とうこさんが僕を受け入れてくれるまでの記録 2

 一人、うなだれて家に戻った僕は、部屋の電気もつけずに、床に敷いたままの布団に乱暴に転がった。


「どうしたら、いいんだろうな」


 つぶやいた言葉は、僕自身にも意味がわからなかった。どうしたらとうこさんの悩みを解決できるのか、かもしれないし、どうしたら僕はもう一度とうこさんに受け入れてもらえるか、かもしれないし……どうしたら僕は、とうこさんに振られた僕自身を受け入れることができるのか、かもしれない。

 とうこさんは記録に残ることができない。写真、映像、録音、電子メールもだめだと言ってたか。ノートをとっているのを見たことはあるから、肉筆のものは大丈夫なのだろうか。

 絵はどうなんだろう? これとアナログな手段だ。でも、それがフィクションか実在か、判別できないってことになってしまうだろうか。聖徳太子の実在が現代で疑われるみたいに。

 病院で検査を受けたって言ってたけど、レントゲンなんかも大丈夫なんだろうか。病院で作られたカルテは、記録には数えられないのだろうか?

 あれこれと現象の定義を考察して、やがて溜息をつく。線引きができたところでとうこさんとのことがどうなるということでもない。僕は携帯電話をポケットから取り出して、カレンダー画面を開く。


「次の哲学の講義は……三日後か」


 哲学の講義に、とうこさんは来るだろうか。勉強するのが面白いと言っていたから、きっと来るだろう。人間関係で講義を休むような人ではない。

 むしろ、自分のほうが深刻だ。これまでずっととうこさんのとなり――ひとり分のスペースを空けてだけど――に座ってきた。次の講義を休むのはあからさまだ。出席して、違う席に座る? それも、どうなんだろう。


「気まずいなぁ」


 僕は身体を起こし、テーブルの上に積み上げた、大学関係のプリントの山の中から哲学の講義のプリントを引き抜く。


「……あ……」


 プリントを眺めて、僕は思わず声を漏らしていた。

 哲学の講義のテーマは『存在論』だった。

 存在とは何か。そこに在るとは、いったいどういう意味があるのか。

 大昔から、哲学者たちがずっと考えてきたこと。

 とうこさんが生まれてからずっと悩んでいること。

 勉強するのが面白いと、とうこさんは言っていた。


「とうこさん……」


 名前をつぶやく。

 とうこさんは、ずっと追い求めているんだ。自分が何者なのかを。記録に残ることができない自分の存在する意味はなんなのかを。

 きっと、ずっと、ひとりで。

 いまも。


「っ……」


 僕は自分のシャツの胸のあたりを掴み、目を閉じる。

 かっこわるいな、と思いながら、僕はとうこさんを気にする事をやめられない。

 瞼の裏で、とうこさんが僕に「ごめんなさい」と言ったときの辛そうな表情が蘇る。

 あのとき、とうこさんがどんなに心を痛めていたか。

 僕は目の前の現象に驚くしかできなかった。その現象に悩んでいるとうこさんのことなんか、これっぽっちも気にしてあげられなかった。

 枕をつかみ、自分へのふがいなさをぶつけるように、それを叩きつけようとして、階下の住民のクレームを恐れてゆるゆると布団の上に戻す。

 携帯電話のアドレス帳を眺める。メールボックスを眺める。SNSを眺める。やりとりされる気楽な言葉たち。

 電子機器を通して繋がってさえいれば、いつでも誰にでも連絡が取れる時代、そもそも繋がることすらできない相手への想いを、僕はもてあましていた。

 もういちど、布団に仰向けに転がる。


「そもそも『存在する』ってなんなんだろうな」


 根源的な問いを口に出してみる。

 僕はここにいる。その僕の存在を規定しているものはなんだろうか。

 われ思う、ゆえにわれ在り、だったか。

 でもそれじゃ、自分は自分の存在を認められても、他人が自分と同じく存在しているかどうかはわからない。


「……そりゃ、哲学者が紀元前から考え続けるテーマにもなるくらいだもんな」


 哲学の講義をまともに聴いてすらいない自分に、理念的に納得のいく答えなんて出せそうもない。

 結局のところ、僕のやれることは。

 とうこさんという個人に対して、どう行動するか、ということしかない。

 僕は天井を見つめた。日がすっかり落ちた電気のついてない部屋は、自分自身の存在があやふやに思われるような薄暗さだった。

 僕は、思わず身震いした。

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