第2幕2章 ねえ、憶えていますか




 場に居心地の悪い空気が流れる。


「湊斗様、申し訳ありません……」


 加えて耳を寝かせたユメに丁寧に謝られてしまった。


「朱音様はまだ――」


 耳打ちされた内容は途中から聞き取れず、代わりに腰に強い衝撃を受ける。


「みっなとー!」

「みっなっとぉー!」

「いってぇ!」


 抱き着くなんて生易しいものではない。全力のタックルだ。腰椎をやられたらどうしてくれる、この黒猫め。


「こっちこっち!」

「こっちきてみなと!」


 空気を読まず、全く悪意のない瞳が俺を見上げる。

 まさか二人ともおきぬさんにも同じことをしていたのではなかろうか。


「こっちぃ? あーもー」

「はーやーく!」

「はっやっくっ!」


 馬鹿な心配をする間にも、ぐいぐいと両腕を引っ張られて、一人茶室へ連行される。


「ここ! 一番上の引き出しをね、開けてほしいの。イツキからのおねがい」

「スイとイツキじゃ手が届かないの。だから、みなとが開けて?」


 指さされたのは桐箪笥の上段。確かに二人の身長では届かない位置にあった。


「構わないけど、何が入ってるんだ?」

「スイの袴!」

「イツキのも!」

「袴ぁ?」

「うん! このお洋服はね、すーすーするから嫌い!」

「スイもすーすーは嫌い!」

「分かった分かった」


 疑心暗鬼のまま、俺は引き出しを引いた。

 また大量のセーターが飛び出してくるのでは、と身構えるが現実にはならない。

 まず感じたのは、嗅ぎ慣れた防虫剤の匂い。そして、独特の臭いに守られて引き出しに入れられていたのは、ふっくらとした着物用の畳紙たとうがみだった。

 おきぬさんは常に着物で生活していた。白髪を短く切り揃え、上品に着物を着こなす姿は今でも鮮明に思い出せる。


「これ、おきぬさんの……」

「ちがうよ、スイとイツキのだよ」

「だしてー!」


 跳ねる二人を静かにさせたい一心で、いくつかの畳紙を畳に下ろした。そのまま、封を解き中を確かめる。

 菊文様の施された練色の着物と、鮮やかな臙脂色の袴がふた揃い。明らかに子供用サイズのそれはスイとイツキにぴったりだった。


「こっちがスイの!」

「こっちはイツキの!」

「お着替えするー!」

「イツキも着替えするのー!」


 黒猫は耳をぴんと立てて騒ぎはじめ、仕舞には珍妙な調子で踊り出した。セーターを器用に避けて、止まらない「おっきがえー! おっきがえー!」の大熱唱とダンスが始まる。


「あーもーはいはい落ち着けって」


「あれぇ?」


 二人の腕を掴もうとした途端、イツキが声を上げて動きを止めた。


「どうした?」



 半開きの襖をじっと見つめてから、軽やかな足取りでリビングへと出ていく。

 立ち上がって声をかけた俺は完全に無視されてしまった。



「イツキー? どしたの?」


 姿を消してから、ほんの数秒でイツキは帰ってきた。


「じゃーん! かくれんぼしてたから捕まえたの!」


 帰ってきたイツキが捕まえていたのは、ばつの悪そうな顔をしたユメだった。


「湊斗様。あの、先程は朱音様がご無礼を……」


 苦い表情のままユメは頭を下げる。まるで自身が罪人であるかのような振る舞いで。


「いや、ユメが謝らなくてもいいよ。むしろ仲裁してもらって感謝してるくらいだしさ」

「いえ、私の力が及ばないばかりにお二人の気分を害してしまいました……」

「害するって程じゃないから。腹は立つけど別にそれだけだし」

「普段の朱音様は穏やかで心の広い方なのですが、今は気を張りすぎているんです……。どうか、今回だけは、ご容赦ください」


 ふにゃりと萎れた耳が、今の心情を物語っていた。赦さざるを得ない。


「ああ。で? あっちはどうなんだ?」

「台所でへそを曲げています」

「やっぱり」


 当人は謝る気がないらしい。

 謝ってほしい訳ではないが、ユメがあまりに真摯なせいで静かにはらわたが煮える。


「あーあー、じゃああいつは放っておいて着替えるか! な、イツキ、スイ」

「うん!」

「やったぁ!」


 二人だって、いつまでもTシャツ一丁では気の毒だ。

 幸い俺は着付けができる。袴くらいなら楽勝だ。だったらもう選ぶべき選択肢は決まったようなものだろう。


「み、湊斗様は着付けの経験がおありなんですか?」

「まあそれなりにな。おきぬさんに叩き込まれたんだよ。将来役に立つからって」

「そう、でしたか。ですが殿方が女の子の着付けをするのは、その……」


 語尾を濁されたが、言わんとすることは分かった。


「俺は気にならないけどな。ユメならまだしも、こんな小さい子供に欲情する奴はただの変態だろ?」

「ユメちゃんあのね、イツキね、みなとに着せてもらいたい!」

「スイもみなとに着せてもらいたい!」


 戦況は三対一。仕方がない、とユメも諦めたのか口元が緩む。


「では、私にもお手伝いさせてください」

「よろしく頼む」


 俺も笑顔で返した。



 *****



 振袖を身に纏っているためか、ユメは自身もひどく手際が良かった。

 三時で止まった掛け時計では経過時間は計れない。だが、大した時間はかかっていないと思う。

 Tシャツから袴姿への変身は瞬く間に終わった。

 品の良い菊文様が散りばめられた着物は、間違いなくおきぬさんが選んだのだろう。袴の臙脂色ともよく合って柄が映える。

 瓜二つの猫耳少女が全く同じ柄の袴を着用していると、益々区別がつかない。と、一人でリボンの重要性を痛感する。見れば見るほど、スイとイツキは人形のように整った容姿をしていた。日本人形と西洋人形を掛け合わせた愛くるしい姿は、引き込まれるものがある。

 性的な意味ではなく、美術品を吟味している時に沸く、名を付け難い感傷に近かった。


「これで仕上げですよ。せーのっ」


 最後にユメが二人のお尻をぽん、と優しく叩く。すると二股の尻尾がにゅるりと出てきた。

 勿論袴には尻尾用の穴は開いていない。


「待て待て、今一体どこから出てきたんだ?」

「ばけねこぱわー! だよ!」

「ぱわー!」

「ふ、ふーん、へぇ……」


 妖は謎だらけだ。


「あれ? ユメは出さないのか? 尻尾」


 そういえば、ユメは尻尾がない。

 何気なく話題を振ると、ユメは一瞬で赤面した。


「うぅ、そ、その……恥ずかしいので私は結構です……」


 何故か恥ずかしいらしい。

 やっぱり妖は謎だらけだった。


「あー、なんかごめん」


 目を泳がせて手足をもじもじさせる仕草と、あまりの赤さに一応謝っておく。


「いえ……あの、尻尾は大切な方にしか触ってほしくないというか、その、ええと……。気にしないでください……」


 まだ幼い黒猫達は首を傾げる。

 俺も首を傾げたかったが、これ以上ユメに茹蛸になられても困る。そっと話題を逸らすために「よしよし」とスイとイツキの頭を撫でて済ませた。

 二人は満足そうに目を細めてから、はっと目を見開く。


「きゃーっ! 思い出した! みなとみなと! あとねぇ、靴箱にスイとイツキのブーツがあるの!」

「あるのあるの! みなと、そっちも取って!」

「取って取ってー!」


 息つく暇もない。

 両腕を引っ張られて、今度は玄関へと連れていかれる。

 途中、台所を横目で窺うと、朱音が急いでそっぽを向いた。まだ腹の虫が治まらないらしい。

 面倒なので放置しておこう。


「ここのねー、上のところなの」

「イツキとスイには無理だから、みなとが取って?」

「分かったからしがみつくな」


 玄関につくなり、鏡付きの靴箱と対峙させられた。

 鏡には若干の疲労を滲ませた俺の顔が映る。もし変なものが映ったら、と怯えていたが取り合えずは安心だ。


「はーやーくぅー!」

「今開けますー」


 急かされながら、鏡付きの開き戸を開く。入っていたのは二足の編み上げブーツだった。

 胡桃色の革は磨き上げられ、淡く発光しているように見える。草臥れておらず、しかし使い込まれていて味わいがあった。


「ほーれ、これはどっちのだー?」


 一足を取り出して、黒猫の頭上で揺らす。


「スイの!」


 見事な跳躍を見せたスイは俺の手からブーツを掻っ攫った。

 それだけ跳べるのなら別に高いところでも届くのでは……などと一瞬考える。


「イツキのも取ってー!」


 ぴょんぴょんと跳ねるイツキのために、もう一足も。

 訝しむ間もなく靴箱の中へと手を伸ばし――“それ”と目が合った。


 赤い、紅い、緋い、眼球と。


「ひぁっ!!」


 再び襲い掛かる恐怖に、掴んだばかりのブーツを投げ捨てる。


「湊斗様?」

「イツキの投げないでー!」

「どしたのー?」

「に、逃げっ……!」


 靴箱の奥に押し込められた闇は、どろり、と動き始める。流れるタールのような緩慢な動作で、靴箱から溢れ出そうとしていた。

 俺を狙っているのだ。


「アアァアァアァア……」


 玄関に氷点下の悲鳴が木霊した。


「見つかってしまいましたね」


 状況を察したユメはすぐさま俺を後退させ、盾となるべく前に進み出る。


「に、にげ、にげないと……ころ、さ」

「アアァアァァアァァアァアァァァア……」

「イツキさん、スイさん、急いでください」


 ブーツと格闘する二人は「はぁい」とユメに従った。


「大丈夫ですよ、すぐには溢れ出てきませんから。一度見つかれば散らすまで追いかけてきますしね」

「あ、あぁ……」


 靴箱の奥から流れ出してくる黒は、着々と質量を増す。もう、ブーツの収納されていたスペースは黒に侵されてしまっていた。

 赤い眼球は確かにこちらを見据え、再び「アアァアアァアアアァ」と唸る。


「朱音様! 移動します!」


 ユメは声を張り、朱音を呼んだ。

 いつでも逃げられるようにしなければ。焦りながら、黒猫達の隣でスニーカーを履く。

 呼ばれた朱音は、スカートを翻しながらすぐに玄関に駆け付けた。


「来たのね!?」

「はい」


 朱音が靴箱に目を遣る。刹那、黒色が触手のように一筋、靴箱から垂れ下がった。

 くそ。やっぱりこいつは死なないんだ。あんな風に霧散したから、てっきり消えてなくなったのかも、と思っていたのに。思いたかったのに。


「アアァアァァアアァアア」


 ずるり、ずるり、と黒い筋は靴箱から這い落ちてくる。深紅の眼球はまだ落下していないが、時間の問題だろう。


「テラスから出るわよ」


 先程までの態度とは打って変わって、朱音はじっと俺の目を見ながら指示を飛ばす。色々と思うところはあるが、今は非常事態だ。従うしかない。

 返事をして、板張りの床に上がった。

 ミコトとはぐれたら、この荒御魂に殺される。俺は非力だ。


「できたっ!」

「んー、イツキもでっきたぁー!」


 間もなくして、スイとイツキがしゃんと立ち上がった。

 余裕の笑みを浮かべて、飛び跳ねながら編み上げブーツの感触を確かめる。


「行きましょう」

「ええ。湊斗、散らすまでは気を抜かないで」

「分かった」


 また頷く俺に、朱音は淡く微笑んだ。

 さあ、次の手掛かりのある場所へ。俺達はテラスから逃走した。

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