第8話

 機嫌良く鼻歌を歌いながら、器用な白い指先がくるくると回る。それが編んでいるのは彼女自身の長い髪。日の光のように輝く金の糸。


 それはどれもが、リザードマンが持たないものだった。


「でーきたっ」


 髪を寄り合わせた糸をしなやかな棒の先にくくりつけ、先端には魚の骨を削って作った針。今は亡き長老、ゴスモグ爺から教わった釣り竿を眺めて、リザードマンの集落唯一の人間、タマルは笑顔を浮かべる。


「はいっ、こっちはお兄ちゃんの分ね」


 彼女はそういって、一回り大きなものをヒッサーに渡した。


「ああ」


 兄妹は針に餌をつけると、並んで湖のほとりに腰掛け、糸を垂らした。


 さわさわと風が吹き、背の高いアシの原が波のように揺れる。トンボがついとそこを飛んでヒッサーの釣り竿に止まり、また離れた。


「ねえ、お兄ちゃん……」


 不意に、タマルはヒッサーに問う。


「なんで、わたしには鱗も爪も、尻尾もないんだろ」


「それは、お前が人間だからだ」


 今まで何度もしたやりとりを、兄妹は今日も繰り返した。


「それは、知ってるけど……」


 もっと幼い頃は、大きくなれば自然と鱗も尻尾も生えてくるものだと思っていた。オタマジャクシに手足が生えて蛙になるように、タマルもやがて尻尾が生え、鱗で覆われ、平たい顔は長く伸びて牙も生え揃い、立派なリザードマンになるのだと。


 水面に魚の鱗が太陽の光を反射して、きらきらと輝いた。糸の先の餌には食いつきもしない。手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、湖面に指を触れた途端にするりと指の隙間を抜けて逃げてしまうのだ。タマルが魚を捕るには、釣れなくとも糸を垂らすしかなかった。


 ヒッサーは、違う。精悍に育ったリザードマンの青年は、毎日見ているタマルでさえ驚くほどの速度で動く。彼の振るう槍は風のように早く、あっという間に魚を一突きにする。魚だけではなく、鳥も獣もヒッサーに狩れぬものはない。タマルにとってヒッサーは憧れであり、自慢の兄だった。


 それが故に、何をやっても人並み以下、尾も鱗も何も持たぬ自分の身が酷く口惜しい。


「……タマル。お前は……」


「なーにやってんの?」


 ヒッサーの言葉を遮るように声をかけてきたのは、幼なじみのチャニだった。母レイラの友人から産まれたリザードマンの少女で、ヒッサー、タマルともに幼い頃から親しくしている相手である。


「釣りと言うのだそうだ。これで、魚を穫れる」


「へー。何匹とれたの?」


「……まだ、一匹も」


 無邪気に尋ねるチャニに、タマルは気まずげにそう答えた。


「ふぅん……」


 そのままチャニはヒッサーとタマルの間にすとんと腰を下ろして、二人を忙しなく交互に見つめる。


「ねえねえ、とってみせてよ」


「今やってるところだ。静かにしろ、魚が逃げるだろ」


「え、あ。ごめん」


 言われたとおり、チャニは口を閉じて押し黙る。だがそれは、さほど長続きしなかった。


「あっ」


 魚がついとヒッサーの釣り竿に近付いて、チャニは声を上げる。


「あー」


 しかし魚は餌に見向きもせず、離れていってしまう。チャニはがっくりと肩を落とした。


「いちいちうるさい」


「だって……」


「チャニ、やってみる?」


 そんな騒がしい彼女に、タマルは自分の釣り竿を差しだし、そう尋ねた。


「いいの?」


「うん。まだ、材料はあるから……」


 タマルはそういって立ち上がると、ヒッサーに視線を向ける。寡黙な兄妹の会話はそれで十分で、ヒッサーは気をつけろという意志を込めて軽く手を振った。


「相変わらず、喋んないねー二人」


「お前がお喋りなだけだ」


「そうかなー」


 言いつつも、チャニは見よう見まねで糸を垂らす。


「竿をふらふら動かすな。じっとしてろ」


「ねー、これ退屈だねえ。そこにいるんだから槍でとっちゃえばいいんじゃないの?」


 ヒッサーはそれに答えず、ただ湖面を見つめた。


 独り立ちしたリザードマンは、番いの雄が狩りに出かけ、雌が子供の世話をするのが普通だ。だが、タマルと番いになるリザードマンはいないだろう、とヒッサーは考えた。


 村の中での妹の扱いは、無視というのが一番近いかもしれない。排斥はしないが、必要以上に関わろうとはしない。そうしないのはヒッサーとレイラ、そしてチャニくらいのものだ。


 爪も牙もないタマルを恐れるような軟弱ものはリザードマンにはいないが、かといって美しい鱗も尾も持たず、狩りの役にも立たないタマルに興味を持つものもいなかった。


 タマルはいつか、自力で獲物を穫れるようにならなければならないのだ。


「タマルはさー……」


 そんなヒッサーの内心を知ってか知らずか、チャニは彼女のことを話題に出した。反応らしい反応は見せず、しかしヒッサーは彼女の言葉に意識を向ける。


「最近、アタシのこと避けてるよねえ」


「気づいてたのか」


 まさかこの脳天気な幼なじみがそんなことを言い出すとは思わず、ヒッサーは視線を向けた。


「きづくよー。やっぱり、タマルは人間の中で暮らしたいのかなー」


 言いながら、チャニは脚を湖の中に入れてちゃぷちゃぷとゆらす。そんな彼女の行為を咎める余裕もないほどの衝撃を、ヒッサーは受けていた。


 考えてみれば、その方がよほど自然だ。しかしヒッサーは無意識に、タマルをリザードマンの社会の中で生かしていくことばかりを考えていた。


「やっぱりアレかな。シーラを見てから、様子がおかしくなっちゃったんだよねえ」


 シーラというのはチャニの妹だ。それまでは「こんどわたし、しっぽがはえるの」と楽しげに語っていたタマルが、そういう事を一切口にしなくなった。己が人間であるという事がどういうことなのか、シーラが卵から孵る姿を見て理解したのだ。


 それは、タマルの成長にとって必要なことであったとヒッサーは思う。しかし、彼女がショックを受けたのは事実だった。


「人間の中で、か……」


 相変わらずピクリともしない釣竿を見つめながら、ヒッサーはそう呟いた。






 何でこんなことになったんだろう。


 何度目かのその言葉を、もう一度タマルは心の中で呟いた。


「さあ、ここから先はお前一人で行くんだ」


「本当に……?」


 溢れる不安を押し隠そうともせず、タマルはヒッサーの顔を見上げる。だが兄は無言で、彼女をぐいと促した。


 渋々と踏みしめる地面は、堅い。湿地帯のぬかるんだ泥の上でないだけでなく、いつも履いているサンダルとは違って、彼女の足を皮で出来た靴が覆っているからだった。靴だけではない。普段着ているリザードマンの装束を脱ぎ捨て、タマルは人間の衣服に身を包んでいた。


 必要最低限の部位だけを覆うリザードマンの装束と違って、人間の娘の服と言うのはやたらと布地が多く、タマルは逆に落ち着かない。スカートとか言うひらひらとした、無駄に長い下衣は脚に纏わりついて動きにくいったらなかった。


 不安を感じながらも、タマルは人間の街へと足を踏み入れる。


「わぁ……」


 初めて見る光景に、タマルは思わず声を上げた。

 がやがやと騒ぎ立てながら行き交う人の群。リザードマンの集落ではみたことのない数。しかもそれが全員、タマルと同じ人間なのだ。初めて見る自分以外の同種族に、彼女は呆然と立ち尽くしてしまった。


「どうしたんだい、お嬢ちゃん」


 そんな彼女に、不意に男が声をかけた。恰幅の良い、髭を生やした中年男だ。


「迷子かい?」


「え、いえ、ちがいます。だいじょうぶです」


 初めて会話する、人間。驚きながらも、タマルは何とかそう答えた。


「お嬢ちゃん、親はどっちにいるんだい?」


「えっと……」


 タマルはどう答えたものか迷った末に、兄がいるはずの街の外を指さした。


「ふむ……お使いか何かかい」


「ええと……はい」


 悩んだ挙げ句に、タマルはこくりとうなずいた。


「そりゃあ大変だ。迷子になるといけない。おじさんが案内してあげよう」


 そう言って、男は顔を歪めた。それが笑みであることはわかったが、人間の表情というものを見慣れないタマルにはそれが妙に恐ろしく見えた。まるで、リザードマンを前にしたワカサギのような心境だ。


「……お願いします」


 とはいえ、初めて来る人間の街で迷子になるのも困る。見通しのいい湿原と違って、建物がいくつも建った街中はいかにも迷いそうだ。タマルはそう思って、頭を下げた。






「さあ、こっちだよ。ついておいで」


「あの……わたし、食べ物を買いたいんですけど」


「こっちが近道なんだよ」


 そう言って、男は人通りのない道をどんどん歩いていく。辺りの気配はどんどん寂れていき、タマルはその光景に何となく嫌なものを感じた。


 思い違いをしているのではないか。そう思って尋ねるが、男はこっちで間違いないと言い張る。何と言っても初めてくる人の街だ。相手の方が詳しいのは間違いないと、タマルは渋々とついていく。


「ここだよ」


 薄暗い小屋の中に案内され、タマルは不思議そうに周りを見渡した。食べ物など全く見当たらない。一体これはどう言うことだろうかと首を傾げる彼女は、不意に背後に気配を感じてさっと身をひるがえした。


「おっ?」


「なにやってんだ?」


 タマルに声をかけたのとは別の、大柄な男が間の抜けた声を上げてその両腕に空を抱き、たたらを振む。最初の髭の中年男が、大柄な男に向かって叱責の声を上げた。


 この人達は、敵だ。


 タマルはそう直感した。どう見ても人に見えるが、感じる気配はオオグチツノガエルと同じもの。獲物を捕らえようとする捕食者の気配だった。


「そっち封じておけよ」


 髭の男が大柄な男にそう命じ、じりじりとタマルに近づく。


「お嬢ちゃん、大丈夫だ。何にもしないからこっちにおいで」


 にっこりと笑みを見せながら近づくそれに、今度は騙されなかった。蛇のアギトのように大きく開かれる男の腕をするりとすり抜け、タマルは出口に向かって駆ける。


「捕まえろ!」


 男の怒号が後ろから聞こえ、タマルの行く手を封じる様に大柄な男が手を広げた。トン、と跳躍し、タマルはその頭に手をつく。そしてくるりと空中で一回転すると、男の背を蹴って扉から外に出た。


 鈍い、とタマルは思う。タマル自身、同い年のリザードマン達に比べれば相当鈍いが、男たちの動きはそれに輪をかけて遅い。相手がヒッサーだったなら、とっくにタマルは捕まっているだろう。


 追いかけてくる男達の気配を感じ、タマルは見知らぬ道をひた走る。硬い字面は慣れてみれば走りやすく、彼女はすぐにコツを掴んで加速した。


「捕まえてくれ! 盗人だ!」


 訳も分からず道を進んで人通りの多い広場に出ると、後ろで男がそう叫ぶのが聞こえた。周りの人間達が一斉にタマルを見て、捕えようとする気配を感じる。『盗人』という言葉の意味は分からなかったが、彼女は己の身が危機に瀕していることを敏感に察知した。


「こっちだ!」


 そんな時、タマルに向かって更に声が投げかけられる。


「早く!」


 叫んでいるのは、見た所タマルと同じくらいの小さな少年だった。一瞬悩んだ後、彼女は少年が呼ぶ路地へと逃げ込む。


「ここに隠れてろ」


 そう言われて物陰に押し込められて、タマルはじっと身体を丸くした。


「おい坊主、こっちに金髪の娘が来なかったか。お前と同じくらいの年頃だ」


 髭の男の声が聞こえ、タマルはびくりと身をすくませる。


「あー……金髪ね。どうだったかな……最近ロクなモン食ってないんで、記憶力が悪くってさ」


「チツ……どこにいった?」


「へへ、毎度。あっちの方に逃げてくのを見たよ」


 そんな少年とのやり取りを経て、足跡はバタバタと去っていく。タマルはほっと胸を撫で下ろした。


「もう大丈夫だよ」


 少年が笑みを浮かべ、タマルにそう言う。不思議と、彼の笑みは嫌な感じはしなかった。


「あいつら、奴隷商人だ。もうちょっとで売られるところだったよ」


 彼の言う言葉の意味はよくわからない。しかし、助けられた事だけは理解できた。


「僕の名前はボリス。君は?」


「タマル……」


「そっか、タマル、家は?」


 返答に窮して、タマルは首を横に振った。リザードマンの集落から来たという事は言うなとヒッサーに念を押されている。


「家が無いの? じゃあ、僕と同じだ。おいでよ」


 そう言って、ボリスはすたすたと歩きだした。流石にさっきの今で、タマルは警戒心を見せる。


「あー……」


 ボリスはそれに気づいて、困ったように頭をぽりぽりとかいた。そしてしばらくうんうんと悩んだかと思えば、懐から金に光る丸いものを取り出した。


「ほら、これ」


「なあに、これ?」


 それはタマルが初めて見る物だった。全体は丸く平たく、金色の金属で出来ている。表面は透明な硬い膜が張っていて、その中に奇妙な模様と、二本の針があった。


「時計だよ。懐中時計。僕の宝物なんだ、それ」


 きらきら輝くそれは確かに湿原では絶対にみられないであろう美しさで、思わずタマルはそれに見入る。


「僕はタマルを信じて、それを預ける。だからタマルも、僕を信じてついてきて」


 そんな彼女をじっと見つめ、ボリスは極めて紳士的な態度でそう告げた。


「……わかった」


 この少年になら、いざとなれば戦っても勝てそうだ。タマルはそう思ったので、こくりと頷いた。






「ここが僕の住処だよ」


 そう言ってボリスが連れてきてくれたのは、小さな小屋だった。さっき男達に連れ込まれた場所とあまり大差はない。しかしこちらは日の光が差し込んで、雑然とはしているものの明るい印象だった。


「ねえ、タマルはどこから来たの? この街じゃないよね」


 ガタガタと粗末な木箱を並べながら、ボリスはそう問うた。この街の孤児達は、だいたい互いに顔見知りだ。何よりこんな可愛らしい女の子がいたなら噂にならないはずがない。そう思って聞くが、答えはなかった。


「あ、いいんだ。言えないんなら」


 陽気に笑いながら、ボリスはごそごそと棚をあさる。すぐに目当てのものは見つかった。少し古くなって固くなってはいるが、パンとチーズ、それにミルク。それを半分に割って皿に盛り、テーブル代わりの木箱の上に置いて横に腰かける。


「最初見た時は、あんまり綺麗だからどこかのお姫様が逃げ出してきたのかと思ったよ」


「これ、なあに?」


 タマルは置かれたものを物珍しそうに見ながらそう問うた。渾身の褒め言葉は古ぼけたチーズに持っていかれて多少くじけそうになりつつも、ボリス少年はパンをちぎって口に入れる。


「ただのパンとチーズだけど、食べたことないの?」


「うん」


 見よう見まねでパンを千切り、タマルはそれを口に入れてもぐもぐと咀嚼する。カチカチに固くなったパサパサのパンはお世辞にも美味しいと言えるようなものではなかったが、湿原での生活ではけして味わえないその触感に、タマルは目を丸くする。


「なんだか……不思議な味。これは何の肉なの?」


「小麦畑の肉さ」


「コムギバタケ……」


 冗談を言うボリスに、食べた事のないものなのだから、聞いた事のない生き物の肉なのは当然の事とタマルは受け止めた。


「変わった味だけど、美味しい。ありがとう」


「どういたしまして、お姫様」


「オヒメサマじゃなくて、タマル」


「ああ、そうだった。ごめんよ、タマル」


 生真面目に返すタマルの反応がおかしくて、ボリスはけたけたと笑う。


「これからどうするの? もし行くところが無いなら、ここに住んでもいいよ」


「えっと……街を見て回って、夕暮れには帰るの」


「夕暮れ? それって何時くらい?」


 ボリスは首を捻ってそう尋ねる。


「……ナンジ?」


 その言葉に、今度はタマルが首を傾げた。


「さっき時計渡したでしょ?」


 タマルが懐中時計を取り出すと、ボリスは指で中の針を指でさす。


「長い針がぐるっと回ると、短い針が一つ動く。短い針が二回回ると、一日が終わり。いつでも、時間……今が一日のどのくらいかわかるんだよ」


「そんなもの無くても、太陽をみればわかるんじゃないの?」


「それは、そうだけど……」


 どう説明したものか、と悩むボリスとは裏腹に、タマルは時計をじっと眺めた。時間というものの意味はよくわからなかったが、コチコチと音を鳴らしながら輝くそれはなにやら楽しげで、湿原育ちの彼女にとっては興味深かった。


「……これ、欲しい」


「いや、それはあげられないよ。大事なもの……母さんの形見なんだ」


「同じのは、ない?」


「お金が無いと買えないよ……持ってる?」


 ボリスは当然、金なんて殆ど持っていない。たまたま形見として持ってはいるが、懐中時計などというものは本来そうそう庶民に手が出るような値段ではないのだ。


 一方タマルはお金と聞いて、ヒッサーからそんなような事を言って持たされた事を思い出した。服をまさぐり、小さな金属片を取り出す。槍の穂先にするには柔らかすぎるし、ナイフにするには小さすぎる。そんな金属だ。


「これ?」


 ボリスは無造作にタマルが取り出した硬貨を見て目を丸くした。


「……金貨なんて、初めて見たよ。うん、これなら買えると思う」


 これは絶対に、お忍びで来たどこかのお姫様に違いない。ボリスはそう確信した。






「ありがとうね、ボリス」


 街の外れ。赤く焼ける日の下で、タマルは初めてできた人間の友人にとびきりの笑顔でそう礼を言った。彼女の腕には、湿原では取れない食料や珍しい品がたっぷりと抱かれている。


「いや、こっちこそ楽しかったよ」


 赤く照らされた顔で、あまりの眩しさにボリスはそう言いながらも視線を逸らした。美しい少女と街を回るのは実に楽しく、そしてそれ以上に刺激的な体験だった。ものを知らない上に、そのくせ大人しい顔に似合わずいやに行動的な彼女は精神的にも肉体的にもボリスを振り回した。


 何を思ったのかいきなり売り物の鶏の群に突っ込むタマルを止めるのは実に大変だったが、いい思い出だ。


「……また、あえるかな?」


「うん。また」


 ダメ元でそう尋ねたボリスに、意外にもタマルはあっさりと頷く。


「悪いがその『また』はこねえ」


 だが少年の喜びは、野太い声によってあっさりと引き裂かれた。腕を強く掴まれ、タマルが悲鳴をあげる。奴隷商人の男達が、いつの間にか二人を取り囲んでいた。


「お前は……!」


「よくも騙してくれたな、小僧」


 大柄な男の拳が、鈍い音を立てて少年の腹にめり込む。


「はなして!」


 タマルはぐっと腕を引くが、大人の男の腕力はびくともしなかった。


「全く、世間知らずのお嬢と思えば、手間かけさせやがって……どこのじゃじゃ馬だ」


 タマルの両腕を大柄な男に任せ、奴隷商人は彼女の顎をぐいと掴んで持ち上げる。


「まあいい。どっちにしろこれだけの上玉だ。高く売れるだろうよ」


「やめ……」


 手を伸ばし、起き上がろうとするボリスは奴隷商人に蹴りつけられ、地面を転がる。


「そのガキはどうします?」


「こっちは金になりそうもねえな。殺しとくか」


 ボリスの髪を鷲掴みにし、面白くも無さそうに男はそう呟く。


「お兄ちゃん!」


「なんだ、こいつは嬢ちゃんの兄だったのか? 似てねえ兄妹だな」


 悲痛な叫び声に、野卑な男達は揃って品のない笑い声をあげる。


「悪かったな」


 小さく、低い声色。しかしそれは男達の高笑いの中、はっきりとタマルの耳に届いた。


 それと同時に、タマルを掴んでいた男が真横に吹っ飛ぶ。身長2メートル近い大男が、まるで布で出来た人形の様に吹っ飛び、冗談のような速度で地面を転がっていく。


「……あ?」


 目の前で起こった事を理解できず、商人の男はぱちぱちと目を瞬かせた。

 フードを目深にかぶった背の高い男が、タマルを守るように片腕に抱えながら、男をぎろりと睨み付ける。フードの奥で鈍く輝く金の双眸に、男は思わず後ずさった。


「な……なんだ、貴様は! 来るな!」


 怯えて声を張り上げる彼の横面に、強烈な一撃が加えられる。何が起こったのかも理解しないままに、男はヒッサーの丸太のように太い尻尾にはたかれて気を失った。


「大丈夫か」


「う、うん」


 あまりの展開に驚いたのかどきどきと鼓動する胸を片手で抑えながら、タマルはヒッサーの差し出した手を取った。街中で繋いでいたボリスの手とは似ても似つかない、鱗に覆われたゴツゴツした手の平。しかし慣れたその感触に、タマルは安心した。


「あっ、そうだ。ボリス!」


 遅まきながら友人の事を思い出し、慌ててタマルはボリスに駆け寄る。哀れな少年は気を失ってはいるが、規則正しく呼吸をしていて命に別状はないようだった。


「俺の姿が見られると厄介だ。目を覚ます前に行くぞ」


 男二人を軽々と肩に担ぎあげながら、ヒッサーはそういった。


「その人達はどうするの?」


「リザードマンは人を殺してはならない掟だ。湿原に任せる」


 運が良ければ生きて帰れるだろう、とヒッサーはいう。もっとも過酷なオオグチツノガエルの巣に放り込む気であることは、タマルには伏せた。


「人間の街はどうだった?」


「えっと……これ、買った」


 かえる道すがら、タマルは街の露店で買った小さな時計をヒッサーに見せた。


「なんだ? それは」


 見慣れぬ奇妙なものに、ヒッサーは首を傾げる。


「時計っていって……一日がどのくらい終わったかがわかるんだって」


「そんなもの、太陽をみればわかるだろう」


「そうだよね」


 自分と同じ反応をする兄に、タマルはクスクスと笑みを漏らした。そんな妹の反応がよくわからず、ヒッサーはもう一度首を傾げる。


「……やっぱりわたしは、村で暮らすのがいいな」


「そうか」


 ぽつりと漏らす妹の言葉。

 それは望んだものではなかったが、どこかで安堵する自分をヒッサーは感じていた。

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