしょうけど、今となっては、ね。でも、おきぬさんや貴方と近しかったからこそ、思い出があるだろう屋敷をフィールドにした。妖の見えない貴方のちょっとした言動で傷ついて悲しみ、今まさに苦しんでいるの」
「傷、なぁ」
「そう、傷よ。これまでの手掛かりが全て重なった日の出来事を求めて、もがきのたうち回っている。だから鎮めてあげなきゃならないのよ」
「俺の言動、傷つける……うーん」
思い当たる節は、やはり無い。
「その思いの源を知るのは湊斗、貴方一人だけ。私とユメがいくら思いを巡らせても答えは得られないもの」
「朱音様、湊斗様、二つ目の角を右折してください」
ユメから久しぶりに指示が飛ぶ。
「了解」
「ありがと」
軽く頷き、走り続ける。
「湊斗」
「ん?」
「さっきは、その、ごめ――」
ブロック塀が途切れたところを、指示通り右へ、曲がり、そこには。
闇が、蠢いていた。
アスファルトも塀も黒く塗りつぶされ、表面がタールのように流動している。
「なっ」
足を止めた時にはもう、手遅れだった。
一面の黒色から二の腕で切り落とされたかのような両腕が生まれ、俺へと突進してきたのだ。
「危ない!」
立ち竦む俺は、朱音に押し倒される。
後頭部から、臀部にかけて鈍痛が走り、視界が琥珀色に変わった。
「ひ、が、あああぁぁ!!」
絶叫が耳元で木霊した。
腕は覆い被さった朱音へと襲い掛かったのだ。次いで肉の抉れる音が聞こえ、背筋が凍る。
「あああぁああぁあぁ!!」
「朱音様ぁっ!」
「凍っちゃえ!」
絶叫に紛れて、少女達の悲痛な声がした。
瞬間、気温の感じられない世界に冷気が立ち込める。
琥珀色に邪魔されて、現状を把握できないでいた。
くそ。
縫い付けられたように押し倒された身体が動かない。非現実の連続で頭がいかれて、自分の肉体すら操れなくなってしまったらしい。
絶叫が終わったのは、冷気に包まれてから数秒後の事だった。
「うぅ、あ……んっ……」
「朱音様、朱音様!」
ユメが朱音を呼び、華奢な体が俺から離れた。
「あか、ね」
ようやく身体を起こすと、傍らでユメに抱き留められた朱音が脇腹を押さえていた。
眉を顰めた苦悶の表情にはびっしりと汗がこびり付き、息も荒い。
「そんな……」
セーラー服はまだらに血に染まり、抑えている脇腹からもじわじわ赤が滲みだしていた。背中は確認したくなかった。
「みな、と。けがは、ない?」
歪んだ笑顔が俺を気遣う。
あまりに呆然とさせられて「あぁ」とだけしか返せない。庇われた俺は無傷だった。
「よかったぁ」
ほっと息をついた朱音を、ユメが抱き締めた。耳を寝かせ、悲壮の面持で、強く優しく。
「みなと」
「みなと」
不安なのは黒猫達も変わらない。二人は俺の左右を囲み「へいき?」と見上げてくる。耳からは元気が失われ、ぺたりと萎れていた。
「朱音のお蔭でな」
無理やり口角を上げると、左右から頭を擦りつけられる。
「スイがね、朱音ちゃんに痛いことした腕を凍らせてね、お城も作ったの。氷のね、お城だよ。だからもう怖くないよ」
「朱音ちゃん、痛い?」
懐に縋り付いたままイツキが朱音を労わる。
「……いたくな、いわ」
「うそつき」
「う、そじゃない」
イツキは首を横に振る。
口を一文字に結び、流れるような動作で俺から離れて朱音の腰に腕を回した。
「痛いの痛いのとんでゆけ」
囁かれたのは馴染みのある文言。子供騙しの古いおまじないだ。
だが、おまじないは甘く芳しい木香薔薇の香りを連れて、実体を現す。
巻き付かせたイツキの腕周りから、緩やかに白く可憐な花が咲き始めたのだ。八重の花は幾つも連なり、朱音の血で染まったセーラー服を白く白く、埋め尽くしていく。
そして、開ききった花弁から次々と地に落ち、褐色に朽ちた。ぽとぽとと花の落下は続く。幾百の強い香りを纏った花が全て絶えた頃には、セーラー服の紅色は跡形もなく消えていた。
「ちょっとだけだけどね、これで朱音ちゃん冷たくならないでしょ?」
「ん……」
幼い腕が解かれ、朱音が身動ぎする。
「朱音様」
ユメの介助の元、ゆっくり身体を起こし自身の脇腹を摩って確かめた。
「う、ん。これなら、いけるわ。イツキ、ありがと」
左の脇腹を摩った時、顔を顰めたのを俺は見逃さなかった。
「朱音様……」
安堵と不安の入り混じった表情でユメは朱音の首筋に顔を埋める。
「びっくりさせてごめんね。もう大丈夫だから」
「無茶をしないでください。朱音様を失ったら私はどうすれば……」
「ごめん。湊斗も」
「こっちこそごめんな」
清楚な笑顔に、俺も笑った。
笑っていられる余裕は無かったのに、顔が勝手に綻んだのだ。
「ユメ、まだいける?」
「自衛のみであれば」
細い首筋を味わうように、ユメは答える。
「イツキは?」
「イツキは元気だよ」
「スイも元気!」
黒猫はぐっと拳を握って構えた。
「よし。じゃあここからは二手に分かれましょう。私とユメが囮になるから、あとの三人は次の屋敷へ向かって」
告げられたのは現実的な作戦でありながら、同時にあまりに危険な作戦だった。
「お前ら二人だけなんて正気かよ!」
「ばか。自分の心配してなさいよ。あんたが一番非力なんだから」
「いや、だけど」
「ここで死にたいの?」
「死にたくねぇよ!」
「なら私に従って。今のままじゃお互いに足を引っ張り合って終わるだけだわ。生きて帰りたいんでしょ?」
「そりゃあ帰りてぇよ。帰りたいけど、お前らが!」
手負いの主と自衛しか行えない従者。
死にに行くようなものじゃないか。
「私はミコトよ。そして、ユメは優秀な私の白狐。甘く見ないで」
スカートを叩き、立ち上がる朱音。頼りがいのある頼りない脚は、震えていた。
「スイ、イツキ。できるだけ遠く荒御魂を空に打ち上げて。それから振り返らずに走って。次の場所の気配は感じるでしょう?」
「うん。あともうちょっと遠く」
「走ったらすぐだよ」
「二人で湊斗をそこまで案内してあげて。屋敷へ入ったら、一緒に次の手掛かりを探すの」
「はーい」
「イツキもはーい」
お行儀のよい返事だった。
「良い子。私が合図したらスタートよ」
気づかれないよう、ため息をつく。
今多数決をとれば間違いなく俺が負けだ。真っ当な反対意見も出せない。素人は黙るのが賢明、かもしれない。
ユメや黒猫達が反対しないのなら一理ある案なのだろう。
仕方がない。現状を打破するためにはリスクを背負うほかないのだ。
全員が立ち上がり、二組に分かれる。
城は未だ黒く侵されていた。
失敗すれば一瞬で飲み込まれ、どうなるか。
「湊斗、ちょっと」
「ん?」
躊躇いがちに朱音に呼ばれる。
「利き手はどっち?」
「右だけど」
「貸して」
俺の手を取り、朱音は聞いた事のない言語で何かを唱えた。そして、手の甲に唇が触れる。
柔らかかった。
「……これ、目隠しのおまじないだから。すぐに効果はなくなるけど、逃げてる時くらいなら続くわ」
「あ、ありがとう」
まんざらでもない。
頬を赤らめた朱音に感謝を述べると、ふいっとそっぽを向かれた。
「いくわよ」
「はぁーい」
「準備できてるよー」
大役を担う黒猫達は、手を繋いでそわそわしている。
「いち、にぃ、の……さん!」
作戦が開始された。
合図から間をおかず、雷鳴に似た激しい破裂音が耳を刺す。氷の城が砕け散ったのだ。砕けた欠片は
「走って!」
「みなと、こっち」
「こっちだよ!」
俺と黒猫達は暴風吹き荒れる中、作戦通り駆け出した。
朱音とユメを、残して。
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