第1話

 水面を滑る銀の光を追いかけ、ヒッサーは駆ける。

 生涯成長を続けるその体躯はまだ小さく、背丈は一メートルほど。だが緑の鱗に覆われた肉体も、ぬかるんだ湿地の地面をものともしない水掻きのついた脚も、バランスを取る太く長い尾も、既に立派な蜥蜴人リザードマンのそれだ。


 ぱしゃぱしゃという音と共に水滴が弾け、湖面が揺れる。ぐっと足の筋肉に力を入れて飛びつくと、ばしゃんと大きく波が立った。だが、その手の中には魚の影も形もない。


 むう、と唸りながら彼が周りを見回すと、水の中に赤い姿があった。好奇心の赴くままに、ヒッサーはそれに手を伸ばす。

 途端、ザリガニはその両の鋏を振り上げて、ヒッサーの指を強く挟んだ。


「ぎゃあ!」


 悲鳴を上げ、ヒッサーは指を滅茶苦茶に振り回す。ザリガニはぼちゃんと音を立てて、再び水底へと潜っていった。


 じんじんと痛む指先を口に咥えていると、彼の目の前をすいとトンボが飛んでいく。幼い少年の心はすぐにそちらに向かって、ヒッサーは背の高いアシを掻き分けながら進む。


 そこに、それはあった。


「なんだ、これ?」


 ヒッサーは生まれて初めて見るそれを拾い上げる。泥で薄汚れた白い膜の中に、何かが覆われているようだった。膜を剥ぎ取ると、中には白くてぶよぶよとした、奇妙な生き物が入っていた。


 鱗もなければ角も尻尾もない。毛は生えているが頭の一部だけで、殆どの部分は白い皮膚が直接露出している。だが、不思議とヒッサーはそれを気持ち悪いとは思わなかった。


 腕の中に大切に抱え込むと、彼は踵を返して己の住処へと向かって走り出す。


「かあさん、なんかひろった」


「これは……人間の赤ん坊じゃないか」


 帰ってくるなり息子が突き出して見せたそれに、ヒッサーの母、レイラは目を大きく見開いた。彼女も実際に見た事はなかったが、知識としては知っていた。


「にんげん?」


「どこで拾ったの?」


「そと」


 ヒッサーの要領を得ない説明に、レイラは腕を組んで考え込む。少なくとも彼の脚で人間の住処まで行ってさらってくる、なんて芸当は無理だろう。


「いいかいヒッサー。あたし達は、人間を食べちゃあ駄目なんだ」


 とにもかくにも、レイラはもっとも大事な事を息子に警告した。


「なんで?」


「掟でそう決まってるんだ。人間は強いからね、敵に回しちゃあいけない」


 母の言葉に、改めてヒッサーは腕の中のそれを見た。すやすやと眠っているその生き物は、とても強そうに見えない。


「元の場所にもどしてきなさい」


「でもそうしたら、こいつしんじゃう」


 湿原には危険な動物も多い。その中でももっとも危険な生き物が自分達リザードマンである事は疑いの余地もなかったが、こんなに小さく弱弱しい生き物が生きていけるとは思えなかった。


「……そうでしょうね」


「それは、いやだ」


 ヒッサーがギュッと抱きしめると、目を覚ましたのかその赤子が突然、大声で泣き始めた。その凄まじい声量にびっくりして、ヒッサーは思わず取り落しそうになる。


「貸しなさい」


 その光景にため息をつき、レイラはヒッサーから赤子を受け取る。


「全く、ヒッサーだけでも手に余るっていうのに」


 ぼやきながら、彼女は赤子をゆらゆらと揺らす。その揺れが気に入ったのか、赤子はあっという間に泣き止んで、逆にきゃっきゃと笑い始めた。


「ヒッサー、あんたこの子の世話をしっかりしとくんだよ。あたしは、ゴスモグ爺さんの所にお話に行くから」


「わかった」


「全く、人間の育て方なんて爺さんでもわかるのかしら……」


 ヒッサーに赤子を渡して、レイラはぼやきながら家を出ていく。残されたヒッサーは、赤子の顔を覗き込んだ。ヒッサー達の、石にひびが入ったようなものとは違うキラキラした瞳が、ヒッサーの顔を映していた。


 この子を守ろう。


 その日、幼いヒッサーは、そう心に誓った。

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