第12話

 円形の浅い沼に、二人の若く逞しいリザードマンが向かい立つ。

 その周囲を何十人ものリザードマン達がぐるりと囲んで、固唾を飲んで見守っていた。


「ルイト・チブリの子、ヒッサー」


 年老いたリザードマンの男が、朗々とした声を響かせた。

 ヒッサーが槍の代わりに長い棒を掲げ、それに答える。


「ホークの子、ダルー」


 次いで、ヒッサーよりも更に頭一つ高いリザードマンの男が、太く短い棍棒を振りながらこれに答える。


「始め!」


 合図とともに、二人のリザードマンは互いに地を蹴って駆けた。

 先に仕掛けたのは、ダルー。その恵まれた体躯を十全に使って、渾身の力でその棍棒を振り下ろす。ヒッサーはそれを容易くかわすが、沼面に叩きつけられた棍棒は激しく泥と水とを跳ね上げ、ヒッサーの視界をふさいだ。


 一瞬ひるんだその隙に、ダルーは足を振り上げ蹴りを入れる。ヒッサーは敢えてそれを受けると、その脚をぐっと掴んで振り回した。激しく泥飛沫が上がり、ダルーの巨体が沼の中を転がる。


 急いで起き上がろうとするダルーのその喉元に、ヒッサーの棒がぴたりと突き付けられた。リザードマンの分厚い鱗は棒で突かれた程度ではビクともしないが、それは槍を模したものだ。その先端に鉄の刃がつき、また途中で止めていなければ、それは容易く彼の喉元を貫いただろう。


「勝者、ヒッサー!」


 年かさのリザードマン……この部族の族長にして、たった今そうでなくなった男が、高らかにそう宣言した。今をもって、ヒッサーがこの村の新しい族長となったのだ。


「おめでとう、ヒッサー!」


 そんな彼に、飛びつくように二人の娘が駆け寄った。一人はチャニ。虹に例えられる彼女の鱗は光を浴びて七色に煌めき、その豊かな腰つきは何とも艶めかしい。そしてもう一人はその妹のシーラだ。すらりと伸びた長い尾に、小さく愛らしいその体躯は男の庇護欲をそそる。どちらも実に美しく、美人姉妹と評判の高い二人だった。


 その光景を、タマルは遠くからそっと見つめていた。排斥されるわけではないが、やはりリザードマンの集落の行く末を決める集まりには参加しにくい。


 それに、ヒッサーに寄り添う二人の姿は実に似合っていた。ヒッサー自身も美男子と言ってよい顔立ちであり、何より強く逞しい。いつも通りの武骨で精悍な表情で美女に囲まれる様は、実に絵になっていた。


 その隣に立つ自分の姿を想像して、タマルは深く溜息をついた。

 似合わない、なんてもんじゃない。


 リザードマンの女性はどちらかというと背の低い方が愛らしいとされ、愛される傾向はある。だが、それにも限度というものがあった。タマルの身長ときたらもう12にもなるのにいまだに1メートル半程度しかなく、しかもその成長はこの頃殆ど止まってきてしまっている。リザードマンの基準で考えれば幼い子供同然の身長だ。


 背の高さを除いたとしても、タマルには鱗も尾もない。鱗の美しさは、女であれば真っ先に競い合う部分だ。それに尻尾。多少器量が悪くても、目の前で細く長い尻尾がゆらゆらと揺らめいていれば、男なら誰もがそれに釘付けになる。


 最近の若い者ときたら、あんなに尾を揺らして、はしたない。母レイラがそうぼやく度に、振りたくとも振る尾のないタマルは複雑な心境になるのだった。


 湖面に映る己の顔に、タマルはもう一度溜息をついた。鱗はなくぶにぶにとした肌。頭の上からだけ生えた奇妙な毛。平面的でのっぺりとした顔つきに、いくら食べても全く筋肉のつかない細い手足。それだけでも憂鬱なのに、最近急に膨らみ始め、すっかり重くなった胸は奇妙を超えて不気味だった。


 美しいとか、醜いとかいう次元を超えている。リザードマンとタマルは、生き物としてあまりに違い過ぎた。それでも彼女が絶望してしまわないのは、人間の街に何度か通う事によって、それが普通の人間であると知っている事。


 そして、もう一つ。


「こんなところにいたのか」


 何よりも聞きなれた声に振り向いたタマルの顔を見て、ヒッサーは思い切り呆れた表情を作った。


「何をしてるんだ、お前は……」


 タマルの白い肌には、全面黒い泥を塗りたくられていた。沼からすくった泥を顔に塗り乾かすと、ひび割れてちょうどリザードマンの鱗に似た質感になる。勿論もとは泥だから光沢も何もあったものじゃないし、美しさはかけらもない。だが、全くないよりはマシだと、タマルの感性では感じていた。


「顔が台無しだろう」


 そういってヒッサーは水を掬うと、タマルの顔をそのごつごつした指でこする。丹念に塗り広げられた泥は容易には落ちず、ヒッサーは渋面を作った。


 タマルが絶望しないもう一つの理由。それは、ヒッサーが彼女を最初から美しいものとして扱っている事だった。


 勿論朴訥な兄はそれをわざわざ口にする事はないし、醜いからと言って扱いを悪くするような性質でもない。しかし、ちょっとした言葉の端々、表情から、幼い少女はそれを敏感に感じ取り、密かに己の胸に誇りとして仕舞い込んでいた。


「……ねえ、兄さん」


「何だ?」


 顔を拭いてもらいながら、タマルは尋ねる。


「チャニとシーラ、どっちをお嫁さんにするの?」


 唐突な妹の言葉に、ヒッサーはうっと押し黙った。


「族長になったんだから、もう決めないと」


 チャニとシーラの幼なじみ姉妹がヒッサーに惚れていることは、公然の秘密だった。シーラはまだ若いが、結婚するのに早すぎると言うほどではない。タマルよりも4つ下ではあったが、彼女の背はとうに追い越し、すらりとした美少女に育っていた。


 その二人だけではなく、村一番の狩人であり、今や族長でもあるヒッサーを狙うものは非常に多い。


「……お前の方こそ、どうなんだ。あの何とか言う男は」


「え、誰?」


 珍しく歯にものの挟まったような兄の言葉に、タマルは目を瞬かせる。


「人間の……お前と同じ、金の髪の」


「ああ、ボリスの事? 別になんともないよ」


 あれからというもの、タマルは定期的に人間の街に通っていた。あの時助けてくれた少年ボリスは、今でもタマルの唯一の人間の友人である。


「……そうか」


 複雑な表情で、ヒッサーはそう呟いた。喜びとも悲しみともつかないその表情に、タマルは首を傾げる。


 その時強い風が吹いて、タマルは長い髪を押さえた。遠くでグラスの鳴く声が高らかに響く。冬の間南に越冬していた鳥が、戻ってきたのだ。


 春が来る。


 タマル十二度目の、春が。






「兄さん……どこへ行くの?」


 そう問いかけても、返事はない。人間の服装に着替えさせられ、ヒッサーが連れ出したのはいつもの人の街ではなく、深い森の中であった。タマルは常とは違う兄の態度に困惑しつつも、ずんずんと進んでいく彼の背だけを見てただひたすらについていく。


「……お前が三つの時、酷い熱を出したのを覚えているか?」


 不意に、ヒッサーはそんな事を言い出した。


「ううん……覚えてない」


 タマルの持つ最古の記憶は、8年前。卵からシーラが生まれた瞬間のものだ。卵から生まれたリザードマンは手の平で包めるほど小さいのに、生まれながらにして鱗も尻尾も持ち合わせている。その事に、ひどいショックを受けた事を彼女はいまだに覚えている。


「その時、お前が死んでしまうと思った俺は、ある条件と引き換えにここに住む一角獣から角を分けてもらった」


 ヒッサーの足が、ぴたりと止まる。その眼前には八年前と全く変わらぬ、清く澄んだ泉があった。


「条件、って……?」


「十二になったお前を、一角獣に引き渡す事だ」


 そういってヒッサーはぐるりと泉に視線を巡らせると、声を張り上げた。


「一角獣! 約束を果たしに来た!」


「うるせーなぁ……そんな大声出さなくても聞こえるっつーの」


 木陰から姿を現す白い生き物に、タマルは息をのむ。人とも、リザードマンとも違う異形の姿。しかしそれは確かに、美しく見えた。


「ほお。ほお、ほお、ほお……」


 一角獣ローウェンはタマルを見て目を見開くと、彼女の周りをゆっくりと回りながら何度も頷く。


「素晴らしいッ! いや、大して期待してなかったけど、最高じゃねーの!」


 そしてもう一度彼女を正面から見据えると、感嘆の声をあげた。


「くっはー、たまんねえなあオイ! この成熟するかしないかギリギリの瞬間! 実にいい!」


「兄さん……?」


 タマルは怯えと困惑に、兄を見る。彼は感情の読めない表情で、じっと一角獣へと視線を向けていた。


「おう、ご苦労だったな。お前はもういっていいぞ」


 熱のこもった先程までとは打って変わってぞんざいな口調で、ローウェンはヒッサーにそう言い捨てる。だがヒッサーは引かず、タマルを庇うように一歩踏み出した。


「そういうわけにはいかない」


「何のつもりだ? 約束を違える気か?」


 どすの利いた声で、ローウェンはヒッサーを睨み付けた。かつての少年は、その眼光を真っ向から受け止める。


「ここに妹を連れてくる。それが、約束だったはずだ。それは既に果たした」


「はー……なるほどねえ。そりゃ確かにその通りだ……ってンな屁理屈で納得するとでも思ってんのか!?」


「思ってはいないさ」


 だから、とヒッサーは槍を構える。


「悪いが力づくでも、妹を渡すわけにはいかん」


 そんな彼に、一角獣はけたたましく笑い声をあげた。


「てめぇ……たかがトカゲ如きが、この俺様に勝てるとでも思ってんのかよ?」


 ズンと激しく蹄を踏み鳴らし、炎を吐かんばかりの勢いで怒りの声をあげた。凄まじい怒気にびりびりと空気が震え、木々がみしみしと軋む音が鳴り響く。タマルは思わず小さく悲鳴を上げて身を竦ませた。


「タマル、下がっていろ」


 妹を庇うように腕を伸ばすヒッサーに、ローウェンは角を振り上げて襲い掛かる。それに合わせてヒッサーは槍を振るった。角と槍の穂先がかち合い、火花を散らす。流石に一角獣の角と言えども、鉄の穂先を両断することはかなわないようだった。


 一角獣はそのまま首を突き出してぐいと槍を押し、前足を高々と上げて振り下ろす。ダルーの棍棒よりも更に力強いそれを、ヒッサーは後ろに下がってかわした。地面を深く穿ちながら、二度、三度と前足が振り下ろされる。


 下がりすぎれば角の一撃が、距離が足らなければ前足がヒッサーを貫く。

 そんな中をちょうど良い距離を保ちながら、ヒッサーはその太い両腕にぐっと力を入れて角を押しやり、槍の柄で強かにローウェンの横面を殴り飛ばした。


「ぐぉっ……」


 一瞬怯んだ一角獣に対し、雷光のような突き。それを、ローウェンは角でいとも容易く打ち払った。ほんの僅かな隙を突き、彼はその顎で槍の柄を捕える。樹で出来た槍の柄は、バリバリと音を立ててその歯で砕かれた。


 まるで9年前の焼き直しの様に柄だけになった槍を投げ捨て、ヒッサーは曲刀を鞘から引き抜いた。流石にこれには一角獣も身を引き、油断なく角を構える。


 その曲刀は、タマルが人の街から買ってきたものだ。リザードマンより遥かに技術に優れる人間の手で作られたそれは、全体が金属でできて光に煌めいていた。重さも切れ味もリザードマンの使っている槍とは比べ物にならない。


 だが、長い一角獣の角に対するにはそれは少々短かった。ナイフに比べればよほどマシだが、あの頃のような身軽な動きは今のヒッサーにはできない。


 つまり、この剣で一撃を加えようとすれば死地に飛び込む必要がある。そしてその状態で繰り出した一撃は間違いなくローウェンの命を奪う事になるだろう。互いにそれがわかっているからこそ、二人はじりじりと睨み合いながらも互いの隙を窺う。


 先に仕掛けたのは、ローウェンだった。捻りもてらいもなく、その角にすべてをかけて突進する。己の槍に自信を持っているからこその一撃。ヒッサーの武器よりも長いそれで、刃を届かせるよりも前に一突きにする。ただそれだけを考えた突進だった。


 それに対し、ヒッサーは曲刀の刃を水平に構えて迎え撃つ。彼は己の、リザードマンとしての鱗と体力を信じた。その身に敢えて一撃を受けつつ、傷を最小限に留めて一撃で倒す。仮に差し違える事になっても妹を渡すわけにはいかない。その覚悟で、彼はローウェンに向かった。


 それが、いけなかった。


「兄さんッ!」


 死を覚悟したヒッサーの心根を感じ取ったタマルが、叫ぶ。その声に、ヒッサーは己の背後にタマルがいる事に気付いた。その瞬間、彼は最小限の傷で済ませるわけにはいかない事を悟る。そうしてしまえば、ローウェンの角はタマルをも貫きかねない。


 ヒッサーは曲刀を投げ捨て、ローウェンの一撃をその身に受けた。その首を両腕でかき抱くようにして止め、突進の衝撃を強靭な両足と太い尾で支える。タマルの目の前に、ヒッサーの血で赤く濡れた螺旋状の角がずるりと突き出した。


「兄さん!」


 そのまま地面にどさりと横たわるヒッサーの身体にタマルは縋りついた。呼吸はすでに無く、心臓の鼓動もない。胸にぽっかりと空いた穴からただ赤い血だけが溢れ、タマルの両手を濡らした。


「……よくも……!」


 傍らに転がった曲刀を拾い上げ、タマルは立ち上がってローウェンに切りかかった。


「おいおい、そんな危ないもん……っ!」


 振り下ろされた刃を、ローウェンは軽々とかわす。それに構わず、タマルは続けざまに曲刀を横に薙いだ。


「待て、待てって!」


 まずい事をした。ローウェンは内心で焦った。


 タマルの小さな体で振るには曲刀は重すぎる。速度は遅いし、完全に体が持っていかれていて次の攻撃に移るのも遅い。だが、ヒッサーよりもよほど恐ろしい相手だった。


 折角の美少女を傷つけるわけにはいかない。それを知って利用しているわけではないだろうが、タマルの攻撃は防御という物を全く考えていない。その小さな身にはただただ、ローウェンに対する殺意だけが溢れていた。


 ヒッサーには敵意はあっても、殺意はなかった。出来る事なら、ローウェンを殺したくないという心情もあったはずだ。それが敗北につながった面もある。


「わかった、わかった、治してやるから!」


 溜まらずローウェンがそう叫ぶと、途端にタマルの手はぴたりと止まった。


「……本当ですか?」


「ああ。ったく、おっかねーな……」


 ローウェンは倒れているヒッサーに近づくと、頭を下げてその傷口に角を当てた。角の力を直接分け与えるそれは、薬として飲む場合の効果の比ではない。暖かな光が溢れ、あっという間にヒッサーの傷はかき消えた。


「おらっ、起きろ!」


 苛立ち紛れに蹴り飛ばすと、ヒッサーはゆっくりと上半身をもたげる。


「兄さん!」


 曲刀を投げ捨て、タマルがそこに飛びついた。


「うわっ!?」


「良かった……!」


 ぼろぼろと涙を溢しながら抱きつくタマルに押し倒され、ヒッサーは状況を理解できずに目を白黒させる。


「一体何が……?」


「うるせえよ。……おい、嬢ちゃん。そこに座れ」


 ヒッサーに冷たく吐き捨てローウェンが言うと、タマルは警戒と安堵がない交ぜになった表情で彼を見つめた。


「取って食いやしねえから。……ああ、そんな感じだ」


 怪訝な表情をしつつも膝を揃えて座るタマルの上に、一角獣はひざを折ると、頭をぽんと乗せる。


「……まさか、そうしたかっただけなのか?」


「なワケねーだろ! エロエロのぐっちょぐちょにする気満々だったわ! ……けどこの幼女おっかねーから、これで勘弁してやるよ。いやー、ロリの膝枕たまんねえなあ!」


「あの……鼻を鳴らすのやめてもらえませんか」


「断る!」


 すーはーと大きな鼻から激しく呼吸する神聖な生き物を、タマルは気味の悪いものを見る表情で見つめた。


「……おい、嬢ちゃん」


 そんな彼女の耳にだけ届く声で、一角獣はぼそりと呟く。


「お前さん、自分の心がどこにあんのか、気付いてんのか?」


 タマルは慌てて兄の顔を窺う。


「どうした。やっぱり殺しておくか?」


「う、ううん。大丈夫だから」


 ぶんぶんと首を振る妹に彼は怪訝な表情を浮かべるだけで、ローウェンの声に気付いている様子はない。タマルは何気ない風を装って、一角獣の言葉に耳を傾けた。


「兄への好意ってレベルじゃねーぞ」


「……うん」


 頷く。それはタマルにとって、酷くしっくりくる事だった。


「多分、そうなんだと思う」


 声に出して認めれば、なぜ今まで気づかなかったのかと思う程に明快な真実。

 なぜヒッサーの隣に似合わぬ自分を厭うたのか。チャニやシーラの隣にいるヒッサーに胸を痛めたのか。考えるまでもない事だった。


「……辛いぞ、それは」


「うん」


「ま、わかってんならいいや」


 重々しい声から一転、一角獣はどこか投げやりにそう言った。


「ありがとう。思ったよりも優しいのね、あなた」


「だろ? 大人しく俺の嫁にならないかお嬢ちゃん」


 クスクスと笑いながら言うタマルに、ローウェンはおどけた様子でそう返す。


「やっぱり殺しておくか?」


 ヒッサーの声には、先程よりも本気度合が増えているように思えて。


「りょうほう、駄目!」


 タマルは、笑い声を弾けさせた。

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