とうこさんが僕を受け入れてくれるまでの記録 3
いつもの哲学の講義の時間、とうこさんは、いつもと変わらない様子で、いつもと同じ席に座っていた。
とうこさんは薄いグレーのシャツに、スキニーなジーンズ姿だった。
僕がとうこさんの座る机の列に近づくと、とうこさんは横目でちらりと僕を見て、すぐもとの通りに前を向いた。
僕にはほんのすこし、とうこさんの雰囲気が変わったように思えた。
僕を見る前と同じく、姿勢よく、まっすぐ椅子に腰かけているけれど、その顔、口元にほんのすこしだけ緊張が走っている。
僕はとうこさんのとなりに座る。
僕ととうこさんのあいだの距離は、ひとりと半分。
「……やあ」
「こんにちは」
お互い目線を交わすこともなく、平坦な声で言葉を交わす。
とうこさんの声を聴いたとき、僕の心のどこかがきゅっと締まるような気がした。
講義の開始予定時間から、ややルーズな講師が壇上に現れるまでの十数分間、僕ととうこさんは気まずい時間を過ごした。
とうこさんは、と勝手に追加したのは、とうこさんが僕のほうをちらちらと気にしているのが感じられたからだ。
怒っている雰囲気じゃなかった。
とうこさんはきっと、どうすればいいかわからないのだと、僕は思う。
とうこさんは、僕の告白に対して、ネガティブな評価をしなかった。
僕の側が、とうこさんの立場を理解してあげられなかったのだ。
それが、今のぼくととうこさんのあいだの距離の原因になっている。
それなら。
僕のほうから、踏み出さなきゃいけないと思った。
講義中は、お互いにお互いを気にしないという暗黙のルールが働いていた。
僕もとうこさんも、講師の話にだけ集中していた。
まじめに聴いてみれば、存在論の講義はとても面白く感じられた。
ルーズな講師は、講義時間を三分ほどオーバーして、その日の講義を終えた。
少ない受講者がそれぞれに荷物をまとめる中、とうこさんもまた、荷物をまとめる。
「……おつかれさまです」
「待って」
僕は立ち上がり、長机の僕の座っている反対の側から出ていこうとしたとうこさんの腕を、身を乗り出して掴んだ。
「……っ!」
僕に腕をつかまれたとうこさんの身体がバランスを崩す。
ほかの受講者が僕たちを見て訝しげな目をし、講義室から去って行った。
僕が掴んだとうこさんの腕は細く、僕の親指と中指がつくくらいだった。
僕はゆっくりと手の力を抜く。とうこさんはそこから去ろうとはしない。
ただ、うつむいて、僕に背を向けていた。
「とうこさん、すこし、時間、いいかな」
とうこさんは二秒ほど沈黙してから、こちらを見ずに答えた。
「……すこしなら」
「じゃあ、外で」
「はい」
それだけの言葉を交わして、僕ととうこさんは各々の荷物を持って講義室から出る。
僕はふと気づく。とうこさんの肌に触れるのは、はじめてだった。
とうこさんの腕をつかんでいた右手は、遅れてきた緊張でじわりと汗をかいていた。
教養棟の裏手の人通りの少ないところまで歩いて、僕は立ちどまる。後ろを振り向くと、とうこさんもまた、立ち止まっていた。
「この前は、ごめん」
僕はとうこさんに向かって頭を下げた。
「……謝ってもらうことなんて、ないです、私が……」
とうこさんは感情のない声でつぶやいた。眼は僕を見てはくれない。
「ううん」僕は一歩、とうこさんに歩み寄る。「とうこさんの気持ちをわかってあげられなかった。目の前に起こったことに気をとられて、肝心なことを忘れてたんだ。だから、ごめん」
「……」
とうこさんはおずおずと顔をあげて、上目遣いで僕をみた。
僕はどきりとする。そこには明らかに怯えの表情が見て取れた。
この目はきっと、自分の特異体質を相手に明かしたあとに、とうこさんがしてきた経験によって作られているのだと、僕は直感した。
「え、っと――」
僕は後ろ頭を掻いて、必死に言葉を組み立てた。
事前に何度も考えて、紙に書いてまでまとめた自分の気持ちは、いざその場になってみればやっぱりというべきか、散らかってまとまらないものになってしまっていた。
僕は自分を奮い立たせて、言葉をつづける。
「正直、びっくり、した。さすがに……はじめて、だったから。それで、あのときは何も言えなくて……とうこさんが辛そうだったのに」僕の心が痛む。「ただ、つっ立ってるだけで、僕は」
「それが、ふつうです」
「でも!」僕はとうこさんの言葉にかぶせるように続ける。「でも、それで、ひとりで帰ってからもいろんなこと考えた。けど、けど……わからなかった。とうこさんになにが起こってるのか。だから、わからないけど、わからないなら、わからないままでも受け止めなきゃだめだって思ったんだよ」
「どうして……」
「とうこさんは、ちゃんとここにいるから」
とうこさんがはっとしたような目をした。
「一回、ふられちゃったけど、それでもやっぱり、とうこさんのこと……その、まだ好きで、諦められなくて」僕はすこし早口になっていることを自覚する。「かっこ悪いけど、でもとうこさん、あのとき、僕がダメとは、言ってなかったから、だから……」
ああ、かっこ悪いな、と僕は、心のなかで溜息をついて、トーンを落とした。
「あの場でこれがすぐに言えなくて、ごめん。でも、とうこさんが特異体質でも、それでももう一度、おねがいします、って、いいたくて」
「……」
「……」
ざあ、と音を立てて、風が通り抜けた。キャンパスの木々の葉が揺れる音がする。
沈黙はきっと数秒くらいだったのだろうけど、僕にとっては永遠にも思える長さだった。
これでダメだったら、もう今日は家に帰ろう、とか。
哲学の講義、この先どうしよう、とか。
そんな関連するようなしないようなことを考えて、心を紛らわせようとしたとき。
とうこさんは、ぽろぽろ涙をこぼして、両手で顔を覆った。
「……っ、う……っ」
とうこさんの口から小さな嗚咽が漏れる。
小柄な肩が震えていた。
僕はとうこさんに触れるか迷い、手を伸ばし、それをひっこめて、結局半歩だけとうこさんに近づくことで妥協する。
「……私も」とうこさんは顔を手で覆ったまま、絞り出すような声で言う。「私も、もっと仲良くなりたいって、思ってるんです。でも、怖い……怖いんです、仲良くなっても、好きになっても、また同じことが起こるんじゃないかって。気味悪がられたり、いなくなっちゃったりするんじゃないかって。頭ではわかってるんです、自分の弱さのこと棚にあげて、特異体質のせいにしてるって。でも、それでもこういうときになると、身体も頭も固まっちゃって……!」
とうこさんはそのあと、小さくすすり泣いていた。
とうこさんが歩んできた、特異体質をもつ自分との歴史。
僕には、すでに起こってしまったそれを変えることはできない。
だから、僕は同じ言葉を繰り返すしかない。
「それでも、僕はとうこさんにもう一度、おねがいしますって、言いたい」
とうこさんは僕の言葉のあと、やがて泣くのをやめて、二回大きく呼吸をして、それからゆっくり顔をあげた。顔はくしゃくしゃになっている。
それでも、とうこさんは僕に、笑顔を向けてくれた。
くしゃくしゃの笑顔。
「……思ったより、かたくなな人なんですね」
「そうかな」僕は照れ笑いをする。「駆け引きとか、得意じゃないからさ」
「でも、救われました」とうこさんは遠くのほうを見る。「いっぱい泣いちゃいました。かっこわるいな」
「僕もかっこわるかったから、大丈夫だよ」
「そうかも、ですね」
とうこさんはそういってちょっと笑い、自分の胸に手をおいて、ひとつ大きく深呼吸する。
「ありがとうございます。……ずっと、怖かったんです。いまも怖いし、きっとこれからも怖い。けど、私の特異体質はきっとこれからも続くから……慣れないと、強くならないと、だめなんですよね。ああ、もう、かっこわるいところ、ぜんぶ見られてしまいました。なんだか、逆にすっきり。……こんな、あなたと一緒にいたことが、何にも残せないような特異体質の人間ですけれど、それでもほんとうに、私と付き合ってくれるんですか?」
とうこさんは僕に身体と顔を向けて、そう口にした。
僕はとうこさんの目をみて頷いた。
「……ありがとうございます。私も、強くなれるようにがんばります……それでも、さいしょはちょっと怖いから、その……」とうこさんはちょっと恥ずかしそうに笑う。「お試しで、っていうことで、いいですか?」
「……っ! うん!」
とうこさんの言葉を受けて、この数日間僕の胸を覆っていたもやもやが消える。
受け入れてもらえる嬉しさ。心が飛び跳ねるような、嬉しい、前向きな気持ち。
僕もそれを、たくさんとうこさんにあげたいと思った。
とうこさんは恥ずかしそうに笑い、よろしくおねがいします、と言って、頭を下げた。
僕もよろしくおねがいしますと言って、頭を下げた。
長々と話していたせいで、とうこさんのドイツ語の講義の開始時間はとっくに過ぎてしまっていた。とうこさんはミラーで自分の顔をみて、化粧も直さなきゃ、とちょっとつぶやいたあと、手帳のページを切り取って、なにか走り書きをすると、僕に渡してくれた。
受け取ったそれには、電話番号と思われる数字が書かれていた。
僕は首をかしげる。とうこさんは携帯電話を持っていないと言っていたからだ。
「携帯電話、本当は、持ってるんです。でも、本当に通話しかできないから、家族以外に教えてなくて」
「……そっか。そうだよな」
「嘘をついてしまって、ごめんなさい」
「ううん、大丈夫」
一瞬、携帯電話を持っていないのが嘘だったことにショックを受けたけれど、それはとうこさんの特異体質なら無理からぬことだ。それよりも、家族しかしらない携帯電話番号を教えてくれた嬉しさがすぐにショックを打ち消してくれた。
「それじゃ、私、行きます」
「うん、遅くなっちゃって、ごめん」
「大丈夫です、うれしいから」とうこさんはにっこり笑う。「またご飯、行きましょうね」
とうこさんはそう言って、小走りにそこから去って行った。
僕は舞い上がるような気持ちを抑えようとしたけれど、頬が緩むのだけはどうにもできなかった。
陽の傾いたキャンバスのなかを、晴れやかな気持ちで歩きながら、僕は自分の携帯電話にとうこさんの番号を登録した。
僕ととうこさんの距離は、これからどんどん縮めていくつもりだ。
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