第3話

「タマル、早くこいよー」

「まって、にーちゃ」


 槍を持って歩くヒッサーの後ろを、タマルはよたよたとついていく。その足取りはいかにも危なっかしく、おぼつかない。ヒッサーはため息を一つついて、来た道を引き返した。


「ほら、手」

「う」


 縋る様に両手で捕まってくるタマルの手の平を、潰してしまわないように慎重にヒッサーは握った。


 タマルと名付けたかつての赤子の手の平は、相変わらず柔らかく弱弱しい。鱗もなければ爪もなく、力だって蛙よりも弱い。なんだってこんな生き物が生きていけるのか、全く分からなかった。


 最近でこそヒッサー達と同じものが食べられるようになってきたものの、連れてきてすぐの頃は魚の肉さえ食べることが出来なかった。ヒッサーが毎日木の実を取ってきて、それを念入りにすりつぶし、水に混ぜて飲ませる必要があった。


 リニュウは済んでいてよかった、としきりに母レイラが呟いていたことを、ヒッサーは今でも覚えている。


「だから、家でまってろっていったろ?」

「やー」


 ヒッサーが溜め息を吐くと、タマルは瞳に涙を浮かべてぶんぶんと首を振る。彼女はとにかく、ヒッサーの傍にいたがった。活発な少年からすれば面倒な事この上ないが、それと同時に誇らしさも感じる。


「……タマル、ここでまってろ」


 視線の先にグラスを捉え、ヒッサーは身を低くした。相手はまだこちらに気付いていない。音を立てないよう気を付けながら、そろり、そろりと風下へと歩く。これ以上進めば気付かれてしまうという位置まで近づいたところで、ヒッサーは地面を蹴った。


 驚いて翼を広げ、飛び立つグラスに向けてヒッサーは槍を力いっぱい投げる。狙い違わずそれは翼を貫いて、グラスは地面に落ちた。ヒッサーはもがくグラスに素早く近づき、身体をぐっと押さえつける。そして腰につけたナイフを引き抜いて走らせると、白いグラスの羽根の上にパッと赤い血が散った。


「やった……!」


 グラスはこの湿原の中で、もっとも大きな鳥だ。幼いヒッサーにとっては今までで一番の大戦果だ。びくびくと震えるグラスを押さえながらも、ヒッサーは快哉を叫んだ。


 それが、いけなかった。


「にーちゃ!」


「ばか、来るな!」


 ヒッサーの元に喜んで駆け寄るタマルに、ヒッサーは叫んだ。しかし次の瞬間には、ぼちゃんと音を立ててタマルの姿はかき消える。


 湿原には、ヤチマナコと呼ばれる窪みがいくつもある。入り口は狭いが中身は球状に膨らんでいて、水がたっぷり入ったそれは天然の落とし穴だ。落ちればヒッサーでも容易には抜け出せない。ましてや、タマルは未だに泳ぐことさえ出来なかった。


「掴まれ!」


 地面にへばりつくようにして腕を突っ込むが、何かに触れる感触はない。一瞬の逡巡の後、ヒッサーはヤチマナコの中に飛び込んだ


 藻にまみれた緑色の視界の中、ヒッサーはすぐにタマルの姿を見つける。彼女はヤチマナコの底の方で藻に足を絡まれもがいていた。ヒッサーは太い尾をぐんとしならせてあっという間にタマルに近付くと、彼女を絡める藻を引きちぎってその身体を抱える。


 水面に顔を出した彼は、ともかくタマルの身体を地面の上に押し上げた。そしてヤチマナコの縁に手をかけ、ぐっと腕に力を入れる。ヤチマナコの中は大きく膨らんでいるから、壁に足をかけたり出来ず純粋に腕の力だけで身体を持ち上げなければならない。それも、たっぷり水を吸った藻の絡まった重い身体をだ。


 時間をかければかけるほど、水はヒッサーの体温を奪って筋肉を萎えさせる。彼は渾身の力を込めて、身体を持ち上げた。上半身が水面に持ち上がったところで尻尾を縁にかけ、身体を地面に転がす。


 彼がまだ年若いことが幸いした。大人であれば彼の腕もヤチマナコの縁もその体重を支えきれず、そのまま沈んでいっただろう。


 地面に転がって眠りたくなる気持ちを叱咤して、ヒッサーはタマルの様子を確かめた。呼吸はある、心臓も鼓動している。だが、意識はない。


 安堵と不安を同じ量だけ抱きながらも、ヒッサーはタマルを背負う。彼女の身体は小さく軽いが、激しく疲労した身体でグラスを一緒に持ち帰る事は出来そうにない。彼は迷わず獲物を捨て置いて、帰路についた。






 その夜から、タマルは熱を出した。人間の子供の身体は弱く、ちょっと濡れただけですぐに体調を崩す事はよく知っていた。まだ喋る事も出来ない赤子の頃から何度も病にかかり、まるで真夏の黒い石のように熱くなるタマルに、ヒッサーは何度も気を揉んだ物だ。


 だが今回のそれは、今までの中でも最たるものだった。タマルは顔を真っ赤にして、全身から汗を流し、何度も吐いた。それでいて、口からは食べ物どころか水さえも受け付けない。無理に飲ませても吐いてしまう。


 どんどん衰弱しながら、うわごとで「にーちゃ、にーちゃ」とヒッサーを呼ぶタマルに、ヒッサーは絶望的な気持ちになった。


「母さん、タマルが死んでしまう」

「落ち着きなさい」


 鋭い声で言うレイラの声にも、余裕はない。布でタマルの身体を拭いてやりながら、水で濡らした布を固く絞って額に当てるのが精一杯だ。


 いても立ってもいられず、ヒッサーは家を飛び出す。母親の制止の声を置き去りにして、向かった先は部族の長老にして知恵者、ゴスモグ爺の元だった。


「ゴスモグ爺! タマルが酷い病気にかかって、熱が下がらないんだ! どうしたらいい!?」


「……話は、聞いておる」


 ゴスモグ爺は曲がった背を更に曲げてヒッサーを見下ろしながら、重々しくそう言った。


「だが、我々には出来る事などない。弱いものは死ぬ。それが自然の定めだ」


 かつてはリザードマン一の勇士と言われたゴスモグ爺の眼光は鋭い。


「……タマルは、人間だ」


 しかし、ヒッサーはその視線に負けることなく睨み返しながら、そう言った。


「人間は強いから、食べちゃいけない。母さんは、そう言ってた。だったらタマルが死ぬのだって、おかしい」


 屁理屈にすらなっていない理屈。


「……一角獣の角だ」


 だがかえってそこに、一歩も引くことのない熱意を感じ、観念したようにゴスモグ爺はそう声を漏らした。


「東の森の中にいる一角獣の角を煎じて飲ませれば、どんな病もたちどころに回復するという。だが一角獣と言うのは、非常に獰猛な生き物だ。子供のお前では勝てはせん」


 かといって、大人のリザードマンで協力してくれるものはいないだろう、とゴスモグ爺は思う。勇猛果敢で知られるリザードマンの男であれば、死を恐れる事などない。だがそれ故に、己が未熟の為に死にゆくものに手を貸す気風も、リザードマンには少ない。


 それが身内のリザードマンではなく、人間の子であるならばなおさらだ。


「それでも」


「殺されるぞ」


 ヒッサーの言葉を封じる様に、ゴスモグ爺はそう告げる。それは事実だ。まだ幼いヒッサーでは……いや、大人のリザードマンでも、たった一人で一角獣に勝てるものなどいない。


 ヒッサーは言葉無く、ただゴスモグを睨むように見つめた。自棄になって飛び出すでもなく、かといって諦めるでもない。何か手があるはずだと、その瞳は雄弁に語っていた。妹を助ける為に全力を尽くそうとするその少年の心に、ゴスモグはとうとう降参する。


「わかったわかった。策を一つだけくれてやる。……だが、どうなろうと責任はお前自身が持つのだぞ」


「わかった」


 少年は些かの躊躇いもなく、頷いた。






 ヒッサーは槍とナイフ、干し肉を紐で括り、森へと向かう。初めて目にする湿原以外の光景は、とても不気味なものだった。


 湿原では見られないような樹が何本も聳え立ち、日光を遮って昼だというのに薄暗い。地面はカサカサしていて固く、踏みしめる足が小石で傷んだ。


 だが、そんな光景に臆している場合ではない。ヒッサーは木々をかき分けながらずんずん進み、やがて小さな泉にたどり着いた。


 その美しさに、ヒッサーは目を見開く。澄んだ水は木陰の隙間から射し込む光できらきらと輝き、水底まではっきりと見通せるほど透明だった。湿原では、水というものは藻が混じりあおあおとしているものだ。水が透明なものなのだと、ヒッサーは初めて知った。


 これは特別なものに違いない。そう思って近づき、湖面に指を触れたところでそれは襲いかかった。鋭く空を切り裂く一撃を、ヒッサーはかろうじてかわす。たすき掛けに肩に掛けていた縄が千切れとんで、干した肉がバラバラと地面に落ちた。


「このローウェン様の泉に勝手に入ろうたあ、ふてえ野郎だ! てめえ、バラバラに引き裂いてやる!」


 怒り狂った声で怒鳴りながら、蹄を打ち鳴らし、ぶんぶんと頭を振る。その額についた長い長い角に、ヒッサーはそれが一角獣だと確信した。


 四つ脚で起つその生き物は全身を白い毛に覆われていて、手足には指はなく一本の鋭く太い蹄だけがあった。その身体は同年代のリザードマンの中では一番背の高いヒッサーでさえ見上げるほどで、首は長く太く、その頭についた角は更に長い。ヒッサーの持つ槍と同じくらいの長さがあった。


「待ってくれ。俺はお前に用があってきた」


「知ったことか!」


 ローウェンと名乗った一角獣は聞く耳も持たず頭を下げると、角をヒッサーに向け突進した。仕方なく、ヒッサーは槍を構えてそれを迎え撃つ。


「しゃらくせえ!」


 一閃。ヒッサーの槍はローウェンの角にスパリと断ち切られ、穂先が地面に落ちて突き刺さった。一角獣は勢いをそのままに、ヒッサーを踏みつぶそうと前足を高く踏み下ろす。辛うじてこれは避けたものの、続く後ろ脚にぶつかってヒッサーは地面を転がった。


 ただの木の棒になり果てた槍を投げ捨て、ヒッサーは腰の鞘からナイフを引き抜いて身体を巡らせる一角獣に相対する。鋭く煌めく角に対しその小さな刃はあまりにも短く頼りなかったが、ヒッサーは逃げる気配すら見せない。


 蹄を鳴らし、再びローウェンがヒッサーめがけて突進する。その角が彼の心臓を一突きにしてしまう寸前。ヒッサーはナイフの腹を角に押し当てるようにして跳躍した。角と擦れてナイフが火花を散らし、ヒッサーの身体はローウェンの首の上を転がった。


 ずどんと音がして、彼の身体はそのままローウェンの背の上を跳ね、地面に放り出される。痛む身体に顔をしかめながら起きあがれば、樹の幹の中央に角が刺さって動けなくなった一角獣の姿が見えた。


「妹が、病気なんだ。一欠けでいい。角を譲ってくれ」


 ヒッサーはナイフを収め、その背に向かって声をかける。


「トカゲの妹なんざ、どうなろうと知ったことか!」


 ローウェンはしきりに蹄を鳴らしながら、苛立たしげにそう答えた。


「妹はリザードマンじゃない。人間だ」


「……なんだと?」


 だがヒッサーがそう言った途端、彼の声色が変わる。


「お前の妹ってのは、何歳だ?」


「今年で三つになる」


「三歳かあ……」


 ヒッサーが答えると、突然一角獣の声は甘く溶けた。


「いや、まてまて。その妹ってのは可愛いか? 髪と目の色は?」


 かと思えば、急に真面目くさった声でそう聞く。


「髪は太陽の色。目は昼の空の色だ。顔は、人間の基準で、可愛い」


 実際は、人間の基準などというものはわからない。だがヒッサーはゴスモグ爺に教えられた通りに、そう答えた。


「よっしゃあ!」


 ヒッサーが言うやいなや、一角獣はぶんと首を振り抜いた。彼の角が埋まっていた樹は半ばから真っ二つに切り裂かれ、めきめきと音を立てながらその場に倒れる。抜こうと思えばいつでも抜けた。ヒッサーがのこのこと近づけば諸共に真っ二つにしてやるつもりだったのだ。


「良いだろう。角をくれてやる。だが、一つだけ条件がある」


 妹が人間であると、人間基準で可愛いと言えば、交渉に応じてくれるだろう。そんなゴスモグ爺が授けてくれた策は、見事に当たった。


「その妹が今から九度の春を迎えたら……つまり、十二度目の春が来たら、ここにつれてこい」


「わかった」


「もし約束を違えれば、いいな。お前の村をすべて、この角で切り裂いて滅ぼしてやる」


「……約束は必ず守る」


 そして、後の責任は必ず、ヒッサーが負わなければならない、ということも。






「タマル!」


 一角獣の角を手に入れたヒッサーは、風のような早さで駆け、家へと戻った。


 彼は荷を降ろすのももどかしく、縄で肩に掛けていた皮袋の口を切る。ローウェンの泉の水で、粉末状にした角の欠片を溶いたものだ。


 それをタマルの口元に押し当て流し込もうと傾けるが、タマルはそれを飲むことさえ出来ず、彼女の口元から水薬は空虚に零れていった。


「駄目だ、もう、飲む力もないんだよ……」


 レイラがうなだれてそういった。ずっと看病していたのだろう。彼女もずいぶん憔悴していた。


 ヒッサーは皮袋を自分の口に当てると、その中身を呷る。そしてタマルの小さな唇に当てて、強く流し込んだ。


「……飲んだ!」


 その喉がこくりと動くのを見て、ヒッサーは叫んだ。

 そして、同じ方法でタマルに薬を飲ませていく。


 幼い妹の口にはいるのはほんの僅か、指先に乗ってしまうくらいの量。それを、何度も何度も口を付け、丁寧に飲ませてやる。


 驚くべきは、一角獣の薬の効き目だ。全部飲ませ終わる頃にはタマルの頬にはすっかり赤みが戻り、それどころかヒッサーの薄く切れた胸や、痛んでいた脇腹までもが治っていた。


 それでも疲労はいかんともしがたく、緊張の抜けたヒッサーはその場に崩れ落ちる。


 そんな息子の身体をレイラは優しく抱き留め、寝所へと運んだ。


「……全く、いつのまにこんなに大きくなったんだか」


 全く似ていない兄妹の寝姿は、しかし笑ってしまうくらいにそっくりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る