第18話
風にさわさわと、アシの原が揺れる。
ぱしゃりと音を立て、大きな翼をはためかせてグラスが湿地に降り立った。湖面を見つめ素早く頭を動かすと、その嘴には魚が咥えられていた。びちびちと尾を動かす魚をぐっと押さえつけ、そのまま首を上に向けて丸のみにする。
その胸に、音もなく矢が突き刺さった。
「やった!」
タマルは素早くグラスに近づくと、ぴょいとヤチマナコを飛び越えてその首を掴む。腰のナイフで止めを刺してひっくり返せば、喉に詰まっていた魚が飛び出てビチビチと音を立てた。
獲物を手際よく縄に括り付けて首から下げると、タマルはぱしゃぱしゃと水を跳ね上げながら家路を急ぐ。
「兄さん! 取れました!」
彼女の輝かしい笑顔は、帰宅した瞬間に曇った。
「あ、お邪魔してるよー」
「いらっしゃい、チャニ姉さん」
しかしすぐに笑みを取り戻し、彼女は愛想よくそう言って獲物を下ろした。縄に括り付けられた何羽もの鳥は、素早いリザードマンの若者でもそうそう捕えきれぬほどの数だ。
「狩り上手になったねえ、タマル」
「ありがとう」
「ヒッサーよりすごいんじゃない?」
「実際、とうに抜かれてる」
憮然として、しかしどこか誇らしげな声色でヒッサーはそう言った。
18という年齢は、リザードマンでは壮年に当たる。狩りの腕そのものは変わっていないが、最近は身体が全くついてこない。
「いやー、これは全盛期のヒッサー超えてるでしょ」
「まだまだ、兄さんには敵わないよ」
言いながら弓を下ろし、タマルは釣竿を手に取った。改良に改良を重ねたそれは、全く釣れなかった過去の釣竿とは全くの別物と化している。
「じゃあ、今度は魚釣りに行ってくるね」
「ゆっくりしていけばいいのに」
「うん、でも、冬が来る前になるべく集めておかないといけないから」
そう言って竿を担ぐと、タマルは家を出ていく。
「……気を使われちゃったかな」
「多分な」
チャニははあ、とため息をつく。
「ま、元気にはなったようで良かったよ」
「……そうだな」
ヒッサーとタマルの母、レイラが死んでからもう二年も経つ。タマルの悲しむ様は、それは大変なものだった。元々どちらかと言えば寡黙だった彼女はヒッサーとさえほとんど会話を交わすこともなくなり、食事もロクにとらない。
そんな生活が二年続いてようやく、彼女は笑顔を見せてくれるまでに回復した。少なくとも、表面上は。
「二十二歳だっけ? レイラさん死んだの」
「ああ」
リザードマンとしては、かなりの長寿と言っていい。長老と呼び慕われたゴスモグ爺でさえ、二十三。男性のリザードマンとしては異例の高齢だったが、それでもそんなものだ。
長ければ五十まで生きるという人間に比べれば、半分にも満たない。
「アタシ達は後何年生きられるんだろうねえ……」
ぼやくチャニの言葉に、答えはない。そう遠くない未来である事は確かだった。それに対し、タマルはようやく子供から大人へと花開いたばかりだ。
「タマルちゃん、きれーになったよねえ」
「ああ」
一も二もなく、ヒッサーは頷いた。鱗も尻尾も無くても、リザードマンの目から見てさえタマルは美しい女性へと成長していた。
「……どうするの?」
何を、とは問わない。それを口にするまでもなく伝わるくらいには、この幼馴染は気心の知れた仲だ。
「どうするもこうするもない」
深々と、ヒッサーはため息をついてそれに答えた。
「あれが、ここにいると言って聞かないんだ」
半ば無理やり人の街に向かわせ、人間ともある程度馴染んではいるらしい。だがそれでもタマルは頑なに、リザードマンの村で暮らすと言い張った。
素直な子に育ったが、変なところで強情だ。そうヒッサーがぼやくと、アンタのせいでしょ、とチャニはケラケラ笑う。
「本当……兄妹そろって強情なんだから」
声のトーンを一段落とし、チャニはヒッサーをじっと見つめる。その視線には若干ながら、恨みがましいものが込められていた。
「こーんないい女がモーションかけてるのに、ぜんっぜんなびきやしないんだから」
「……すまん」
「謝るくらいなら、今からでもいいから番いになってよ」
チャニのその言葉に、ヒッサーはただただ押し黙る。
「……冗談だからそんな顔しないでって」
そういって、彼女は努めて明るくケラケラと笑った。
「アタシは……別に、後悔してないよ。その気になればシーラみたいに、さっさと諦めて他の男を捕まえて番いになることだって出来たし」
あんなに小さかった彼女の妹は、今や二児の母だ。族長の争いには漏れたものの、ヒッサーと争った男、ダルーは村一の美少女を娶り、幸せに暮らしている。
「ああ、そうだろうな」
「ま、それはアンタもだけどね」
お互いに馬鹿だねえ、と言って、チャニはケラケラと笑った。シーラに限らず、ヒッサーを狙う女は枚挙に暇がなかったが、彼はその全てを受け入れず、独身を貫いた。それに付き合っていまだに所帯を持っていないのも、チャニだけだ。
「うん、でも、アタシはやっぱりアンタじゃなきゃ嫌だった。アンタの事が好きだった。だから……うん。後悔してないよ」
「……初めて、言われたな」
僅かに目を瞬かせ、ふとヒッサーはそう呟く。
「あれっ、そうだっけ?」
「ああ。はっきりと言われたのは、初めてだ」
幼なじみの気安さ故か、言わずとも互いに思っていることはだいたいわかる。だがそれ故に、今までその想いを直接口にしたことはなかった。
「よし、そうか。じゃあ番いになろうぜ!」
「それは無理だ」
二人のリザードマンは、ともに笑いあった。
チャニはケラケラと声をあげ、ヒッサーもくくと喉を鳴らす。寡黙な彼が滅多に見せないそんな控えめな笑みが、チャニは好きだった。
「でもさ。一番の親友の座は、アタシでしょ?」
「ああ。それは間違いない」
「……ん。なら、それでいいや。うん。アタシ、幸せだったよ」
「縁起でもない言い方をするな」
「でさ。そんな幸せなアタシが気になるのは、親友の幸せなワケ」
チャニはずいと身体を乗り出す。
「そこら辺どうなのよ?」
何を言いたいかは聞くまでもなかった。だがそれは、どうしようもないことだ。
「……俺達と違って、あいつの将来はまだまだ長い。先のことを考えるのは、俺が死んだ後でも遅くない」
来年か、再来年か。もしかしたら、明日かもしれない。いずれにせよ、タマルに十分先のことを考えるだけの余地を残して、ヒッサーは死ぬだろう。
「……ま、そうかもしれないけどさあ。アンタはそれでいいの?」
「ああ。それでいい」
あっさりと頷いてみせるヒッサーに、チャニは深々と溜め息をついた。
「……わかった。アンタがそれでいいっていうなら、それでいいや」
本当に、あたし達みんな馬鹿だねえ、と呟いて。
ちゃぷんと水面が揺れ、タマルは竿をぐいと引く。あっさりとその身を空中に晒す魚の鰓にナイフを差し込んでから、彼女は淡々とそれを魚籠へと入れた。
沼地の水はローウェンの泉ほど澄んではいないが、その分浅く魚の姿を見つけるのは容易い。今の竿なら、とらえるのは造作もないことだった。
一杯になってしまった魚籠を見やり、タマルは深くため息をつく。今頃、チャニとヒッサーはどうしているだろうかと考えて、彼女はいやな気分になった。生まれた頃から実の姉同然に育ってきたチャニの事を疎む自分が何より嫌だ。
いっそ自分がいなかった方がヒッサーは幸福だったのではないか、と考える事がある。タマルがいなければ、おそらく彼はチャニと結ばれ、子を儲け、幸せな生涯をすごした事だろう。
或いはそれは、今からでも遅くはないか……そう思いつつも、もう少しだけ、もう一年だけといっては繰り返し、とうとうここまで来てしまった。
「タマル」
聞き覚えのある声に、はっと我に返ってタマルは振り返る。
「……ボリス?」
そこに立っていたのは兄ではなく、彼女とよく似た金の髪を持つ人間の友人だった。
「どうしてここに?」
リザードマンの集落で生まれ育ったという話自体は、もう随分と前に彼に打ち明けてはいた。だが今まで彼がここを訪れた事はなかった。そもそも何の目印もなく、ところどころにヤチマナコの落とし穴がある湿原の中を進むのは普通の人間には非常に危険で、来ようと思ってもそう簡単に来れるものでもない。
実際、ボリスの着ている服もそこらじゅうに泥と藻にまみれて酷い有様になっていた。
「久しぶり。どうしたの? そんな格好して……」
しかし、それだけではない。彼の着ている服は普段着ていたぼろぼろの古着ではなく、よくよくみてみれば上等な生地で誂えられたものに変わっていた。
「タマルこそ、すごい格好だね」
「そう? 村ではいつもこんなものだけど」
対するタマルは、伝統的なリザードマンの衣装。腰を隠すだけの布に、弓を射る邪魔にならないためにつけている胸当てだけの簡素な服装だ。
「今日は、君を迎えに来たんだ」
こほんと一つ咳払いし、改まった態度でボリスはそう告げた。
「僕と一緒に、来てほしい。――結婚してくれ、タマル」
「ごめんなさい、それは出来ない」
「ノータイムで!?」
微塵の躊躇いも見せずに頭を下げるタマルに、流石にボリスは驚いた。
「わかってるだろう? リザードマンと人間では、何もかもが違いすぎる。俺なら、君を置いていったりはしない」
腕を広げる彼の胸に飛び込んでしまえば、どれだけ楽だろうか。そう考えた事は、ないではなかった。彼がタマルに対して示してくれる好意は実にわかりやすいものだったし、それは不快なものでもない。
「ありがとう。でもやっぱり、それは無理なの」
もはや、タマルがいなくなればヒッサーは生きていくことは出来ない。彼を見捨てて他所で生きていくという選択肢は彼女の中には最初からなかった。
「……なら、俺もここで暮らす」
思いつめた表情でそう言うボリスに、今度はタマルが驚いた。
ボリスの瞳は真剣そのもの。本当に、全てを捨てる覚悟でやってきたのだと理解した。
「……ありがとう。とても嬉しい」
「じゃあ」
それは偽らざる本音だった。彼が想いを寄せてくれたことが、どれだけタマルの支えになった事だろうか。ヒッサーと、レイラと、チャニだけしかいない世界。狩りをして暮らすだけの生活に、人間らしい彩りを教えてくれたのは、彼に他ならない。
「でもわたしはやっぱり、兄さんが好きなの。だから、あなたの想いには答えられない。ごめんなさい」
だから、タマルは偽りなく、真っ向からそう断った。そう言えばはっきりと兄が好きだと口にするのはこれが初めてだな、と頭の片隅で思う。
「そう……か」
「……それに、待たせている人もいるんでしょう?」
すっかり意気消沈する彼にそう尋ねると、ボリスは大きく目を見開いた。
「知ってたのか」
タマルはこくりと頷く。
彼が孤児から身を立てて、商人として大成した事。タマルと会う時にだけ、いつもと変わらない粗末な服装で出迎えていた事。そして、そんな彼に思いを寄せる娘との縁談が進んでいる事も、タマルは把握していた。
「それが無かったら……いや」
言いかけ、ボリスは口を噤んだ。タマルがわざわざその事を口にした理由を察したからだ。
「わかった。ありがとう……元気で」
「うん。……ボリスも」
二人は握手を交わし、共に別々の道をゆく。
それが、終生の親友との、最後の別れだった。
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